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2012年 1月

vol. 3297
「心で思う言葉も大切にしましょう」  (2012/1/31 [Tue])
この世では、自分が思う心から出る「光」が、時間差をおいて、その内容に応じて現れます。では、その光を生み出すのは何か?それは心が思う「言葉」です。私たちが心中で思っている言葉が「光」に変わり、その光が現実へと作用しているのです。だから、心中で思う内容の言葉が大切なのです。

みなさんが口には出さない言葉には、こんなこと、あんなこと……キャーッと、ついつい破壊的な言葉を簡単に思うものです。でもこれでは運気は上がりません。

人間が息とともに発音した言葉は、息と言う息吹が加わり、「発声した言葉=言霊」となります。言霊を生む前の、心の良心で思う言葉が、光をも生み出す原初なのです。
これが聖書で言うところの「初めに言葉ありき」の真相です。言葉の後に、創造の(想像)光が生まれています。

だから私たちは、口に出さない言葉も大切にすることが大事です。口に出した言葉は言霊となり、直接に作用しますが、それを発音する状況に至るすべての大もとは、普段の自分の心中の言葉にあります。

要らぬ言葉を思いそう、考えそうになったときは、この言葉を繰り返し思いましょう。
必ず改善していきます。


生かして頂いて ありがとう御座位ます。


vol. 3296
「役割につて」   (2012/1/30 [Mon])
自分の役割をしっかり担って自身も組織のいのちが輝くためには
必ず守らなくてはいけないことがあるのです。


まず一番大切なことは「素直」であるということ。
この「素直」さがない人は、成功しないし、
人とのご縁を生かすことができないし、幸せには絶対になれません。


その「素直」とは、「人それぞれに違いがあって、自分の知らないこともあるのだから、
まずそうかもしれない、そんな考え方もあるかもしれないと思って、受け入れる」こと。
そして「学習好き」で、「謙虚」で、「誰に対しても差別心を持たない」ということです。


それをいつも意識して生きていたら、
自然と「素直で謙虚に人を認め包み込んで生きていける」ように
なっていくものなのです。
特にお坊さんや、門信徒の人たちとのお付き合いで「噂話」や
「他者の批評批判」は絶対しないこと。
ついつい人間って「そうそう」って乗っていくからね。


このあたりは僕の父である前住職、
前園長はとても賢かったというか、
本当にそういうことが嫌いな人だったんだろうと思う。


たとえ陰で自分の悪口を言うような嫌な人であっても、
「まあ、あの人にもいいところはあるので、
この部分を見ていけばいい」と、笑い飛ばしていましたからね。


自分の役割を担うための躾のクセづけとして、
これだけは絶対に心がけておかなければならないのが、

「約束は必ず守る」

「何があっても責任転換せず、
すべては自己責任と受け取り学ぶ」

「人を蔑視して見下し差別しない」

「生意気な態度を取って威張らない」

「マイナス発想をしない」

「必ず下座に座り気を配って動く」

「頼まれごとは、はいの返事ですぐ動く」


このような気持ち良い躾を自ら身につけると共に、
このような躾は、いずれも相手にスキをあたえない、自分が怠惰や横着に
ならないための人間の基礎基本の行動なんです。


このような躾を常に意識して行動していくと、
自然と自分は自分の役割を担っていくようになっていきます。
とにかくこういったことを常に意識して生きていくってことですね。



生かして頂いて ありがとう御座位ます。

vol. 3295
「変わるということ」  (2012/1/28 [Sat])
人間が古い自分から脱皮して
新しい自分に生まれ変わるプロセスが紹介されています。
この通りです。


≪おひさまありがとうございます≫ブログより転載


考察1

自我の幻想が崩される時には、必ず痛みが伴います。


逆に、今の生活が苦しい人は、自分の自我の幻想を崩して、
現実の自分を見るべきステージだということです。


ですから辛いことから逃げないで踏ん張ることが大切です。
逃げれば逃げるほど辛さは追いかけてきます。



考察2

シッダルダ王子のように裕福な恵まれた生活に生まれても、
自我の執着を断つために求道の道に入る方もいらっしゃいますが、
人類としては稀なケースですね。


多くの人はできるだけ自分の自我を肥大化させようさせようとします。
親に甘やかされている限りは、甘えた人生を送ります。


それどころか、なぜもっとクレないの?と不平不満を漏らします。
人間を成長させるのは、自我の幻想を破壊せざるを得ない逆境のみです。


そしてそれは、自我のもっと深い所の真我が望んでいることです。
夜中に起きて眠れなくなるほど、辛い時期こそ、
自分の自我が崩れて良心が発露しようとしている痛みです。


考察3

Aさんにはいろいろ彼を助けようとした友人がいました。
お金を貸したり、保証人になってあげたり。


もちろん彼の両親も何とか彼に立ち直って欲しいと思ったでしょう。
しかし周囲に援助する人がいる限り彼は甘えました。


誰かがお金を貸すたびにワインを飲みに行きました。


彼が立ち直ったのは、もう本当に誰も彼を助けない。
という境遇に落ちたからでした。


このため、目に見える援助は本人にとってプラスにならない
ことが多いということがわかります。


特に自我の幻想界の壁が厚い人は、援助した分、自我が食べちゃいます。
パクパク。ンマー。モットモット。クレクレ。
彼の自我はあなたの前で辛そうに「演技」するかもしれません。


しかし彼の自我に餌を与えてはいけません。
彼の気づかないところで感謝想起を送りながら、
静観することが、彼の真我にとって最善なのです。


考察4

Aさんは妄想界変人から、ようやく普通の変人になりましたが、
普通の会社人としてのスタートラインに立っただけです。


対峙しなければならない自我はまだまだ山積みです。
次の彼の課題は仕事を通して人に与える視点です。


今まで自我の視点しかありませんでしたが、
与えるということは他人の視点に立つということです。
その体験を通して母性が少しずつ発露していきます。


反対に、彼が人に「与える視点」を持てない限り、
仕事の辛さが増していくように働きます。


大きい責任、怖い上司、うるさい顧客などなど。
自我の幻想壁が崩れる脱皮の時期はひどく痛いものです。


その次の彼の段階は、現状に感謝できる視点です。
もうアタリマエに感謝できるほど、彼の母性が顕れている。
ということです。


ここでもアタリマエに感謝できない限り、
日常の生活が辛くなるように働きます。


アタリマエと思っていたことがなくなるという形で。
気づかない限り彼は失い続けるでしょう。


せっかく得た正社員の地位ですが、無くすのは簡単です。
会社も業績不振からリストラを検討し始めているようですし。


自我の幻想を崩す環境とは、残念ながらひどく痛い逆境です。
気づくまでにどこまで失うかは、本人の「縁」です。


考察5

どんな人でも本人を守る存在がいます。
何十億年も続いてきた生命の生かす意志エネルギーです。


家系の守護ですから、ご先祖さまの守護です。
自分の母性も「生かす意志エネルギー」ですから、


母性の強い人は守護が強い人であるといえます。
もしオーラが見えれば母性の強い人は遠くからでもわかるでしょう。
その人が部屋に入れば空気が丸く暖かくなるので気配でもわかるでしょう。


