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2012年 5月

vol. 3407
「ヨッシャー!」  (2012/5/31 [Thu])
 人間の本当の幸福とは、心の外部にある楽な生活にはありません。
自分の中に産まれた時から元々ある良心に溶け込む事が真の幸福であり、
自分の魂が望む究極の喜びです。

なぜ、現実界で楽を求める生活活動に真の幸福が無いのか?
それは、直ぐに変化する「不安定なもの」だからです。

今は幸福だが、問題が生じれば1時間後には
地獄を見る事があります。 こんな不安定にコロコロ変わる物に
幸福の答えを求めては駄目なのです。
 
人間関係、金銭問題、健康問題、事故・・・などにより
簡単に現実界の生活は影響を受けて絶望もします。
問題が生じる事は、悪いことではありません。

現実界とは、そういう世界なのです。
問題が生じる恐怖に怯えて、事前に見苦しい活動をする事が
今までの宗教組織の活動です。

「起こりもしない事」に恐怖する。
「起こってしまった事」に現実界で与えられている
以外の手段を使用してでも逃げようとする。
これらは、迷いの信仰活動にすぎません。
こんな目先の物事に仏様はまったく干渉しません。
 
つまり、現実界の生活に幸福を求めて努力する事は大事ですが、
それに執着せずに「楽しむ」事が大事なのです。
貧乏ならば貧乏を苦にせずに、貧乏のなかで工夫して楽しむ。

貧乏により心(良心)を痛めれば、本当の負けです。
人生の真の意味での負け、魂の負けです。
どんなに苦しくても、心には苦しみを渡さない。

苦しみを「眺めながら」自分が出来る努力をする。
努力する中で、そもそもこの様な喜怒哀楽を
体験できる事自体が有り難い事ではないかと、
日常生活の中で感謝する事が出来る人は、人生の勝利者です。

すると、本人に気付きをもたらす為に作用して来た、
悪循環の因縁が切断されます。
現実界での苦の現象は、物理的に消えて行く事に成るでしょう。

自分が避けようと努力しても自分の身に起こる事は、
苦しみも良い事も全て受け切る決断をし、
たとえ転んでも感謝の心で受ける決意をすると、
苦は去って行くものなのです。
 
生かして頂いて ありがとう御座位ます
 
伊勢白山道より転載

vol. 3406
「あなたは一人では無い」   (2012/5/30 [Wed])
母親が、小学生の我が子の友人関係を物陰から見ていて、
嫌がらせをされていれば自分が直接受ける
以上に影響を受けて悲しみます。
親の愛情とは、本当に有り難いものです。
子供は、母親が自分と共に苦しんでいたとは
夢にも思わないでしょう。
これと同じ事が、親の無い子供にも言えます。
自分の子供の姿さえも見られない親の苦しみは、
想像を超えます。
色々な事情や事件により、
親を知らない・親がいない子供がおられます。
学校の周りの同級生を見て、
親が居ない事の試練を経験します。
一緒に住んでいる親でさえ、離れるほんの半日間の
子供の状態を陰から心配するのです。
まして会うことが出来無い親にとっては、
子供を忘れる事は有り得ません。
それは、仏様が決めた生き物の本能(法則)だからです。
あの世に行っても、子供を観ています。
また、どんなに親子で憎しみ合おうが、
これも縁が深い故の事です。
切れない物が在るから、お互いに苦しむのです。
 
人間は、先祖への感謝などをしなくても生きて行けます。
しかし、陰で自分と共に喜怒哀楽をしてくれている存在が、
すべての人に必ず絶対に居る事を忘れては生けません。
この世は、ある面では恐ろしいほど単純な世界でもあるのです。
縁の下の陰で協力してくれている人々に、
自分がそれを知らないからと無視をしていれば、
協力者が離れて行くのは普通の道理です。
会社内でも色々とあるものです。
だから、自分に縁が在る人々には、
全てに感謝をしておけば間違いは無いのです。
先祖などが居るのか分からない、
ましてや協力してくれているのかは分からない、と言う人は居ます。
しかし、上記の親子の思いを見ても、先祖が子孫を
気に掛けていると考えた方が理に叶うのです。
あの世に自分が行ってから気付いても遅いのです。
可能性の在る事には、感謝の習慣を持つのが素直な態度です。
素直さは、やはり自分の得(徳)と成ります。
さあ、あれこれと深く考え悩むよりも、今日も淡々と仏様、先祖、
いつも自分と共にいて下さる心の中の良心(内なる仏様)に感謝を思いましょう。
 
この世は、全てが振動している世界です。
つまり、動き続けて変化し続ける世界です。
あの世という確定し固定化された世界では無いのです。
だから逆に、物事が好転するのは簡単な事なのです。
 
生かして頂いて ありがとう御座位ます


伊勢白山道より転載

vol. 3405
誰もが自分の善性に負かされます       (2012/5/29 [Tue])
いよいよ死を迎えようとする人の多くは、
「もっと他人のために出来る事をしたかった」と、
誰もが心から思っているそうて゜す。
そして、清らかな涙をボロボロと心の中で流しているとも。
どんな悪人であろうと、犯罪者であろうと、善人であろうと、
素直にそう思える様に成るのです。
この時の本人の状態は意識不明などであり、いよいよ肉体が弱り、
自我が強制的に薄れ始めているのです。
どんな人間も、自我と言うカラ(空:まぼろし)を一皮むけば、
そこに現れるのは仏性・良心なのです。
そして、公平な仏性・良心の視点から、
今回の自分の人生を自分の良心を通して
振り返る四十九日へと入って行きます。
 
この真理を知っているだけで、会社で理不尽な人間が居ても、
「気の毒な人だなあ」「損な人だな。
自分自身をいじめているなあ。」と、
あまり腹も立たずに静観することが出来るものです。
ただ、善悪が本人に反射する時間が見えないだけに、
静観がしにくいのは確かです。
どんな職場にも、学校にも組織にも、嫌な人間は絶対に居ます。
どこに逃げても、必ず居ます。
家庭にも居るかも知れません。
これを避けようとして、自分自身が右往左往するのが一番損です。
ただ、自分も心に仏性・良心を持つのですから、
自分の心を傷めるのだけは避けましょう。
そして、どんな環境の中でも、自分の心だけは
守ろうと決意をしている事が大切です。
嫌な事に遭っても、自分の心までには響かせない、
届かせさせない、と決意することが誰でも出来ます。
ただ、こんな仕組みを考えた事も無い人が多く、
他人から傷付けられています。
 
このような自分の心を自分で守る意識を持たなければ、
自分にとって嫌なことが有れば、いつまでも引きずって
心の中で反芻(はんすう:繰り返し執着すること)してしまいます。
最終的には、自分の心を傷付けるのは、

嫌な他人では無く、それを自分の心に「受け取った」自分自身なのです。
人間は、性別を超えて母性と言うものを求める本能を持ちます。
母性(仏性)とは、与える一方の存在だと自分の魂は本能で知っています。

子どもは昆虫や植物を「育てる」のが好きです。
親は子供にたくさん「食べさせる」ことは嬉しいものです。
これらも、人間が持つ母性(仏性)の一部の発露なのです。
自分の心に、嫌な感情を受け取らずに、
思いやりを配る体験をさせて行きましょう。
そうすれば、必ず自分の心の仏様が発露して、
見える現状が変わり出します。
あなたは仏様と共に生きる人と成ります。
 

生かして頂いて ありがとう御座位ます
 

伊勢白山道より転載

vol. 3404
心の頑固さは不運のヨリシロと成ります       (2012/5/28 [Mon])
今年に入ってから幻視する光景の1つに、山崩れがあります。
日本全国の山々や丘陵斜面において、
地すべりや亀裂が入る光景です。
これらの原因は、今の新潟県上越市で実際に起こっています
雪解け水の地下水による影響とは違い、
これから全国で土の結束力が低下していくためだと感じます。

これの原因は、太陽電磁波の増大と関係するのを感じます。
土が長期間にわたり強い太陽電磁波にさらされますと、
サラサラな土へと変化していく感じです。
土同士の結束力が解かれる感じがします。
 
これは人間にも言えると感じます。
長い世紀にわたり凝り固まってきた人類の遺伝子が、
これから太陽電磁波により強制的に解かれて行くのです。
これは逆に言えば、自分の頑固な気持ちには要注意です。
自分自身に頑固さが在れば、これが解かれるような動きが
生活の中で起こり始めます。
自分では気付いていない頑固さが在れば、
これが破壊される体験は苦痛かも知れません。
 
