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2011年12月

vol. 3276
「介護」  (2011/12/31 [Sat])
仏教婦人会でご近所の藤吉さんが
郵便局を退職して介護の仕事についてからというもの
とても元気で生き生きしてらっしゃる。


副住職の潤聖も前坊守を介護していたときは、
やはり生き生きしていたなあ・・・。


今日の「介護」の内容を読んで、
あらためて「介護」という奉仕、布施の深い意味が分かったような気がする。


≪伊勢白山道ブログより転載≫


介護を行う人には、
行動力・愛情力・忍耐力という総合的な人間力が必要です。
だから今も介護を、たとえ仕事であれ身内であれ行っている人は、
最高の修行をしています。ただし、自分がイヤイヤしていればダメです。


人への介護を真剣に良心に沿って行っていけば、
それはどんな宗教的な修行にも勝ります。
実際に昭和時代には、他人や家族への介護経験を持つ教祖や霊能力者は多かったです。


他人への介護をすることを通じて、愛情力や慈悲の意識が高まりますと、
観音力(かんのんりき)とも呼べる霊的磁気が体内で高まります。
自分が意識をしなくても、心に居られる良心(内在神)から授かるのです。


人が人を介護する、助けるとは、
その人の良心(内在神)をも助ける尊い行為なのです。
これは逆に言えば、自分の良心(内在神)を発露させるには、
とても良い求道の方法に介護は成り得ます。


近年では動物セラピーと言いまして、
病人に動物を触らせますと、
その患者の脈拍や脳波が安定することが言われています。
私としては、患者の免疫力低下を考慮すれば、
動物との接触はお勧め出来ませんが、人間との接触は非常に大切です。
何よりの薬かも知れません。

さらに考えますと、ウツ病の人間が他人への介護をすることが出来れば、
ウツの進行が止まるか改善すると思います。
植物や動物を育てることが、ウツ病には有効なのと同じ道理です。


だから、最初は植物から始めて、
それが継続できれば小動物→人間へとお世話をすることが良いかも知れません。
自分のウツ病を抑えて、給与も得られる可能性を持ちます。


霊的には、他人を介護する人間は、
自分自身を救っていることに成るのが霊的真理です。
家族を加護する人は、見えない陰では金運や健康運・災難の昇華・・・など
色んなことで助けられているのが実際です。


有名なマザー・テレサも、他人への介護を通して自分の過去生の垢を昇華させ、
今生で見神(けんしん:神を見る。神を自覚する。)するに至っています。
逆に言えば、彼女が見神するには、多くの病人が必要だったとも言えるのです。


この世には一切のムダが在りません。
ましてや自分がした行為は、善も悪も含めて全てが「生きる」のです。
他人が見ていなくても関係ないのです。
すべてを自分の心の内在神(良心・良神)が観ています。
これは、完全なる公平なことなのです。


生かして頂いて ありがとう御座位ます
                          ≪転載修了≫


なるほどねえ・・・そういうことですか。
お寺さんでもわがままが祟ってウツの人が多いいから、
植物、動物、介護じゃないけど、少しずつ何かの役に立っていったらいいのですね。


うちの子どもたちが、
こういった介護の仕事をしながら宗教的意識を深めてくれればいいです。
やはり良心の母性とか慈悲心という一番宗教者に大切な意識が
育まれていくんでしょうね。なるほどなあ・・・。



生かして頂いて ありがとう御座位ます。


vol. 3275
「人間って弱いなあ」  (2011/12/30 [Fri])
人間って実に弱いって思います。


なにもないときは、自信を持って強いこといい、強い態度でいるんですが、
いざ何かにぶつかると、無意識なんでしょうが、気になっているし、
人のことでは強いことを言っても、自分事になると、つくづく弱いなあ・・・と思います。


心が弱いが故に、
いろんなことを気にして、それに気をとられ、
それで気を病みながら、その時その時、その場その場をながされて生きていってる。


こういう生き方を流転輪廻というのでしょう。



ただ、有難いかな、そういうこの弱い人間に
いつでも「どんなことがあっても私がいるから心配しなさんな。
 私が共にいるんだから、安心して前に進んでいけばいい」
と呼びかけてくれる声がある。
これが内なる仏、阿弥陀さんの母性、大慈悲心の声です。


人間ってよわいのです。
でもこの弱い人間が、信心(阿弥陀さんを疑わない)によって、
阿弥陀さんという大きな仏さんの(良心)の力をいただいて、
一歩一歩、二度とない今日という日を生かしてもらいながら生きていく。


日々そんな感じですねえ。


それとポッキーのお父さんからうれしいお手紙をいただきました。
本当に石の上にも三年とは昔からよく言ったもので「水洗いも三年」
水洗いの良さが分かってリピーターの人たちがついてくれて、
これからですものね。


龍は「水」ですから、来年は特に感謝想念の水洗いの年にしなくちゃあね。



生かして頂いて ありがとう御座位ます。

vol. 3274
「愛情力」  (2011/12/29 [Thu])
愛情力は、その人の良心の発達段階によって違ってきます。


自分が接する目の前のことに、思いやりの心、愛情が持てるかどうかの
「愛情力」が、人の人生を左右します。


いろんな嫌なことがあっても、愛情力があれば
「まあ、仕方ないよ、いろんなことがあるから」となれます。


すぐ短気になって過剰反応するのか、
しないのかで人生はゴロッと変わります。


何事も、まずは自分なりの愛情の視点で客観的に眺めて、
物事は大きな心で判断していきましょう。


この世のすべては、自分自身の見方一つで、
お浄土にも地獄にも変わります。


生かして頂いて ありがとう御座位ます。

vol. 3273
「親のやってるように育つ」  (2011/12/28 [Wed])
≪おひさまありがとうブログ≫より転載


子供が人生を幸せに過ごすことで必要なことは何でしょう。
それは学歴とは関係ありません。


一人で会社を起こして社会の表も裏も見ると余計そう思います。
その人を幸せにするのは、人間力だけです。


人間力とは何か。


それは本人の生命力であり、
周囲の人が助けてくれる人間的魅力です。
どういう人が、周囲に助けられるか?