反対に自我の幻想界の壁が厚い人は、ご先祖の守護が届きにくいでしょう。
いくらご先祖が干渉してサインを送っても本人には届きません。


幻想界住人にとって、自我を甘やかしくれるもの以外は、
存在しないことと同じなのです。


何回言っても彼の耳には届きません。
もし「自分はついていないことが多いなあ。


守護してくれてる存在なんてあるのかしらん」と
思う方がいたならば、ご自分は自我の壁が相当厚いのでは?
と疑ってみても良いかもしれません。


ただ自我自身はゼッ〜タイに絶対にそれを認めませんが。
ただご自身の真我と良心は気づいています。


考察6

本当に辛い辛いことで悩んで、
リーマンさんに相談した方も多いことでしょう。


運良く回答を頂けたのであれば、どうか真剣に実施してほしいです。


あなたの自我は、自我を肥やす餌が欲しくてリーマンさんにすがりたい
かもしれませんが、リーマンさんの回答は逆方向です。


だから人によっては、自我が満足していないから、
何回も何回も同じ質問をするケースもあるかもしれません。


しかしご本人が自分で自我を崩す環境と対峙しなければ、
今の辛さの本当の解決にはならないのです。


何回も同じ質問を繰り返す人は、実は自分の良心を傷つけています。
回答を聴いたのならその時点で責任が発生しています。


もう「無知の知」ではすまされなくなっています。
思い当たる方は、あなたの為に自覚すべきです。


−−−−−−−−−−

[2009-01-31 22:01:44 | 伊勢白山道]

もう、イイカッコをするのは止めましょう。

今のあなたが現実です。

駄目で惨めな自分をさらすことを恐れないことです。

生きているだけでも、有り難いと思いましょう。

−−−−−−−−−−

[2008-05-24 12:04:26 | 伊勢白山道]

そのような、あなたでも、この厳しい世界で生きている。

家族の方に感謝をしましょう。

ひとのせいでは、ありません。

他人の目を気にする。自分を良く見せたい。

自己に預かる仏性を育てようとしない。

まず現状に感謝を始めましょう。

−−−−−−−−−−

今日も気づかせて頂いてありがとうございます。
生かして頂いてありがとう御座位ます


                 ≪転載修了≫


まあ・・そういうことですね。


生かして頂いて ありがとう御座位ます。

vol. 3294
「自分を知って長所を伸ばそう」  (2012/1/27 [Fri])
自分自身を知っておくということは大切なことです。
書き出すポイントは六つ。ぜひトライしてみましょう。


一、自分の性格的な長所(自分の特性そのもの)
過去の自分の人生で上手くいった具体的事実や経験を振り返ってみればわかります。


二、得意な事(生まれ持った基本的な特性)


三、信条としていること。(あなたの生き方の願望)


四、これまで楽しかったこと、のめりこんだこと。(潜在能力が発揮されたこと)


五、やっていて飽きないこと、苦にならないこと。(自身の役割が隠されている)
天職(おおよそ天職では食べていけない)適職(天職をサポートするために
自分の特性を発揮して仕事をして生活する)


六、やってみたいこと、憧れていること。(エゴが含まれるので参考までに)


自分自身を知れば、自分を育てるポイントが見つかります。
自分の長所を伸ばしていくのはここからがスタートします。


生かして頂いて ありがとう御座位ます。

vol. 3293
「人間性を高める」  (2012/1/26 [Thu])
人間って自分の心のの奥にある自分の良心を信じ、
その良心の声に従って生きていくと、必ず心が洗濯され、
勇気を出していろんな経験や体験を積み重ねていくので魂が磨かれね
必ず人間性が高くなっていきます。


この人間性が高くなると、
人はツイてきますし、魅力的な人間になっていきます。

この人間性が高まっていくと具体的には、


一、自我が薄くなってくる。
エゴが減ってくると、自慢が減って、逃げなくなります。
別の言い方をすれば、主観的ではなく客観的に理性的になります。

二、嫌いなものが減ってくる。
好き嫌いがだんだん減ってくる。

三、とらわれやこだわりが減ってくる。

四、約束が守られるようになる。

五、責任感が強くなる。

六、楽しく生きられるようになる。
過去を気にせず、未来を心配せず、今を一生懸命生きていける。

七、オープンになる。
言ってはいけないことは言わないけど、変に自分の気持ちを隠さなくなり、
むだな策略も使わなくなる。猜疑心もだんだん減っていく。


人間って、いろんな経験とその度ごとの反省によって「成長していく」ものです。
少なくとも、前向きに真面目に日々反省と改善を続けていけば、僕たちも
成長していきます。


何事も少しずつ、少しずつ・・ですね。


生かして頂いて ありがとう御座位ます。


vol. 3292
「感謝によって自分を信じていける」  (2012/1/25 [Wed])
≪伊勢白山道≫より転載

もっと自分を信じることが大切です。
自分が持つ「他への思いやりの気持ち」が、
良心(内在神・仏性)であり神性です。


自分が信じられ無い人は、自分から離れ、
他人の霊的磁気に照らされる行為(ヒーリング・霊的施術など)を求めます。


しかし、これこそ他人が持つ霊的垢を、
自分の身体・霊体に塗りつける行為なのです。


霊眼では、本人以外の色がマダラに外部から付着していきます。
本当に汚物です。
人間の体から出るモノとは、本人に不要なモノが排出されるのです。
大便・小便・目クソ・鼻ク・・・ろくなモノは無いです。


しかも、1回ナンボの金銭と交換で、
本当の神性が発露して出されることは絶対に無いです。
そんな金で動く安っぽい神気など存在しません。


そんな行為をする時点で、その先生は無知であり、
愚かな罪を犯しています。無知の罪です。
相談者の霊体は汚され、肉体が持つ免疫力と運気が落ちて行きます。
冷静に見れば時間経過と共に、自分自身の健康と現状で思い知ることに成ります。


これを浄化するには、自分のオリジナル霊体に戻すことです。
自分の心の良心(内在神・仏性)と、
先祖を信じることです。これが本当の信仰です。


白湯(さゆ:水を煮沸してから体温まで冷ました御湯)を飲用し、
縁ある先祖に感謝することです。
遺伝子の波動的にも、先祖に感謝することは、
自分の肉体を最も効率良く再生させます。