今、心が苦しい人は、自分に頑固さが隠れていないか?
を注意しましょう。
もし頑固さを発見できれば、それを自分で解放する・手放すことで、
心の苦しみは解かれて行きます。
だんだんと心が楽に成るのです。

心の頑固さは、太陽電磁波の影響を受けるヨリシロとこれから成ります。
だから心が素直であれば、太陽電磁波の影響も受けません。
 
これからの社会生活では、
1.自分で頑固さを取り除き、
2.素直な視点を持つことが、
色んな社会的な成功や発見・発明に繋がると感じます。
幸運への道を、自分に教えてくれるでしょう。
素直な気持ちは、悪因縁や不運からも解放させます。
取り憑く島が無くなるからです。
また、臨機応変な心の柔軟さをもたらします。
逆に、頑固な気持ちは、色んな不幸や不運な
現象を引き寄せますので注意です。


生かして頂いて ありがとう御座位ます


伊勢白山道より転載 

vol. 3403
「これでいいのだ〜!」    (2012/5/27 [Sun])
小学生の頃、「天才バカボン」の漫画を良く読みました。
TV版の方も楽しみにして見ていました。 
漫画本とは少し違う感じがありましたが、両方とも好きでしたね。


旅館などに行くと、浴衣の帯をわざと胸の辺りに巻いて、
バカボンゴッコもしました、笑。
ただ、子供の当時でも感じていたのですが、
バカボンパパの目が怖いと思う時がありました。 
隠れた狂喜を持っていたからです。 
そして、その目は作者の赤塚さんと同じ目でした。
 

彼は、幼少から成人するまで苦労されたと感じます。
貧乏、家庭の寂しさ、引越しにより受けた学校でのイジメ・・。
特にイジメに関しては、心に傷を負ったと感じます。
本当に心が優しい故に、深く傷付いた様です。
でも、ホガラカさを失いませんでした。
その自殺をしたい様な苦しい幼年期を経験したからこそ
後年のギャクへの下地が出来たとも言えます。
苦しさを通り越すと、笑うしかない。 
と言う狂気を含んだ逞しさや、
極限に潜む笑いを垣間見られたのでしょう。
 
将来、出世する人には、朗らかな人物が多いです。
どんなに貧乏で苦しい境遇でも、朗らかな人は大丈夫です。
それだけ、心が広く強いのです。 
常人よりも良心が表に発露している人とも言えます。
ただ、朗らかさとは、天性のものなんて無いです。
辛い事は辛いものですから、
それに負けずに心を朗らかに努力した人なのです。 
決して受身で授かるものではありません。
 
「これで、いいのだ〜〜」・・・バカボンパパのこの言葉は深いです。 
赤塚さんが垣間見られた心の境涯が、この言葉だけで分かります。
圧倒的な全肯定です。 親鸞聖人にも通じる境涯です。
今の、あなたのままで、良いのです。
ただ、何をして遊ぶかだけです。 
二度とないこの世を後悔なく良心が
喜ぶように自分のいのちを精一杯生き切る・・・。
 
生かして頂いて ありがとう御座位ます
 

伊勢白山道より転載

vol. 3402
供養も愛情表現の1つです       (2012/5/26 [Sat])
私たちは社会の中で生きていますと、自分が生きるのに懸命なゆえに、
自分が持つ愛情や思い遣りを縁ある人々に表現するのがヘタです。
形にしたところで気恥ずかしさがありますし、
他人の視線や受け取り方を逆に気にしがちです。
特に日本人は苦手な感じがします。

でも、人間は何か日々の生活の中に、
他への愛情や思い遣りを表す行動を、
忘れない為に形にした方が良いと思います。
仕事や家庭の中で誠意を持って人に向き合うのも
大切な表現の1つですが、理解をされるのに時間を要しますし、
誤解を与える場合もあります。

父親などは家族の為にと秘めた思いで仕事を頑張っていても、
家族には煙たく嫌な存在に成っている傾向があります。
父親が居なくなれば、後で父親の思いの
有り難さが理解される事もあるでしょう。
 
日本の職人は、教えを細かく受けずに
「見て学べ」とは良く言われます。
本人の個性を持ちながら自然と身に付ける事が、
最初は時間が掛かるが将来はオリジナリティを
持つ意味が在ると思います。
最初からマニュアルで細かく型を押す様に学びますと、
本人の持ち味が消えてしまい、時間が経過しても
規格的な物しか出来無い感じがします。
要は本人が伸び無いのです。
 
毎日、もの言わぬ先祖や仏様に対して、数分でも
行動と感謝の思いを捧げる事は、これも自分の愛情と思い遣りの
行為を発露させる練習と成ります。

無言の相手に対して、自分成りに出来る事に意味が在るのです。
無言の相手に継続が出来るとは、
「自分自身を見つめている事」でもあります。
自分の中の愛情=良心が、必ず表面へと発露をし始めます。
自分で日々実践した行為は、
良心へ至る自分オリジナルな道へと誘導します。
職人が自分で見て学ぶがごとく、
心の高みへと行く事が出来るのです。

この時に道を間違わない為の灯明は、
「生かして頂いて 有難う御座います」の心境で進む事なのです。
自分の生活の中で、感謝の思いを置いて行きましょう。
生かして頂いて ありがとう御座位ます


vol. 3401
流れを眺めて生きる       (2012/5/25 [Fri])
この世のすべての物事は、必ず変わって行きます。
良い事ばかりも続かないし、悪い事も続かないのです。
これを忘れて「こだわり」始めますと、悩み始める事と成ります。
必ず変わると言う事は、決して嫌な事ではありません。
希望が持てます。

深い意味では、仏様からの救済であるのです。
結局は、変わってしまう物事に捕獲されないで、
永遠に変わらない心=仏様に帰っておいでねと言う意味が在ります。
 
子供の頃は、日曜日の夜が嫌いな人が多かったと思います。
毎日縛られた規則正しい生活をしていますと、
楽しい休日の最後の時間帯とは嫌なものです。
「明日から学校か〜」と成ります。

長い夏休みが終わる最後の休日などは、特に悲惨なものです。
社会人でも、日曜日の雨降る夜にウツに成る人が多いと感じます。
この様な事は、楽しい事が終わる・失うと言う恐怖感が在るのです。
しかし逆に言えば、また週末が来るのが楽しみに成ります。
やはり執着をしない希望を持つ事が大切です。
失えば、また持てば良いだけの事ですから。
 
男女の仲などは、コロコロと変わって行くものです。
切りがないのです。
相手の収入、変化する肉体、立場、環境。。。
こんな物を相手の一部だと思って選択していれば、
必ず後で後悔します。
必ず変わるからです。

この世で変わらないのは、心が「在る」と言う事です。
表面の意識も善悪にコロコロと変わりますが、
どんな人にも「心が在る」と言うのは永遠に不変なのです。
だから安心すれば良いです。
何がどう有ろうと、自分の心は死ぬ事が出来ないのです。
成功も失敗も、時と共に変わり、必ず消えて行くのです。
 
でも、分かっていても悪い事を止められない、いや、
悩んでしまう自分が嫌に成る人も居るでしょう。
しかし、それで良いのです。
だからこそ、この世は面白くて貴重な次元なのです。
その中でも、現状の今に感謝をする事です。
どんな状況であろうとも、生かされている事に感謝をする為に、
私たちは生まれて来たのです。

これが仏様が創造した最大の芸術=人間の行き着く答えなのです。
現状に感謝をしながら、その中でも精一杯に
生きて楽しむ姿を仏様は観たいのです。
苦難の中でも、生かされている事に感謝ができれば、
仏様は応援してくれます。 
生かして頂いて ありがとう御座位ます。


vol. 3400
「思いやりが全て」   (2012/5/24 [Thu])
毎日、たんたんと仏様にお仏飯を供える。
見る事も出来ない仏様やご先祖に対して「これが良いかな?」と、
わざわざ買って来た線香を捧げる。

もちろん何も応答は無く、
「見えない存在」に対して一人で向き会う自分がそこに居ます。
見えない存在への「思いやり」を持てる事ほど、
高度な知性と霊性を有する証拠です。
無反応な見えない存在に対して、
この行為が継続できる事が素晴らしいのです。


そこに「道」が生じているのです。
想像力の無い動物には、絶対に出来ない行為です。
人間でも、目の前の事に機械的に反応するだけの
「動物的な生き方」の人間には、とても無理な行為です。
 