それは裏表なく、人に思い遣りを実践できる人です。
だから子供にはそういう人間に育って欲しい。


しかし子供は親の言うようには育ちません。
親のやっているように育ちます。


正確無比にトレースします。
だから私自身が人間力があるかどうかが試されています。


私自身が、
表裏なく思い遣りを実践できているかを試されています。
それが私の子育て論です。


あと一つ補足があります。


やはり子供を叱る時は、命懸けで叱らないとダメです。
睨むだけで子供が泣き出すくらい怖くなきゃだめです。


口でぎゃんぎゃんわめいて叱るのは子供に負けています。
本当に怖いのは無言で叱られることです。


世の中には畏怖の対象があると知るのはとても大切です。
畏怖を知らないで社会に出るのは、子供にとって大きなハンデです。


畏怖する体験を与えるのは親の義務です。
年に数回もあれば充分ですから、親が無言で叱るという体験は、
子供が、自分の親は本当は怖いやとビビる体験は、
子供にとってかけがえのないプレゼントとなります。


今日も気づかせて頂いてありがとうございます。
生かして頂いてありがとう御座位ます

                  ≪転載修了≫

そうなんです。
これは子どももそうですが、大人の部下だってそうです。
親や、上司がやっている通りににししかやりません。
まさに当たり前のようにトレースしています。


そして無言の厳しさ・・・迫力。
まだまだ僕はしっかり感情を子どもや部下にぶつけてます。
本気で叱るということ・・・、無言で叱るということ・・、しっかりと考えてみます。


生かして頂いて ありがとう御座位ます。

vol. 3272
「親子・上司と部下」  (2011/12/27 [Tue])
親の仕事は、子供の将来を心配することではなく、
子供が自分の尊厳を見失わないように、
自分を肯定できるように接してあげることです。


教育の根本に競争や比較があるので、
ただでさえ子供は自分を認めることが難しくなります。


そこに親までもが加担してはいけません。


無条件の自信をつけさせてあげるのです。


いいところを誉めて、足りないところは大丈夫だからと励ましてあげて、
あるがままの自分を受け入れられるように接してあげるのです。


自分を信じることが出来れば、
どんな変化にも対応していけることでしょう。


親は何を子供に伝えていったらいいのか。
その言葉は「大丈夫。自分の良心を信じて」です。


これは部下も一緒です。


生かして頂いて ありがとう御座位ます。


vol. 3271
「運命が好転する」  (2011/12/26 [Mon])
人間の運命は好転します。

そのためには「生かされていること」に対して、
「仏様やご先祖様への感謝をするだけ」の信仰を持つことなのです。


じゃあ、仏様はどこにいらっしゃるかというと、
それは一人ひとりの心の中に、良心として常に存在しています。
仏様は人間が作った豪華なお寺などにいらっしゃるのではないのです。
この自分の心の仏様に意識を向けて大切にしていくことです。


次に、いつも見守って下さっている
ご先祖様に対して「生かして頂いて ありがとう御座位ます」という
感謝の言葉を日常生活の中で行うことです。


そして最後に食生活を、
肉類とか油系のスナック類から
お米、野菜、魚中心の粗食を心がけることです。
粗食に変えるだけで運命も変わりだします。


常に自分の心の中の仏様に感謝して、
仏様と共に自信を持って生きていきましょう。


生かして頂いて ありがとう御座位ます。

vol. 3270
「願い一割、感謝九割」  (2011/12/24 [Sat])
自分たちの願いや理想や夢を
現実化させるためには、願や夢を一割程度思い、
あとの九割は今の現状への感謝の気持ちが大切です。

不満や不安を抱いていては、
願いはかないません。

感謝の気を貯めていくと、
願っていたことが向こうから自然にやってきます。

自分の意識の中では、
一割程度の願いや理想を思っていれば十分です。

あとひたすら目の前の物事に誠意を持って、
感謝の気持ちを持ちながら懸命に努力することです。

一割の舵を切る方向性と、
九割の現状への感謝が、
夢を現実化する燃料となり、
現実的に自分の理想を実現する方法です。

生かして頂いて ありがとう御座位ます。

≪伊勢白山道≫参考

vol. 3269
「良心の喜ぶ夢が叶う」  (2011/12/23 [Fri])
夢を叶える、自分たちの理想を現実化するためには、
現状への感謝がとても大切です。

大切なことは、
生かされていることへの感謝のエネルギーを蓄積する事なのです。

日々の感謝はマイナスの気を昇華させて、プラスの気を蓄積していきます。
この時、願い事の実現を強く思うことはありません。

ただただ生かされている事へ感謝すればいいのです。

自分の無意識下に在る希望が感謝と比例して自然と実現されます。
自分の理想や夢の実現には、日常淡々と計画を立てて考えていけばいいのです。

とにかく日常生活と仕事の中では、感謝の思いを刻むことです。
良心の恥じない正しい望みならば、
無意識的にプラスの気が働いて、現実化されやすくなります。

生かして頂いて ありがとう御座位ます。

≪伊勢白山道≫参考



vol. 3268
「感謝を与えると心の中の仏様に気づく」  (2011/12/22 [Thu])
人間は外にあるパワーを求めている間や、外の何かを頼ったり、
誰かに依存したりして、自立できない間は絶対に幸せになれません。

それよりも、どんなことが起こってきても、日常に生かされている
ことへの感謝をすることと、仏様やご先祖様への感謝をすることは、
自分から感謝という良いものを外に出して与えることです。
人や人から良いものをもらおうとする考え方とは、
百八十度違うものです。

外から何かをしてもらおう、幸福をもらおうとする考え方とは、
まったくの反対の心の方向です。今までの幸せを引き寄せようとする
考え方ほ変えて、現状への感謝を始めると、
その結果で起こってくる自分の心の変化が、大きく変わっていきます。
優しい温かい気持ちになって、安心した心境になっていきます。


苦しい時や、暗い気持ちになったときも
「いかしていただいて ありがとうございます」と言ってみましょう。
生かされている原点に返って、自分の心を明るく強くします。
僕たちの心の中にいらっしゃる仏様はいつもそばにいて、
辛い時は一緒に悲しみ、嬉しいときは共に喜んで下さっています。