なにせ、自分自身が先祖を通じて現実界に産まれ出ているのですよ。
これは無から有が生じる奇跡が起こったのです。
これを信じずに、あなたは何を信じるのか?肉体が在ることは、見た目にも言える奇跡です。


自分が他人へ出す愛情や思いやりの「行為」こそが、
目に見える神性の発露なのです。


自分の心の良心(内在神・仏性)と先祖を信じる人間は、
最も霊的な守護を受けることができます。


大自然の精霊が本当に鎮まる神社に参拝しましても、
そのような人間には精霊も感応することが可能なのです。


自分のことがダメな人間だと悩む前に、
自分が存在していることが素晴らしい事だと言うことに気付いて欲しいと思います。


あなたは、多くの先祖たちの結晶体なのです。
悩む人を観ますと、モッタイナイなと私は思っています。
生きているだけで大成功なのに、上を見れば切りがありません。
他人との比較という幻想に落ちているだけです。


生きているだけでも成功ですから、
後はスルことナスことがプラスなのです。
自分自身のことを信じて、先祖に感謝する人がケナゲに頑張っていれば、
先祖と神様・仏様は本当に陰から助けてくれます。


どんな現状でも、”それでも生かされていること”に感謝をすれば、
再生が始まります。
自分が出来る目の前のことをして行きましょう。

                           ≪転載終了≫



vol. 3291
「自分の良心を信じて生きる」  (2012/1/24 [Tue])
≪伊勢白山道≫

人間は、
見たり・聞いたり・感じたりするのは自分なのですから、
この自分のことをダメだと思えば、その視点の上では何をしても結局はダメです。


人間は、自分が外に出した気持ちと同じものを、
「自分自身が受け取る法則」が存在しています。


自分が愛情を他人に出せば、
いつか自分が他から愛情を受け取ります。
自分が怒りを出せば、


いつか自分が怒りを他人から買います。
これと同様に、自分のことをダメだ、
嫌いだと思う内は、自分にとって嫌な事が来ます。


他人との比較に惑わされずに、
自分の生活(これが小宇宙)を大切にしましょう。


実際の宇宙でも、彗
星の衝突やイレギュラーなハプニングは起こるものです。


しかし、遠目から宇宙全体を見ますと、
大きく渦を巻きながら全体が1つの方向に流れています。


私たちも、どれだけ心配しようが、
このまま時と共に流れて行くのです。
それならば、
今の現状でも楽しみ感謝をするのが自分にとっての最善なのです。


自分自身を信じた者は、必ず救われて行きます。
自分の外部を信じた者は、不安が継続します。


仏典にある法華経のエッセンスとは、まさに字のごとく、

1.自分の心の華を咲かせましょう。

2.自分を信じることが、内在する神仏を咲かせ(発露させ)ます。

だと響いて来ます。


自分自身を信じるための、色んなたとえ話が法華経に述べられています。


釈尊が仰ったことの片鱗、
つまり「自分の心の良心を信じることが真理に向かうことである」が、
法華経に表現されていると感じます。


人間は、自分で注意することは、
何でも必ず無難にしていくことが出来ます。


法華経の中で表現される壮大な宇宙観が、
これを教えています。
それほど、人間とは思う以上の未知性が内在しています。
逆に、その人が注意しないことは、やはり避けられないのです。

                       ≪転載修了≫


vol. 3291
「空気」  (2012/1/23 [Mon])
≪伊勢白山道≫より転載

あの世では、この世で過ごした時の個性は段々と消えて行きます。
この世での個性、つまり人種や性別や言語・・・は、魂の浄化と共に消えます。


しかし、この世に再度、転生(てんせい:生まれ変わること)しますと、
地球という舞台に蓄積されている、過去生の自分が「残した」霊的磁気を
再吸収することに成ると感じます。


まるで、この世の空気を吸うごとに、
過去生の自分が残した癖(くせ)を再吸収する感じです。


浦島太郎が龍宮界から現実界へ戻った時に、
玉手箱を開けた時に出てきた白い煙を吸い込みますと、
いきなり老人へと老け込んだ記述があります。


これの霊的真理は、他次元から現実界へ来た時に、
この世の空気を吸うことで、魂が持つ本来の個性が
現れる意味を表現したと感じます。
だから赤子の出産時における、
初めての一呼吸は特に大切だと思います。


考えて見ますと、空気とは不思議なモノです。
場所ごとに、明らかに空気の個性が在ります。


科学では空気の成分が明らかにされていますが、
空気に在る独特な”雰囲気”(ふん息)とは、不思議なモノです。


やはり空気には、その場に積滞する霊的磁気を含んでいると感じます。
空気には、水分が含まれています。
大げさに言えば、私たちは水の中で暮らしているとも言えます。


この世は、厚い厚い空気層に保護された深海(しんかい:神界)とも言えます。
この世を真の神界にするも、地獄にするも、生きる人間次第なのです。
受け身のままで、仏様に誘導されるのでは決してありません。


これは、ある意味では怖い事です。
私たち個人の人生も、これと同じです。
自分で歩こうと「する」姿勢が、絶対的に必要なのです。


地球のような空気層とは、見える範囲の宇宙には存在しない、
非常に稀有で特殊な環境です。


まさに仏様の意志が働いているとしか思えません。
自然の偶然で発生できるならば、


もっと多くの同じ環境の星が多発していることでしょう。
このことの意味を、人間は思い知らなければ生けないと私は思います。
人類の一人一人が地球上において、今の自分が”生かされている”
現状への感謝の磁気を発生させることが、
世間の雰囲気と地球環境を改善していくと感じます。


人間は、
雰囲気という空気に対する高性能な空気清浄機かも知れませんね。

                             ≪転載修了≫



vol. 3290
「今に感謝」  (2012/1/21 [Sat])
≪伊勢白山道≫ブログより転載

過去や現状を心配するあまりに、
今の貴重な瞬間を捨てている人が多いです。
今の瞬間瞬間が、一番に影響力を持ち、
過去と未来の是非を「決めている」のも、今の瞬間の気持ちなのです。


この一番に拘束力を持つ今の瞬間を、
不満や心配・恐れで満たすことは、本当にモッタイナイことです。


会社に勤務すれば、色んな嫌なことは誰にでも在るのです。
これは社長でも同じです。
逆に社長のほうが逃げられない分、
心の重圧は大きいかも知れません。


とにかく給与が少なくても頂けることがアタリマエでは無いことを、
たまには思い出すことが大切です。
これがアタリマエに成っていますと、色んな不満や悩みが出て来ます。


