トップページ
2012年 2月

vol. 3320
「自分自身を見つめる」  (2012/2/29 [Wed])
常に自分を見つめめるということは、
運気を高める最高の習慣です。


自分の弱点、嫌なところ、注意するところ・・・・などを
自分で静観して認識していれば、克服することが可能になります。


人間は、自分が認識していないことは改められません。


自分の弱点を静観することができれば、
それは弱点ではなくなっていきます。


生かして頂いて ありがとう御座位ます。

vol. 3319
「掃除好きになろう」  (2012/2/28 [Tue])
昨日はカビキラーやバスマジックリンで
松村君がお風呂掃除をしてくれました。


ただその後お風呂に入ったら、
「えぇ・・・????」窓の網戸やまだまだ汚れたところがあったので、
裸のまましっかり掃除をしていたら、結局は風邪をひいてしまいました。
なんのこっちゃ!


人生は、一日一日の積み重ねが大切です。
日々のお掃除を怠っていると、急に一気にきれいにしようとしても、
なかなか手間がかかり時間がかかり、結局は風邪をひいてしまいました。


そうじゃなくて日々気がついたところから掃除をする、掃除クセをつけると、
掃除が楽しくなってきます。


掃除をしだすと、あなたはどのように変化していくでしょうか。


スバリ言うと、あなたは「気づける人」になれます。
何に「気づく」かというと、それはないしょです。
ただ、それは大切なことに気づけるようになっていきます。


さあ、今日も掃除をしてると、
何に気づくことができるのでしょうか。


生かして頂いて ありがとう御座位ます。

vol. 3318
「感謝の法則」  (2012/2/27 [Mon])
普段あなたが行く店を思い出してみて下さい。
「ありがとう」と自然に言える店員さんがいるお店と、
ぶっきらぼうな挨拶しかしないお店があるとするならば、
と゜ちらが感じのいいお店でしょうか?
また、どちらが繁盛しているでしょうか?


あなたの周りの人たちを、
「ありがとうをたくさん言う人」と「ありがとうを言わない人」に分けた時、
それぞれの人生を想像してみて下さい。


「ありがとう」をどれくらい言い、
思うかで、人生は大きく違ってきます。


「頑張ってくれて、ありがとう」


「フォローしてくれて、ありがとう」


「素敵な笑顔で挨拶してくれて、ありがとう」


たくさん感謝をして、たくさん人を豊かにした人には、
同じぐらいの感謝と豊かさが返ってきます。


逆に、意地悪なことをして、
人に不義理なことばかりしていても、
それは必ず返ってきます。


人生を楽しく生きるコツは、とても簡単なことです。


「あなたが受け取りたいもの」を与えるだけでいいのです。
笑顔を受け取りたかったら、笑顔であいさつしましょう。


気持ちよさを受け取りたかったら、気持よく人に接してていきましょう。
自分は何も出さずに、いいものがほしい、人からよくされたいといっても
それは無理な話です。


何かを与え続ける人は、必ず豊かになれるのです。

生かして頂いて ありがとう御座位ます。

vol. 3317
「あえて言葉で説明させる」  (2012/2/25 [Sat])
空手の子どもたちも、
職場でもとにかく言葉で相手に自分の気持ちを伝える
という行為を繰り返し繰り返し行います。

これは親子関係でもそうです。
子どもが大きくなるにつけて、
言葉のないコミニュケーションは難しくなります。

言葉は人間に与えられた意思疎通のための最高の道具です。
この道具を上手く使いこなせるかどうかは、家庭でどのくらい
自分の考えている事や、自分の感じていることを表現することを
求められたかによります。

世の中と良好な関係を築くためには、
コミニュケーション能力を子どもの時から育てておいたほうがいいです。
僕は空手の終わりに子どもにも保護者にも全員に
「今日学んだこと。今日感じたこと。」を必ず言ってもらうことにしています。

察しのいい大人ではダメです。
必ず「何でなのか?」「今感じていること、意見って?」と言葉による
説明を求めるとき、子どもにしても大人にしても、相手を理解させようと
言葉を駆使します。
そして、話し始めたら、さえぎらずにしっかりと耳を傾けることです。

そういった自分の気持ちを言葉で伝えるトレーニングをいつも行っていると、
自然と自分の思いを整理して相手に伝えていけるようになっていきます。
これは社会性を育むということでは、とても大切なことなのです。

生かして頂いて ありがとう御在位ます。



vol. 3316
「自立と自律」  (2012/2/23 [Thu])
「じりつ」という言葉をよく聞きます。
「じりつ」には「自立」と「自律」の二種類の「じりつ」があります。


まず「自立」とは人間としての自己肯定感が育まれて
「存在の自信」「存在の安心」という心の土台がしっかり
築かれた状態、基礎体力がしっかりした状態です。


まず自分が「生きていいんだ」「無条件で愛されているという安心感」
という安心感覚があると人間は持続的に何かをやり続けることができます。


自己肯定感が育ち自立の種を植えてもらった子供は、
日々の生活の中で責任をもつとか、何かを持続できるとか、
人とのコミニュレーケーションが取れるとか
様々な状況での問題処理とか
そういった人間としての基礎力を開花させていきます。


だから「自立」とは自己肯定感、
人間の土台、基礎力が養われた状態のことを言います。


もう一つの「自律」は、これは理性によって自分を律する力です。
善悪の判断ができたり、悪いことを自己抑止するなど、
ある瞬間、自分と向き合い、善悪を考え、行動の先にある結果を予測する、
そういった自分と向き合う力です。


子供は自分の存在を無条件で受け入れられ、
安心して生きていく「存在の自信」を得た時「自立」の方向に向かい、
自分の行動が周りに与える影響を考えられるように理性的に
自分をコントロールできるようになると安全な「自律」へと向かいます。


自己肯定感により「自立」でき、
自己コントロールできるための「自律」を学ばせるために
親は子に何を伝えていったらいいのか、
そんなことを共に考えていきましょう。


生かして頂いて ありがとう御座位ます。


vol. 3315
「肩の力を抜く」  (2012/2/22 [Wed])
親が肩の力を抜くと親が楽になり、
親が楽になると、子供も楽になります。


上司が肩の力を抜くと部下が楽になり、
上司が楽になると、部下も楽になります。


日本人は基本的に真面目です。
だからよっぽどじゃない限り一生懸命頑張ろうとします。


そういう子供や部下に「ありがとう」「助かった」「うれしい」という
ポジティブな言葉をどんどん使いましょう。


あなたが逆の立場だったら、
絶対に嫌な気持ちにはなりませんよ。
それよりも、とても気持ちがリラックスして元気になっていきます。


言葉って大切です。
何気ないその一言で人の心を殺すこともあれば
生かすこともある。


人や子供に「ありがとう」を求めるよりは、
自分のほうからどんどんポジティブな言葉を使って
ちょっとしたことにも「ありがとう」と言ってあげればいい。


そしていつも「頑張れよ」じゃなく
「おっ、頑張さっとるなぁ」と認めるほうが絶対いい。
そのほうが元気になれます。


とにかく自分から「あれしろ、これしろ」というのではなく、
今日あったこと、今あったことを聞く、そして面白いことは、心から笑う。
そういう時間を子供や部下と共に過ごせば、
お互いの心が満たされていきます。