この現実界とは、「行為」が大切な次元です。
家に居ながら、想像力で通勤して働いたイメージを持てば、
出勤した事に成り給与が貰えますか?
ただの欠勤にしか過ぎません。
「嫌々ながら」でも雨の中でも通勤し、
頑張って働けば、給与が貰えて生活できます。
嫌々ながら通勤したからと言って、
給与が与えられないことは無いのです。
日々の仏参と先祖への感謝も、
たんたんと行なう「行為」が全てです。
それ以上の進展も何も無いのです。

この感謝は、本心からでは無いのに・・・、とか。
通じているのかな・・・?などなどは、まったく心配無用です。
仏様や先祖の皆様へ手を合わせることを継続していれば、
自分の心は、その時々で必ず変化して行きます。
心の本質は絶対不変なモノですが、
心が居る次元が変わって行くのです。
自分が今、ここに存在するのは、
多くの知らない先祖たちの連携プレーの御蔭であるのは
否定しようが無い事実です。
自分が知る先祖の数など、たかが知れています。
この「命の綱渡り」をアタリマエとしては生けません。
思い遣る想像力があれば、見えない先祖やご縁の
ある周りの人たちに感謝せずには居れないのが、
「思いやり」の在る人間です。
思いやりが在るといことは=仏様が心に在る、と言う事なのです。
心の中から仏様を失くしては生けません。


生かして頂いて ありがとう御座位ます


伊勢白山道より転載

vol. 3399
「素直で純粋な自分を生きよう」  (2012/5/23 [Wed])
人間とは、全員が自分自身の「良さ」に気付けないように
出来ているのではないでしょうか。
人間が自分で気付けるのは、自分の嫌なところばかりのようです。
どんな人も同じです。
自分はダメだ。
自分は汚い。
自分はアホだ。
自分は何をしても不幸になる。
 

このように一番に自分をイジメている犯人は、
他人では無くて自分自身です。
本当にイジメる他人がいても、
それを受け取って自分の心に「響かせた」のは、
やはり自分なのです。

 では、自分の「良さ」とは何でしょうか?
人間の良さとは、やはり良心(内なる仏様)を宿すことです。
生きる人間から仏性が去る時は、その人は死にます。
これは、亡くなった人の顔が生前とは別人のように変わる理由です。
良心(内なる仏様)が抜けた人間とは、本当にただの物体と化しています。

 今週は多くの人々をながめる環境に居ますので、
つくづくこのようなことを考えていました。多
くの人は、自分が宿す良心(内なる仏様)などに気付いていないし、
他者から言われても別に信じられないでしょう。


 しかし、自分の生活の中で、自分なりに自分の
良心(内なる仏様)を静観する気持ちを持てば、
段々と誰でも分かり出します。
先ず、何気ないアタリマエのことが、
すごく有り難いことだったことに自分でふと気付き出します。


 聖書に在ります、「求めよ、さらば与えられん」とは、
まさにこのことです。自分の心に神を求めれば、
誰でも神様の発露が始まります。
すると、求めても与えられなかったコノ世の物事が、
急に向こうから来ることも起こります。
しかし、これを目的にしますと、
直ぐに内なる仏様は隠れるという面があります。


 仏様が伝えたいことは、コノ世だけの「短い期間」の
物事(金・仕事・異性・栄華・・・・)に「捕まるな」ということなのです。
そんな直ぐに消える物事ではなく、
自分の永遠性(仏様)を求めなさいということなのです。


 コノ世だけの物事に「執着する」ことのムダに気付かせるために、
内なる仏様は直ぐに隠れます。その魂のためなのです。
あえて挫折も体験させます。


 もう十分に嫌なことは体験したと思える人は、
今から自分の心に仏様を求めることです。
今までは他所や外に仏様を求めていたから、
自分の心の仏様が隠れていただけです。
金環日食も終わりましたから、こ
れからは自分の心の
「天の岩戸開き(素直で純粋な心、良心の開花)」が
起こりやすく成っています。

生きてさえいれば大丈夫です。全員の心の花(良心。
内なる仏様)が開花を始めます。


生かして頂いて ありがとう御座位ます

伊勢白山道 より転載

vol. 3398
魂の核     (2012/5/22 [Tue])
今、生きている人生は、最初で最後、1回切りのものです。
2度と無い人生です。 全く同じ状況、
条件で誕生する事は2度と有りません。 


体験する地球の舞台も絶えず変化していますし、今生の肉体は、
今回の両親の元での地球の誕生以来の初めての肉体です。 

前の世の肉体とは、違います。
各人の魂は、輪廻を繰り返しますが、
それぞれの人生毎の肉体は1回切りです。 
魂も、100%そのまま、転生するものでは有りません。  

また、私達の魂の輪廻する不変、
生き通しの部分である、魂の核は存在します。 
その魂の核は、現実界での人生を経験する毎に、
大きく成ったり、傷付いたりします。
 

輪廻転生は、無い。 と、考える方は居ます。
厳密な意味の、全く同じ状態での転生は2度と有りません。
絶えず、何かが変化していますので・・・。


つまり、前の世がどうで有ろうが、未来がどうで有ろうが、
今、の自身の状態が全てです。
大昔の前の世で自身が偉かった事や、
将来に出世すると予言されようが、関係ありません。
今の状態が、集大成です。 多くの前の世の結果が、今。
今、が惨めで辛く悲惨と感じるならば、今の状態を見つめながら、
改善を自分が思う通りに努力すれば良いです。


ここで、近道、楽な道を探そうとして、
ご利益や迷信や占いに頼ろうとしては生けません。
そういったものに依存しても、御自身の魂の核の成長には何も成りません。
生かされている感謝を基準として、自分がコツコツあきらめずに
努力を継続して謙虚に生きることです。努力の積み重ねは、
絶対的な大きな他力を産み出します。


見えない世界からの大きな後押しである仏様やご先祖様の他力は、
自分が目標を持って自助努力した自力からのみ生まれます。


生かして頂いて ありがとう御座います


伊勢白山道より転載 


vol. 3397
「誰が呼ぶ悪人と」  (2012/5/21 [Mon])
親鸞さんは「善人なおもて往生す、いわんや悪人をや」と言いました。
つまり善人は、よりいっそう成仏できます。
だから、悪人は言うまでもなく絶対的に120%確実に成仏できます。
と言い切りました。
これを当時聞いた人々の中には悪事を働いて、
これは浄土へ行く為だと嘘ぶいたと言います。
これが社会問題になると親鸞さんは、
「良い薬があるからと、毒をわざと飲んでは生けない」と言いました。
 
私が感じる親鸞さんの真意は、「認識と自覚」です。
自分の事を悪人だと「自覚」できる人は素晴らしい人です。
もう既にそこには、反省と懺悔が有ります。
同じ様な悪事でも、Aさんは「悪い事」だと思うが、
Bさんはそれを「普通の事」だと思う。
世の中には、大小含めてこんな事が沢山あります。
町内のゴミ問題1つでも、人により罪の自覚すら無く、
何が悪いのかさえも気が付けない人はいます。
親鸞さんが意味した悪人は、自分自身で悪人だと
自覚する悪人であり、他人から指を指される悪人では無いのです。
自分自身で自分を悪人とするのか、
他人からされるのか、天地の開きがあります。
 
この現実界は、何が正しい事なのかを
知る事が大変に難しい次元です。
お釈尊様も「正しく物事を捉える」ことの難しさと、
その重要性を説いています。
これを誤ると、知らない内に罪を犯して悪因を作ってしまい、
来世にも影響すると示唆しました。

では、どうしたら良いのか?先祖への感謝と仏様へ
感謝する気持ちを維持し、自分に巻き付くマイナスの
磁気を軽減させる中で、
自分の心の「良心」に従って生きて行けば良いのです。
罪を犯したと自覚するならば、
それを上回る善を成せば良いだけの事です。
他人に喜ばれる事を、家族をも含めて実行して行ければ最高です。
 
この旅の道中で、見えない存在をも癒して行けるならば、より最高です。 


生かして頂いて ありがとう御座位ます


伊勢白山道より転載 


vol. 3396
「自分の心を納得させることが大切」  (2012/5/20 [Sun])
3・11大震災から1年以上が経ちました。
大自然からの干渉により亡くなるとは、
その魂には特別な恩寵(おんちょう:プレゼント)が働くことを、
今回の大災害でも良く感じます。