会社を辞めてしまいますと、ほんとうにあっけないものです。
あんなに悩んだのは何だったのか?
貴重な生きる瞬間を捨てていたことが分かります。


冷静になりますと、もっと頑張れたかな?と誰でも思うものです。
これは、人間の死後の心の状態とも、とても似ています。
自分が思いっ切り努力したならば、後悔はしません。


人間は生きる間、
必ず悩み(性・老・病・死)という課題を誰でも内在神からプレゼントされています。
人により課題の現れかたは千差万別です。


すべては、自分の心の良心を大きくするためです。
自分の良心が限りなく大きく成れば、自分の良心では無くなり人類の良心と成り、
自分が(我)自分がというものが消えます。


そうしますと、すべてが有り難い崇高なことばかりだったことに気付きます。
隣の嫌いだった人も、愛情の視点で静観することが自然と出来ます。


これが理想論に聞こえる間は、自分が苦しいです。
ただ、方向性のヒントを知っているだけでも、
とても大きな違いを本人に気付かせて行きます。


やはり自分の足で歩いて、
実体験していけば心から気付くでしょう。
自分が体験すれば、どんな説明も説得も不要となります。


とにかく答えは、
誰もがこの世のすべては有り難いことだったということに気付きます。
全ての人が、すでに仏様の中に自分が居たのです。
これは、一休や良寛さんが最期に「死にたくない」と仰った、
この世への最大の賛辞の言葉の意味なのです。


生かして頂いて ありがとう御座位ます。

                           ≪転載修了≫


vol. 3289
「○○さえあれば」  (2012/1/20 [Fri])
◯◯さえあれば。

私たちは日常の人生において、
「ああ、◯◯だけ手に入れば幸せになるのに」
ということがあります。


私は自営業のような小さな会社の経営をしていますから、
ああ、今月あの案件の発注さえあればなあ、
そうすれば来月の資金繰りはだいぶ助かるのに。


そう思うことはしょっちゅうです。
しかし「◯◯さえあれば」と思ったことで、
それが叶ったことは一度もありません。


発注がきまりそうになったとしても、
「◯◯さえあれば」という思いは、現実化を遠ざけるのです。


◯◯大学にさえ合格すれば、
◯◯会社に就職さえできれば、
あの人と結婚さえできれば、
この病気さえ治れば、
義母と同居さえしなくなれば、
などなどたくさんの「さえ」を抱えています。


しかしその「さえ」が現実化を遠ざけています。
得ることは同時に等価のものを「失う縁」を生成します。
奪うことは、強く得ることなので、「非常に強く失う縁」を生成します。


失いたくないという執着も同じです。
そして◯◯さえあれば、という執着も同じなのです。
現実にはまだ得ていないのに、得る執着だけ肥大化して、
失う縁だけがどんどん生成されている状態です。
現実化しなくなるわけです。


逆に執着を手放して感謝していると、「与えられる縁」が生成されますから、
現実には財産とか家庭とか健康を得ているのに失わないという人もいるわけです。
彼は心の中ででは、個人的な我欲を手放して生活しています。


しかし「◯◯さえあれば」の人は逆です。
心の中では、一切何も手放していないのです。
感謝どころか足りない現実の不平不満だらけです。


それらの不満が「◯◯さえ」という一点の執着に集中し、
どんどんその執着心を肥大化させ、
そして絶対に叶えられないような場を自分で創りあげています。


私が昨年の秋に経営を立て直した方針は「身軽さ」でした。
もう一切の「◯◯さえあれば」を排除することにしました。
ないことが前提です。
なくても会社が継続できるかです。


幸運なことに休職助成金の制度を教えて頂いたので応募しました。
転職先のある優秀な社員に辞めてもらいました。
不便で狭い事務所に移りました。


営業に関しては利益率の高いものに絞りました。
余計なサービスを一切行わないことで半額にしました。
新規の顧客開拓はやめて既存顧客を丁寧にまわることにしました。


家族には引っ越す可能性があることを告げました。
家族を二つに分けてそれぞれの実家に分けて居候させてもらうつもりでした。
人員も削るので、利益は大きく減りますが、既存顧客の固定収入だけで、
何とか会社を継続させる目処が立ちました。


その瞬間から、実は潮目が変わったのです。
もう人から「与えてもらう」営業をしなくてよいのです。


まるぞう会社を気に入ってくれた少数のお客さんだけに、
私ができる最高の誠意だけを、お得意さまに提供することにしました。
実はその中で、自分が見落としていたものが随分見えてきたのですが。


潮目が変わると不思議と案件の数が増えていきました。
結局、休職助成金も一度も申請せずにすみそうです。
もう「◯◯さえあれば」という願望は私にはありません。
会社の苦難もいろいろ経験させてもらいましたが、
得難い貴重な体験です。


最後に話は飛びますが、
日本の国土がかかえる大地震の可能性もそうです。


私たちが、「大地震さえ起こらなければ」と願う限りは引き寄せます。
もともと私たちは裸一貫で生まれて来ました。
身に纏う一枚の衣以上の持ち物は全て借り物です。
その視点で見れば、
この世は与えられるものばかりです。


失うものなど、一つもないのです。
大地震が来ても。
国土と育んでくれる自然への感謝が、
溜め込んだ「失う縁」を相殺します。



今日も気づかせて頂いてありがとうございます。
生かして頂いてありがとう御座位ます

≪転載修了≫


vol. 3288
「期待しない」  (2012/1/19 [Thu])
≪伊勢白山道≫より抜粋転載

間関係で悩む人を観ていますと、
自分が受け身で待っている人が多いのです。

受け身で待つ姿勢と言いますのは、
いつも他人の出方を注視しています。

だから他人の行動や発言に対して、
過剰な「監視」をしがちです。

気楽な人にとっては、
「それが何か?」「そんなことで悩んでいたの?」と
言いたく成ることを、たまに言ってしまったりするので、
余計に不気味に思われて避けられる悪循環があります。

では、どうすれば良いのか?


