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2012年 6月

「畳のヘリを踏まない」  (2012/6/30 [Sat])
 若い世代には、これまでに一度も畳の部屋で暮らしたことがない、
という人がかなりいます。ですから、無理はないとも言えるのですが、
和室には独特の所作があることを知らないようです。

しかし、社会人になると、接待などで和室を使う機会も出てきますから、
知らないではすまされません。そんな場面で心得のある人から、
「あぁ、なんということを!」と眉を顰められるようなことをしたら、
いくら仕事の能力があっても、
人としての評価は大幅に下がってしまいます。

 畳のヘリを踏まない。これは和室の所作の基本中の基本です。
常在戦場、つねに戦いに備えておくことが必要だった武家社会では、
床下に潜んでいる敵に襲われるということもありました。
畳はヘリの部分で合わさっていますから、そこを踏んでいると、
突き抜けてきた刀の切っ先で痛手を負う、ということがあったのです。
これが、時代を背景とした、ヘリを踏まない合理的な理由。

 もうひとつは文化的な理由です。
畳が貴族の間で使われるようになったのは平安時代ですが、
当時は大変な高級品でした。
ヘリには藍染などで染色された絹や麻が用いられていたのです。
植物で染められた布は色が落ちやすかったうえ、
とくに麻は耐久性が低く擦り切れやすかったため、
ヘリを踏むことはご法度とされたのです。

 もっと重要なのは、ヘリは格式をあらわすものだったという点です。
もっとも格式が高かったのは「繧繝縁」(うげんべり)と呼ばれるもの。
これを使うことが許されたのは、天皇、皇后、上皇といった
ごくかぎられた高貴な人たちだけでした。
また、格式そのものである紋をあしらったヘリ(紋縁)もあったのです。

 そのヘリを踏むことは、文字どおり、格式を踏みにじることです。
こうして畳は静かに歩き、決してヘリは踏まない、
という文化が定着しました。単なるマナーとしてではなく、
その文化的背景も心得ていてそれができる人は、
日本の美風を体で表現できている、といっていいでしょう。
ぜひそんな人になってください。


枡野俊明著 「美しい人つくる所作の基本」より転載

vol. 3944
「ゆっくり、季節感じながら歩く」  (2012/6/29 [Fri])
 忙しさが生活の充実感と重なっていると
考えている人は少なくないようです。
「いつも、いつも、忙しくて……」という〈嘆き〉からは、
どこか自慢めいたニュアンスが嗅ぎとれないでしょうか。
しかし、忙しいということは、「心」を「亡」くすことです。

 多忙さの中で、なお、ゆったりとした時間を持つ。
心を整え、しなやかにしていくためには、そのことが不可欠です。

 京都市左京区の銀閣寺から若王子神社にいたる
約二キロの小道は、「哲学の道」と呼ばれています。
哲学者の西田幾多郎さん(1945年没)が、
好んでここを散策しながら思索に耽ったことから、
この名があるのですが、ここは、琵琶湖疎水に沿った、
自然豊かな格好の散歩道になっています。

 哲学者は、木々の芽吹きや落葉、風のそよぎや小鳥のさえずり、
空気のにおい、その温もりやひんやりとした冷気……など、
四季折々に自然が見せる、さまざまな姿を全身で
感じながら歩をすすめ、自然の営みと人間の生をどこかで
照らし合わせながら、壮大な哲学体系を完成させていったのでしょう。

 自然の中を歩くことは、渇いた心に潤いを与えること、
また、五感を研ぎ澄ますことです。寒気をゆるやかに
溶かす風の温もりに春を感じ、匂い立つ金木犀の芳香に秋を思う。
五感が知らせてくれる季節感は格別の味わいをもたらしてくれるでしょう。

そして、ふとした会話の中でも、「今日近くの公園を通ったら、
金木犀のいい香りが漂っていて、なんだか、
やさしい気持ちになりました。
もう、秋の気配が濃厚ですね」といった表現ができるようにもなります。
そんな人に会ったら、誰もが感性の豊かさを感じるのは、
言うまでもありませんね。都会の中にも自然は息づいています。
あなたの散歩道を探して、ゆっくり歩く時間を持ちませんか?


枡野俊明著「美しい人をつくる所作の基本」より転載

vol. 3943
「裸足で生活してみる」  (2012/6/28 [Thu])
修行中の雲水の生活は、衣食住ともきわめて質素。
厳寒の時期でも足袋を履くことは許されません。
曹洞宗の大本山である永平寺などは、福井県の山寺ですから、
真冬の寒さといったら半端ではありません。
毎日が凍えるような寒さとの戦いです。

しかし、修行がすすみ、慣れてくると身が引き締まる思いがして、
心地よさが感じられるようになるといいます。
大自然と溶け合って生きている実感があるのでしょう。
私も若い頃は一年中裸足で過ごしていました。
今はもう、寄る年波ということもあって、
十二月に入ったら足袋を履くようにしていますが、
三月のお彼岸を迎える時期になると、ムズムズして脱ぎたくなります。

裸足の良さは足の指が自由に動かせることですね、
これにはおおいに健康効果があるようです。
寒さに強くなって風邪をひきにくくなるということはもちろん、
第二の心臓といわれる足の血流が促され、全身の血行が良くなるのです。

足の冷えやむくみに悩んでいる女性が少なくないそうですが、
裸足の生活はその特効薬といえるかもしれません。
外側から温めたりするのではなく、自分の内側から改善しなければ、
そういう症状は根本的に治りません。
最近では「冷やす」ことで健康になる、という考えもあるようです。

裸足でいるときの履き物は、下駄か草履。
これがまたいい。足にはツボがたくさんあるといわれ、
とくに親指と第二指の間には内臓や脳に直結する
重要なツボが密集しているとされます。
鼻緒がそこを刺激してくれますから、
歩いているだけで指圧を受けているようなものです。
下駄や草履が無理なら、室内を裸足で歩くだけでもいい。
美しさの原点なんといっても健康。
ツボ刺激効果もある裸足の生活は、
その原点を強化するのにうってつけです。

エヤコンや床暖房が整った生活はたしかに快適ですが、
いかにも人工的。裸足の生活は小さな自然と、
本来の体が持つ強さを取り戻す、ちょっとしたチャレンジです。


枡野俊明「美しい人をつくる所作の基本」より転載

vol. 3942
「正しい言葉を使う」  (2012/6/27 [Wed])
 日本語は、世界でも類い希なる美しい言葉。
せっかくその国に生まれながら、言葉づかいがぞんざいな人を見ると、
もはや無念を通り越して、悔しさ、虚しさ、いや、
正直にいえば、おおいなる怒りさえ覚えます。

 美しい言葉は、それそのものが、美しくなるための大きな武器です。
身近にありながら、それをまともに使えないなんて、
文字どおり、宝の持ち腐れ。いち早くそんな状態から
抜け出してほしい、と私はせつに願っています。

 禅は「愛語」で語りかけよ、と説いています。愛語について、
道元禅師はこう書き残している。
「愛語は愛心より起こる、愛心は慈心を種子とせり。
愛語よく廻天の力あることを、学すべきなり」(『正法願蔵』)
慈しみの心から発する愛を持った言葉は、
天地宇宙をひっくり返すほどの力がある、というのです。

 愛語のもっともいい例は、母が幼子に向ける言葉だと思います。
自分自身の利や特などまったく思うことなく、欲からも離れ、
ひたすらに我が子を思う気持ちから出る言葉。
拙くても、素っ気なくとも、それこそが愛語と
呼ぶにふさわしいものだ、と私は思っています。

 いいたいことを、思いついたまま語るのではなく、
その言葉を相手がどう受け取るのかということに、
まず、思いをめぐらせる。いったん自分が相手の立場になってみる。
そして、その言葉を投げかけられたら、自分ならどう
受け止めるだろうかと考えてはどうでしょうか。
何でもないと思った言葉が、意外に棘を持っていたり
皮肉めいていたり、上滑りしていたり……といったことはよくあることです。