人間はみんな自分の中にある仏様に気が付いて、
昔も今も仏様と一緒にあったということに気がつくと、
生き方は自然と変わって、悪いことができなくなります。

心の中の仏様に気づいて大切に育てていくと、
心が明るくなり、自分の現状が明るく照らされて進むべき道も
よく見えてきます。
心の中の仏様が外に現れるようになります。

このようになって自分がしたいことを努力すると、
自然に現実の物事も上手に進むようになります。
これは心に仏様を意識して生きることによって結果的に起こってくる副産物です。
心の中の仏様に気づくためには、今に生かされている現状への
感謝と、仏様とご先祖様への感謝という二つの感謝をしていきましょう。

今日は仏教保育の職員研修の日です。

2012年という変化の年は
保育園で職員を筆頭に
保護者や地域の人たちや子どもたち全員で
「今に生かされている事への感謝」「仏様への感謝」「ご先祖様への感謝」という、
自分から感謝と言う良いものを外に与えることを
積極的に楽しく実践していく年にしていきます。

保育園に限らず、僕が関係している商店さんや会社も
みんな2012年は「感謝想念」によって自分の心の中の仏様(良心)を
大きく育てる年にしていきましょう。


とにかく職員全員の心の中に
「生かして頂いて ありがとう御座位ます」の生かされている
感謝の想念を大きく大きく育てていきましょう。

生かして頂いて ありがとう御座位ます。

≪伊勢白山道≫参考

vol. 3267
「神仏には感謝のみ」  (2011/12/21 [Wed])
神仏には自分の願望や欲望を祈願することではありません。
生かしていただき、与えられている今に感謝することです。


神仏や先祖に対して感謝のみを捧げていると、人間は自分の
心の中にある仏様、良心に気づくことができます。
見えないご先祖様への「思いやり」の気持ちの感謝を続けることで、
自分自身の心の中に仏様とおなじ、他の人に「与える」気持が
起こってくるからです。


自分の心の中にいらっしゃる仏様とは、誰の心の中にもある「良心」
のことです。人間は必ず誰でも心の中にこの仏様「良心」を預かって、
この世に生まれてきます。だからみんな仏の子なのです。


この仏様は生まれた時ら、いつもあなたと一緒です。あなたが悲しい
時も、辛いときも、あなたは一人ぼっちではありません。この仏様
は僕たちの心の奥底に一緒にいらっしゃるので、僕のすべてを
ご存知です。


この心の中の仏様(良心)を大事にして大きく育てていくと、あなたの
心は本当の安心を得て、どんなことがあっても、人生の幸福も不幸も
明るく味あうことができるようになります。
感謝が一番。何事も感謝があればこの現実世界は乗り越えていける
ようになっているのです。



生かして頂いて ありがとう御座位ます。

≪伊勢白山道≫参考


vol. 3266
「ブータン国王の言葉」  (2011/12/20 [Tue])
目先の損得に迷わされず、心の豊かさを優先させていれば、
誰と比較することなく、満たされていることに気づきます。
今や、欧米も含め世界中が経済の安定に危機感を持ち、
経済や健康、環境問題等、多くの分野で異変に気づいています。
やがて、ライフスタイルを根底から考え直す時に来ていると
思い始めるでしょう。

日本の国賓として来日されたブータン国王の多くのお言葉に
かつての日本の心の強さを見るものがありました。

強くあるためには、そこには揺るぎない愛、母性が在ります。
誰かのために、尊い何か守るためには人は強くいられるのです。
正しくあるためにはそこには自分の良心を信じる信念があります。
そして自分を支える先祖の導きを信じる心があります。
また明るくある為に、そこには感謝があります。
逆に執着心や不必要なプライド、自尊心等は不調和をもたらします。

私心を捨て、より尊いもののために
このいのちを燃焼して生きていきましょう。

ブータン国王、まだ若いのに生きるベースが仏教
だからしっかりしています。
ブレてないね。


生かして頂いて ありがとう御座位ます。

vol. 3265
「親の業」  (2011/12/19 [Mon])
阿弥陀さん(仏様)の事を話をするとき必ず出てくるのが
親の業のお話。親の業・・・・、よくよく考えてみれば、ありますなあ・・・・・。


阿弥陀さんは僕たちに「浄土へ帰ってこい」と命じて下さるのは、
「業」だと親鸞聖人はいただかれてます。
業とは「はたらき」とか「行為」という意味です。
仏様からいうと、僕たちを救わずにはおれないという「はたらき」、
それが業です。


親の業かあ・・・・、子供のことをなにかあれば人にはぼろカス
言うんですが、いざとなると親は子供を絶対に捨てないという意味です。
親とはそういうものだという言葉です。口では「あんやつはもう、
好きにすればいい。もう諦めた、もういい・・」と言ってても、
親の本当の心じゃない。


これは・・・僕もそういう傾向があります。自分の子どもにしても、
周りにいる部下たちにしても、結構ぼろくそ言いますか゛、結局
子どもや部下を捨てられないのです。それが「親の業」です。
「親の業」とは、子を捨てることのできない親のあり方を言う言葉です。


「小さな我の世界を離れて大きないのちの浄土の世界へ帰ってこい」
と、呼んで下さるのは、阿弥陀さんの「おまえを捨てることができない」
という呼び声です。唯一として人間という子供を捨てられないのか゛、
仏様の業です。


それも「親鸞一人がためなりけり」で、この僕一人に向かってマンツーマン
で「帰ってこい」と慈悲心で呼び続けて下さっています。


その親の心をを受け取る、「ありがとうございます」と親の御心に帰依する
のが信心です。


その御心を絶対的なものにすれば、僕たちはどれほどの安らぎや豊かさ
そしてやる気や元気や生きる希望が与えられるのでしょうか。
信心の御利益って、ほんとうにあったかいものでしょ。