1:他人に期待しないことです。

まず、自分で楽しむ視点を育てることです。
幼児を見ていましても、楽しそうに遊んでいる子には、
他の子供が集まります。

これは、自分のカラに閉じこもれと言っているのでは無いですよ。
何ごとも受身で待つ姿勢への注意です。

他人に期待しない分、
自分からさり気ない気遣いを他人への行動ですることが大切です。


2:相手に気を使わせないこと。

「そんなことを気にする人ならば、なんか話しづらいな」と思われますと、
やはり避けられます。

人間は本能で、自分がリラックスしやすい方向へと進むものです。
だから、気を使わなくても済む人へと、他人の交流は流れます。

ただ問題は、受身で待つ人とは、変なプライドを持つ人が多いのです。

自分の事を、気楽で気遣いが不要な人物だと軽んじられるのも嫌な面があるのです。
このことに本人は、気付いていないかも知れません。

他人に気遣いをさせない配慮を、自分が心がけることが大切です。


3:家系の霊線を浄化する行為をすることです。

表面上の会話や付き合いが、他人との交流に関係ない面が在るのです。
とにかく何か嫌な気を自分が出していますと、
他人からは避けられます。

先祖の守護が厚い人間には、自然な笑顔が出ます。
親(先祖)に抱かれている幼子のように、安心感を漂わせています。

子供を観ましても、笑顔の多い子供には先祖の守護が強いことが多いです。
この世の細かいことには、先祖は仏様以上に現実的な干渉ができます。

                           ≪転載修了≫
生かして頂いて ありがとう御座位ます。

vol. 3287
「一切皆苦→一切歓喜」  (2012/1/18 [Wed])
お釈迦様は「一切皆苦」であるといわれてます。
これは、人間はこの世に「思い通りにならない」ことを
体験するために、やっとの事で産まれて来たということなのです。


あの世は同波長の法則で
似たもの同士が引き合うように自動的に集まりますから、
成長変化が止まっている固定化された世界です。


「思い通りになりにくい」変化するこの世の中で
一つずつ夢を持って努力する。良くなる未来に向かって努力する。
この世の苦楽のすべては、実は感謝せずにはおれないことばかりなのです。
それらは真実の幸せへこの「いのち」を誘導するために、
自ら準備してきたことばかりなのです。


人の悩みは千差万別です。
その人にとっては、今の悩みが真剣で、
命を削るようなものと言えます。


ただ思います。
いいじゃないですか?悩みがあるという事は。
仏様から観ると、短い人の人生。
悩みことができるのも、生ある時間の中だけです。
人間の人生は一瞬です。


直ぐに終わる人生の中で、仏様は「何を逃げようとしているのだ!」と、
その人の「いのち」を大きくする方向にその人の人生を向かわせます。
それが仏様の本当の愛であり、慈悲のはたらきなのです。


またこの世に生まれてきて、
何もないことほど、「つまらない」ことはないのです。
思う通りにならない人生だからこそ、その中での喜びや
感謝はひとしおなのです。
何もない普通の時に食べる塩むすびは「まあまあ」でも、
悪天候での登山の途中に食べる塩むすびは「とてもおいしい」ものなのです。


やって来る悩みは拒まず、
現状に感謝しながら今を生きれば、
それがその人には最高の人生となっていくのです。


生かして頂いて ありがとう御座位ます。

vol. 3286
「思い込みのぶつかり合い」  (2012/1/17 [Tue])
≪いまここブログ≫より転載

本当は誰もが、
みんなと仲良くしたいと考えている。

できることなら、心を通わせたいと思っている。
心の表面では人なんか嫌いだと言う人も、
心の底では仲良くしたいと思っている。


ところが人間には、それぞれにこだわりがあって、
何気ない一言や行為が、相手の気に障ったり、逆鱗に触れてしまうこともある。

なぜこんな一言がと思っても、相手のこだわりの裏側には
、心の傷口がぽっかりと開いていて、羽毛のような柔らかい刺激でも、
激痛になって伝わることもある。

そこで反撃に出る。

反撃された方は、
もうその相手を素直な気持ちで見ることはできなくなる。
こっちだって開いたままの傷口を抱えているのだから。


人間同士の対立は、
思い込みと思い込みのぶつかり合いの場合が多い。

それぞれが独自の世界を作り出し、
その世界の中で生きているからだ。

人間同士の対立は、
実はそれぞれが持っている独自の世界同士の対立だ。

それは思い込みの対立だ。


批判や攻撃を、
真に受けてはいけない。

それは相手の世界の中での反応であって、
あなたに向かっているものではないからだ。


家庭や会社や様々な付き合いの中で、
人間同士の摩擦は絶えないと思う。

相手の心の狭さを責めるのではなく、
何が起きているのかを正確に理解する知恵を持とう。

相手が反応しているのはあなた自身にではなく、
相手の心の中に映った虚像のあなたに対してだということを忘れないでいよう。


今日はそんなことが書きたくなりました。
きっとこの情報を必要とした人がいるのでしょう。


いやなことが起きた時、その出来事を考え続けるのをやめれば、
その状況は去っていきます。

あなたは「考え」という素材で、
自分の現実を作り出しているからです。


あなたの心が安らかでありますように。


                            ≪転載修了≫


生かして頂いて ありがとう御座位ます。

vol. 3285
「仏様はどんな方」  (2012/1/16 [Mon])
何度も言いますが
仏様はあなたの欲望や願望を叶えてくれる存在ではありません。
もしそういう仏様がいらっしゃるのであればそれは魔物です。


仏様とは「いのち」の本当の在り方に目覚められた方です。
「いのち」の本当の在り方とは、
どのような「いのち」であっても、他の多くのの「いのち」に支えられ、
生かされて生きているのであって、単独で存在する「いのち」はないということです。


つまりどんな「いのち」でも、わが「いのち」に関係のない「いのち」は、
この世の中には一つもないということです。
「持ちつ持たれつ」と言いますが、すべての「いのち」は支えあって
生かされ生きているのです。


人間の不幸は、「いのち」の在り方を忘れて、
あれは私に関係のない「いのち」、こんな「いのち」はいない方がいいと、
「いのち」と「いのち」の間に、壁をつくり、溝をつくって排斥したり、
敵視したりすることからおこってくるのです。


「いのち」の本当の在り方に目覚めた仏様は、
「いのち」と「いのち」の間に壁を作っている限り、
人間には幸せはありませんよと教えてくださっています。


すなわち、「いのち」と「いのち」の間の壁を取り払って、
「いのち」と「いのち」の本当の交わりを回復せよと
教え導いて下さる方が仏様なのです。


だから仏様は、
他の「いのち」に生かされ、他の「いのち」と共に生きている人間が、
自分だけというような「我」の壁をこしらえて、
自分の願いや欲望だけを通そうとすることが、
間違いだということを教えて下さいます。


そして仏様の御利益とは、
その人がなにものにも縛られず、
自在に自分の特性を発揮していける喜びを与えられることを
言うわけであって、その人の表面的なエゴの望みや願望が
叶えられることを言うのではありません。
そういったものをかなえてくれるのは魔物ですよ。
間違えないようにね。