このことはチベット密教の経典にも明記されています。
大いなる存在(大自然)による強制干渉の死とは、
特別な現象なのです。
考えて見ますと、人間は必ず死ぬのですが、
その引導が大自然による強制という状態も、めったに無いことです。

しかも、何とか生きたいという思いの中で、死んで行くのです。
中には普段から自殺を考えていた人もいるでしょうが、
最後の引導が大自然というのは、
やはり特別な「魂の自己納得」を引き起こしています。
 
自分の魂が納得できるのか?できないのか?
これは、すべての人間の死後に影響する重大なポイントです。
相手が大自然ですと、やはり「仕方がなかった」
という思いの過程が魂に起こります。
これが人間同士の個人干渉による死ですと、
やはり死後も納得が出来ずに執着を起こします。
これが次の転生(魂の旅)にも、自分で固執した選択をさせます。
 
人間は自殺以外の死ならば、全員が根源生命の元へと帰るのです。
大震災により亡くなった魂は、生きる人間が思う以上の
涅槃(ねはん:安心・安定・浄土)に居るのが、私の脳内での真実です。
これは無理な想像ではなく、素直に感じています。

遅かれ早かれ、自分たちも死ぬことを忘れては生けません。
自分(良心)が納得できる生き方をすることが、
死後の大安心に繋がります。


生かして頂いて ありがとう御在位ます。
 

伊勢白山道より転載

vol. 3395
「パターンに拘束されるな!」  (2012/5/19 [Sat])
それぞれ各人は、自分自身の現状の中で生かされています。
他人の現状の良し悪しを見て、自分の
現状を変えようと悩んだり不安に成っては生けません。
では私たちは、どうすれば良いのか?
要するに、自分の現状から離れてはダメなのです。

この世は、自分が生かされている「現状への感謝」を忘れますと、
迷いへと導かれる世界なのです。
自分を信じられなく成ると、不幸が始まるスイッチが入る世界です。
自分の心の中の仏様(良心)から、離れては生けません。
 
良く考えて欲しいのは、これから成功する人は、
現状からいきなり飛び越えて成功するのでは無いのです。
自分の現状の延長線上に成功へと行き着くのです。
だから、今の現状へ感謝をする事が不可欠であり、
今の現状への感謝の強さが将来の成功の大きさを確定させます。
現状への感謝が不足する人間は、この世の悪いパターンに縛られます。
決まった「運命と言う幻想」に拘束されるのです。
先の運命などは、ありません。
自分が歩いた結果が、運命と呼ばれる過去形の軌跡です。
 
すべて先に起こる事が決まっていると言う人が居ますが、
それは悪いパターンから抜け出せないだけの
「意識が寝ている」人の事です。
今の現状でも、「それでも自分は生かされている」と言う視点を忘れずに、
生かされている事への感謝想起と、仏様やご先祖様を敬う
感謝の信仰を持つ事が自分の悪いパターンの拘束を切断し、
既に内在する自由へと至らせる道です。


生かして頂いて ありがとう御座位ます


vol. 3394
「悪人正機」  (2012/5/17 [Thu])
偽善でも他人のためのボランティアが出来る人は、偉いと思います。
ただの机上の評論家よりも、実際に他人のための行動を「行う」
「この世に刻む」ことが出来るのは尊いことです。

ただ、後で何かを他人に要求すれば、
それはボランティアでは無くて詐欺です。
これが無い限り、他人のために成る行動は素晴らしいと思います。
自分から良心に基づく行為を与える一方通行であれば、
どんなボランティアでも良いでしょう。
結局は、自分自身との対話なのです。

親鸞さんは、「善人なおもて往生をとぐ、いわんや悪人をや」
つまり、善人でさえも往生できるのだから、
悪人は必ず成仏が出来ると言われました。
これの意味は、自分の罪を自覚して反省が出来るならば、
その人は普通の何も考えていない人よりも心の成長が出来る。
更には、自分の罪のための反省からボランティアが
「継続」出来たならば、自分の犯した罪以上の善行を
成すことも可能だということです。

親鸞さん自身は、自分のことを振り返って考えて、
「浄土真宗に帰すれども、先人の色んな良い言葉は
確かに有り難く素晴らしいと思う。
しかし自分は、いまだに見せ掛けだけであり、心も汚いままです。
色情にも苦しみます。」と自分自身のことを反省されています。

そして、「自分の過去を考えると、地獄こそが自分にふさわしい住まいだ」
とも自覚しているのです。
ここからが真の問題であり、親鸞さんは、
「“だからこそ”自分のような人間は、
自分の心に阿弥陀如来をひたすら求めるしかない人間だ」
「せめてもの罪滅ぼしに、他人に良いことをするしかないんだ」
と深く自覚します。

だから、自分の罪を自覚出来た人間は、
人生のトータルでは善行が勝ることに至ります。
偽善のボランティアなどムダだと評論している人間は、
結局は何も成さないで終わります。
生きる間は、親孝行も出来ないものです。

しかし、親が死んでから反省が出来れば、
その人は熱心に先祖供養をするものです。
親への反省を「自覚」出来た縁が、
その人を先祖供養という善行に導くのです。
これは真に親を助ける親孝行に成りますし、
さらに大切な神仏へと繋がる縁を持つことにも成ります。
すべては、反省を自覚出来たからです。

罪の自覚や反省など、一見は暗い言葉に思われるでしょうが、
これを「明るく」「前向きに」受け取ることが大切なのです。
必ず明るい方向に進んで行くことが出来ます。


生かして頂いて ありがとう御座位ます。


伊勢白山道より転載

vol. 3393
「静観は近道へと導きます」        (2012/5/16 [Wed])
生きていれば色々なことが有ります。
これも、「生きているからこそ」です。
限られた人生時間の中で起こることは、避けようとして悩むよりも、
自分が出来る最善を尽くした上で静観をすることが大切です。

起こる事は、目に見えない縁の集積により起こります。
芽(め)を出してしまった嫌な縁は、
「静観するのが1番早く通り過ぎる秘訣」なのです。
この秘訣を知らなければ、右往左往して余計な深みにハマり
、嫌な芽を増々育てる肥料と成ってしまいます。
出てしまった嫌な芽を、いまさら分析してもムダです。
今後に繰り返さない注意として、
覚えて置けば良いだけのことです。

この世で出た嫌な芽は、昇華(しょうか:無害なものへの変化)
するまでの時間が必ず必要です。
この世で「生まれる」「発生する」「出る」とは、生命であれ、
事態であれ、社会問題であれ、いったん出た限りは、
消えるまでの「時間」=生命を次元(仏様)から与えられるのです。
この世はある意味、「有限な時間」=生命をすべての存在が与えられる世界です。

だからどんな嫌な事も、期間限定に過ぎません。
だから、最終的には全員が大丈夫に成ります。
そして、「時間が無い」次の次元へと旅(死)をします。
せっかくの時間が在る世界では、
何が有っても心(良心)を傷るほど悩まないのがお得です。
必ず区切りと終わりが来るからです。
だから死んでも楽しむ視点は大切であり、生き方の究極です。
 
嫌な事があるならば、黙って静観をするのが
1番早く因縁の昇華をするのを助けます。
これは、自分にとっての嫌な他人にも、
静観する視点は非常に有効です。
相手が、だんだんと苦に成らなく成ります。

静観(せいかん)とは、
1:静かに観察すること。
また、行動を起こさずに物事の成り行きを見守ること。
「しばらく事態を静観しよう」
2:事物の奥に隠された本質的なものを見極めること。
 
静観を正しく、「明るく」自分の視点に持てれば、
この世はかなり生き易い世界へと変わって行きます。
知って置くべき、法則の1つなのです。


生かして頂いて ありがとう御座位ます
 


vol. 3392
悩む前に動きましょう       (2012/5/15 [Tue])
人間が1番不安な状態に成るのは、
自分がするべき行動・出来る行動をせずに、
自我(じが:我れ良し)の思考におちいっている時です。
何もせずに、ただ疲れ果ててしまうものです。
いくら寝ても、モヤモヤ感や疲れも取れません。
実際に、このようなときの自分の体が持つ、
生命磁気の漏電とは凄いものです。
良い磁気が枯渇しますので、
さらに運気が下がる悪循環が始まります。
 