そして結果的に子供や部下の
「自己評価」「自己肯定感」が育っていきます。
その「存在の自信」が育っていくと、
人は何事にもチャレンジして「能力の自信」をつけようとしていきます。
このり方程式は変わりません。


まずは子供と部下の「自己肯定感」を育てることなのです。


生かして頂いて ありがとう御座位ます。


vol. 3314
「他人には甘く、自分にはピリ辛」  (2012/2/21 [Tue])
なんとなく焼きたてのパンを買って
木更津工場の高橋さんたちに、子安店の横山さんに
「美味しいで、食べたらええ」と持っていきました。


その車中、考えていたこと。
それは「他人には甘く、自分にはピリ辛じゃないといかんやろ・・」ということ。


人の批評批判や、悪いことをした人を非難するのは、実に簡単なことです。
しかしですねえ・・、自ら
「非難されるような悪いことをしない。悪い事を思わない」ということは、
半端なく難しい。


車の中であれこれといろんなことを考えましたが、
やはりむやみに人は非難できないのです。
やるやらないは別としてそういった悪業は人間であれば、
誰でも持っているからです。


ただ、じゃあそれでいいかといえばそうではありません。
自分を戒め、ご先祖様たちや自分の良心に見られても
恥ずかくない生き方をしなくちゃあいかんと思うのです。


ということは「他人には甘く、自分にはピリ辛」じゃないと
まずい。往々にして「他人にはピリ辛で、自分には甘い」というもの。
ほとんどの人がこのパターンです。


だからすぐに人のことを「ああだ、こうだ」と言ってます。
ただ、人を指さす人さし指の反対は三本自分を指しているわけで、
それはまさしく人に言ってる三倍は自分の心の中に同じようなものが
あるということなんです。


このことをしっかり自戒しておかないと、
人のことを言ってる自分の姿って、
客観的に見たら「あんた何様なの?」っていうぐらい
傲慢でまるで滑稽なピエロです。
お念仏って自分には相手にはおおらかで甘く、
自分には常にピリ辛にってことですからね。


≪おひさまありがとうブログ≫より転載

同行二人旅。


死後私たちは49日(バルドォ)をむかえると言われます。
良心の視点で自分の人生を振り返ります。


49日(バルドォ体験)では、自分自身の視点だけではなく、
相手の視点で自分自身を見つめることになります。


今あなたが憎いと思っている人、
その人の視点であなた自身を見ます。
今のあなたは自分の言い分が山ほどあります。


なぜ相手がそんなに非道い奴なのか、
常識なく私に迷惑をかけ続けるのか、
私の立場をちっとも理解しないのか。
今のあなたはそうです。


しかし死後は相手の立場、相手の視点で、
今のあなた自身に接することになります。
相手の立場や視点からあなたを見ると、
ひょっとしたらあなたをが非道い人に見えていたかもしれません。


相手からするとあなたが非常識だったかもしれません。
あなたの思い遣りが足りなかったのかもしれません。
あなたが相手の立場を理解していなかったのかもしれません。
このようにあなたは完全に公平に自分自身を省みます。
この完全公平な視点が、良心の視点です。


何も死後の49日(バルドォ)を待たなくても、生きている今この瞬間、
私たちは良心の視点で自分の人生を観ることができます。
相手の立場や視線で自分自身を観察すればいいのですから。


相手が自分の立場を理解するべきだ。
という考えの間は、相手の立場や視点になっていません。
困っている相手を助けて上げたい。
そう思っている時は無意識に相手の立場や視点になっています。
これが「良心」=「母性」である理由です。


あなたの周りには困っている人がたくさんいます。
その人たちを何とか助けてあげたいという気遣いが、
日常生活でできるかだけです。


理不尽な上司も、理不尽な客も、理不尽な家族も、
あなたが自分の良心の49日の視点(バルドォの視点)で観ると、
困っている上司であり、困っている客であり、困っている家族です。


あるいは、
辛い立場の上司であり、
辛い立場の客であり、
辛い立場の家族です。


自分の良心がどれだけ発露しているかは簡単に確認できます。
自分がどれだけ他者を助けたいと思っているか。と
自分がどれだけ相手から助けてもらいたいと思っているか。
その差を観れば良いのです。
どちらにしろあなたが死後、49日(バルドォ)で体験することです。


日常生活の中で良心の視点が発露してくると、
物事の見方が変化して行きます。
人生で起きることの陰と陽を同時に感じることができます。


表面的に良いことに見える出来事は、
裏側では同量の負債を抱えることとなっています。
表面的には大変な苦労を背負いこむように見える出来事は、
裏側では人生この上もないお宝を頂いていることとなっています。
そういう視点で人生が観えるようになってくると、
表面の人生の出来事に一喜一憂することはないです。


その裏側に発生している人生の本質のみを見つめています。
それが自分の良心(母性・仏性)と同行二人旅という意味です。


今日も気づかせて頂いてありがとうございます。
生かして頂いてありがとう御座位ます

                    ≪転載修了≫

ということなのです。


生かして頂いて ありがとう御座位ます。


vol. 3313
「存在への自信が一番」  (2012/2/20 [Mon])
よく「自信をつけるためには」とか「自信をつけさせるためには」
ということを家庭でも学校でも職場でも聞きます。


で、この「自信」なんですが、
一体どういう「自信」をつけたいのかってことなんです。


一番「自信」で大切な「自信」は、「存在への自信」です。
つまり、自分は生きてていいんだ、自分はここにいていいんだ、
自分は愛されている、自分は存在価値があるんだ、
自分はいらない人間じゃない、という自己肯定感覚、自尊感覚です。


これは何によって作られるかというと、
親や周囲の人が自分の存在を喜んでくれることから、
無条件で認め、愛してくれることから育まれる安心感情です。
この安心感情が強い人ほど楽しく豊かな人生を歩んでいけますし、
何があっても七転び八起きの折れない強い生き方ができます。