生かして頂いて 有難う御座位ます

vol. 3264
「本当の御利益とは」  (2011/12/18 [Sun])
仏さんが人間の「いのち」に対する願いって一体なんなんだろう?
それはね、当然ですが、我を強くして自己実現していくことでも、
欲を満たして欲しいものを手に入れていくことでもなく、
人間は隙あらば「自分の願い」を神仏にお願いしにいきますが、
その願いって全部自分中心で
自分の都合のいいことばかりをお願いにいってしまいます。
困ってる時は心情的にはわからなくもないけど、
それをすべて聞いてくれるような神仏ばかりならば、
この世はどろどろの地獄になりますよ。間違いなく。

そんなドロドロのじゃなくて、それぞれがこの世に生まれてきた
このオリジナルの「いのち」の特性を本当に素直に出し切って、
生き切って、同じ時代を生きる人と、お互いに照らし合っていくのが、
本当の「いのち」の在り方です。
それが仏さんの願いなんです。

これを仏教の言葉で言うと、「利他」ですね。
他の人の「いのち」の喜びや幸せに貢献できたら、
これが一番の幸せなんです。どうですか?
なんか自分がそう生きられたらわくわく
するでしょ。この自分の「いのち」が本当に願っているのは、
自分の「いのち」が、何のしがらみなどに縛られず
自由自在に生きることであって、またその「いのち」を
生き切ることによって、他の人の「いのち」を幸せに
できるという在り方ですね。そんなとき本当に
自分の「いのち」は満たされるし、喜べています。
仏教でいただく御利益ってそういうことなんですよ。
自分の欲や自我の個人的願望を
叶えてもらうことを御利益とは言いません。
それは欲願なんで、何かネチョとして重いです。

仏教の御利益は、自分の都合のいいことを
実現させるという話ではなく、いただいたこの「いのち」を、
本当に生き切って、他の人のお役に喜びに、
役立てていくことにあります。
そういうのって軽くて気持ちいいです。

ふっと今出てきたのは、郵便局を定年退職して
老人施設の「もやい」に行ってる仏婦の藤吉さんなんてそうだよね。
いつもお年寄りのお世話しながら、彼女の「いのち」がいきいきしてる。

自分の「いのち」を、本当に生き切って、
他の人のお役に立っていくことができている。
だから輝いてる。それが一番幸せな「いのち」の在り方だし、
仏さんの御利益(元気)を
いただいているってことなんです。
そして仏の願いを生きているってことなんです。
当然、そこにはあんまり不平不満口愚痴はないですね。
僕の周りにはめちゃくちゃ多いいですよ、こういう人が。
もっともっと仏さんを好きになってそういう人が一杯増えれば
この世は明るく元気になるのにね。僕は実に単純なんで、
僕がいる場所、関わる場所が、
本当の御利益が授かる場所であればいいと思ってるんです。
みんな輝いたら自分も輝けるからね、このいのちがね。


生かして頂いて ありがとう御座位ます。

vol. 3263
「寄り添い、そして強く生き抜く」  (2011/12/17 [Sat])
子どもに寄り添う・・・なんてしてきたことないなあ・・・。
親がいつもあわただしく駆け回り、たまに思い出したときだけ
「なにかおかしいんじゃない?」と、ぶしつけに子供に聞いても
子どもは心を開かないだろうね。


悩みがあっても、ゆっくり聞いてもらえそうにないと思って、
自分の胸にしまいこんでしまうんでしょう。


これは友だち関係でも言える。
本当にいい友だちは、こちらが大きな悩みを抱えているのを薄々知っていても、
何も聞かずにただ一緒にご飯を食べたり、お茶を飲んだり、寄り添う
時間を過ごしてくれるからね。


そしてたわいもない会話の中で、自然とぽろっと出てきたこちらの悩みを、
静かに受け止めてくれるものです。
人の心というものは、「寄り添う」時間の中でしか、開かないしね。


そして寄り添うことでお互いを認め合って「絆」が生まれてくる。
そして「絆」をバネに、そこから「生き抜く力」が芽生えてくる。
そもそも人間には、生き抜くための力が備わっているし、誰もが本来強いのです。


自分を認めてくれる人がいる。自分を理解してくれる人がいる。それが家族なわけで、
それが分かれば、弱者のふりをせずに、力強く覚悟を決めて足を一歩前に出すことが
できる。人間って本来強いとか弱いとかではなく、強いものなんです。覚悟を決めれば。


今回の震災で亡くなった大勢の人たち。それはかわいそうにというような
安易な言葉はつかえません。今まさに頑張らなくてはならない生々しい状況に
追いやられている現状の中で、子供たちは必死に自分たちの夢に向かっている。
そんな子どもたちの強い姿のテレビを見た時、人間はつくづく弱いものじゃないと思った。
たとえ野良犬のようになったとしても、生き抜いていくものだとも。


僕たちも今の子供たちも、恵まれた時代を生きてきたのです。戦争の苦しみ
を知らない。経済成長のまっただ中で、物質的な幸福感にどっぷりと浸かって
生きてきたのです。人生はなんとかなるという甘い幻想の中で生きてきた。


ただこの災害によって社会は劇的に変わりました。もうかつてのような甘い
幻想は存在しない。これからの時代は自らの力で生き抜いていかなければ
にらない。安易に政治や第三者に頼ったところで、何も解決はしない。


希望を見出そうとする子供たちのためにも、お年寄りたちの達観を絶望に変え
ないためにも、自身の強さを身に付け、仏と共に強く前に向かって生きる覚悟
をもつこと。そういう時期がはっきり来ています。
その為にも家族と「寄り添い」「本音を語り」「絆によって強く生きる」、必要だね。
人間は本来仏の子、そこに目覚めればメチャ強いからね。


生かして頂いて ありがとう御座位ます。

vol. 3262
「どんな相手でも自分の鏡」  (2011/12/16 [Fri])
自分自身を見つめない人、
自分を見つめて反省して改善していかない人は絶対に成長していきません。


どんな相手でも自分の「鏡」として素直に見つめて、
自らの成長のきっかけにすれば、自分の良心に沿って生きれます。


しかし自分の自我に縛られプライドが強いと、
「自分自身を見つめる」という謙虚さを絶対持てません。
すべて相手が悪い自分は悪くない。
自分は正しい相手がおかしい、です。