こういう時は、その逆をすれば良いのです。
1。目の前の出来る事をしましょう。
何もすることが無ければ、掃除が1番良いです。
禅の本質は、作務(さむ:作業をすること)に在ります。
作務が禅の本質です。
掃除・洗濯・料理・食材の確保・・・このような作務の作業の中で、
見性(けんしょう:自分の心に仏様が内在することを知る)
を重ねて行くのです。
だから皆さんも、自分の現状生活の中で見性体験をする
気持ちで生活をすれば、それは禅を実践していることに成ります。
作業する自分を観察していくのです。
これは思考だけでは、理解できません。
作務をするしかありません。
 
2。作業しながら自分を観察するなんて、
なんか難しくて分からない。
と思われることでしょう。
またどうしても、作業以外の余計な
心配や物事が浮かんで来るものです。
このような時には、肉体に作業をさせながら、
心にも作業をさせるのです。
それは、「生かして頂いて ありがとう御座位ます」と
心中で繰り返しながら作業をすれば良いです。
「生かして頂いて ありがとう御座位ます」とは、
健康な日常でも生死を意識することです。
なんと大げさなと、思われることでしょう。
しかし、人間の苦悩や悩みは、自分が明日にも死ぬことを、
忘れているから生じるのです。
長くまだまだ自分が生きることをアタリマエだと思うから、
先々を想像して苦悩するのです。
でもそれは、幻想です。
 
健康な間から生死を意識して物事をながめますと、
嫌なこだわりや執着が消えて行きます。
また、少しでも物事を楽しもうとする気持ちが湧いて来ます。
さらには他人から嫌なことをされても、冷静に見られますし、
相手を気の毒にさえ思えるようにも成れます。
そして、日常の生活の中の何気ない有り難さに気付くことができます。
この時に、見性体験をしています。
 
3。上記のことも出来ない時は、
自分だけの事を考えないようにすれば良いです。
わざと自分以外の家族や他人の事を考えてあげるのです。
他人への思いやりの思考から出される磁気は、
結局は後で自分自身を助けることに繋がります。
 
すべては必ず変化して行きます。
だから、絶対に大丈夫なのです。
あなたの心だけは、仏様と共に永遠に存在します。
なぜなら、それしか「実在」していないからです。
 
生かして頂いて ありがとう御座位ます。
 


vol. 3391
どんな経験も恐れるものでは無い  (2012/5/14 [Mon])
生きている人間の最大の盲点は、自分が世に生まれた
奇跡をアタリマエの「前提」にしていることです。
誰も奇跡だと認識していません。

この世に発生するとは、偶然で起こる確率ではすでに無いのです。
偶然では起こらない事なのです。

生まれるには、自分の意思と、生まれ出る原因が在るからです。
原因は、個人で違います。

そして、「生まれ出るには条件」が有るのです。
魂が受肉するには、子孫が生きている「家系」を
使用せざるを得ないのです。地面の畑では無理なのです。
生きる子孫が居る、どんな家系の先も
根源なる仏様1つに繋がっています。
すべての家系の先は、仏様へと繋がっているのです。
正しい先祖への敬いは、1つなる仏へと繋がる一番の近道です。
 
仏様から発散されるエナジーが、「家系のDNA」を降りて来て、
生きる人間の男女へと常時接続されています。
そして、2つの家系のDNAの接点(性交)の火花が、
新たに生まれる魂の肉体の元と成ります。
阿弥陀様のエナジーが家系のDNAを下る過程において、
男女という+-陰陽の2種類のエナジーに変換されます。
そして、それが次元をくぐった後の現実界において出会うこと(再会)で、
元の仏の姿が現実界で再生(出産)されます。
ここで、魂が「生まれる条件」とは、肉体を家系から借りる条件のことです。
タダでは無く、交換条件があるのです。
肉体のリース料金です。
それは、家系の遺伝子(家系の遺伝子)から肉体を借りる代わりに、
家系のDNAを構成「した」過去の先輩たち(先祖)の
「残した良い思いも悪い思い」も背負って生きるということなのです。
 
この家系のDNAに残存する先祖の思いの大きさや中身は、
家ごとに違います。
魂は、リース料金の明細を認知した上で、全員が肉体を借りています。
条件を呑んだ上で生まれているのです。
それでも、自分の魂は生まれ出たかったのです。
色んな家系が在ります。
先祖の思いが残存する間、つまり借りた子孫が感謝で
昇華させない間は、リピート再生を現実界で次の子孫も繰り返します。
親が自殺すれば、子供も同じベクトルが作用する。
母親が愛人のまま未婚で終われば、
子孫の女性も同じような人生に向くベクトルが働く。
などの色んなリピート再生の「負荷」(ふか:背負うこと)が継続します。
 
だから、もし今の自分に嫌なことが有れば、
逃げることを考え無いことが大切です。
それこそ昇華のチャンスなのです。
昇華の方法は、
1:感謝の気持ちで受け切る意思を持つ事。
2:嫌な事を感謝の気持ちで「静観」して、感謝の磁気で溶かす事。
これが早めに先祖の負荷の思いを昇華させます。
本当は、子孫を生かしたい先祖の良い思いの負荷の方が大きいのです。
だから子孫は生きているのです。
感謝で先祖を敬うことにより、先祖の苦しい思いが減るにつれて、
家系のDNAの血流が改善して、この世での自分の思いの実現力が増大します。
自分の良心に沿った希望は、「努力により」必ず叶えられ始めます。
 
たんたんと、先祖への感謝をしながら、後は白紙の現実界を頑張ることです。
過去の思いの負荷が減るにつれて、自分の魂が持つ本来の動きが出ます。
この世は幻のように、簡単に変容する次元です。
だから最後まで、あきらめては生けません。
 


生かして頂いて ありがとう御座位ます。

vol. 3390
「一生懸命生きておればこそ  (2012/5/12 [Sat])
ドキュメンタリー番組で、貧しい外国の漁村に住む幼い少女が、
唯一の照明であるランプに油を注入するときに発火し、
上半身に大火傷を負いました。


その火傷は重症であり、顔の下あごの皮膚と胸の皮膚が
全面的に溶けて癒着し、両脇の皮膚も火傷で癒着して、
腕先しか動かせない状態でした。

 気の毒なのは少女の顔が、油を注入するために下向きに
前に屈んだ状態で固定されていることです。
 
顔全面の皮膚が下方に強く引かれた状態で
癒着固定されていますので、下口唇が胸に
癒着して大きく開いた状態のままであり、
まぶたも下方に強く引かれた状態で閉じることが出来ませんでした。
目が乾く激痛と、開いた口からよだれが流れ続ける状態で、
貧しさゆえに一度も受診することなく、1年以上も堪え続けました。
 
 たまたま町に来た外国の医療団の目に止まりましたが、
火傷から年数が経過していることと、
あまりにも酷い癒着のために何もしてもらえませんでした。
しかし、その中のスタッフの一人が、少女を動画で撮影して、
援助をネット上で呼びかけました。
 
最終的にはアメリカの名医とボランティア団体からの寄付援助により、
少女は1年掛かりの大手術で皮膚の癒着から解放されました。
この流れを見ていまして、先祖霊と精霊の関与を感じ、
番組を見ている方も救われた気持ちに成りました。

 少女と家族がけなげに「一生懸命に生きていればこそ」、
導かれたのだと感じます。
 
 今の日本では、自分が懸命に生きていないのに、
何かを「待つ」だけの状態の人間が増えていると感じます。
 これは、今までの間違った御蔭信仰の弊害だと思います。
 この世では、「人事を尽くして天命を待つ」
(自分の出来ることをしながら、後は流れに任せること。)
という態度が、最善であり必要なのです。
 
 人間はこの世に、自分の良心(仏様)と向き合い、
自分の良心と1つに成れるか?を試しに来ているのです。
 これが仏様と共に生きるです。

 魂が死後に、良心=内なる仏様と分離するのか?
仏様と共に一つになって魂が内なる仏様と同じ慈悲の
心を「帯びる」のか?を、期間限定(この世の人生)で
全員が挑戦しているのです。
 
だから他人がサボろうが、ズルしようが、
それは本人が自分で裁くことに成るだけなのです。

 この世は、自分と良心(内なる仏様)が1対1で葛藤する
世界であるのが真相であり、他人は刺激を自分に与える
役割を演じて「くれ」ているだけなので す。
ただ、あまりにも鬼気迫る役者ぶりをしてくれます、苦笑。
 
 生きている内から、自分の良心を見詰める練習(信仰)を
する人は、死後も迷いません。
自分の良心(内なる仏様)が導くからです。
だから安心して、自分の心を大切にして生きましょう。