もう一つの自信は「能力への自信」です。
これは勉強ができる、スポーツができる、お手伝いが出来る、
などという、自分の能力への自信です。これは良い成績をもらって、
周囲の人たちから認められたり、褒められたりすることによって
育まれていきます。


普通、「自信」というと、この「能力への自信」のほうを考えてますし、
問題にしがちです。


でもね、この「能力への自信」は実に脆いです。
この自信は、も努力によって身につけられる反面、
いろんな状況で失います。勉強で失敗したり、
スポーツで負けたりしたりです。


ところがそこで「なにくそ」と思って、
また立ち上がって頑張ることができるか、
「どうせ自分は」とあきらめてしまうかは、
「存在への自信」、自己肯定感によるものなのです。


自分のことをツイてる、自分は運が強い、
自分は守られているも、自分は根拠のない自信か゛ある・・・
これらはすべて自己肯定感が高いということなのです。


これは、躾やルールを教えるときも同じです。
悪いことを悪いと注意したときに自己肯定感の高い子は、
「自分のために叱ってくれた」「これで自分はもっとよくなる」
と思うことができます。


しかし、自己肯定感の低い子は、
「やっぱり自分はダメなんだ」「自分はやはり無理なんだ」
と思って、すてばちになって、やる気になれません。


だから、その子の勉強やスポーツなどの能力を育てるときにも、
躾やルールを教えるときにも、土台となるのが、自己肯定感である、
「存在への自信」なのです。


だから人間が生きていくときに、
本当に大切な自信は「存在への自信」だし、
これさえあればその子、その人の独自固有の長所を発揮できていくのです。


本当の自信、「存在の自信」は
その人が愛されて心の中に育った安心感覚
自己肯定感から生まれてくるのです。


だから、保育、教育、家庭、空手、職場等々
すべての場においてこの「存在の自信」を育んでいくことが
土台にあって、その上で能力の自信を与える指導者の創意工夫や
保護者の取り組む姿勢がないと、逆に子どもも大人も自信を失っていきます。


ましてや宗教の存在意義とは、
まさに自分の心の中の安心の仏様と繋がって大安心で
この世の中を自我を薄くし、どんなに厳しい体験であろうと
その体験によって自身の魂をを磨き、
さらに強く明るく生き抜くことですから、
いかにこの「存在への安心」の「自信」が人間が生きていくうえで
一番大切であることなのかが、わかるかと思います。


僕の今までの生き方を振り返ってみると、
結局は因縁ある人達や組織全体の本当の「自己肯定感」を育む
そればっかりやってきているような気がします。
これさえしっかりその人の心の中に育っていれば、
あとは少しばかり何があってもおおよそ大丈夫なんで。


そしてその上で自我を薄くして魂を磨くサポート、
そんなことばっかりというか、そればっかりやってきているような気がする。
ということは、それが目的で生まれてきてるんでしょう。
自他ともにで、自らも歓喜を体験できるからね。



生かして頂いて ありがとう御座位ます。


vol. 3312
「職場は最高の人生大学」  (2012/2/18 [Sat])
教育をうけるのは学校だけではありません。
人生の時間を最も使い、様々な人がいて人間の組織を作っている
あなたの職場こそ、最も需要な教育機関であり、最高の人生大学です。

人生大学とは自我を減らして、体験や経験によって自身の命を磨れる場です。
その場では「はい、がんばります」「いつも、ありがとうございます」
「失敗しました、申し訳ありません」です。

この言葉の潔さや、爽やかさがその人の人間性を高め、
その人の「モチベーション」や「能力」を引き出していきます。

とにかくまずは何か頼まれたら、「はい」と言う返事で逃げずに仕事をさせてもらいましょう。「はい」という返事は、自分を伸ばす原点です。

生かして頂いてありがとう御座位ます。

vol. 3311
「やる気と能力は比例する」  (2012/2/17 [Fri])
「やる気と能力は比例する」

仕事をしていて大切なものは「やる気」です。
モチベーションの高さと言っていいです。

このモチベーションが低いと、何をやっても「パッ」としません。
逆に「やる気」「モチベーション」が高いと人間というものは
どんどん「能力」が発揮されていきます。

つまり「能力発揮」の80%は
実は「モチベーション」の高さによるものが大きいのです。

よく職場で「繁忙期で忙しいので人材育成研修は必要ない」という人がいますが、
こういう人はまったく本当の事が分かっていません。

人材育成研修を受け何かに気づいたり目覚めたりして、
「モチベーション」が高くなればなるほど「能力が発揮され」
仕事の成果が出てくるものなのだからです。

能力に関しては、仕事を正確に効率よくこなす能力、
人とコミニュケーションを図って協力または統率する能力、
創意工夫する能力などがあるわけで、
仕事をするということはプロとしてこういった能力を高める努力が
日々必要になってきます。

しかしですねえ・・・、それを努力する、
そういう気になれないというのは、やはりこの「モチベーション」の強弱によって
おおいに関係します。

じゃあ、何かの目標を達成して賞与や給与がアップすれば
「モチベーション」は上がるのでしょうか?
一時はね。ただすぐに落ちますので、この方法は今ではあまり役立ちません。

モチベーションを高く保つためには、
まず自分自身で、なぜ、なんのためにそれをやるのか、
それをやることでどのように自分が変わるのか、
どのようなメリットがあるのかなどを、
真剣に考えることが大事なのですよ。

僕は昔から基本的にモチベーションは高かった。
ただ昨年の3:11の「人の命はままならない」ということ。
そして改めてこの世は「期間限定」で思い通りにならない
様々な経験や体験を通して「自らの自我を薄め」「いのちを磨く」ということが
再度深く腑に落ちて、さらにモチベーションが上がりました。

特に死後「四十九日間、自分の良心が自分の人生を映画のように
先に還っている先祖の前で必ず振り返る。」には、
「ヨッシャ!!ご先祖さんみんなに見てもらえる良い人生を生きるぞぉ!!」と
気合が入りました。

モチベーションがしっかりして、気合が入ったものであればあるほど、
成果は大きなものになると肝に銘じておきましょう。

生かして頂いて ありがとう御在位ます。

vol. 3310
「笑顔の効能」  (2012/2/16 [Thu])
僕は仕事の関係で、しょっちゅう広島と東京を飛行機で往復しますが、
いつも思うのはスチワーデスさんの笑顔の素敵さです。
緊張しているけど少しリラックスするためには笑顔が一番なんだそうです。

で、一番カンタンな方法は、とりあえず笑顔をつくってみることなんだそうです。
その時には、楽しい事や嬉しい事を思い浮かべてニコッとしてみましょう。
ちょっとホットな気分になれます。