 一度口に出した言葉は決して元には戻らないのです。
言葉は諸刃の剣です。相手を幸せにしたり、いたわったり、
癒したりする力を持っている半面、傷つけたり、苦しめたり、
悩ませたりすることもある。自分の中に愛語かどうかを
見分けるフィルターを持ちましょう。

 最初はフィルターの目が粗く、心ない言葉がスルリと
通り抜けてしまうことがあるかもしれません。
それはそれでいい。常にフィルターを意識していたら、
だんだん目が詰まってきて、フィルターの精度が上がります。
そしていつか、
「あなたはいつも優しいもの言いをする」
「あなたの言葉はなぜかあったかい」
そんなふうに言われる人になっていますよ……きっと!。


枡野俊明著「美しい人をつくる所作の基本」より転載

vol. 3941
「毎朝、両手を合わせる」  (2012/6/26 [Tue])
かつてはどの家にも仏壇が(神棚)があったものです。
朝になると誰からともなしにその前に座り、
お線香をあげて(神棚にはあげません)
しばし静かに合掌する(神棚には柏手です)。
それが当たり前の家族の風景でした。
小さい子どもたちも見よう見まねで手を合わせ、
自然にご先祖様への尊敬と感謝の気持ちを育んだのです。

 両手を合わせるのは、単なる形式的な決まり事
ではありません。きちんとした意味があるのです。
右手は相手の心です。そして、左手は自分の心。
それを合わせることは、相手と心をひとつにする、ということです。

 毎朝、自分が今ここにいることの幸せを
ご先祖様と心をひとつにして噛みしめる。
日本にはそんな美しい習慣が根付いていました。
しかし、時代はすっかり様変わり。
今、手を合わせると言えば、初詣や、
ご利益を期待して、寺に参拝するときくらいに
なってしまっているのではないでしょうか。

 誰でも一度や二度は仏像を見たことがあると思います。
お釈迦様の座像(座った像)には、体の正面で、
左手の上に右手を重ね、輪をつくるように親指を合わせた
「印」を結んでいるものが多くみられます。
あれは法界常印といって、「私の心は安定していますよ」
ということを示しています。仏像の前で合掌するのは、
「その仏様と心をひとつにして、
すべてをおまかせする」ということなのです。

 考えてみると、<心ひとつにする>ことから
遠く離れてしまっているのが、現代人だという気がします。
「自分が、自分が……」という思いが優先して、
他人は二の次という生き方が蔓延してしまっている。

 まず、とっかかりとして、仏壇がなくてもいいですから、
毎朝、手を合わせるという美しい習慣を、
あなたから復活させませんか?それは間違いなく、
他人に対しても心で合掌して
向き合うことにつながっていきます。
ともするともつれがちな人間関係も、
心がひとつになったら、ほぐれていくものです。


枡野俊明著「美しい人をつくる所作の基本」より転載
 

vol. 3940
「「手」の所在は心のあらわれ」  (2012/6/25 [Mon])
手も足元と同じように、気持ちが行き届きにくい部分です。
手の所在や動きなど、気にしたことがない、
という人が少なくないはず。
しかし、手も端的に心の動きをあらわします。
たとえば、指先をせわしなく動かしたり、
手の位置を変えたりしているときは、
心は平静さを失っています。

 所在なげに手をぶらぶらさせているときは、
心ここにあらずという状態か、何か苛立ちを抱えている。
思わず知らず、手には心があらわれてしまうのです。

 禅では手の所作がきちんと決められています。
僧堂など寺院内を歩くとき、また、立っているときは、
「叉手」という手の組み方をします。
衣の袖が水平になる位置(胸の前)で、
親指を中に入れて左手を握り、
右手でそのこぶしを包むようにするのです。

 手をだらりと下げていると、心に緊張感がなくなりますし、
衣の袖も汚れることから、し叉手が作法として
用いられるようになったのです。

 一般にはそこまでする必要はないと思いますが、
手は一定の位置に置いて動かさない、というのが原則です。
立っているときは、手を自然に下げて体の前で重ねるとか、
指を組むとか。女性の場合は指の部分だけを
重ねるようにしたほうが、所作としては美しいかもしれませんね。

 座っているときは、両手を重ねてももの上に置くのが基本。
男性なら軽く握ってもかまいません。昔の武士は正座でも安座でも、
こぶしを握ってももの上に置いています。

 いずれにしても、手は後ろで組んだり、ポケットに入れたりせず、
相手から見えるようにしておくこと。それが相手に危害を
加えるものは持っていない、よろこんで相手を受け入れる、
という意思表示にもなるからです。


枡野俊明著 「美しい人をつくる所作の基本」より転載

vol. 3939
「人物判断の際に「足元」は100%チェックされる」  (2012/6/23 [Sat])
 禅では自分の足元をしっかり見ることの大切さを強調します。
分を超えた大きなことを考えたりせず、また、
あちこちよそ見したりせず、今の自分の足元、
つまり、置かれている状況を見つめ、
そこでやるべきことが精いっぱい、全力で取り組め、
と教えるのです。それをあらわす禅語が「脚下照顧」です。

 所作という面からも、足元は重要です。居住まいを正していても、
足元がだらしなく乱れていたり、落ち着きなく動いていたりしたら、
間違いなくそれですべては台なし。好印象を与えることはできません。

 足元はつま先をつけてそろえる。
それが相手に気持ちを伝えることにもなります。
足元がきちんとしていたら「あぁ、気持ちを引き締めているな」と感じ、
乱れていれば、相手は気のゆるみを見てとる。
あまり注意を払わない部分だけに、
気持ちがそのままあらわれてしまうのが足元なのです。

 靴もおろそかにしてはいけません。
なにも高級なものである必要はないし、新しくなくてもいい。
手入れが行き届いていることが大事です。
ブランドもののスーツを着ていても、靴にホコリがかぶっていたら、
それは心の隙を見せているに等しいのです。
相手はそこで人間性の値踏みをします。

 「足元を見る」という言葉があります。これは文字どおり、
履物を見るという意味です。昔の金融業者は
お金を借りに来た人の履き物を見たそうです。
どんな草履や下駄をはいているか?
それで信用できるかどうか、
お金を貸していい人物かどうかを判断したのです。

 「この人は履き物にまで気を配って身ぎれいにしている。
これなら大丈夫だろう」「着物は上等なものを着ているが、
草履はいただけない。貸すのは控えたほうがいい」
といった具合です。足元で人物判断をするのは先人からの
伝統的な知恵なのです。

くれぐれも「脚下照覧」を忘れないでください。

枡野俊明著 「美しい人をつくる所作の基本」より転載



vol. 3938
「二人が同じ実力であれば、呼吸が整っているほうが勝つ」  (2012/6/22 [Fri])
 自分が持っている能力を十二分に発揮する上でも、呼吸は重要です。呼吸を整えると。全身の血流が25〜28%アップする、というのです。呼吸が整えることで緊張がとれ、体もリラックスする。その結果、血管が広がって血流がよくなるのでしょう。

 逆に呼吸が乱れていると、体も心も硬くなって血管も収縮するため、血流は約15%ほど減るそうです。呼吸の仕方がただ違うだけで、差し引き40%、あるいはそれ以上、ちのめぐりが違ってくるのです。

 脳に酸素と栄養を運ぶのは血液ですから、血流の違いによってその活動も違ってきます。それを実証しているのが、小学生を対象にしたある実験。―――簡単な計算問題を小学生にやらせ、いったん回収して正解率を調べ、その後、呼吸を整えさせて同じように問題を解かせたところ、正解率が2割程度上がった、というのがその実験です。