生かして頂いて ありがとう御座位ます。



vol. 3284
「噂話や悪口」  (2012/1/14 [Sat])
うわさ・・・好きですよね、人間って。


ただうちの亡父は元学校の教員でしたが
人のうわさが大嫌いで、母親に言ってた言葉は
「ご近所の噂話や悪口を言わないことが立派な家庭教育だ」でした。


小さいながらにそういうことを一貫して通していた
父親の姿勢には感服するものがありましたし、今でも父親のその言葉を
思い出しては自分の姿を振り返ることが度々あります。


この噂話、「みんなが、あんたのことをこう言ってるよ」という言葉を聞くときほど、
腹立たしいことはありません。
誰が言ってるいるのかが分かれば、その真意を尋ねることもできますが、
「みんなが」と言われば、その真意も確かめようがありませんからね。


自分の噂は、たとえいい噂であっても、
あまり喜ばない僕たちが、他の人の噂になると目をキラキラと輝かせています。
人間って、一体どういう生き物なんでしょうか。


噂は多く、その人の一瞬のあり方をとらえて、
それがさもその人のすべてでもあるかのように語られています。
そして、噂が噂を呼び、時には起承転結を備えた一つの物語にすら
なることがあります。


ただねえ、無責任な噂を口にすることにより、
また根もはもない噂を「へえ・・それでそれで」って喜んで聞くことによって、
知らず知らずの内に、僕たちは多くの人を傷つけ、多くの人を苦しめている
ことを忘れてはいけないのです。


父が言っていた「ご近所の噂話や悪口を言わないことが立派な家庭教育である」
本当にそう思います。


生かして頂いて ありがとう御座位ます。




vol. 3283
「沢山のいのちに生かされている」  (2012/1/13 [Fri])
お釈迦様は「名は、はたらきにつけるのですよ」
と教えて下さいました。


つまりですねえ、どのような役割を果たし、
どのような仕事をしているかによって名はつけられるべきだと
おっしゃったわけですよ。


ということは、いくら姿は人間であっても、
やっていることが謙虚で喜べることでないと、
人と名付けられないのです。


何か都合の悪いことがあると、
「あの人はつまらんからこうなった」
「この人がダメだからこうなったんだ」と、
他人を責めるばかりだったならば、
それは人と名づけるよりも、鬼と名付けた方がふさわしいですね。


また、常に責任を回避しながら、
他の人を悪者にして生きているのであれば、
そういう人は亡者と名付けた方がいいです。


この鬼と亡者の住むところは、テレビがあろうが、
ビデオがあろうが、家庭とは名づけられず、地獄と名づけられます。


貪りの中で、
不足だけを腹いっぱいためて、
「あれがない、これがない」と待っても待っても、
喜びもなければ感謝もない日暮らしをしているのを、餓鬼と名付けます。


欲求不満の下腹だけをふくらませて、
心貧しい骨と皮だけの姿がそれを表しています。
喜びも感謝もない「いのち」は、
やせ細った哀れな「いのち」の姿です。


また、沢山の「いのち」をいただき、
沢山の「いのち」に支えられて生きているわが身であることを忘れ、
自分の身を楽しませることだで明け暮れ、
他の人のお役に立つことを全く考えないならば、
人と名付けるより畜生と名付ける方が適格な名づけです。


このように見ていきますと、
僕たちは確かに人間の姿はしていますが、
胸を張って堂々と「私は人間です」とは言えないのではないでしょうか。


地獄・餓鬼・畜生の「三悪道を離れてやっと人間に生まれた」はずの僕たちが、
相変わらず三悪道を流転するあり方を続けているのです。
そして死後帰る世界はやはり三悪道なのです。


だからこそ「仏法を主として」生きないと
「たくさんのいのちに生かされて生きている」ことに気づけないし、
僕たちは三悪道からは絶対に解放されけない、救われないのです。


≪伊勢白山道≫ブログより転載

禅僧である良寛(りょうかん)さんの心中には、
禅宗の開祖・道元(どうげん)が示された
愛語(あいご)の精神が生きていました。


良寛さんは、まじめに、不器用に、
愛語の精神で生きることを生涯守り、実行されました。


愛語とは、要するに自分の生活の中で、

1.他人に対しては、「良い言葉」「愛情の在る言葉」しか発しないことを、
自分の修行の柱とするのです。

2.言葉にしない時は、黙って心中で他人へ「愛情のある言葉」を思うのです。

3.言葉に出来ない時は、黙って「愛情のある行動」を他人にします。
人間とは、生活の中でこれを実践するだけでも悟りが開けます。

                             ≪転載修了≫


vol. 3282
「仏法を主とする」  (2012/1/12 [Thu])
理容院に行って、
理容師さんと東日本大震災のことを話していました。


彼は陸前高田の出で、
彼の弟さんは二十一歳で警察官をやっているといってました。


そしてあの震災後、
いろんな出来事を語ってくれたと。


波が引いた後、
ビニールハウスのパイプの上にたくさんの遺体がぶら下がっていたとか、
避難所でヒステリックになった大人が子どもを殴っていたとか、
自殺者が相次いだとか・・。


人間というものはあのような地獄のような異常事態になったら、
何をしでかすかわからない存在だし、、
また逆にどんな状況になっても良心的に他の人のために
生きようとするする素晴らしい人もいる・・と。


日ごろその人が何を中心に生きているのかが
あのような状況ではすべてはっきりと表れてくるものなのだと、
警察官である弟は語っていたといいます。
だからなかなか本当の事は語られないとも。


「なるほどなあ・・」何とも聞きながら、言葉になりませんでした。
いざとなったらも、心のブレーキがきかなくなる人が多くなってしまう。
それでも日本人は世界の人たちより、まだましなのでしょうが。


「心の主になるとも、心を主とするな」と注意されていた釈尊。
「念仏を主とせよ」とすすめて下さった法然聖人。
「仏法を主とせよ」と言われた蓮如上人。


う・・・ん、今後いろんなことが起こってくるでしょうが、
今ほど「仏法を主とする」ことの大切な時代ないのではないかと思いました。


生かして頂いて ありがとう御座位ます。




vol. 3281
「感謝が深まれば・・」  (2012/1/11 [Wed])
≪伊勢白山道≫ブログわり転載

幼児などは、
何でもイヤイヤというものです。

しかし、脳の成長と共に、イヤイヤが減ります。

実は、知性と同様に、
上記のことは霊性の進歩にも言えることなのです。


お釈尊様には、
嫌いな人間が一切いませんでした。
どんな人間でも、真から愛おしかったのです。
敵対する者にも、慈悲心を持っていました。


自分の霊性の進化をサニワ(判断)するポイントとして、
嫌いな他人がいるかどうかの増減を自己観察するのも良いです。


感謝の先祖供養を始める前は、
親に対しての許し難い感情が湧く人もいます。


しかし、供養により家系の霊線(遺伝子)の浄化が進みますと、
なんとなく親を許せるように成るものです。


供養が進むにつれて、
自分の慈悲心(情け心)が発露を始めますと、
嫌な他人を見ても冷静に相手を見ることが出来るように成ります。


その根底には、人間のサガ、仕方がなさ、
さえも理解が出来る心の大きさが出て来るのです。


自分の心(良心)が大きく成れば(発露する)、
自分自身の自我が真から救われます。
自分の心が、自分自身を真から救うのが霊的な真実なのです。


ただ、この世は物質の世界(次元)です。
このようなことを机上で理解していても、意味を成さないのです。
「郷に入れば郷に従え」と言うように、
物質次元では行為が意味を成すのです。