余談ですが、笑うと自然治癒力を高める「ナチュラルキラー細胞」という癌防止の
細胞の働きが活発になり心身ともに元気になっていきます。

笑顔になると、自分を周りもリラックスできるし、何より感謝の心も湧き出してきます。
また笑顔は人間にだけできことです。

さあ、今日も笑顔を心がけて爽やかな一日をスタートさせましょう。

≪伊勢白山道≫ブログより転載

笑顔という表情は、
脳と神経系が正常に機能してこそ現れる大切な印です。
逆に言えば、笑顔を意識することにより、
脳と神経へ安定という刺激を送ることが可能だと感じます。


笑顔が消え始めれば、
万病へのサインとも言えそうです。


大げさに笑うのでは無く、
常に静かな笑みをたたえていることは健康に大切です。
静かな微笑は、良い運気も呼びます。


人間は、常に怒るのも自由、常に悲しむのも自由です。
自分で選択が出来るのですから、微笑を選択しましょう。


現代の人間は、
自分で心の持ち方の選択をする自由が在ることを忘れています。
縛られた心、萎縮した心の人は、
過去生や他からの影響で今の自分が決まると考えがちです。


要は、今の自分自身を見ようとはしないのです。
絶えず、自分以外に原因を求めています。ここに、
すべての不運の理由が在ります。


肝心な自分自身を見詰めないから、他に原因を捜すから、
いつまでたっても自分の欠点が改善されない傾向があります。
似たようなリピートする不運が繰り返します。


このようなサイクルに自分が居るときは、
どうすれば良いのか?
他人に対して自分が出来ることを考えるだけでも、
運気を改善することが可能です。


もし行為まで出来れば、それは素晴らしいことです。
更には、微笑を意識して、生かされていることへの感謝を日常生活の中に
置いて行ければ、これはほんとうに幸福なことです。


笑顔まで意識するというのは、
それは本心では無いからムダだと思うかたもいます。
しかし、最初は自我の誘導であっても、
その「継続」が本心へと導きます。
これは、この世のことでは何にでも同じことが言えます。
最初は練習が必要なのです。これが心にも言えることなのです。
物事の継続や練習とは、そこに未知の「他力」を自分の内在から呼びます。


自分を信じることが出来ない場合は、
自分自身が何を継続しているのかを見詰めれば良いです。
もしその継続が嫌な物事ならば、
止める意識を自分で持つことが大切です。
嫌だと認識できたことは、必ず改善が出来ます。


その継続が良いと思える物事ならば、
継続している自分自身を信じましょう。
他に責任や原因を捜す人は、
自分自身を改善することが出来ません。
私たちは、この世の雑多な中で、
自分自身(良心)を見詰めるために生まれて来ています。

                      ≪転載修了≫


生かして頂いて ありがとう御在位ます。

vol. 3309
「自分自身を信じる」  (2012/2/16 [Thu])
自分の心の内側には
幸せの仏様が宿っていらっしゃるということは本当です。


一般的にはその仏様の事を良心と言いますが、
実はこの良心とはその幸せの仏様自体のことを言い表しているのです。


人間の人生は、
自分の心の良心、つまり幸せの仏様を信じれるか、
信じれないかで大きく変わっていきます。


この自分の心の良心を信じられない人は、
いろんな組織、人工物、お守り等に依存依頼していきます。
占いやパワーグッズを頼る人たちも、自分の良心を
なかなか信じていないということなのです。
そういう人は、自分を何か得体のしれない変なものに売り渡していることになります。


逆に、宗教的な信仰心がなくても、
自分の良心を信じて行動できる人は、
ある意味では信仰をしているのと同じなのです。


ただその場合、我良しのエゴの自分を信じるのではなく、
自分の心の中にある自分も人も喜ぶことを大切にする良心を意識して
行動ができれば、その人は仏様への自然な信仰者でもあるのです。


そういう人は自分のことをツイてるとか、
運が強いとか、先祖に護られているとか言います。


世の中で成功する人は、たとえ何かの宗教を信じていなくて、
良い意味で自分の良心を信じている人なのです。


ただ、そうなんですが、仏教を信じる人と信じない人で
どうして成功が継続したり、そうでなかったりするのかというと、
いくら自分を信じている人でも自己反省ができない人は必ずスライスして、
おかしな方向にいってしまうからです。


仏教を信じる人は自己反省していきますので、
この反省があるなしで、その人の成功の長さを左右していきます。


一時的な成功は勢いがあれば誰もが簡単ですが、
成功の継続、つまり人間も組織も自己中心的で傲慢なところがあって、
すぐにマンネリになるので、自己反省がないと幸せの継続は難しいのです。


だから、自分自身を信じた上で、仏様やご先祖様に対して、
日々の感謝を継続することができるのか?ということが、
次のカギになります。


そうやって感謝の心が育つ人は、
さらに自分の心の中の良心を信じることができ、
良心を信じていける人は、他の人に対して思いやりや愛情を
持てるようになって、結果的に人に喜ばれて
成功するようになっていきます。


とにかく、自分自身の心の中の良心を信じること、
つまり自分を信じることと感謝の心をもつことを
とても大切にしていきましょう。
その上で自己反省できる人は必ず成功していけますから。


生かして頂いて ありがとう御座位ます。

vol. 3308
「人生は無駄なことは一切ない」  (2012/2/14 [Tue])
人間は、嫌な事やそんなことを嫌がります。
でも、この世で注意していても起こることには、
善悪を含めて偶然はまったくありません。


つまり、無駄な事や損なことなどは一切ありません。
必ずその人の未来を改善するために起こってくれる出来事なのです。


実際に起こる悪いと思える現象や出来事とは、
その人が知らず知らずに行っていた傲慢や悪いことへの
反作用だったり、自己中心的な思いや行動の反作用だったり、
自分のただの努力不足だったりするものなのです。


「あなたの生き方は間違っているよ。違うんだよ」と、
そんなことを通して仏様は教えて下さっているのです。


ここで大切なことは、
この世は自分の努力を試されている場所だからです。
この不自由な世界にわざわざ私たちの命が産まれて来たのは、
「自我(自己中心的な思いや行動)」というハンディを背負いながら、

「どれだけ向上しようと挑戦したのか?」

「いかに情熱を持って生きていきたのか?」

「いかに他人への思いやりを実行できたのか?」

を、自分自身が試すために生まれてきたのです。
人生の目的は、自我を溶かして、本当の自分、
あなたの良心、本音を思い出して目の前の
ことへチャレンジして生きていくことです。