 生かしていただいて ありがとう御在位ます。



vol. 3389
「一厘の法則」  (2012/5/11 [Fri])
「仏さまや先祖に対して、自分が生きている間に「した」「思った」
ことは、そのまま自分の死後に“自分が”受け取ることに成ります。
この世では見えなくて、居るのか居ないのか確証が持てない
存在に対して、自分が行ったことは反射率が高い法則が在ります。


また、この世で見える存在(家族・他人・動物たち・植物…
精魂込められて造られたお寺)に対して自分が行ったことも、
死後に自分が受け取ります。
ただ、見える存在に対して行うことは自分の思惑もありますので、
」良心に基づいて相殺(総裁:差し引く事)
されて残る物が自分に反射します。
見える物に対しての行為よりも、
見え無い物に対する行為の方が反射率が高いのです。
見え無い物が相手だからこそ、自分の本性が出るのです。
してもしなくても別に自由な訳です。
弱い人間に対する態度を見れば、
その人物の人間性が分かることとも共通します。

だから、自分が「すること」「思うこと」は100%
狂い無く自分に反射するのですから、
注意をしなさいよということなのです。
しかし皆さんは、どれくらいの精度で反射をするのか?
漏れやバグ(間違いやエラー)は本当に無いのか?と心配されます。
これは、鏡に映る自分の顔には、実物と誤差があるのか?
と心配することとと同じなのです。全く誤差は無いのです。
だから、この世で自分が“する事”・“される事”には、
まったくムダが無く“生きる”のです。
もし自分が他人から嫌な目に遭わされても、
自衛手段を努力しながら、それほど深刻に悩まなくても大丈夫です。
必ず帳尻は、一厘(いちりん:1/100)まで合わされます。

ここで大切な問題があります。
仏さまが示すには、この現実界だけが、反射を生み出す“原版”に
これから成ると言うことなのです。
要は他の次元は、この現実界の反射の影響を非常に受けると示されます。
この地球上で、平和な国が減れば、あの世でも平和な次元が縮小されるのです。
今に生きている人の役割は、とても重要です。

最後に大切なのは、生きる人間の心も、
見え無い物だということなのです。
他人の心を、自分の思いやりから思いやって、
自分が“する事”“思うこと”は、一番に自分自身への反射率が高いのです。
今が苦しい人は、他人への“思いやり”を意識して行動すれば、
その反射で自分が助けられることに必ず成ります。
一厘も違いません。
これから反射が起こる、一厘の法則(いちりんのほうそく)が
発動しやすい期間に地球が入ります。
逆に言えば、とってもヤリガイの有る世紀が始まります。


生かして頂いて ありがとう御座位ます。


vol. 3388
「必ず変わります」  (2012/5/10 [Thu])
現実界は「努力と継続」が大切です。
運命なんて決まっていません。
だた、必ず「流れて」いく絶対法則が宇宙に存在しているだけです。
釈尊は、これを諸行無常(しょぎょうむじょう)と言いました。

良い事も、悪い事も、苦しみも、
必ず変化して変わって行くとしたのです。
この流される方向は、自分の努力と継続で
徐々に軌道修正が可能なのです。
既に決められた運命があると信じて、何も努力しないで
諦めることほど愚かな事はありません。
今の苦しい状況が「変わらない」と思うから、人間は苦しいのです。
では、何が具体的に変わるのか?

自分の気持ちが成長して受け入れられる様に成るのか、
相手や環境が事情により半強制的に変わる……などなど、
色々と必ず変わっていくのです。
今の苦しい「一点」だけを見て絶望しては駄目なのです。
ましてや、その一点の為に自殺をしてしまうと、
その一点の苦しい心境のままで固定化されてしまいます。
つまり変化の法則から離れて、あの世の固定の世界へと行ってしまいます。
固定した世界は、想像しただけでも苦しいです。
苦しみや痛みが永遠に持続すると考えるだけでも地獄です。
とにかく「変わって行く」と言う事は、仏様の恩寵だと感じます。

人間は生きながらにして心が固定化、
つまり心が硬くなって行く人がいます。
硬い心は、生活の些細な事でもダメージを感じてしまいます。
これでは、生きながらにして地獄に足を踏み入れていることになります。
肉体も心も、柔らかさ、柔軟さが大事なのです。
心身が柔軟であれば、衝撃や刺激も吸収して怪我をしません。
硬い心は、体の細胞を固くして、癌や膠原病を呼びます。
これらは、細かい物事に拘る執着を捨てて、
自分で柔軟さを意識する努力で変えられます。
とは言っても、人間の心の癖はなかなか変えるのが大変です。
ここで日々の感謝と仏様へ感謝する行為が大切なのです。
習慣として感謝の磁気を自ら発する行為は、
空間に感謝磁気を蓄積して行くことに成ります。

これも「努力と継続」がポイントです。
自分色で蓄積した感謝磁気は、最も本人に有効に作用します。
必ず流れが良い方向に軌道修正されます。



生かして頂いて ありがとう御座位ます。


vol. 3387
「自分を納得させる」   (2012/5/09 [Wed])
自分自身を納得させるための旅をしているのが、私たちの人生なのです。
誰のために生きるのでもなく、自分の心が納得できるのかを、試しに来ています。
だから他人に頼っていても、不安感は消えないのです。
自分の心に向き合わずに、他人を見ていれば、余計に不安感が増します。
 
逆に言えば、自分の心中に良心という仏様が存在することを信じ、
自分の先祖が見てくれていることを、常に思いましょう。
暇なあの世では、生きている人間に縁ある魂全員で、
私たちのことを見ているのが本当です。
映画鑑賞するように、大きなスクリーンで見ています。
嫌かも知れませんが、この世での隠し事などは不可能なのです。
あの世に帰れば、この仕組みを見て、
隠し事を持つ魂は愕然として萎縮し、恐れおののきます。
 
だから自分が生きている内に、少しでも良心に恥じることが有れば、
それを修正するように努力「しようと」したほうがお得です。
自分自身の良心が、あの世で許してくれなくなるからです。
他人が裁くのでは無いのです。
 
自分の努力なんて、何の進歩も実績も残せないので、
ムダだと思わないことです。
この世での実績などは、この世だけで消えることなのです。
それよりも、自分が出来ることを「しようと」していたか?
どうかが問題なのです。
 
今、いろいろと悩む人を視ますと、それは自分の本心が
「納得していない」がゆえに、起こる悩みでありイラ立ちなのです。
つまり、他人からの助言を受けたところで、
自分自身の良心が不完全燃焼である限り、安心はしないのです。
自分自身を納得させることが出来るように、悩む前に考える前に、
目の前の事に没入しましょう。
 
これからの人類の変化は、内在する仏様への「自覚」と、
多くの先祖(人類)と共に生きている意識を持つことで、
遺伝子の革命が起こり始めると感じます。
この世的には、ダメダメな人生でも、
自分の良心に恥じない生き方ならば大丈夫です。
人類の主役が、肉体重視から、心の良心を重視する形態へと、
大どんでん返しの種の変化が起こる足音が、私には聞こえ始めています。
表と裏が一瞬で、でんぐり返る感じです。
 
心が苦しい人は、それは改善させようとする
内なる仏様からの救援のサインです。
自分の良心にそって、出来ることをしましょう。
今が楽しい人は、「生かされていること」に感謝をしましょう。
自分の良心に忠実であれば、これからも大丈夫です。
 
生かして頂いて ありがとう御座位ます



vol. 3386
「体内の循環排出を高めよう」  (2012/5/08 [Tue])
原子力発電所の深刻さが増しています。
ただ、考えて見ますと、原子爆弾の直撃の閃光を
受けるわけでは無いのです。
だからこれは、近隣地域の方は外の空気と風に
触れることに注意すれば、危険度は半減し、
さらに昆布類+大豆類+白湯飲料
(煮沸した水を体温に冷ました多めの水飲料。
排泄作用が高まります)という食品対策により、
ほぼ大丈夫だと感じます。
とくに、東北・関東地域の方は、
御飯に直接ですが味噌そのままを乗せて食べるのも良いです。

過去の原発事故では、日本の味噌が効果したことが報告されています。
チェルノブイリ事故やスリーマイル島事故を見ましても、
政府指導の避難をした方々には、放射能による明らかな障害は見られません。
ちょうど花粉症の季節ですから日本全域において、
外出時はマスクとフード付きの長袖・帽子が良いです。
今は天気が良いですが、雨が降れば外出を控えるか、
仕方がない場合は肌が濡れない工夫が良いでしょう。
 