 呼吸が整って気持ちが落ち着き、集中力や判断力も高まって、そうした結果になったということだと思いますが、呼吸によってセロトニンなど脳の神経伝達物質の分泌が高まり、アルファ波も大量に出ることが、科学的に確かめられています。

 呼吸の仕方で、能力を引き出す力が違ってくる。それがもっともはっきりあらわれるのはスポーツなど勝負の世界かもしれません。

 たとえば、同じレベルの実力がある打者と投手が対戦したとします。お互いが本来持っている実力を出し尽くせば、勝負は拮抗したものになるはずです。ところが、もしこのとき、打者のほうは呼吸が乱れ、投手はしっかり呼吸を整えていたら、初球を投げる前に勝負は決まってしまうのです。

 もちろん、投手の勝ち。血流がよくなり全身にやる気がみなぎっている投手と、血流減で縮こまってしまっている打者とでは、その差は歴然です。実力を存分に発揮できる投手が、苦もなく打者をねじ伏せることになります。

 ビジネスの場面でも、呼吸に結果が左右されることがあるのではないか、と思います。打ち合わせの時間に余裕を持って現場に到着しコーヒーでも飲んで資料を見直し、きちんと呼吸を整えた人と、時間ギリギリに駆けつけ、荒い呼吸もそのままに打ち合わせに臨んだ人とでは、もうその時点で勝負は見えているのではないでしょうか。

 打ち合わせをリードするのは、当然、呼吸を整えた人でしょう。自分の要求も主張も余すところなく展開できる。その一方で、後者にはあせりもありますし、気迫で押されている自分も感じる。なんとか失地回復を図ろうとしても、混乱した頭ではいい方策も浮かばない。呼吸は整うどころか、ますます乱れてくるのは必至です。

 たとえ両者が冷静に見れば互角の力量でも、この場面では大きく差がついてしまうのです。いわゆる“相手に完全に呑まれた”状況ですね。

 「そうか、呼吸の違いって大きいんだ!」そう感じていただけたら、それが、%uE3809Dよし、呼吸を整えよう″というモチベーションになりませんか?


枡野俊明著 「美しい人をつくる所作の基本」より転載

「正しい呼吸は、まず「吐き切る」」  (2012/6/21 [Thu])
 呼吸で大切なのは丹田に意識を集中することです。
丹田はおへその下2寸5分(約7.5センチ)の位置にあります。
呼吸のポイントはまず「吐き切る」こと。呼吸という字を見てください。
「呼」は吐く、「吸」は吸う、です。このことからも明らかなように、
呼吸は吐くことが先決なのです。

 丹田にある空気を全部外に出すような気持で、
できるだけ長い時間をかけて、息を吐きます。
吐ききることが大切。すると、今度は自然に空気が入ってきます。
吸うことを意識する必要はありません。
吐ききったらあとは体に任せておけばいい。

 吐くときはお腹の%uE3809D邪気″が出ていくイメージ、吸うときは
新鮮な%uE3809D霊気″が入ってくるイメージを持つといいのですが、
最初はとにかく%uE3809Dゆっくり、深く″を心がけてください。

 座禅に習熟した人になると、
1分間あたりの呼吸数が3〜4回になります。
寒い時期には吐く息が白くなりますが、そういう人たちの
呼吸を見ていると、鼻からスーッ白い息が出ていって、
ある長さのところまでずっと伸びているのがわかります。
鼻のずっと先に白い靄が進んでいくと、という感じです。
このレベルまで来ると丹田呼吸(腹式呼吸)の達人級です。

 もちろん、一朝一夕には到達出来ない域ですから、
まずは一分間に7〜8回を目安にするといいですね。

 浅くせわしない呼吸をしていると、
気持ちもどこか浮ついたものになり、
地に足がついていない感じになりますが、
深い呼吸ができるようになると、気持ちが落ち着いてきて、
どっしりと大地に足がついた安定感が得られます。

 さらに、深い呼吸によって体が温まってきます。
とくに女性に多いようですが、冬に足先が冷えて
つらいという人がいます。そんなときにこの呼吸をすると
血のめぐりがよくなってポカポカと温かくなるのです。
じつは、この呼吸法は、かつて山中で修行をしていた仙人が、
厳寒の時期の洞窟で暖をとっていた方法なのです。
彼らは腹式呼吸で全身の血行をよくし、
冬の寒さをしのいでいたというわけなのです。

 呼吸は声とも関係しています。たとえば、
声量豊かに歌い上げるオペラ歌手は、必ず、
腹式呼吸をしています。胸の呼吸ではあの声は出せません。
%uE3809Dお腹から声を出す″という言葉どおり、
たっぷり息を吸い込んだお腹を共鳴箱のようにしているから、
会場の隅々まで響き渡る声が出るのです。

 皆さんも大声を出したり、大きな声でカラオケを
歌ったりすることでストレスを発散することがあるでしょう。
しかし、最近の若い人たちのカラオケには思ったような
ストレス発散効果がないのではないか、と私は思っています。
理由は明白。ほとんどの人が胸呼吸になっていて、
お腹から大きな声が出せないからです。

 腹式呼吸は、現代のストレス社会を
乗り切るための有効なツールといえそうですね。


枡野俊明著 「美しい人をつくる所作の基本」より転載


vol. 3436
「呼吸は正直なあなたの心を示す」  (2012/6/20 [Wed])
呼吸はそのときの心の状態とリンクしています。
ちょっと思い出して頂くと、誰にでも経験があることではないでしょうか。
例えば、重要なクライアントとの商談が直前に迫っているという
状況を思い浮かべてみましょう。

 仕事の成否が自分の対応ひとつにかかっていると思えば、
肩にも力が入り、手のひらからは
汗が噴き出すと言ったことになります。
心が緊張感でいっぱいのそんなとき、
心臓はドキドキと脈打ち、呼吸は速く浅いものになっているはずです。

 ところが、商談が首尾よくまとまってひと段落。
相手とも打ち解けたあとに顔を合わせるという場面では、
心にも余裕が生まれ、呼吸はゆったりと安定したものになりますね。
このように、呼吸は「緊張しているな」という心も、
「今日は余裕を持って臨めるぞ」という心も、正直に示すのです。
自分では、いくら緊張していないと思い込もうとしても、呼吸は、
深いところにある本当の心をあらわしてしまいます。

 一方、緊張しているときは、あえて意識して
「ふぅ〜っ」と深く呼吸をしてみたら、緊張感が解けて心が落ち着いた、
という経験がある人もいるのではないでしょうか。

呼吸は心の状態によって変わり、また逆に、
心は呼吸によって変わってくる。
両者の間にはそんな相関関係があるのです。

とすれば、呼吸を整えることができれば、
心もいい状態に安定する、ということになります。
ぜひ、その方法を身につけましょう。


枡野俊明著「美しい人をつくる所作の基本」より転載



vol. 3435
「腹式呼吸が楽にできる姿勢が、いい姿勢」  (2012/6/19 [Tue])
姿勢が整っているかどうかは呼吸でわかります。
これまで何度もお話ししてきたように、
姿勢と呼吸は一体です。正しい呼吸、
つまり、腹式呼吸ができる姿勢なら、
整ったいい姿勢といえます。ためしに、
体をかがめてお腹で呼吸してみてください。
いかがですか?わかったと思いますが、これは絶対にできませんね。


 座禅では、正しく呼吸するために、まず姿勢を整えます。
座ったら、左右揺振といって、体を左右に揺らし、
しっかり背筋が伸びているか、
左右のどちらかに体が傾いていないか、を確認します。
座禅を初めて間もないうちは、慣れている人に見てもらって、
いちばん的確な姿勢を見つけるということが大事です。