生かして頂いて ありがとう御座位ます。



vol. 3307
「すべてが共に生きています」  (2012/2/11 [Sat])
≪伊勢白山道≫より転載

この世で生きていますと、避けることができないのが、縁ある人の死です。
今年も、新たな多くの誕生と別れがあったことでしょう。
大切な人を亡くしますと、それは非常に悲しいです。

しかし、自分もいつかは死ぬと言うことを、忘れているから悲しいのかも知れません。
自分も必ず、時が経てば同様に死ぬわけです。
でも、他人の死を悲しみます。それは、
「死」よりも“もう会えない”と思うことが悲しいのでしょう。
しかし、霊的な真相は、縁ある死者と会えないどころか、
その死者を“覚えている”“気になる”間は、今も一緒に生きているのです。


私の知人は日本酒が嫌いだったのですが、
彼の父親が亡くなってから日本酒を自然と飲みたくなって、
酒をたしなむことを始めました。これは、父親がたまに来て、
好きだった日本酒を知人と共に飲んでいるのが分かります。


このように子孫とは、先祖の“思い”と共に生きるものなのです。
これは遺伝子と家系の霊線で繋がる、
共有ネットワークの中で肉体を授かった宿命として、
“嫌でも”先祖とは繋がっているからです。これは親から産まれる限り、
人類が持つ宿命です。
特に既婚女性の場合は、産まれた実家と旦那家を
連結させるハブ装置(まとめ結ぶ装置)の役割もします。


自分が、その死者を思い出して悲しい間は、
その死者も同様に悲しんでいます。故人と共に生きる宿命です。
自分自身が死者のことを、明るく思い出すように成れますと、
その故人も落ち着いたと思っても良いです。
これは感謝の供養をしていますと、良く分かる経過の推移です。


最初は、故人の供養をしても心配をするものです。
供養が通じているのか?苦しんではいないか?などと思います。
このように思う間は、供養が必要な縁ある霊が居られます。
しかし、感謝供養を重ねて行きますと、
だんだんと安心感を感じだします。供養が通じているか?
故人は大丈夫か?という心配心が起こらないのです。
明るく、たんたんと先祖供養が出来るように成ります。

故人が成仏しますと、故人の嫌な思い出や故人への心配心よりも、
故人への感謝の思いが勝るように成ります。
逆に言えば、辛さのあまり故人のことを忘れようとはせずに、
自分が故人の分まで“一緒に楽しもう”と生きることが、故人への供養と成ります。
故人の好物を、自分が楽しく食べたりするのも、故人への供養と成ります。


故人にとっては、縁ある生きる人が悲しみ心配する様を、
あの世から見ることほど辛いことは無いのです。
この世では、子孫が故人を心配して悲しみ、
あの世では故人が子孫を見て悲しむことに成ります。まさに合わせ鏡のごとく一体です。
昔から言うように、「故人の分まで、今を懸命に生きる」とは、本当のことなのです。


魂は、最終的には全員が、根源の生みの親である1つなる
阿弥陀さまの元へと帰ります。このときは、個人の個性は消えています。
心配も好みも思いも、すべてが“感謝の思い”1つに収束されています。
だから誰もが、絶対安心がすでに約束されているのです。
だから、安心して今の世を、オロオロとしながらでも頑張りましょう。

生かして頂いて ありがとう御座位ます。

vol. 3306
「自分で無駄に“しない”こと」  (2012/2/11 [Sat])
≪伊勢白山道≫より転載

同じ苦労をするならば、それもコノ世だけでの貴重な経験だと思い、“それでも”生かされていることに感謝をしながら受け切って行く思いが大切です。
そうしますと、それはプラス磁気の蓄積(徳積み)となります。嫌なことが、良い磁気を生み出すチャンスと切っ掛けに変わるのです。蓄積した良い磁気は、いつか必ず自分と縁者に反射します。
また、このような気持ちで受け切る覚悟をしますと、その苦労の昇華が早まり、無難へと変化することも起こります。

逆に嫌なことがあれば、生きるのも嫌になったと自分の心を腐らせることは最悪です。
そう思う間は、嫌なことは繰り返し起こり、ますます嫌な状態が進みます。更には、泣きっ面にハチのように、新たな別の問題も起こるのがコノ世のパターンなのです。
それでも生かされている自分の命に気付く必要があります。

惨めなのは自分だけだと思う間は苦しくて、自分の命(いのち)が体験していると思うのが良いです。
肉体も含めて、コノ世のすべては借り物の中で経験しています。色んな経験をするために、着ぐるみを借りて経験するのです。
自分では無くて、「命が経験するんだ」と思いますと、崇高な気持ちが湧いて来ます。
「命」と言えば、良い意味で生死を思い出すからだとも言えます。

期間限定(人生)の中で色んな経験をするために、命が旅をしに来ています。
大きな視点で見ますと、どんな経験も良い思い出に必ず変わります。これは後で、誰もが深く分かる真実なのです。もしコノ世で分からなくても、アノ世では必ず分かります。
だから、出来れば安心しながら明るく経験をして生きましょう。
あなたの命は、永遠に旅をする不滅な存在なのです。安心をしましょう。

生かして頂いて ありがとう御座位ます

vol. 3305
「経験(過程)重視で生きる人生」  (2012/2/09 [Thu])
≪伊勢白山道≫より転載

結果重視で生きる人生とは、
ムダな人生に成ります。
絶望することも起こるでしょう。
生き急ぐことにも成ります。


経験(過程)重視で生きる人生とは、
最終的には人生の勝利者となり、あの世にも通じます。
人生を味わい、楽しみます。


これは勉強でも言えます。
数学などは、答え(結果)を合わせるための勉強ばかりしていますと、
範囲が広い実力試験や入試では、良い点が取れません。
普段の答え(生活)が間違いでも、
解く「過程」を大切にして理解したものは、最終的には得点します。


人生で起こる結果よりも、
とにかく自分に内在する良心を大切にすることが最重要です。
生きていれば、良いことも悪いことも起こります。
この世界は、そういう次元の世界なのです。


すべてが、「必ず変化する」という大前提の上で流れている次元です。
要は、川の流れの中に自分が立っていると思えば良いです。


目の前の流れる水をつかんだとしても、
持った瞬間から鮮度が落ちて行きます。
そして、こぼれて行きます。


流れる水に逆らわずに、その中“でも”自分が「生かされている」
恩寵(おんちょう:プレゼント)に気付きましょう。
この世を離れますと、川の流れ(時間)は止まり、
自分が最期に立った川の位置が水溜まりと成ります。
その水溜まりの中で、今回の人生の旅を振り返ります。