妊娠中の女性や、幼い子供、甲状腺の病気を持つかたは、
昆布や大豆類の摂取については医師に従いましょう。
ただ、私の感じでは、日に1回の味噌汁ぐらいは、
他の食材と合わせて飲む場合は良いと思います。
他の食材との消化作用により、化学的な反応は変わるものです。

しかし、健康安全を考えますと、
食材は乳酸菌などの善玉菌の摂取だと感じます。
ヤクルトなどの市販されている乳酸菌の飲料類が良いです。
日に3回も摂れば十分です。
また今まで紹介しました善玉菌の整腸剤、
エビオスなどは健康に良いと思います。
自己判断してください。
やはり普段の健康には、蒸留水の白湯飲料を参考に。
体内の循環排泄を高めていれば、過剰な心配は不要です。
 
今日は気温が上がりそうですから、
日本全国で地震への警戒をしましょう。
 

生かして頂いて ありがとう御座位ます。

vol. 3385
すべては道に通じます  (2012/5/07 [Mon])
仕事で悩むタイプの人を観ていますと、
他人の顔色を気にする人が多いです。
自分の仕事よりも他人の言動や、
自分に対する態度ばかりを心配しています。
ここで間違うのは、仕事に専念するよりも他人の顔色を
観察することを重視してしまうことです。
上司や同僚が自分に嫌な態度をとるのは、
付き合い不足や会話ベタが原因では無いことが多いのです。


やはり自分の仕事ブリ(仕事への姿勢、必要な報告の有無、
同僚への”仕事上の”配慮)に関することで、
気に入らないと感じていることが多いのです。
上司や同僚は自分の仕事ブリへの嫌味を思っているのに、
当の本人は自分の仕事よりも、増す増す他人の顔色が
気に成って仕事に集中していません。
ここから悪循環が始まるのです。


他人は仕事に関する自分への不満を持っているのに、
自分は”仕事よりも”人間関係を気にしているのです。
お互いに気にすべき視点がズレていますから、
溝は大きく成って行きます。
 
しまいには被害妄想が始まります。
「私の悪口を陰で言っている」「私に話しかけない」
「私にだけお菓子をくれない」・・・と、
帰宅しても細かいことが気になるのです。
人間が会社を辞めるのは、このような自分が
「受け身で待つ姿勢」「仕事よりも、仲良しクラブを求める姿勢」が
自分の中に在ることが原因と成ります。


この姿勢を自分が持つ限り、何回も再就職したとしても
理想の会社などは在りません。
では、どうすれば良いのか?自分の仕事に集中することです。
”仕事上の配慮”だけを気にして行い、
給与を頂く分は働くプロ意識を持つことです。
同僚の全員が、給与を頂いて生活するために働いています。
みなさん必死です。
その状況下で、自分が配慮を受けることを期待して、
口を開けて待つヒヨコではいけません。
自分から配慮を「出す」姿勢を持ち続けることが大切です。
自分が「出す」ものは、必ずいつか色んな形で自分が受け取ります。
 
仕事が不満で帰宅しても嫌な気分の人、失業中の人などは特に、
自分の家族への態度が大切です。
運命を分けることに成ります。

これから先への不安感やストレスにより、
家族への思いやりが持てない人が多いです。
お気持ちは分かりますが、これではダメなのです。
やはり自分の身近な人たちに対して、自分が「出せる」
思いやりの気持ちを持つことが一番運気を高めます。
自分の心の良心=内在神は、すべてを観ています。
身近な家族さえも大切に出来ない人間を、
自分の”公平なる良心”は許しません。
とにかく裏目を自分に選択させます。


だから、逆に言えば大丈夫なのです。
自分の身近にいる人間”から”、自分なりに大切にして行けば、
必ず自分も社会で大切にされるように成ります。
 
私も二十年以上サラリーマンをしていますから、
何度も仕事で苦しんでいます。
そのような時に、いつも必ず思う言葉があります。
それは、問題が有りますと「これは誰がしても、苦しい問題だ。
では、自分が同僚の身代わりに成って受け切ってやろう」でした。
日常生活の中には、いくらでも自分の
精神性を高める「場」が無限に在るのです。

いつでも皆さん、受難を受けたキリストにも日蓮にも成れます。
タダのむなしい仕事だと思わずに、仏への道を、
給与付きでさせて頂けると思うだけでも視点が変わります。
なんか、頑張れる気がしませんか?
 

生かして頂いて ありがとう御座位ます。

御蔭様は誰?  (2012/5/06 [Sun])
  
「おかげさま」と言う漢字は「御蔭様」と書きます。
‘他人から受けた助力や親切に対して感謝の意をこめていう言葉‘
との意味だと辞書には有ります。


漢字の蔭(かげ、隠れた)の文字が使われているので、
自分が認識している特定の相手への感謝ではありません。
自分が気付いていない多くの援助してくれている存在が蔭にいて、
自分が「生かされている」事への感謝を現す言葉だと感じます。
 

自分が気付いていない感謝するべき相手を知る事は、難しい事です。 
蔭に隠れているからなのか、自分の眼が曇っているからなのか・・・
気付いてはいるが認めたくない、感謝する気持ちに成れない、
と自分の恩人に気付けないのです。


色々と隠れた大恩人が誰にでも居るものです。
もし居なければ私達は生きていません。
今がどんなに苦しくて惨めな境遇であっても、
今生きていると言う事は、蔭に誰かが支えてくれて「来た」のです。
それは誰なのか?人間は愚かな面が有りますから、
蔭で支えている存在を無くして初めて気が付けます。
蔭で支えてくれる存在が生きる人間の場合、
その人が死ぬと初めて深く認識できる事に成ります。
自分の人生の一時に関わってくれて支えて頂いたと、
その人の死を持って初めて素直に認知します。
 

既に亡くなった縁ある人々も、自分の心の小宇宙に
存続しており、本当の蔭から支えて呉れているものです。
亡くなられた魂が次の旅にでるまでは、
相互関係は存続しています。 
やはり、忘れずに供養する事が大事です。
 

御蔭様が誰なのか、その存在が生きている間に
気が付く事が出来れば、後々の自分の心に後悔は無いものです。
また、その人への態度も変わります。
生きている間に修正が出来る事は、
稀有なる事であり素晴らしい事です。


御蔭様に気が付く為には、自分が今生きている原点からの
視線で周りを眺める事が有効です。
「生かして頂いて ありがとう御座位ます」の視点で、
仕事や家族、縁有る人々と対峙すると、
細かい事は気に成らなくなり、
相手を正しく観て受け入れる事が出来ます。



 生かして頂いて ありがとう御座位ます
 


vol. 3383
仏さまは孤独を解消しようとします  (2012/5/05 [Sat])
人間は、自分の心に宿る良心(りょうしん:両親、両神、
1つなる根源的な仏様)を意識しない限り、
生きる間は孤独感が続きます。


何をしても、何を得ても、じきに飽きてしまい
心が満たされることがありません。
しかし、自分の心の仏様に「気付くべきだ」と言われても、
自分には分からないし、気付けないから難しいなと思うものです。
でも、これで良いのです。


たとえ気付けなくて分からなくても、自分で心の仏様を
「意識する」ことは誰でも出来ます。
そのような考え方があると言う知識として、
心に仏様が居られることを意識すれば、
自分の生き方が自然と変わります。
これは凄いことなのです。


また、隠れて愚かな行為をする他人を見ても、
自分の心の仏様に悪行を見せて
報告しているんだねと静観できます。
心の仏様を意識した生活をしますと、
だんだんとムダな心の漏電が減り、
心の実現力が増して、人生は改善を始めます。
 

この宇宙では、自分の心の仏様に気付けない限り、
深い意味では孤独とは皮肉なことです。
たくさんの家族に囲まれて幸福に過ごしていても、
必ずすべては変わり行き、一人で次の世(夜)へと旅立つのです。
自分の心以外は、すべて変わって行きます。
実は1つなる根源存在も、孤独だということなのです。
私たちが面会している家族や他人は、
自分の本心を映す・映される鏡です。
(映す:うつす。動体への転写)
お寺も仏壇も、同じく自分の心を写す鏡です。
(写す:うつす。静体への反射)
これと同じくして、根源存在も自分を観るために、
根源の反射(宇宙、とくに人間)を見たいのです。