 いい呼吸をするためには、それほど姿勢が重要なのです。
だんだん慣れてくると、パッと即座にいちばんいい
姿勢をとれるようになります。体が覚えてしまうわけです。

 皆さんも、朝、家を出る前に必ず姿勢のチェックを
する習慣をつけるといいと思います。
それが姿勢に対する意識を高めることになりますし、
自分にもっともよく合ったいい姿勢を、体に覚えさせる早道だからです。

 いい姿勢で深い呼吸ができるようになると、
どこでも、立ったままで気持を鎮めたり、
切り替えたり、あるいは、集中力を高めたりする
ことも可能になります。これを「立禅」といいますが、
私もしばしば実践しています。

仕事の休み時間でも、電車に乗っているときでも、
それこそ%uE3809Dいつでも″%uE3809Dどこでも″できますから、
ぜひ、そのレベルになってください。

 いわばこれは、禅を日常に生かす方法です。
リフレッシュメント効果は抜群です。


桝野俊明著「美しい人を作る所作の基本」より転載

「正しい立ち方・座り方――目線も意外に大切なポイント」  (2012/6/18 [Mon])
 立っているときも座っているときも、
正しい姿勢の基本は変わりません。
そう、頭のてっぺんと尾てい骨が一直線。
それができていれば、立っているときにひざが曲がったりせず、
座っていて前かがみになったりすることもありません。
つまり、美しい立つ姿、座った姿になっているのです。


 一流の女優さんを見ていて「さすがだなぁ」と思うことがあります。
対談番組などに出演しているとき、背もたれにいっさい
背中をつけないで座っているのです。
長時間に及んでも“一直線”を保ったままでいられるのは、
姿勢に対する意識が高く、それが習慣になっているからでしょう。
 

 美しい姿勢のもう一つのポイントは目線です。
禅では、立っているときは六尺(約182センチ)前、
座っているときは三尺(約九一センチ)前に
目線を落とすように教えられます。
前者は畳縦一枚分、後者は畳横一枚分です。

 その位置に自然に目線を落とすと、
いわゆる(目を半分開き、半分閉じた)“半眼”の状態になります。
目を開いていると、否応なくたくさんの資格情報が入ってきます。
資格情報が多すぎると、それに影響されて
気持ちも落ち着かなくなるのです。
%uE3809D半眼″は情報をカットできますから、
気持ちがとても落ち着きます。

 電車やバスを待っているとき、街角で誰かと待ち合わせをしたとき、
さあ、あなたはどんなふうに立っているのでしょうか。
せわしげにきょろきょろ目線を泳がせたり、
背中を丸めて立っていたりということはありませんか?
それが周囲にどう映っているか、想像してみてください。

 そんなときこそ、姿勢を整えてしっかり立ちましょう。
それだけで女性なら端正な品格、
男性は確たる威厳を感じさせるのではないでしょうか。

 次に「正座」についても話しておきましょう。
住まいから畳の部屋が姿を消しつつある昨今、
正座する機会は減っています。
しかし、正座はれっきとした日本文化です。
ここ一番に備えて、その所作も知っておきましょう。

 姿勢はこれまでと同じく、頭と尾てい骨を一直線に。
着物の場合、女性は両ひざをこぶしひとつ分開け、
男性はこぶし二つ分開けて座ります。
ただ、女性が短いスカートの場合は両ひざをそろえます。
 
 足は聞き足を上にのせて重ねます。その方が楽ですし、
%uE3809D長持ち″するからです。しびれてきたときに
上下の足を組みかえる人がいますが、
じつは、それは逆効果なんです。しびれが増すことにしかなりません。

 しびれがひどくなったら、お尻を少し上げるようにして、
足の指をそらせるようにすると、血行が良くなって
しびれが抜けやすいでしょう。
手で足の指をギュッと揉むようにしても、同じ効果があります。


枡野俊明著「美しい人をつくる所作の基本」より転載 

vol. 3433
「姿勢を整えると、仕事も健康もいいことだらけ」  (2012/6/17 [Sun])
 姿勢を正しく整えるために、意識してほしい
体の部位があります。「頭」と「尾てい骨」の位置です。
頭のてっぺんから尾てい骨まで一直線に
なるようなイメージを持ってください。
 

頭と尾てい骨が正しくその位置におさまると、
背筋が伸びて自然に顎が引け、
背骨がS字カーブを描くようになります。
これが正しい姿勢。首が頭をきちんと支え、
両半身の重みが両脚にバランスよくかかっていて、
もっとも体に負担がかからない形です。
見た目も清々しく、りりしい感じがしますね。


また、胸も開きますから呼吸がしやすくなります。
姿勢が整うと、呼吸も整うのです。
一方姿勢が崩れると、重い頭を首が支えきれなくなり、
前に倒れて頭が落ちた状態になります
(頭の重さは、成人で約5キログラムもあるとされます)。
肩は後ろに下がって前かがみになる。
これでは胸が圧迫され、内臓にも負担がかかってしまいます。
呼吸がしづらくなり、内臓機能にも支障をきたしかねません。
 

現代は、デスクワークで長時間パソコンを使う仕事が増えたためか、
姿勢が崩れている人が多く見受けられます。
それが肩や首のこりにつながったり、
ストレスやイライラの原因にもなったりしています。
だからこそ、正しい姿勢を知り、
いつでも整えられるようにしておくことが大切なのです。


姿勢が整うと、気持ちにもが覇気が生まれ、
何にでも積極的、前向きに取り組めるようになります。
首や肩などにかかる負担も軽くなって、
イライラやストレスからも解放されます。
それは顔の表情にもあらわれてきます。
「あぁ、肩こっちゃって、また、今夜も湿布しなくちゃ」ということでは、
表情も曇りがちになります。それがなくなれば、
笑顔も自然と出るようになり、表情も明るくなるのではありませんか?


もちろん、周囲も「あっ、この人やる気があるな」と
受けとめますから、ビジネスの面でもプラス効果は大きい。
何より人生を溌剌として生きるには、美しい姿勢が欠かせない要素です。


枡野俊明著 「美しい人をつくる所作の基本」より

vol. 3432
『「おばさん」とは言わせない!美しく生きるために……。』  (2012/6/16 [Sat])
 さあ、いよいよ実践です。手はじめに、
あなたが普段どんな姿勢でいるか、チェックしてみましょう。
服装や髪形のチェックではなく、
「姿勢」という視点で自分の全身を映してみることは、
案外、少ないはず。「えっ、こんなんだったの!」―
――考えていた以上に“問題あり”ではありませんか?


 姿勢は見た目の印象を大きく左右します。
同じ年齢でも、姿勢がいいか悪いかで、
大きく差がつくものなのです。
小さい子どもは大人を見て「お姉さん」と呼んだり、
「おばさん」と呼んだりしますが、どちらの呼び方を
選ぶかの判断基準は、顔でも、表情でも、
声でもなく、姿勢だと言われています。


 背筋をピシッと伸ばして歩きましょう。
これは今すぐにでもできますね。
颯爽と歩いている人は誰の目にもさわやかに
美しく見えるものですが、背筋が伸びて
いなければそんな歩き方はできません。

 姿勢にもっとも注意を払っているのはモデルや
芸能人といった人たちかもしれません。
例外なく背筋が伸びた綺麗な姿勢をしています。
美しく見せるためには姿勢がいかに重要かを、
よく心得ているからでしょう。


 背筋を伸ばし、姿勢をよくすることは、
見た目の美しさにつながるだけではありません。
健康、さらに美容の面でもいい影響を与えるのです。
 

 曲がっていた背筋を伸ばすと、胸がぐっと広がるようになります。
胸が圧迫されていると、浅い胸呼吸しかできませんが、
広がることで深い腹式呼吸ができるようになるのです。


 なぜ腹式呼吸がいいのかというと、
深い呼吸ができるようになれば、空気をたっぷり吸い込むことができ
、体の血行が良くなるのです。血液にのって
酸素と栄養素が体の隅々にまで運ばれ、
細胞が活性化されて健康にもなりますし、
体自体が若返ります。血行のよい肌は色も美しく、
つややはりも増すのは言うまでもありませんね。


枡野俊明著 「美しい人をつくる所作の基本」より転載

vol. 3431
「日常のすべての動作をおろそかにすれば、心は乱れる」  (2012/6/15 [Fri])
「威儀即仏法、作法是宗旨」威儀、すなわち、
所作を正しく整えることが、
そのまま仏の法(教え)にかなうことであり、
作法に則って生活することが、教えそのものなのだ、
というのがこの禅語の意味です。
これは“外面と内面“”形と心”の関係をよく表しています。
「形と心ではどっちが大切?」と問いかけたら、
みなさんの多くは、「そりゃあやっぱり心のほうが
大事なんじゃない」と答えるでしょう。
 

誰でも姿形が美しくありたいという思いはありますが、
それよりももっと価値があるのは心の美しさだ
という感覚があるからですね。実際、“見た目はいいけれど、
心はちょっと”と評価されるより、“見た目はともかく、
心は素晴らしい”と評価される方が、
はるかに自分が認められている、という気持ちになりませんか?