この時に一番の救いと成るのは、
自分が他人へ向けた思いやりの気持ちや行為であることを知ります。
自分のために勝ち取った結果や、神様仏様に請求・要求・祈願した自分勝手な都合は、
重石と変化して自分が受け取ることを思い知ります。


見えない不思議世界、雲のような悟り、物質やお金や名誉や地位等の
人生の結果などというものは、くだらない意味の無いことだったことも知ります。


生きている時は、
大いなる存在、阿弥陀という大きないのちの中で
全員が生かされた上でのことだったことを知るからです。


自分の良心(大いなる存在)さえ意識して素直に純粋に生きたならば、
それですべては救われるのです。


この世のトリックは、
自分が「出した豊かな温かい思い、ギスギスした思い」を
アノ世で自分が受け取るという、
逆転・反転が起こるということです。


今の自分が日々にどんな思いを「出しているのか」を見れば、
あの世で自分が受け取る思いを今でも知ることが可能です。
あなたが豊かで愛情ある思いを相手に出しているのか、
それともギスギスして相手を批判したり裁いたりしているのか、
今のあなたの思いを知ればいいです。
これは完全に公平で平等な素晴らしいシステムです。


だからこの世で、悔しい思いや復讐心に苦しむことはまったく無いのです。
自分が出した思いは良いも悪いも自分が受け取ります。
ですから何があっても人を怨んだり憎むことはありません。
「自分が出来る努力をしながら」、
すべてを川の流れに任せておけば大丈夫です。


この世という川の流れの中では、
生かされていることに感謝し、その中でも楽しむ心が大切です。
出来れば、良い思いを出し続けましょう。


いつか自分が受け取ります。

                       ≪転載修了≫

生かしていただいてありがとう御座位ます。

vol. 3304
「今しかできない貴重な経験」  (2012/2/08 [Wed])
「今しかできない貴重な経験」

≪伊勢白山道≫ より転載

人間は、現状で苦しいことがありますと、
そこから逃げることを考えがちです。


しかし、その現状から簡単に逃げることが出来ないシガラミ
(家・家族・仕事・・・)が在り、動けないものです。


逃げよう・避けようと思っていますと、
その辛さが倍化されて感じるように成ります。


そりゃそうでしょう。嫌な現状なのに、さらに“逃げ腰の視点”で
現状を見るのですから、すべてが更に嫌に見えます。


その中でも本当は感謝をするべき良い点が在っても、
頭から“否定の視線”で見るのですから、その良さも隠れてしまいます。


その少ない今に在る良ささえも、
“無くしてしまうまで”イヤイヤ視線で見続けてしまうものです。


では、今が苦しいときは、どうすれば良いのか?

1:その中でも感謝ができることは無いのか?を考えましょう。
仕事が嫌な人も多いでしょう。でも働ける上での悩みです。
働きたくても、それも叶わない人もおられます。

人間とは、自分にとっての“アタリマエの基準”が、
勝手にドンドン上がるサガを持ちます。
このアタリマエ基準が上がるに比例して、嫌な事も比例して増えるものです。

やはり日々、アタリマエ基準が上がらないためにも「生かして頂いて 
ありがとう御座位ます」の想起が必要です。
生死の原点から問題を見詰めますと、
すべてが既に有り難いことばかりなのが分かります。


2:現状を冷静に静観する視線が大切です。

山登りも、登ることにより見える景色が変わるのです。
登らずにいて、上方(未来でもある)の景色が見えますか?

先行きが見えない時は、
落ち着いて静かに注意深く歩いて行けば良いです。
そうしますと、必ず見え始める景色があります。

今の現状を、たんたんと見つめる視線を持ちましょう。
子供のような純粋な視線で、“先入観を持たずに”現状を見ましょう。
物事を正しく見られる視線を持てば、不要な回り道をしません。


3:先祖への感謝を、普段の生活の中で想起しながら、
静観をしましょう。
先祖への感謝磁気を貯めることが、物事を改善させる力となります。


自分が接続されている家系の霊線の支流に詰まりが有りますと、
どんな良い現状でも楽しめないものなのです。

理屈ではない虚(むな)しさが、自分の心を支配するように成ります。
このタメに、良い現状も捨てることも有り得ます。
霊線が浄化するにつれて、必ず心が晴れて行きます。


現状に感謝の磁気を積んで行けば大丈夫です。
今よりも、更に良くなることばかりです。

”生かして頂いて ありがとう御座位ます”という、
生死の視点から苦難を見詰めますと、
嫌なことさえも乗り越える目標へと変わります。


今しか体験できない貴重な経験なのです。
そう思いますと、私の心は燃えます。

                 ≪転載終了≫



vol. 3303
「仏の目」  (2012/2/07 [Tue])
仏とは、赤は赤、白は白とありのままに見る目をもった方だと教えて頂きました。赤は赤、白は白とそのまま見るということを教えてくださるお言葉が『涅槃経』にあります。

諸仏世尊、もろもろの衆生において、種姓・老少中年・貧富・時節・日月星宿・工巧・下賤・僮僕・婢使をみそなわず、ただ衆生の善心あるものを観そなわす。

というお言葉です。仏は「いのち」を見るときに、まず何よりも、種姓を見ることをしないといわれるのです。

種姓とは、生まれであり、氏・素姓といわれるものです。仏は、その人が、どこの生まれであるか、その人の氏・素姓がどうなっているということを一切見ないといわれるのです。私たちは、多く、その人自身の素晴らしさをそのまま認めようとせず、その人がどこの生まれで。どういう氏・素姓の人かを問題にし、その人を中傷したり、いやしめたりします。このような「いのち」の見方が、他の「いのち」の輝きを奪い、他の「いのち」をついには殺す結果を招くのです。日本におけるすべての差別の基盤となっている部落問題は、正にこのような「いのち」の見方に立脚しています。

次に、仏は、老少中年を見ないといわれるのです。その人がどれほど素晴らしいものを持っていても、私たちの社会では、年令によって拒否され、排斥されます。「あんな年寄りはダメだ」の一言でハネたり、「まだあれは若すぎる」と受け入れません。では、中年だけはと思いますが、この中年という時期は、あるようでないのです。昨日までは「若い、若い」と言われて押さえつけられていた人が、一夜明ければ「年寄りだ」と排斥されるのです。
仏はそのような年令で、「いのち」の輝きを拒否することのない方です。仏は若くとも老いていても、その「いのち」の輝きをそのまま受け止めてくださるのです。