こうやって相手のせいにしたり、
相手に依存して「あの人のせいでこうなった」などと思っていると、
間違った方向に行ってしまい、人のいのちと繋がることはありません。


どうしても同じような不愉快な目にあって、
同じ学びとを何度も何度も繰り返します。
これはいつも「いやな人に会う」と思っている人も一緒です。


それは相手が変わればいい、
自分は変わらなくてもいいと思っているからです。
変わらないから、いつまでも同じ「鏡」を見せられるのです。
自分さえ変わって自分の我に対する執着がなくなれば゛、
同じ嫌なことは起こってきません。


どんな人間関係においても、
相手の人格を変えることはできません。
自分が変わることでね
出会う相手も変わっていくのです。


生かして頂いて ありがとう御座位ます。

vol. 3261
「人生は遠泳のようなもの」  (2011/12/15 [Thu])
「人生は遠泳のようなもの」

小学五・六年の時、
その当時どのぐらい泳いだのかうっすら覚えですが、
学校で遠泳の臨海学校がありました。


目を真っ赤にして鼻じゅるじゅるしながら
みんなで声かけあいながら泳いだよなあ・・。


考えてみれば人生ってこの遠泳のようなものです。
だからこそ、おりにふれ点呼をかけあえる仲間たちが必要だし、
指導して見守ってくれる先生が必要です。


で、この遠泳にはルールがあります。
人生の遠泳での仲間の共通ルールは「良心」に従うということです。
「自分も他人も大切に思いやる」点呼をしてあげることです。
つまり声掛けです。


人間には誰でも心の中に仏様がいらっしゃいます。
それがこの良心です。
この良心は生まれてこの世を去るまで仏様から借りているのだそうです。
そして死んだら仏様に返さないといけないそうです。


人間は生まれて死ぬまでにこの仏様から借りている良心から、
愛の思いやりや勇気や正しさや謙虚さや素直さなどを自分のいのちに
どれぐらい転写することができるのが宿題なのだそうです。
そして良心から大きな愛を転写されたいのちは、
その転写されたいのちの世界へ還るのだそうです。


昨日、偽善でもいいから思いやりの行為をやりな、
とお伝えたしたのはそういうことです。
良心から自分のいのちへ転写する行動を実行しなければ、
いのちというフロッピィデスクには愛も感動も何もインソールできないからです。


そこで遠泳で必要なのが点呼です。声かけです。
だけど良心に育てられてない人は、まだまだ他人に点呼をかけようとはしません。
自分さえよければいいと思っていたら、黙々と一人で泳いだ方が速いから。


人生の途中で良心を見失い、一人で黙々と泳ぎ始める人もます。
その人にはだんだん点呼してくれる仲間や友人知人がいなくなるでしょう。


逆にいうと、「点呼をかけよう」という意識のある人には、
すぐに仲間や親しい先輩や後輩ができます。
良心から出てくる「人とかかわろう」「必要とされる自分になろう」という意識さえあれば、
必ずいい仲間も友だちもできます。


あなたは日ごろから、
人に対してどれぐらい思いやりある本気の点呼をかけているのでしょうか。
相手に何か頼みごとがあるときや、仕事のときだけや、
自分の話を聞いてもらいたいときだけ、点呼をとったり、連絡してはいないでしょうか。


それじゃあまずい。


気が付いたら、おせっかいでいいんです。
どんどん相手に感じていることを伝えてあげること、
思いやりのお世話をやいてあげること。
良いことも悪いことも本当の事を伝えてあげること。
それも愛情心で。そして人の点呼を素直に聞く耳をもつこと。


もう一度言いますよ、
この人生は遠泳なんです。
そういう仲間たちがいなければ目的地に向かって正確に
泳ぎ切っていくことはできませんよ。



生かして頂いて ありがとう御在位ます。




vol. 3260
「偽善でもやる」  (2011/12/14 [Wed])
昔はよく本物の無償の愛なのか、
それとも偽善なのかと自分を深く問うたものです。


ただ、今は、義゛善でもいいので、
自分だけの枠から少し離れて、
家族の事や、知人や縁ある人たちのことを思いやる行動を取ることが、
幸運を呼ぶ始まりの縁になる、ということが分かってきました。


「生かして頂いて ありがとう御座位ます」という、
自分の心の中にいらっしゃる仏様(良心)や、いつも応援して
下さっているご先祖の皆さま、前の世からご縁があった多くの皆様への感謝
という原点に立ち返れば、すべては与えられっぱなしで有難いことばかりです。


この世にあるものは、すへ゛て移り変わってなくなっていきますが、
唯一いつまでも変わらないものがあります。
それは人の心です。


僕の心は7歳のときとまったく変わっていないし、
多分前の世でもあの世でも変わらないと思います。


変わっていくのは時間と肉体というトリックだけて゜す。
時間がたてば肉体は移り変わってくと強く思ってれば
本当にそうなっていきます。


でも過去も未来も心は「いまここ」にしはかないと
思って生きていけば少なからずもその時間と肉体の移り変わりのトリック
から脱出することができます。


とにかくあなたの本来の心はまったく変わっていきません。
変わってると思うのは自我が濃くなって自己中心的になったのか、
自我が薄くなって思いやりの子が育ったかということです。


とにかく人間として生まれてきた限りは
「思いやりの行為」がたとえ偽善でもいいから行っていきましょう。
汚れた雑巾と一緒で何度も洗っていれば雑巾は見違えるほど
綺麗になっていきます。


嫌々雑巾を洗っていても雑巾はきれいになっていくのと、
心は同じです。
自我が薄くなっていって心の中の仏様(良心)が大きく育っていきます。


偽善でいいんです。
「思いやりの行為」や「人が喜ぶこと」をどんどんやっていきましょう。
そこで体験した喜びの心をこの世を去ったら持って還れるようにしておきましょう。
絶対そのほうがお得です。


生かして頂いて ありがとう御座位ます。

vol. 3259
「心の中にいらっしゃる仏様」  (2011/12/13 [Tue])
人間は自分以外の存在や物を頼りにしていると、
なにかあったときまったく腰砕けになって弱いもので、
すぐに不安になって、迷います。