 でも、禅語はそうではないと教えます。
威儀と作法は「形」、仏法と宗旨は「心」です。
それが同じだということは、形を整えれば自然に心も整う、
所作を美しくすれば、心も美しくなる、ということです。


 禅はもちろん心の修行ですが、あらゆる場面で
所作を大切にするのは、この教えが貫かれているからです。
所作をおろそかにしたのでは心の修行などできるはずもない、
というのが禅の考え方なのです。


 もうひとつ、禅では行住坐臥のすべてを修業としています。
行は歩くこと、住はとどまること、座は座ること、臥は寝ること。
仏教ではこれを四威儀といいますが、日常の立ち居振る舞い、
何をしているときでもその所作の一切合切が修行だと考えるのです。
だからこそ、一つひとつの所作を気持ちを込めて
丁寧にやることが求められます。もちろん、禅僧の修行生活と
みなさんの日常生活は違います。
しかし、所作が大切なものだという視点で、
それぞれの生活を見直してみることは、
おおいに意味のあることだと思います。所作の大切さを思い、
禅が教える正しい所作を知ってください。
そして、一つずつ、ゆっくりでいいから実践しましょう。

あなたは美しく変わっていきます。

枡野俊明著 「美しい人をつくる所作の基本」より転載

vol. 3430
「なぜ美しさと禅が関係あるのか?」  (2012/6/14 [Thu])
美しく生きるとはどういうことでしょうか。
おそらく、それは「正しい道を歩むこと」と重なっています。
そこに美しさと禅のつながりがあるのです。

 本格的には、禅は鎌倉時代に日本に伝わりました。
それまで支配層だった貴族に代わって、禅を支えたのは、
時期を同じくして台頭してきた武士階級でした。

 当時の武士はたがいに覇を競い合って、激しく戦っていました。
自分がのし上がって行くためには、親兄弟であっても裏切るし、
命のやりとりもする。そんな時代であったことは、
源頼朝・義経兄弟の確執からも明らか。
骨肉の争いが当然のように繰り広げられていたのです。

 血を分けた肉親でも信じられない。
何が自分の行くべき正しい道なのか判断に迷う――。
悩ましい思いを抱えて、武士たちは禅僧を訪ねました。
座禅を組み、問答を交わす中で、
武士たちは心の安らぎを得ると同時に、
みずからが歩むべき正しい道を見い出したのです。
禅が、美しく生きるための方向を指し示した、といっていいでしょう。
禅僧の説く教えや語る言葉もさることながら、もしかしたら、
それ以上に武士の胸に響いたのは、
禅僧の佇まいではなかったか、と私は思うのです。
心が千々に乱れた自分の前にいる
禅僧の泰然自若としたおおらかな所作、
凛とした空気を醸し出す姿勢……。

 心、口、意の三業が見事に整った佇まいは、
強靭な美しさを放っていたに違いありません。
もちろん、それは厳しい禅の修行がつくりあげた美しさです。
そこに、益荒男ぶりを誇る武士たちも
「この人のおっしゃることなら大丈夫だ」という全幅の信頼を寄せたのでしょう。

 禅はその教えで武士たちを正しい道、
つまり美しい生き方にいざないましたが、
その背景には、禅僧の美しい佇まいがあり、
それによって醸し出される器の大きさ、包み込むような
優しさがあったのではないか、という気がします。


枡野敏彦 「美しい人をつくる所作の基本」より転載


vol. 3429
「便利さや効率ばかりを追うと、ますます美しさから離れることに」  (2012/6/13 [Wed])
便利なものにすぐ飛びつく。
効率を上げることばかりに躍起になる。――それがこの時代の
風潮でしょう。ものごとにひたすら取り組むよりは、
便利なものを手に入れて体裁だけ整えてしまおうとか、
知識や情報をかき集めてなんとか効率よくことを運ぼうとか……
そんな生き方が目立ちます。
 

美しさも例外ではありません。美しくなる便利グッズと
聞けば興味津々、美しくなるための知識や情報にも
敏感に反応するのではありませんか?でもはたして、
それで美しさが手に入るでしょうか?


 表面的な美しさは実現するかもしれません。
しかし、美しさの本質や真髄に触れなけれそれを自分のものに
することはできない、と私は思っています。
職人さんの世界ではこういうことがあります。
親方は自分の持っている技を、弟子に“言葉”では伝
えることはしません。技の神髄は言葉では伝えられないのです。
ましてや、技を習得する便利な道具もないし、
知識や情報をいくら詰め込んだからといって、
技が身につくものでもない。


とにかく自分の体を使って、やり続けるしかないのです。
親方の動きを逐一見て自分なりに真似てみる。
もちろん、まねているつもりでも、できばえは圧倒的に違います。
修業時代はその繰り返しです。


 ところが、あるとき、ある瞬間に「あっ、これか!」と気づく。
いわゆる、腑に落ちるということですが、親方と同じ動きを、
今自分もしていると体が感じ取ると言ったらいいでしょうか。
それが技を会得することですし、真髄にふれるということなのです。
匠の技の伝承とはそういうものです。


 禅の修行にも似たようなことがあります。
臨済宗の修行では「公案」に重きが置かれています。
公案というのは一般にいう禅問答ですね。
師匠が問いを投げかけて、弟子がそれに答える。
しかし、これが一筋縄ではいきません。


 もちろん、答えは師匠の心にだけあって、
回答集のような“便利”で“効率的”なものなんてありませんから、
何度でも答えをぶつけるしかないのです。
これぞと思いついた答えを持っていっても、
「違う!」とニベもなく突き返される。

 
精も根も尽き果てるまで、弟子は追い込まれます。
そこまできてようやく師匠から、
「まぁ、そんなものだろう」という言葉がもらえるのです。
公案に打ち込むことで何かを得た弟子の姿を認める、
ということでしょう。


 理屈を超えたこのような世界、考えるだけでは
どうにもならない世界から、今、人はどんどん遠ざかっています。
それを象徴するのが、便利至上、
効率一辺倒という“頭でっかち”の考え方ではないでしょうか。


 しかし、「本当の美しさ」も、実はそちらの“遠い”
世界にあるのです。理屈も能書き脇に措いて、
とにかく正しい所作を、気持ちを込めて繰り返しやり続ける。
その先には必ず、美しい自分を見つけているあなたがいます。


枡野俊明著 「美しい人をつくる所作の基本」より転載

vol. 3428
「所作・呼吸・心は三位一体」  (2012/6/12 [Tue])
禅には「調身、調息、調心」という言葉があります。
禅の修行の根本である座禅の三要素とされるもので、
順に、姿勢を整える、呼吸を整える、呼吸を整える、
ということです。