私たちの場合は、これ以外にも、貧富で人を見、職業で人を判断し、学歴でその人の値打ちを決めるようなことをします。それら一切の間違った「いのち」の見方を排除し、ただ、その人の「いのち」の輝きを讃え、「いのち」の輝きに手を合わせていくというのが、「ただ衆生の善心あるものを観そなわす」ということでしょう。

善心とは、ただ心の内にとどまるのでなく、自らの「いのち」を輝かせ、他の「いのち」を照らして善心です。

藤田徹文著「聞光力 いのちに遇う」より転載

vol. 3302
「青色青光」  (2012/2/06 [Mon])
私たちの「いのち」は、自分のもち味を思い切り発揮できたときに、一番輝きます。
『阿弥陀経』に、

青色の蓮は、青い光を
黄色の蓮は、黄色い光を、
赤色の蓮は、赤色の色を、
白い色の蓮は、白い光を放っている

というお言葉があります。
青色に青い光、黄色に黄色い光、当たり前といえば、これほど当たり前のことはありません。しかし、この当たり前のことが当たり前に実現する時、その「いのち」は最も輝くのです。

青い色の蓮が、黄色い光、赤い光、白い光を出そうとしても、出せるはずもありません。出そうとすればするほど、苦しみを増すだけです。

バラの木に、バラの花咲く

という北原白秋の詩がありますが、バラの木が多くの人がめでるからと桜の花を咲かそうとしてもできるはずがありません。もし、咲かせたとしても、違和感だけが残るでしょう。

自らの「いのち」を輝かすためには自らが自らの「いのち」のもち味、自らの「いのち」の色を出し切るしかないのです。どれほど他の人の色をうらやみ、他の人の色をまねてみても「いのち」が輝くことはありません。自らが自らの「いのち」を輝かして生きる日暮しを実現したいと思うのは、生きとし生きる者すべての願いでしょう。

しかし悲しいことに、私たちの住む社会には、自らの「いのち」を輝かせて生きる人を、けん制し、邪魔するものが多く横たわっています。私たち自身の心の上で、考えてみますと、ねたみ、そねみ、嫉妬というものが、それにあたるかも知れませんが、なんといっても一番問題になるのは、わたしたちの他の「いのち」を見る目です。

私たちは、赤いもち味の「いのち」うぃ、赤い「いのち」と見、白いもち味の「いのち」をしとい「いのち」と、そのまま見る目をいつの間にか失っています。

藤田徹文著「聞光力 いのちに遇う」より転載 

vol. 3301
「凡夫のすくわれる道」  (2012/2/05 [Sun])
聖者の人は、精進努力して、自分の人生を切り開き、他の人も幸福にし、自らも幸福をつかんでいけますが、凡夫は、他の人をも不幸にし、自らも不幸になっていくのです。

小さな小さな自我に執着して、どうしても他の人の利より、自分の利にこだわり、相手の身になるよりも、自分中心になってしまうのが凡夫です。

凡夫が幸福をつかむためには、小さな小さな自我のとらわれ(我執)を打ち破らなければなりません。そうでないと、永遠に幸福とは無縁の存在とし、その時その場の状況に流されては転び続ける(流転輪廻)の在り方から、脱出する(出離解脱)ことができません。

自我の執われを、凡夫が凡夫自身の手で打ち破ることは不可能です。
なぜならば、教えてもらったことが実践できない上に、少し何かすると、私がこれをやったと、かえって自我を誇り、鼻にかけ、自我の執われを強くするのが、凡夫だからです。

では、凡夫に救いはないのかといいますと、凡夫にもたったひとつ残された道があるのです。私たち凡夫が、自我に執われるのは、本当に信頼できるものを見失っているからです。本当に信頼できるものがあれば、自我に執われる必要もなく、また執われることもないのです。それは、大人も子供も、男も女も、すべて共通です。人間は無意識のうちに、自分の本当に信頼できるものの名を呼びながら、それによりかかって生きています。
本当によりかかって間違いのないものがあれば、「わしが」と、自我に執われる必要もなければ、こだわることもないのです。

母親を全面的に信頼している子どもは、「お母さん、お母さん」と、何かあると母親によりかかり、「わしが」と、自我にこだわることはありません。本当に信頼できるものがあったら、どれほど自我に執われている凡夫でも、自ずから、自我のこだわりから、離れ脱することができるのです。

凡夫のすくいは、真に信頼できるものに遇う以外に道はないのです。では、どこに真に信頼できるものがあるのか、どうしたら、その真に信頼できるものに遇えるのか、そのことを明らかにしてくださったのが、浄土真宗という教えなのです。

『歎異抄』というお書物に、本当に信頼できるものがどこにあるのかを、明らかにしてくださった親鸞さまのお言葉があります。すなわち、

「煩悩具足の凡夫、火宅無常の世界は、よろずのこと、みなもつてそらごとたわごと、まことあることなきに、ただ念仏のみぞまことにておわします。」(註釈版聖典八五三頁)

というのがそのお言葉です。
それは、煩悩具足の私たち人間も、火宅無常のこの世も、つねに移り変わって、いつまでも変わることなく、他の人の信頼に応えられる存在ではありません。どのような状況になっても、信頼に応えてくださるのは,「私にまかせよ」と、「光といのちきわみなき」「いのち」の世界から、呼び続けてくださる阿弥陀さまの声(念仏)のみである、というお言葉です。
   「私の浄土真宗入門」より抜粋

vol. 3300
「今、ここにいる私」  (2012/2/03 [Fri])
キリスト教は、まず神様がおられ、人間をはじめすべてのもの
を創造されました、というところからはじまります。


それに対して仏教は、今、ここに私がいるという
ところからはじまります。ですから、今、ここにいる私が
問題にならなければ、仏教のご縁はできません。
案外、私たちは若いとき、健康な時には外のこと、
他の人の方に目が向いて、自分自身のことは問題にならないようです。


そんな私たちでも、健康を害し、年老い、死というものを意識せずには
おれなくなると、いやでも自分自身のことが問題になってきます。
「このまま一生を終って、本当にいいのだろうか」
「自分の人生は、これで本当によかったのか」
「わがいのちは、どこに往くのだろうか」
など、今、ここにいる自分が問題になってきます。
自身が問題になったときが、仏教に遇う大きなチャンスなのです。


病むことはつらいことです。老いることは、悲しいことです。
死ぬことは生きているものにとって一番嫌なことです。
しかし、その時が「いのち」にとって一番大切なもの、
すなわち、自身のありのままの姿を教え、この「いのち」が、
どこに向かうのが本当かを、教えてくださる仏教に遇うチャンスなのです。
人生にとって、最も大切な時です。