自分の外にあるものを頼りにする限り、
いざというときは何の支えにもなりません。


人間は、自分の心の奥底にいらっしゃる仏様(良心)を
感じることさえできれば安心できます。


じゃあ、どうやったら仏様と一緒に安心して生きていけるかというと、
何も難しいことはありません。


これをしたら他人に迷惑をかけるとか、
こうしたほうが他人に喜ばれるとか、
他を思いやる言葉や行為をする心が仏様(良心)と
一緒ということなのです。


どんなに楽しく家族と生活していようが、
お金を持っていようが、あの世には一人で還らないといけないし、
何一つ持っていくことはできません。


もって還れるのはあなたの良心だけです。


日々の生活や仕事の中で相手がよろこんでくれる、
親切や、相手に喜ばれる思いやりの行動を取っていきましょう。
とても気持ちが安心して良心がとても喜びます。


そういう生き方をしているとこの世を去っても
仏様(良心)が喜ぶ世界へ還れます。
生きてた世界と同じ世界へ還る、
実にシンプルでしょ。


生かして頂いて ありがとう御座位ます。



vol. 3258
「他力も自力も結局は・・・」  (2011/12/12 [Mon])
ここにはたくさんの研修生がお見えになるのですが、
まず皆さん「自力」で頑張ってやってます。


自力は、分かりやすく言えば「自我力」ということです。
自分の思い、自分の能力、自分の身体、自分の実績、
そういうものを拠り所にして仕事をしたり生きるということです。


なんで悪いの?
と思うでしょ。
悪くはありません、みんなそうやって頑張ってますから。


つまり、確かなのは「自分の思い」であって、
確かなのは「自分の能力」であって、自分の身体であって、
自分の実績であって、まあこういう生き方で、これを「自力」といいます。


ただこれってみんな「外発的」です。
「外発」というのは力を「外」に求めるし、結果的称賛も「外」に求めるということです。


そして「他力」ですが、他力は「仏力」とも言います。


これは「生かして頂いて ありがとう御在位ます」の感謝に支えられてる、
念仏申しながらッてことは、「仏様ありがとうございます」ですから、
自分で努力するのだけども、自分で勉強するのだけどね、
それができるのは私をささえくれるものがあるからです。


「目に見えないけど、仏様やご先祖様に支えられてるんだ」
と受け止めて仕事をしたり生きてるのは、自力ではないのです。
努力したり頑張ったりすることが「即自力」けじゃないんです。
努力したり頑張ったりしたことをタテにとること、それが「自力」です。
「私がここまでやったから」という自我がぶわっと出てくるのが自力です。
わかります?


自助努力するとか精進するというのは当たり前です。
ただそのときに、「自分」だけをよりどころにすると「自力」です。
神仏もあてにせず、あてにできるのは自分の力ののみだ、これは自力です。


自分の内側にあるいつも共にいらっしゃる仏様をよりどころにすると「他力」です。
ただ、本来究極に行き着けば「自力」も「他力」もなくなって、
「生かして頂いて ありがとう御座位ます」に行きつきます。
だから他力は「内発的」です。
外側の称賛や評価より心の内側の喜びが起こってくるということです。


ただなんでもやりきっていくと、
やはり最終的には「自力」も「他力」も自分の力を超えて
「生かして頂いて ありがとう御座位ます」という
感謝想念に行きつきます。
「やり切った」場合ということですよ。


まず心臓や肺、
どんなに頑張っても自分じゃあ動かせないし、
寿命ってどんなに生きようとしても
死のうとしても、どうなるものじゃない。
すべて人間の、自分の力って超えてますからね。


だから「自力」も「他力」も行きつけば、



生かして頂いて ありがとう御在位ます。

vol. 3257
「友達は数ではない」  (2011/12/10 [Sat])
僕は一時期年賀状が700枚を超えることもありました。
その当時、「付き合い人数」が自分の人間関係の証ぐらいに
考えていましたが、それはまさに物質主義的価値観の
真っただ中を生きていた実に生意気で傲慢な時期でもありました。


ただいろんなことを経験していくうえで、
「いのちを磨き会える相手」という定義にあてはまる友人は、
そんなにいるものじゃないことに気づいていきます。


そして、本当のいのちのつながりを築ける人は、
ほんとうにごくわずかだということも分かってきます。


だから「友達が多い」ということではなく、
いかに人生の中でこの「いのちを磨き合える友」をもつことができるか、
この本当のことから言うと、本当の友だちは少ないものなのです。


生かして頂いて ありがとう御在位ます。

vol. 3256
「子供は親を選んできた?」  (2011/12/09 [Fri])
いろんな本を読んでいると、
「子どもは親を選んできた」等の内容が書かれています。


僕はそのことはと正直言って記憶がないのでわかりません。


ただ、このことは直感的に「そうだろうなあ」と思えます。
また「子供が親を選んで生まれてくる」ということは、
親には自信を与えてくれますしね。


だから、このことはどんどん子供に教えていけばいいと思います。
「あなたは私たち親を選んで生まれてきたんだよ。お父さんお母さんもそうなんだよ」
ってね。



そして、家や親に不満を言ったら、
「しょうがないじゃない。自分で選んできたんだから」って。
その言葉が嫌みじゃなく、
その心の中に温かいものがあれば
そのことが子供にはストレートに伝わります。


そういうやり取りを繰り返すうちに、
子どもは「自己責任」持って生きていけるように育っていくものです。


これがわけがわからず、
生まれてくることにまったく自分の意思も入らず、
なんとなくだったら、責任転換しますからねえ、
生んでもらおうと思って生まれてきたんじゃないって。


世の中には子どもをやったらめったら甘やかし、
なんでも子供に譲るのがやさしさであったり、
子どもに厳しいことを伝えていくことを遠慮したりする馬鹿親も
いますが、とんでもない勘違いです。


父親には部屋がないのに、
子どもにはいい部屋を与えたり、
テレビのチャンネルの権利を簡単に子どもに譲ったり、
親より先にお風呂に入らすのを当然としたり、
とにかく何をするにしても、何を考えるにしても子供が優先される、
そういうバカな親って多いいのですが、そういった筋違いが
子どもの生きる力を失っていってるし、
なにより礼節や人権感覚を狂わせているのでる。