この三つがそろうと心安らかな境地に至ることが
できるのですが、それほど「姿勢」と「呼吸」と「心」は
深くかかわりあっています。


 つまり、姿勢(=所作によって成り立つ)が整うと呼吸が整ってくる、
呼吸が整うと心が整ってくる。これらはそんな関係にあります。
文字通り三位一体としてお互いに結びついているのです。


 逆に言えば、所作が整わなければ呼吸も整わないし、
呼吸が整わなければ心も整うことはない、ということになります。
この座禅の三要素は、そのまま美しい人になる必要条件だ、
私は思っています。


 あなたの身の回りにいる美しい人を思い浮かべてください。
そして、所作を、呼吸を、心を、ズームアップしてみましょう。
何か気付くことはありませんか?
「そういえば、いつも背筋がピシッと伸びているし、
お辞儀ひとつとってもすごく感じがいい。
物腰が柔らかいってああいうことなんだ」
そういう人はデスクに片肘をついて顎をのせていたり
椅子から足を投げ出したりしていることもない筈です。
所作が整っているのです。


「クライアントを前にしたプレゼンテーションでも、
アガっている様子なんか全然なくて、
落ち着いて主張すべきことを堂々と主張していたなぁ」
何故その人は、困難な状況でそんな姿を維持できているのか?
それはどんな状況にあっても、呼吸がきちんと整っているからです。
あるいは、「会話の中で声を荒げることもないし、
トラブルに際しても常に冷静に対処している」人もいますね。
その人の心がいたずらに揺れ動くことなく、穏やかに整っている証拠です。


 美しい人をちょっと気にして、注意深く観察すると、
所作、呼吸、心が、まさしく三位一体だということが、
明確になるのではないかと思います。所作は美しいけれど、
呼吸は乱れているし、イライラしていて怒りっぽい、
ということはないのです。


 座禅が、調身、調息、調心が相まって完成するように、
美しさも、所作と呼吸と心が一体となって整うことでつくられます。
それがわかると、やるべきことがおのずから見えてきませんか?


枡野俊明著「美しい人をつくる所作の基本」より転載

vol. 3427
「そもそも人の美しさとは何だろう」  (2012/6/11 [Mon])
「美しい人だな」―――誰かにそんな思いを持ったことがあるでしょう。
その美しさとはいったいどこからやってくるものなのでしょう。
寸分の隙もなくお化粧もし、着飾っているからですか?
「いいえ、それはちょっと違う」という感覚がありませんか?


 もちろん、外見はどうでもいいということではありません。
しかし、最先端のファッションで装い、
高価なものを身につけていたら、それだけで美しいでしょうか。
うなずく人はいないと思います。
たとえ、外見ははっとするほど目を惹いても、
所作がだらしなかったりしたら、
たちまち美しさは剥がれ落ちてしまいます。
いかにも取り繕っている、という印象を拭えません。


 内からにじみ出てくる美しさ。本物とはそういうものでしょう。
こればっかりはファッションや
メイクといった“借り物”ではどうにもなりません。
それは、生き方、生きざまを反映するもの、
なまみの人間性を問われるものだからです。


 いきいきと生きる。ヒントはそこにありそうです。
その為に不可欠なのが先日の「三業を整える」ことです。
つまり、内面の美しさを手に入れる鍵は「所作」なのです。
まずもっとも基本になる「姿勢」を正しましょう。
そして、しっかり「呼吸」をする。


 背筋が曲がって前かがみになった姿勢でいると、
胸を圧迫されて呼吸も浅いものになります。
緊張しているときがまさにそれ。
気持ちがあせって動作もオドオドしてきます。
日常的にそんな状態だったらどうでしょう。
前向きの気持ちになれるでしょうか。
いきいきと生きられますか?


 そう、姿勢や呼吸は、生き方と密接につながっているのです。
にもかかわらず、普段なおざりにしている人が少なくありません。
さあ、そこから始めてみませんか?
そして、にじみ出る美しさ、本物の美しさに向かって、
着実な一歩踏み出してください。


枡野俊明著 「美しい人をつくる「所作」の基本」より転載

vol. 3426
「三業を整えよ」  (2012/6/09 [Sat])
仏教は「三業」を整えよ、と教えます。
三業とは「身業」「口業」「意業」の三つ。
つまり、身(体)と口(言葉)、意(心)を整えて生活することで、
良い縁を結ぶ条件がそろう、というわけですね。


 一番目の「身を整える」とは、所作を正しくする、ということ。
姿勢や一つひとつの動作を正すということばかりではなく、
正しい法(教え)にしたがって、できるだけ他人のために
自分の体を惜しみなく使う。それが身業を整える、ということです。


人間はともすると自分中心の行動をとりがちですが、
そうではなくて、まず相手の立場に立ってものを考え、
行動するように努めることが大切です。


次に「口を整える」とは、愛情のある親切な言葉を使うことです。
同じことを伝えるのでも、相手の年齢や立場、
また、人柄や力量によって、伝え方は異なって当然。
いえ、その人にふさわしい伝え方をすべきなのです。
「この人にはどんな言葉で伝えたらいいのだろう?」
それを常に考えていくのが口業を整えることになります。


最後の「意を整える」とは、偏見や先入観を排し、
ひとつのことに囚われることなく、
どんなときも柔軟な心を保つことです。
禅ではこれを「柔軟心」と呼びますが、喩えるなら、
空に浮かぶ雲のように形も流れ方もまったく自由自在な心、
と言ってもいいかもしれません。


このように、身、口、意の三業を整えることが、
良い“縁”を呼び寄せ、結んでいくことに直結するのです。
キュウリの例でいえば畑の耕作や肥料を撒くこと、
水やりや日頃の丹精が、
人間にとっては三業を整えることにあたります。
いつも三業を整えるという意識を持って生活する。
その積み重ねが、私たちの人生を実り多い、
さらに人々から祝福されるものに変えてくれる、
と言っていいでしょう。

所作は、よりよき人生を築いていくための、
そして、美しく生きるための三本柱のひとつです。
このことを肝に銘じてください。


枡野俊明著「美しい人をつくる「所作」基本」より転載

vol. 3425
「済んだ過去は、幸福にはしてくれません。」  (2012/6/08 [Fri])
人間は、今の現状に対して不幸だと感じたり、
不満を持っていますと、自分の過去を気にしだします。
「こんな筈では無い」と、過去の粗探しを始めるのです。
「進むべき道を踏み間違えたのではないか?」と不安に成り、
過去に縛られ始めます。


人間は生まれ出た後は、自分の魂の努力により
運命を構成して行きます。運命は、変わります。
特に正しい信仰を持ちますと、運命は簡単に改善して行きます。
人生において、どの様に自分の心を「運んだ」のか?、が
運 命の本質です。運命とは、決められた「未来」では無く、
努力の結果の「過去」の事です。大きな勘違いをして、
ジッとしながら運命を待つ事ほど愚かで無駄な時間はありません。


以上の事を理解すれば、自分が目前の事に集中し努力しなければ
生けない事が理解出来るでしょう。
与えられた現状はあなたにとって必要で必然なのです。
現状に感謝し、目の前の出来事に手抜きなくベストを
尽くして楽しく努力して生きましょう。


今日も生かして頂いてありがとう御座位ます


「伊勢白山道」より転載


vol. 3424
「とにかく大丈夫なのですよ」   (2012/6/07 [Thu])
 一人一人が、それぞれの環境の中で生きています。
人間の性(サガ)として、楽しいことは早く終わり、
不満は長く続く性質が在ります。
これは、この世の意味が心を成長させることに在るからです。
枯渇状態だからこそ、いつも何かを求めるのです。


 今、苦しい人や悩み多き人は、
まだまだ成長できる可能性がある人です。
ひょっとしますと、悩みから悟りにいたるかもしれません。
だから、不満や悩みを継続している
自分自身を嫌わないことです。
そういうものなのだと思って下さい。