お釈迦さまは、今、ここに私がいるのは、神のおぼしめしでもなければ、
宿命でもなければ、偶然でもないと言われました。
では、どうして、今、私はここにいるでしょうか。
それは、私たちの想像を絶するたくさんの「命」のつながりの中で、
生かされているのだと、お釈迦さまは教えてくださいました。


想像を絶するとはどういうことかといいますと、まず
、私がこの世に生まれてくるの「命」の歴史から考えてみましょう。
両親があり、祖父母がおってくださり、ご先祖がと、
「いのち」の源流をもとめて遡っていきますと、
わたしの「いのち」の源流は、自分では到底わからないほどの過去に遡ります。


そのことを、浄土真宗をお開きくださった親鸞さまは、
私たちの「いのち」は「無始よりこのかた」の「いのち」であり、
限りない「いのち」(無量寿)の歴史があって、
私はここに生かされているのだと教えてくださいました。
また、今、ここにいる私は、どれほどたくさんの「いのち」に
支えられているのでしょうか。これも、私たち想像を絶する
たくさんの「いのち」に支えられているのです。


私たちは地球という小さな星の中だけで生きているのではありません。
宇宙を超えた無辺、文字通り、ほとりがわからないような
大きな世界の中で、生かされて生きているのです。


わが「いのち」を照らし、あたためてくださる「いのち」の
働きを光と仰げば、私たちは広大無辺の世界の無数の光(無量寿)に、
照らされてあたためられて生きているのです。


私の「いのち」は小さくとも、わたしの「いのち」の後ろには、
「光といのちきわみなき」世界があるのです。
今、ここに私がいるのは、「光りといのちきわみない」世界の中で、
数限りない「いのち」に照らされ、あたためられ、支えられて生きているのです。
この「いのち」の事実に立って、私たちは、いま、ここを、
精一杯生きることが何より大切です。


「私の浄土真宗入門」より抜粋

vol. 3299
「良心と共に生きる」  (2012/2/02 [Thu])
≪伊勢白山道≫より転載

「本当の自分と和解すること」、
これが人生の目的だと言えます。


同じ環境に住んでいましても、嬉々として暮らす人、
不満だらけで暮らす人、・・・・色々な人生があります。


その違いを人間は、容姿や仕事・能力・運勢などの違いに
原因を求めがちですが、本当の根本原因ではありません。


これらは、必ず変わって行く要因にすぎないからです。
その人が、自分自身の本心(良心)にそって生きているかどうかが、
その人間の幸福度を決めて行くと感じます。


幼児の行動を観察しても、これは分かります。
人気のあるオモチャがたくさんある部屋に数名の幼児を入れますと、
一人で嬉々として遊ぶ幼児、オモチャを触らずにただ泣いている幼児、
他の幼児ばかりを追いかける子、・・・・ほんとうに色々です。


あんなに欲しがっていたオモチャだらけの部屋なのに、幼児の行動が違います。
つまり人間とは、もし自分の欲しいモノに満たされれば、
自分は変わることが出来ると思うのは間違いなのです。
それは幻想です。


何を手に入れても、不満感・不安感は消えません。


自分の本心を見詰めて、「すでに今の現状の中でも」、
生きていることに感謝をして自分の良心に沿った生活をすることが、
本当の満足感に繋がります。
真の幸福を、その人に呼び込みます。


「生きている」ではなく、
本当は「生かされている」ことが分かりますと、
さらに良いことがあります。


外側ばかりに視点を持たずに、自分の本心を見詰めることで、
自分のするべきことに導かれます。


人間が真に満足できるのは、
自分が何かを手に入れることではなく、
他人に与える喜びを感じることで、自分が何かを心に受け取ります。


だから、得ること勝ち取ることばかりを思う人ほど、
その人の飢餓感と不安感は増します。


逆に、自分の良い気持ちを他者に出す視点を持ちますと、
その人は心が満たされて行きます。


品物を出すことには限界がありますが、
自分の良心からの気配りは、無限に誰でも出来ます。
この、お得(徳)な法則をより活用しましょう。


人間とは自分一人だと思っていますが、
無数の先祖たちの集合体が自分なのです。
これは遺伝子的にも真実です。


先祖の満たされなかった思いを知らずに受けても、
その中でも今の生きる自分が他人へ良い気持ちを出すことで、
先祖たちも自分と共に昇華をしていきます。


これを繰り返すことが良い磁気の蓄積を生み、
自分が本当に改善していく現実力を生み出します。


今日の話の要点は、本当の自分(良心)と和解すること、
今の自分を許すこと、自分にも感謝をすることです。


この世は、コロコロと必ず変化する次元ですから、大丈夫です。


生かして頂いて ありがとう御座位ます


「“今”を大切に生きれば大丈夫です」  (2012/2/01 [Wed])
「今」の連続が未来を形成します。これは、この世の法則です。しかし、多くの人はポッカリと未来が「すでにある」と錯覚をしています。そのポッカリ未来を知ろうとして、貴重な今を悩んでいるのです。今の連続が未来である法則から考えると、その悩んでいる人には、やはり悩んで不安なままの未来が来るのです。
だから、今の自分の現状の中でも、感謝すべきことの気づける人間は幸いです。その人の未来には、気づいた分の「感謝したくなる現実」が訪れるでしょう。幸運が来るのです。

人間には、いろいろな人生の選択で悩むものです。結婚、就職、引っ越し……色々とあるでしょう。しかし、それが人生ではないでしょうか?このハラハラ・ドキドキの選択を経験したくて、変化のない「あの世」からわざわざ生まれて来たのです。「性・老・病・死」の問題からは、誰も逃れることはできません。確実に言えることは、どの道を選んでも問題は発生するということです。それが、この世での宿命です。

どんな問題にも、自分の心まで痛めずに、淡々と歩いていくことで最善の人生となります。自分の選択により、どんなに悩もうが、苦しもうが、大丈夫なのです。なぜなら人は必ず死ぬからです。すべては短い一時のことです。それよりも、絶対に死ねない永遠なる存在である、自分の「心」について心配したほうが良いのです。

人生を楽に生きたところで、短い一瞬のことですよ。目先の消える物事のために心配して自分の心を傷つけたり、感謝不足になるほうが、よほど重大で深刻なことなのです。どんな選択でも大丈夫なのです。自分の良心さえ維持できるならばね。自分の良心が維持できなければ維持できるよう歩く道を変えれば良いだけです。良心には感謝の心、情け心、が必ずあります。この気持ちを忘れずに選択することが、最善へと自分を誘導します。

伊勢白山道著 「生かして頂いてありがとうございます」より抜粋。

生かして頂いて ありがとう御座位ます。

ログイン 保存