なによりその子自身に敬うや謙虚さや礼儀正しさを
まったく教えてないし、子どもにとっては一番よくないことです。
そしてその子は親となってまた子供に同じことを繰り返していく。
尋常ではない悪循環パターンです。


知ってます?学校の先生たちに対する尊敬度合いは
世界中で一番低い国だって。マ○カーサーの占領政策や日○組の洗脳教育が
功を奏して、ここまで日本人は民族的にも落ちぶれてしまいました。


将来、子供が社会に出たときに、
家でのようになんでも思う通りにいくなんて
思ったら大間違いです。
人間って甘やかされればつけあがってきりがない。


だからといってビビらせ、
強制的に言うことを聞かせることでもない(時には必要な場合もありますが)。
すべてに意味があることをしっかり教えて、小さいときから、
その家の家風をしっかり教えてやることなのです。
だって家族は一つのチームだし、
いのちの学校なんですから、それが当然なのです。


とにかく人間は社会の中で「自己責任」で
生きていく存在なのですから。
一人で生きていける力を身につけさせてやる、
それが親のつとめなのですから。


生かして頂いて ありがとう御在位ます。


vol. 3255
「四対六の関係」  (2011/12/08 [Thu])
今年の正月三が日は、
家族でお墓参りツアーではありませんが、
総代さんのワンボックスを借りて
疎遠になっていた父方や母方のご先祖の墓参りを
家族総出できちんとお参りにいくことにしました。


これは自分自身の一つのケジメがつけたかったのと、
家族の教育として「筋を通す」ということは一体どういうことなのか、
生身で体験したほうが良いと感じたからです。


先祖への感謝を行うようになって、
特に相手の立場に立って物事を考えたり、
自分の子孫にあたる子供たちに伝えておかなければならない義務や責任を
感じることが多くなりました。


そして今日伝えておきたいことが、
人間関係の鉄則は、相手に「四」お世話になったら、必ず「六」はお返しするということ。
お世話になった以上に、こちらから奉仕することを心がけるということです。


それが布施の精神です。
お世話になったのが「四」だからお返しも「四」でいいと思うのは、
間違いです。
これは法子さんの人間関係を見ていて、
自然と学ばされたことです。


また、そんなことを考えていると、
自分はいつも相手に依存してるんじゃないかってことにも
気づいたりします。


つまり依存心「四」に対し、自立心を「六」に意識して持つとか、
自分の話を「四」聞いてもらったと思ったならば、相手の話を「六」聞くように
意識するとか。


とにかくどんな人間関係でも、「四対六」を心がけることです。
そうするとスムーズな良縁が育っていくということです。


このお正月の墓参りも、この法則にのっかってます。



生かして頂いて ありがとう御在位ます。




vol. 3254
「絆なきところに教育なし」  (2011/12/07 [Wed])
一目置く、凄いと思う、信頼できる、魅力的である、気が許せる、
こういったことが人間同の「絆」を強固なものにしていきます。


だからいくら正しいことでも、
相手との「絆」がなければ伝わっていかないし、
相手の心の中に入っていかない。


だから家庭でも会社でもまずは人間関係ありきです。
この人間関係での「絆」がないと何をやっても繋がっていきません。


ただね、この「絆」にもルールがあって、
それは「親しければ親しいほど礼儀がいる」です。
そういう面では「家族って」たちが悪い。


「家族だから分かってくれて当たり前」
「家族だからよくしてくれるのが当たり前」
「家族だから強い絆で結ばれてるって当たり前」
そんな期待と甘えがあるんじゃないか?


その期待とか甘えがある限り、
「癒着」や「依存依頼」は生まれても「礼儀正しい絆」って
なかなか生まれるもんじゃあありません。


自分たちが「絆」だと思ってるものは、
結構「馴れ合い」だったりするわけです。
これは家族や職場だってそうです。


つまり傍から見ていて「爽やか」さがない。
「なんなんだ・・・この雰囲気は」ってどんよりしてる。
それは「癒着」や「マンネリ馴れ合い」だからです。


家族といえども一人ひとりが別々の命の世界から来てますから、
もともと絆なんてあるわけないのです。


絆ははじめからあるのではなく、
「努力したり」「礼儀正しくしたり」「相手を尊重したり」して「結ぶ」ものです。
結んで深めていくものなのです。
これを勘違いしている親や子、また職場では上司と部下って多いいです。


で、僕はビンビンそういうのを感じてしまう人なので、
ある一定の不快水準を超えるとビシッと厳しく「礼儀正しさ」を
伝えることにしています。



もちろん、この世で家族になるぐらいの命ですから、
お互いの命には前の世からの深い絆はあるのでしょう。
この地球上に今生きているだけでも70億人という人がいる中で、
ほんの数人が家族として出会うわけで、
よくよく考えたら、もはや奇跡的というか、
強烈な縁があってのことでしょう。


だからこそ、絶対に馴れ合いやマンネリになってはいけないし、
僕は礼儀正しくないといけないし、もっと真摯に相手を尊重しあわないといといけない、
そう思うのです。


これは家族に限らず、いろんな人たちとの関係もそうです。
絆ってはじめから存在せず、この世で一から作っていってるわけですから。


そういえば、このあいだも、「家族なのにわかってくれない!」って
ブーたれているOLの女の子がいたなあ。
思わず「家政婦のミタ頼みましょうか」なんて言いそうになりましたが、
実は不平不満ばかり言う人ほど、客観的に見れば、
実は恵まれた環境にある場合って多いいです。
これは職場もね。


やはり感謝の心を取り戻せってことじゃないでしょうか。
あの3:11の大震災後に急激に起こってきているメッセージは
この「生かされている感謝」なんじやないでしょうか。
必要なものはすべて与えられてますしね、
あなた何が不服というの?って。


とにかく「絆」は結ぶもの、
その努力はするものです。
謙虚に礼儀正しく。


この一番大切なところを実際に絆ある家族と共に
生きてる後姿が保育園なんかで保育士あたりから伝わってくるわけで、
だからこそ保育園の職員の役割って大きいのですよ。
だから常に良心に「これでいいのか?」って問い聞きながら
生きていかないとね。