だから、阿弥陀様の反射で発生した私たちの心には、仏様が居ます。
私たちは仏様と共に、いろいろな体験をしています。



生かして頂いて ありがとう御座位ます。

vol. 3382
自分と似た存在    (2012/5/04 [Fri])
人間は誰でも、自身の親や育ての親、
先生に注意や叱咤を受けて成長するものです。
怒られた時は、自分が怒られた意味が理解出来ずに、
時には恨んだりするものです。


長年に渡り根に持ち、大人に成っても子供時代の
トラウマに無意識で苦しむ人もいます。
しかし、自分が成長するに従って、段々と
1つ1つの恨みが溶けて行くことがあります。


一番良く言われるのは、自分自身が人の親に成った時です。
昔、自分の子供時代に受けた出来事が、
今考えても理不尽ではあるが、あの時の親の境遇を考えると、
親も辛く病んでいたんだなと理解できる場合もあります。
中には、今になって親の気持ちが解り、
親に申し訳なくて涙する人も居るでしょう。
親が生きている間に、気が付ける人は幸いです。
大半は、死んでから思うものです。


私もたまに、父親が生きている時に、もっと
自分が出来る事があったかなあと、振り返る事があります。
でも、これが父親に対する本当の供養だと感じます。
ただ、思い出してあげる時は、明るい感謝の気持ちで思
い出す事が大事です。 それが父親の居る魂の世界に届きます。
もし、悲しい気持ちで思い出すと、
その気を受けた父親は、おいおい、大丈夫か?
と、心配する事になります。
 

私達は、生きて行く中で、他人から批判や中傷を
受ける事があります。 これは、仕方が無いことです。
相手の心境が未熟な場合、反論したところで理解はされません。 
時が経てば、相手も変化して行くものです。
もっと悪い心境に成られるかも知れないし、
逆に心が成長されて、御自分の昔を反省されるかも知れません。
もちろん、批判を受ける自分自身が未熟な事もあるでしょう。
 
現実界以外の他の次元では、似た者、同類が集まる世界です。 
つまり、逆に境涯の違う魂が接触する事は、殆どありません。
上位の霊的振動数を持つ存在が、
下位の振動数の世界へ降りる事は出来ます。 
しかし、長居は出来ない様です。


これから、この現実界には、全ての次元が転写・干渉して来ます。
自分の心の神に恥ずかしく無い、生き方、
生活をしていれば何も恐れる事はありません。
自分と似た存在が寄るとは、素晴らしい事です。
私は、楽しみです。 あなたは?


生かして頂いて ありがとう御座います

vol. 3381
あなたが主人公です     (2012/5/03 [Thu])
最近のコメント欄や世情を観ていて、今朝、
ふと面白い事が浮かんで来ました。
「人が生きている間は、映画の撮影中」だと・・・。
一人一人が映画の主人公です。


今、現在、自分オリシ゛ナルな映画の撮影中なのに、
出来てもいない映画の先の展開を知りたがったり、
どんな演技をすれば良いか、一々指示を仰ぐ人は多いです。


先のストーリーが知りたければ、自分で演技を
展開して撮影を進めるしかありません。
俳優が一々、監督の指示する演技しか出来なければ、
ただのロボットです。アドリブも無ければ、
滲み出る個性もありません。


そんな俳優は、次回作が来るでしょうか?
長さが限定されるフィルムの中で、俳優として
自分の個性を表現して、生き生きとしていれば、
見ている観客も気持ちが良いものです。
おどおどと、指示待ちばかりの場面やら、
他所で撮影中の主人公にばかり気に取られる
姿が撮影された自分の映画を、フィルムが尽きて
撮影が終わった後に全てを鑑賞する時、
何を自分自身で思うでしょうか?ああ、悔いが無いように、
よそ見をしないで気付いた事を思いっきり
演技すれば良かったなあ、と思う人は多いです。
 

自分の映画を撮影中なのに、他人(教祖)が主人公の
映画のエキストラに、喜んで自ら成って終わった人も多いです。
こんな、つまらん映画はありません。
 

さて、この映画の記録フィルムは、現実界の
空間磁気に全て記録されています。 
画像、セリフ、そして特殊な事ですがその場面での
内心の想いも合わせて保存されています。
この映画の監督は、ただ無言で撮影をするのが特徴です。


しかし、完成した映画が評価されなければ、
無言で全責任を取ります。

映画監督は・・・誰かな?
 


生かして頂いて ありがとう御座位ます
 



vol. 3380
「底辺は強いです」       (2012/5/02 [Wed])
 私は1日が終わろうとする時、今日も生きる事が出来て
良かったなと「生かして頂いて ありがとう御座位ます」と思い、
朝に目覚めると、今日も生きている事への感謝の気持ちを思います。
常に生死を意識して生活していると言えます。


私は今、とても健康体であります。
健康体であるにも関らず、日々生死を明るく自覚できる事が
私の財産であり、強みかも知れません。

これが武士道の本質です。
格闘技や殺傷技を追求する事が武士道の精神ではありません。 
本当の武士道は、貴重な生に気付く事です。
大切な魂=心を運んでいる自分の肉体の健康に務め、
肉体を守る生き方が武士道です。
 
日々の生活に感謝し、交通事故に自他共に遭わない様に
配慮しながら運転する人は、武士道の実践者です。
世の中には、女性・子供・老人にも自然に「自他を守る」
生き方をする方々がいます。
明治時代までは大半の人間に、この心が在ったと感じます。
現在は減りつつあります。


感謝想起を生活の中で思う人は、命の貴重さを思い、
自他を守る生き方を自然と始めています。
感謝の先祖供養を正しく実践して行きますと、
自分が生きている時間がとても貴重に感じ、
日常生活で何があろうとも全てが愛しい事に
思える感覚を持つ事があります。
表面では喜怒哀楽を思いっ切り表しても、
心の奥には何ものにも影響を受けない境地が結晶化し始めます。
 

病気に成ってから、この様な自覚を得ても、
行動範囲が狭くなり楽しめない現実があります。
自由に歩ける健康が有る内に、
生きて生かされている基本に気付くことが大切です。
仕事に勤務する健康が有る事は、とても貴重な有り難いことです。
仕事の事で、自分の心を傷つけては生けません。
生死の原点から、仕事の悩みを見てみる事です。
生きてさえいれば、どんな悩みも必ず変わって行き、
終わりがあるのが現実界です。
生死の原点に視点を置ける人間は、
人生を大いに楽しむ事が出来る強い人です。 
誰でも今から成れます。

生かして頂いて ありがとう御座位ます。

vol. 3379
「誰でも光ります」  (2012/5/01 [Tue])
 人というものは、与えられた現状の中で輝くことが出来るのかどうかを、
自分自身で試しに、あの世から来ているのです。
人によっては、10歩でも歩くことが挑戦であり、
命がけの旅かも知れません。他の人には、
10歩などは一瞬で到達するかも知れません。
 

でも、その人には、違う内容での難しい課題が必ず有るのです。
だから、この世に生まれるのです。
 
 
違う課題を持つ者どうしが一緒に居る次元が、
この世です。要は自分で決めた、自分が課した課題が違うために、
他人と比較をすること自体が、無理と矛盾と不公平感が必ず生じます。
 

自分自身を見ずに、他人を見たために不満と迷いが生じるのです。
これは、この世だけでの大いなる仕掛けです。
他の次元では、同じ課題を持つ魂だけが、
磁石のように自動的に集まるからです。


 どんな課題も全員が同じならば、それが常識と成り、
普通なのです。しかし、そこでは進歩が無いのです。
 

 だから今の世で、悔しい、悲しい、腹が立つ、嬉しい、
楽しい、何とかしたい・・・これらは素晴らしい思いではないですか。
この世だけの貴重な思いです。
この世に、生きていればこその思いです。明るく体験をしましょう。


 この世は、自分自身を見させないで、
他人を見るように誘導する誘惑に満ちています。
しかし、他人を見る間は、安定・成功・真の幸福は来ません。
このジレンマを打ち破るのは、他人(家族も)へは
自分からの思いやりを与える一方だけの視点を自分が持つことです。
そして、自分自身を見詰めます。
 
 みんな、自分自身を納得させるための課題を持っています。
だから安心して、自分に向き合いましょう。
自分自身の中に、良心(仏性)を見い出した者が、
真の幸福な人です。その人物の周りの人も、
何らかの恩恵を受けて助けられます。自分なりに歩いて行きましょう。


 生かして頂いて ありがとう御在位ます。

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