 この世で私たちがすぐ忘れてしまう事があります。
それは、この世の時間は有限(寿命)だということです。
これを忘れますと、人間は小さなことやくだらない物事に
執着してしまいます。それも命がけにしてしまうものです。


 どんなに憎い他人が居たところで、
相手も、自分もいずれ死ぬ肉体です。
貴重な限られた時間の中では、
勝者も敗者も居ません。
この世の物事は必ずすべてが無くなるのです。


生死の観点から悩みを見ますと、
どんな悩みも大したことではありません。
自分が今、生かされている原点に戻ることが大切です。

永遠の寿命をもつ自分自身の心が、
有限の狭いルール世界に遊びに来ているのが真相です。
ゲームとは、ルールを破れば面白くないのです。
だから、絶対安心な永遠存在(=私たちの良心)が、
苦しいサバイバル(生き残り)ゲームを体験しに
ワザワザ来ているのです。
自分の良心だけは傷めないことに注意すれば、
必ず良い世界に戻れます。


 人間はある程度思い悩めば、
アッサリと潔くあきらめることも人生には大切です。
自分があきらめて忘れた後に、自分がその件で
蓄積した霊的な念が初めて発動するものです。


それはなぜか?自分の執着心が思いを縛り付けて
自分の身に憑けておいていたからです。
この期間には、相手には通じません。
この繋いでいた執着の鎖を解き放てば、
蓄積した念は初めて動きだします。


 人生は、忘れた頃に福がくるものです。
今の生活も縁があっての事です。 
まあ、慌てずに今の生活を大切にして生きましょう。


生かして頂いて ありがとう御座位ます。

「伊勢白山道」より転載


vol. 3423
「過程を大切に」  (2012/6/06 [Wed])
 物事を「静観する」とは、いろいろな段階のレベルがあるものです。
無関心や放置をしておくことでは決してなく、自分ができる最大限の
「行為」をしている上で、それからの「結果を手放す」ことでもあります。


 自分が努力した物事については、やはり何か一言を相手に
言いたくなりますし、反応を期待するものです。
でも、これらを手放した時に、正しく静観ができ始めます。
何か難しいなあ、なんのこっちゃ?と思うでしょう。
要は、自分ができる努力をしていれば初めて静観ができるという事です。


 でも努力したことは結果がほしいと思われるでしょう。
逆の結果が出れば嫌にもなるものです。
しかしここに、この世の法則があります。
それは何か?結果は必ず、この世だけのものであり、
いずれ消えていく、終わる、評価が変わっていくものなのです。


 あなたが悩み模索している「過程」こそが、
永遠に残るものでありあの世に持参できる物なのです。
この世と、あの世では、求めるものが全く逆なのです。
要は人間は、結果だけを求めて、
過程を捨てている人が多いのです。
結果だけを求める人間はギスギスとした余裕のなさが目立ちます。
必ず人生は終わり、有限で有ることも忘れています。


 だから、この世での結果が悪くても、その過程を
自分の良心に恥じることなく生きる人は、
人生の本当の勝利者です。
あの世の良い次元にも通じます。


 見えない先祖や仏さまに感謝することも、
その過程が大切なのです。
ここでの過程は、「先祖への思いやり」のことです。
感謝すれば、どうなる、こうなるなどは、全く関係無いのです。
自分が今に生きているのは、
「先祖が生きてくれたからだ」だけのことを、
「自分自身が恩義に感じて」感謝したいからするだけのことです。
この世は、何でもアタリマエだとしている「恩知らず」が
多いのです。死後に必ず困る人でもあります。


結果を求めて生き急がずに、今の現状に立ち止まって、
今の過程を静観しましょう。
とにかく結果主義ではなく、一生懸命相手のことを考え
良心の気持を伝え、そうやって相手や周りのことを思って
努力した行為のプロセスを大切にしましょう。
それこそがあの世に持って帰れる貴重な宝物だからです。
これを極めれば、あなたは命の永遠性を垣間見ることでしょう。


生かして頂いて ありがとう御座位ます。

「伊勢白山道」より転載

vol. 3412
「磨いてこそ光ります」       (2012/6/05 [Tue])
私は普段の生活において、他人を見かけたり
話し合ったりしている時は、その人にも生みの親がおり、
更には心の中に仏様がおられると思いながら見ています。

 この様な視点で人物を見ますと、理不尽な人物や
怒る人物をも冷静に見る事が出来ます。

 生まれた赤子が成長するには、
大変な御世話と時間が掛かるものです。

 一人の人物だけを見るのでは無く、
その背後に隠れている育てた人々の事を思い遣るだけで、
その人に対する見方が変わります。
 
 社会で生きていますと、人間同士には色々な摩擦も付き物です。
 
相手を通じて、自分の鏡(=魂)を磨いてピカピカにする事が、
人が生まれて来る大きな目的の一つなのです。
厄介な事に、自分一人では自分の鏡を磨く事が出来無いのが、
この世のエッセンスです。

 必ず磨り合わせて摩擦を生じさせる相手の鏡が必要なのです。
 これが夫婦であったり、親子、同級生、同僚であったりとするのです。

 他人と摩擦が生じる間は、自分の鏡がピカピカに
成る為の過程だと思う事です。
 ある意味、まだ磨き足りないとも言えます。

 自分自身の鏡を磨くと言う意識を持つ事は、
この世の次元では非常に大切なことです。
 無意識のままでは、苦痛という惰性の下で
貴重で有限な時間を捨てる事と成ります。

 自分の鏡が光りだしますと、すべての人がいとおしく感じられます。
 
 私たちが絶対に忘れては生けない事は、
相手にも自分にも心の内には良心として仏様が宿っている事です。

 相手を説得する時は、相手の心の仏様(良心)に
呼び掛ける気持ちで話しますと、その場では相手に理解されなくても、
後から引っ掛かる様に相手が感じ出すものです。

 ただし、その内容は相手の仏様に通じる自らの
良心からの物でなければなりません。
 
今日も、多くの人々の鏡と切磋琢磨して生きましょう。
自らが光り出します。
 
生かして頂いて ありがとう御座位ます。


伊勢白山道より転載

vol. 3411
「鏡の法則」  (2012/6/04 [Mon])
 この世は、他人にした事が自分自身に反射して、
自分の現状や心の状態を創る様に初期設定されている世界です。

 ただ、その反射が自分に起こる時期が、
何時になるのかが分からないだけの事です。
 反射として表れなくても、
水面下で悪因の消化として相殺が起こるなど、
とにかく一切のムダと不合理は無く自分に帰ります。

 だから自分が変わりたければ、自分の周りに居る人々に
誠意を持って出来る事をして上げれば良いです。

 それが実際一番に自分自身を改善させて行きます。
 
 仕事や諸問題などで悩む人が多いですが、
その前に自分の中の仏様への感謝をする気持ちが薄い限り、
よそ見をしているのでフラつくだけです。答えなどは決まりません。

 自分の心に良心と言う仏様が、
すべてを自分と一緒に見ているのです。
犯罪をすれば、自分の良心がすべてを見ています。

 良い事をすれば、誰にも褒められなくても良心が観ています。
自分の中に仏が居るのですから、隠せる訳が無いのです。

 これから各人の中の仏様が、
良心と言う形で発露をし始めるでしょう。


生かして頂いて ありがとう御座位ます


伊勢白山道より転載
 

vol. 3410
「静観の時代」  (2012/6/03 [Sun])
私が昨日、金環食の後で感じたことは、
「もうそんな時節ではない」ということでした。
これはある意味厳しい一面を含んでいます。
他人に対して、腹をたてたり嘆く時代はもう終わりました。
ということです。各自が、すみやかに反射を受ける時代ですから
そのまま静観する以上のことは不要です。