生かして頂いて ありがとう御在位ます。


vol. 3253
「正しいかどうかではなく、好きか嫌いかだ」  (2011/12/06 [Tue])
 会社の同期で出世する人としない人がいます。
 よく「あいつはゴマをすっているから」と言います。
 
 出世している人はやりたいプロジェクトをやって、
自分はやりたくないことをやらされています。
 
 やる気のある人、自分のやりたいことをやるために、
出世している人のゴマのすり方を必死で学びます。
 
 やる気が出てくると、ごまぐらい軽々とすれるのです。
 ゴマのすり方を覚えるということではありません。
 
やる気があると、ごまをするのが善とか悪とかいうことを
超越するのです。 「ごますってまでやりたくない」と言う人は、

「カッコいいか、カッコ悪いか」「正しいか、間違っているか」の
議論をしています。それは低次元のレベルです。
 
 「好きか嫌いか」のレベルに比べたら、エネルギー量のケタが違います。
 「ごまをすってまでやりたくない」という人は、所詮そこまでです。
 やる気のある人にとっては、ごまをすったりお世辞を言うことは

 レベル的には小さいことなので、平気でできるのです。 
正しいか間違っているかにも、あまりこだわりません。

みっともないとは何も感じません。
カッコよくやりたい、正しくやりたいと思っていると、
やる気がわかないのです。

正しいかどうかにこだわらない。


中谷彰宏著
「なぜ あの人はいつもやる気があるのか」より抜粋


生かして頂いて ありがとう御座位ます。

vol. 3252
「やる気の出ない人は、やる気が嫌い」  (2011/12/05 [Mon])
やる気を出すには、やる気のある人と会うことです。
好きなことをやっている人には、大きなエネルギーを感じます。
そうすると、「こんなことをしていてはダメだ」と自分で気づくのです。
生で会っても、TVや映画で見ても、本で読んでもいいのです。
フィクションでもアニメのキャラクターでも関係ありません。


ブルース・リーのカンフー映画をを見た人が、
ブルース・リーになりきって映画館を出てきます。
この時に、枝葉だけで受け取った人はすぐ冷めます。
でも、映画を見て「すごいヤツがいる」と心の底から思うと、
人生が変わるのです。


映画『燃えよドラゴン』はフィクションですが、
ブルース・リーは実在の人物です。
K-1の角田信朗さんは、ブルース・リーに感動して空手家になり、
K-1ファイターになりました。
根っこが変わった人はやる気が持続するのです。


やる気のない人の集団に接していると、やる気はわきません。
やる気のない人は、やる気のある人が嫌いです。
「あの人はなんであんなに必死になっているの。
疲れるよね。痛いよね」と悪口を言います。
やる気が出ない、出ないと言いながら、そもそもやる気が嫌いなのです。
それは悪いことではありません。
ただの好き嫌いです。


やる気を出したいと言いながら、本質的にやる気が嫌いなのです。
だから、やる気のある人のそばには寄らないし、
やる気のある人の悪口を言うのです。
やる気のある人はやる気のある人が好きなので、
そばに寄ってそこから何かを学ぼうとするのです。

             

中谷彰宏著
「なぜ あの人はいつもやる気があるのか」より抜粋


vol. 3251
「瞬発力と継続力」  (2011/12/03 [Sat])
やる気で大切なのは「瞬発力」と「継続力」です。

ほとんどの人は「瞬発力」はあります。

ところが「継続力」がない。


やる気は「瞬発的に出す」よりも、「継続的に出す」ほうが難しい。


やる気を「継続させる」ためには、全力を出す一方で、

力みすぎたり、頑張りすぎたりしないことが大切です。


どちらかというと、鼻歌交じりにやるといった方が「継続」できます。



生かして頂いて ありがとう御在位ます。



vol. 3250
「挨拶をすると自分が元気になれる」  (2011/12/02 [Fri])
「おはようございます」。「ありがとうございました」。「失礼します」。


大きな声で挨拶できる人は礼儀正しい人です。
ただ挨拶には礼儀正しさよりも、
それ以上に「やる気が湧く」というメリットがあります。


大きな声で挨拶することで、
自分自身のテンション、一日のやる気がみなぎります。


挨拶は相手のためじゃないのです。


自分のために、大きな声ではっきり挨拶すると、
やる気が湧いてくるのです。


やる気のない時には、挨拶もテンションが低いです。
元気がない挨拶をすることで、
さらにテンションは下がるのでよくないのです。


挨拶はとにかく大きな声で
元気に行う事で自分自身に「やる気」が湧いてくるのです。



生かして頂いて ありがとう御在位ます。



vol. 3249
「子育て、部下育て、人育て」  (2011/12/01 [Thu])
人間がこの世に生まれてきた最大の理由は、
自分の傲慢や弱さ克服して、良心に沿った愛情心や情け心などを与える
心の芯の強い愛の実践者になることです。

だけど、人間は未熟で傲慢です。最初から愛を持てる人などなかなかいません。
誰もがまず自分を愛し、その次に自分に近い存在である家族を愛し、知人を愛す
というのが普通です。

人間は家族という小社会の中で愛をしっかりと受けて学び、やがて成長して
友人との人間関係や、恋愛関係などで、家族から一歩外に出た愛を知り学びます。

そして、結婚して新たな家庭をつくり、やがて子どもを生み、子どもを通じて
愛はさらに広がっていきます。
今まで子どもが、とくに好きではなかった人も、子育てをしているうちに、
よその子どももみんな可愛く見えてくるものなのです。

そうやって愛は小さな枠を超えて、どんどん広がっていきます。
そして職場では上司が部下を育て、また仏教でも先輩が後輩を育て、
まるでわが子のように道を教え示していきます。

つまり、「子育て、部下育て、人育て」とは、
この世に生きる人は血は繋がっていなくても、
みんな命の家族であるとして、与える愛、生かす愛と感謝の心を実践するのが
布施の精神を生きようとする、仏教的生き方なのです。

周りの人たちに親身になって、愛と感謝の心で深く繋がって生きていきましょう。

生かして頂いて ありがとう御在位ます。

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