今の「時間が存在する」と思える次元においては、
“見えない先祖にも”線香を焚いて感謝で手を合わせるという
日々ワザワザ先祖への感謝の行為が出来る自分の慈悲心が素晴らしいのです。


その自分の慈悲心により、
無意識下において自分が救われて行きます。

                                    ≪転載修了≫


お釈迦様が周りの人で嫌いな人はいなかったということは、
どれほど相手の「いのち」の中にいらっしゃる仏様を
見ていらっしゃったんだろうかと、ただ驚くのと、心より尊敬してます。


どんな人の中にでも仏様がいらっしゃるわけで、
お釈迦様はその仏様を感じ、その仏様を発露させるための智慧が
高かったんだろうなあ・・と推測できます。


智慧と慈悲はセットです。
智慧は直観力と言っていいです。
自分の我を捨てて阿弥陀さんに任せるほど、
この智慧は起こってきます。


また我を捨てていくとは、
感謝の先祖供養を行っていますと、
自然と先祖とのつながりが深くなって
智慧も多くのご先祖より授かっていくようになっているような気がしています


とにかく常に仏様の望まれていることをいつも問い聞いて、
望まれていることをどんどんやっていきましょう。
すうすると良心が大きく育っていって自我が薄くなっていき
とても生きることが楽になっていきます。



とにかく
感謝が深まれば好き嫌いがなくなって
自分の特性を発揮できる自在になっていくわけですね。


まずは積極的な奉仕行動ですね。


生かして頂いて ありがとう御座位ます。

vol. 3280
「この身の願い」  (2012/1/10 [Tue])
最近は五時ごろ会社の近くにある子安庵に帰って
子安庵住民五名の夕食作りに入ります。
今日はジャンボハンバーグ。


テレビをつけてニュースを見ながら、


「へえ・・・今日は成人の日かあ・・。
また酔っぱらってパトカーにぶつけた・・・。
ブレーキきかんのやなあ・・・親は情けないろう・・。
えっ?木曜日を中心に冬将軍かあ・・寒くなるんやろう・・」


料理を作りながら、
一人ぶつぶつ言いながら、
人間の心について考えていました。


お釈迦様は、
「わがまま勝手な心の言いなりになったらこの身は持ちませんよ」
と、おっしゃっています。


本当に私を大事にすることは、心を大事にするということよりも、
この身を大事にすることなんだよと教えて下さっているわけです。


僕たちの心というものは、
元々出来のいい心ではない。
自分勝手だし、その時その時の状況や縁でどちらに向くか
わからない不安定な心なんです。


そんな危なっかしい心をおだてあげたら、
この心はどこまで走って行くかかりません。
そんな心に引っ張られたらこの身は持たない。
身を大切にするためには、心を整え、制御しなくてはいけない。


今日も成人の日で酔っぱらった若者たちがキレたと
ニュースでは言ってますが、キレてるのじゃない。
キレるということは我慢してるってことですからね。


彼らはキレるのではなく、心にブレーキがないだけです。
つまり自己抑止できるという理性が育ってないのです。
それをキレるという一言で誤魔化してはいけないって思います。


仏教ではこの心の願いを実現するとは言いません。
この身の願いを実現すると言います。この身の願いを
仏教では「志願」と言います。
心の願いは「欲」と言います。


「願い」というのはこの身の方向性の問題です。
この身がどっちに向かって生きていくのかという問題です。
ここから「救い」という問題が始まるのです。


今日のお昼、ポッキーや、まりちゃんや、佐生さんや、
サリーちゃんが、のりちゃんからレクチャーを受けていました。


横で聞きながら「ああ、この人たちは何のためのこの身を
いただいたのか、この原点を見失ってる。わからなくなってるって。
それで、その時々の感情というか、湧き上がってきた気持ちや
思いつきで、迷いの六道の流転輪廻を繰り返している・・」
って思いました。


この身は決して「我」を肥大化させ、「自己愛」を膨らませるために
生きているわけではないのです。


僕がみんなに「念仏申せ」とか「仏さんのお心をいただけよ」と、
いつも言ってるのは、私でしかないこの身をもらい、
我が身を生かして下さっている大きな慈悲に遇って、
この身を本当に輝かして精一杯、無我夢中で「いまここ」を
生きる所に、この身をいただいた意味があるわけです。


その原点に立脚して物事を考えたり受け取っていかないと、
すべてが「心」の世界の延長線のとらえ方なのです。

この身を、なにものにも縛られることなく、
輝かして生きることこそが身の願い、つまり良心の願いなのです。
頭や心はいつも不平不満を溜めて、損得を考える。
身は勝ち負け、損得を考えないし言いません。


私は、私でしかないこの身を、
本当に輝かしていきたいという「志願」を満たすことが、
本当にこの身を大事にすることであり、
そこに身の願い、良心の願いがあるのです。


そこを感じとるためには、
やはり謙虚になって一生懸命目の前のことに取り組まないと。
すぐに自分を問い聞いて「心」のとらわれから解放されていかないと。
この身を生きることはできないんです。
もっと我武者羅でいいんですけどね、かっこうつけなくていいから。


ハンバーグ作りながら、成人式の若者の悪態ニュースを見ながら、
子安庵でそんなことを思っております。


生かして頂いて ありがとう御在位ます。





vol. 3279
「潔い生き方」  (2012/1/09 [Mon])
≪伊勢白山道≫ブログより転載

自分が他者や動物・物に向けた気持ちを、
時間を置いてから自分自身が受け取るということです。


未来の自分を創るのは、今の自分が出した気持ちです。
今の自分の心境と環境は、過去の自分が
出した気持ちと努力の反映と言えます。

人間とは、多くの鏡(他者)に囲まれて生きています。
では、自分が他者から嫌なことをされていれば、
どうすれば良いのでしょうか?
自分の過去の行為と気持ちの反射の場合と、そうでは無く、
他者自身が発する新規の問題の場合もあります。