 相手が法律に反するような迷惑をかける場合は
自分や家族を守る目的で法律の専門家や警察に相談すれば良いです。
淡々と感情的にならずに。

 腹が立つ感情はさっさと手放しして
いつまでも感情的に深追いすることは厳禁です。

 相手が相手の良心に反することをしているのなら
その良心が正しく本人に反射をします。
だから私たちが深追いする必要はありません。

 逆に感情的に深追いすることは、
逆に私たちを傷つけることになります。だから厳禁です。
あなたが許せない人がいるとします。
あなたを傷つける言い方をする人であったり、
あなたにウソやゴマカシをする人であったり、
あなたを軽んじて無礼な人であったりします。
しかしあなたは静観していれば良いのです。
その人は正しく自分の反射を受けるからです。
これは全ての人に平等な次元の変化です。

多くの人が直接的にあるいは間接的に太陽と月から
形成されるリングを見たということはもう全員がそういう時期です。
という意味です。
これは逆に、自分を傷つけた人に対して静観以上の深追いをする感情は
本人に返って本人を傷つけるということです。
もうこのことも顕著にあらわれるようになります。
相手は確かにゆるせない人かもしれない。
でもあなたは裁きは相手の良心にまかせて
(必要な場合は淡々とした法的処理も)相手をもう、
憎んだり、嘆いたりしてはいけないということです。
その刃は全て自分に返ります。
水に流せない感情の粘っこさは自分を縛ります。
恨みや嘆きを棄てられない人には厳しい告知です。
他人に対する恨みごとは常に流すことができ相手の良心を
信じておまかせして静観できる人がこれからの私たち人類であるようです。
間に合えば良いのですが。

自分を粘っこいネガティブな感情で縛ることをしない人類とは
とても精妙な波動の人類です。「水に流せる」=「精妙さ」です。
物質の肉体が、半霊半物質になるということでもあります。
粘っこい恨みや嘆きは重さであり縛りです。
サラサラと流せる人は自分の身の回りの世界が
変わっていくことを感じるでしょう。
自分の粘っこさを手放すことができたなら切れるべき縁は
どんどん勝手に自然消滅していきます。
憎い相手を引き止めていたのは実は自分の粘っこさでした。

サラサラと水に流せる人から感じるのは
・透明感、明るさ
・精妙さ、軽やかさ
・良い匂い
というイメージです。

私たち人類みんなのサラサラ変化がミロクの世に間に合うことを思います。
今日も気づかせて頂いてありがとうございます。


生かして頂いてありがとう御座位ます

伊勢白山道より転載

「今を大切に生きれば大丈夫」6/2(土)   (2012/6/02 [Sat])
「今」の連続が未来を形成するのです。これは、法則です。
しかし、多くの人は、ポッカリと未来が「既に」在ると錯覚をしています。
 
そのポッカリ未来を知ろうとして、貴重な今を悩んでいるのです。

 今の連続が未来である法則から考えますと、
その悩んでいる人の未来は、やはり悩んで
不安なままの未来が来るのです。

 だから、今の自分の現状の中でも、
感謝すべき事に気付ける人間は幸いです。

 その人の未来には、気付いた分の「感謝をしたくなる現実」が
訪れるでしょう。幸運が来るのです。
 
 人間は、色々な人生の選択で悩むものです。
結婚・就職・引越し・・・色々とあるものです。
しかし、これが人生ではないでしょうか?
このハラハラ・ドキドキの選択を経験したくて、
変化の無い「あの世」からワザワザ生まれて来たのです。

 確実に言える事は、どの道を選んでも問題は
発生すると言うことです。それが、この現実界での宿命です。

 どんな問題にも、自分の心まで痛めずに、
淡々と歩いて行くのが最善の人生を歩かせます。

 「生・老・病・死の問題」からは、誰も逃れることは出来ません。
自分の選択により、どんなに悩もうが、苦しもうが、大丈夫なのです。
なぜなら、人は必ず死ぬからです。すべては短い一時の事なのです。

 それよりも、絶対に死ねない永遠なる存在である、
自分の「心」について心配をした方が良いです。
 
 人間の心は、永遠に死ねません。これは、
ある意味では恐ろしい事です。絶対に逃げられないし、
終わりなく続くのですよ。自殺なんかしても、
今の苦しい心の状況は何も変わりません。

 肉体を無くす分、感覚が鋭敏に成りますから、
苦しみも10倍増すだけです。
自分の心を大切にする人間が、ほんとうの真の勝利者と成ります。
 
 目先の選択にこざかしい手段を駆使して悩んでいる場合ですか?
人生を楽に生きたところで、短い一瞬の事ですよ。
それよりも、自分の良心を傷付ける行動や、目先の消える物事の為に、
心配して自分の心を傷付けたり、感謝不足の事の方が、
よほど重大で深刻なことなのです。要は、どんな選択でも大丈夫です。
自分の良心さえ維持出来るならばね。

 自分の良心が維持出来なければ、出来るように歩く道を変えれば良いだけです。

 良心には、「感謝の心」、「情け心」、が必ず在ります。
 この気持ちを忘れずに選択をするのが、最善へと自分を誘導させます。
 
 生かして頂いて ありがとう御座位ます。
 

伊勢白山道より転載


vol. 3408
「困った人を助けよう」  (2012/6/01 [Fri])
老人介護の報道をTVで見ました。取材された家庭は、
80歳を超える方が、認知症で動けない高齢女性を
一人で面倒を見られている家庭でした。

 介護をしている老人は、女性の世話をしていて
背骨を疲労骨折されていました。だから上半身だけが、
不自然なほど折れ曲がっていました。

 普通ならば、介護をしている本人が入院、
もしくは介護をされていても当然な感じに見えました。
しかし、その介護人は料理を自分で作り、
一口ずつ女性の口に運んでおられました。
老人が老人を介護する老老介護の典型でした。

 いや、怪我をしている老人が、認知症の老人の
世話をするという深刻な介護でした。
介護人は、女性が叫ぶ意味不明な言葉にも、
優しく丁寧に一つ一つ返答されていました。
 
 その様子を見ていて、私には介護をする人の
性別が分かりませんでした。
どうしても性別を超えた観音様に見えたのでした。
薄く輝く金色の姿にしか見えなかったのです。

 私の家族にその方の性別を聞きましても、
意見が分かれました。まさに生きながらにして、
人間が中性に向かう見本のような人でした。
その心境に至るには、どのような宗教的な修行者も敵わないでしょう。
 
 人間は、どんな道を選択しても、その中で懸命に
自分の良心を発露させることが出来れば、
仏様の元へと至るのです。

 あの介護人は、施設に認知症の老人を安易に
預けることを不びんに思い、自分が出来る最大を
尽くして死んで行く「覚悟」をしていると感じました。
TVを見ていても、決して暗さを感じさせませんでした。

 高齢であることも含めて、
既に「生老病死の苦悩を超えた」心境を見させて頂きました。
 
 地球上での人間は、生まれ出る環境は全員がバラバラであり、
不公平感を思わせるかも知れませんが、
霊的な意味では真に完全なる平等なのです。
仏様の為さる技には、間違いはありません。
自分の行為と思いを、時間と人生を挟んだ後に
反映して受け取っているだけなのです。

 だから、生きている間は、絶対にあきらめては生けません。
正しく生きれば、正しく「いつか」それを自分が受け取ります。
生きている短い間ぐらいは、縁ある多くの先祖を始めとする
「いのち」を慰め、縁ある生きる人を出来る範囲で助けたいものです。
いつか、自分自身が助けられ、癒されます。

 人間が死ぬということは、生まれ出た国も人種も生活も超えた、
全に平等な区切りなのです。
 この区切りを明るく超えて行くには、

この言葉で普段から「生きる」ことです。
それが、生かして頂いて ありがとう御在位ます。


伊勢白山道より転載

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