この場合は、自分自身が反射率の良い鏡で居ることを心掛けましょう。
自分が出来る防御をしながら「静観する」ことが、
良い反射を相手にお返しします。
相手の刺激に反応することは、反射率を落とすことに成ります。
自分も相手と同様に害する気持ちを出してイライラすれば、
自分の霊体の鏡としての精度が落ちます。


いちいち反射を考えて生きるのも嫌なものです。
要は、一切のことにムダが無いという真理を、
自分が強く自覚していれば良いです。
一番強い鏡は、自分が「他者に」
愛情や思いやりの気持ちを常に持つことです。


これは、たとえどんな強い呪詛をされても、
無意識下で自分を守り相手に呪詛を跳ね返すことになります。
そして相手は、自分が出した毒に負かされることに必ずなります。
だから、自分自身が良い鏡に成りましょう。
生かして頂いて ありがとう御在位ます。 ≪転載終了≫


まさに今の自分の心境と生きている環境は、
過去の自分が出した気持ちと努力の
反映であるとはっきり分かりますし、未来の自分も、
そしてこの世を去ったあの世の自分も、
「いまここ」に生きる自分自身の出した気持ちと
努力の反英で新たに創造されていきます。


「一分でも一秒でも穏やかに」
「絆なきところに教育なし」
「その時、その場で、その一言を」。
常に自分の良心を意識して自分をごまかさずに
能動的に生きていきましょう。
気持ち良い未来の自分は、
すべて潔いシンプルな生き方から生まれてきます。


生かして頂いて ありがとう御在位ます。


vol. 3278
「不必要な存在は何一つない」  (2012/1/07 [Sat])
≪伊勢白山道≫ブログより転載

果実が生ったり、受粉して花が咲くためには、
ミツバチの仲介が必要な場合があります。
自然界には、持ちつ持たれつの関係が存在しています。
要は、意外なモノが、必要不可欠なケースが多々あるのです。
人間社会や家庭でも、弱者の人がいるお蔭で、
強者が成り立つのです。


会社でも、社員のお荷物だと思われていた人が消えますと、
その会社の運気が変わる場合があります。
意外な人間が、幸運のキーマンだったということが
居なくなって初めて分かるのです。
家庭でも、世話の掛かる老人が世を去ったあとで、
子供が変わっていくこともあります。
老人が親子関係を中和していたのです。


とにかく、人間が「認識できていない」相互依存の不可欠な関係が、
この世にはまだまだ無数に存在すると感じます。
認識できていない事は、知らずに無くすことがあるのです。
これは怖いことなのです。
ここで、日本で古来から言われます
「お蔭様で」という気持ちが大切です。


ミツバチが絶滅すれば食糧危機にも繋がるような、
意外な不可欠の関係を全体のまだほんの数%分しか
人類は認識していません。これは畏るべきことです。

人類は、目隠しをしたまま走り続けているのが現実なのです。
人類の5%が眼の開いた人に成れば、
全体がオセロゲームの反転のように変わります。
眼が開いた人とは、何がおわすか知らないが、
何かのお蔭様だと素直に思える人間のことなのです。
生かして頂いて ありがとう御座位ます
                   
                      ≪転載終了≫

良い人といったら自分にとって都合のよい気の合う人。
悪い人とは自分にとって都合の悪い
気の合わない人のことを言います。
世の中には不必要な存在なんか何一つもないのです。
自分の都合で人を決めつけずに、


もっと良心の母性の心で相手を見ていきましょう。
嫌な人からもきっと良いところ必ず見えてくるものです。
相手を好きになる必要はありませんが、
相手を否定したり、毛嫌いする必要はありません。
みんなお蔭様に生かされているのですから。


生かして頂いて ありがとう御在位ます。


vol. 3277
「すべては当たり前じゃない」  (2012/1/06 [Fri])
≪伊勢白山道ブログ≫より転載

人間とは、
自分(自我)にとって嫌なことは、
先祖や他者の責任を思い、自分にとって良いことは、アタリマエにしてしまい、
先祖や他者を思うことも感謝もしていません。

つまり、悪い物事のことには執着して悩み忘れず、
良いことは直ぐにアタリマエとなり忘れています。

親が子供を成長させたいと思う時、勉強させたいと思う時、
もし悪い所があれば愛情ゆえに注意するものです。
私たちは、時間限定(人生)の中で、自分の気持ち(愛情力・思いやり力)を
成長させるために生まれて来ています。

このために、色んなことが人生で「起こる」のです。
もし病気に成っても、その中で他者からの恩恵に気付き、学ぶことが多々あります。
自分が病気に成らなければ、気付けない物事(アタリマエな物事の有り難さ、
弱者の気持ち、自分の高慢さ)とは誰にでも必ず在るものです。


だから、痛い思いをしなくても、今の内からアタリマエな物事に感謝をし、
先祖(遺伝子)にも感謝をしていますと、学びのための課題(嫌な事)は減少する法則が在ります。

その上で起こる善悪については、家系(霊線)に残存する課題だと考え、
自分が出来る努力をしながら静観することが、課題の昇華を早めさせます。
その昇華の恩恵は、他の家族や親族にも良い影響を残します。

とにかく何があっても、自分の心の仏様(良心・仏性)を傷付けないことが一番に大切です。
この世の善悪のすべては、必ず過ぎ去って行くことなのです。
しょせんは一時(いっとき)のことです。

しかし、自分の心の仏様(良心・仏性)は違います。
死後にも継続する存在なのです。
やはり、この言葉の気持ちで居ることが最善です。

生かして頂いて ありがとう御座位ます

                                     ≪転載修了≫

何でも「当たり前」と思ってしまうほど傲慢なことはありません。
ただ、人間は悲しいかな、いつの間にか上手くいっていることや、
日常の平凡な日々が「当たり前」となって感謝の心を忘れていってしまいます。
また目に見えない先祖のみなさんたちのお蔭を与えられていることすら
忘れていってしまうのです。


だから病気や事故や一見不運や不幸というものを体験することによって
いかに自分や自分たちが恵まれ与えられてきたのか感謝の心を取り戻すことができます。
ということは、一見不運や不幸と思えることは、実際は仏様の慈悲の別の形の
表れなのかもしれません。


とにかく今、こうやって生かされていることが
人間にとっては奇跡なのです。


とにかくいつも心の中で今あらゆるものを与えられていることを感謝して
生きていくことが最善です。
さして常に自分の心の中の仏様と一緒であるという安心と共に積極的に
生きていくことがなにより大切ですね。


生かして頂いて ありがとう御座位ます。


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