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2012年 8月

「少し高くても愛着の持てるものを買う―が、買い物の極意」  (2012/8/19 [Sun])
 あなたは買い物をするとき、じっくり時間をかけて
買うかどうかを決めるタイプですか、それともパッと
即断するタイプでしょうか。
現在のように物があふれかえっている時代には、
とりあえず買って、気に入らなかったら、
また別のものを買えばいい、と考えている人が多いかもしれません。

 しかし、そうして買ったものは扱いがぞんざいになりがちです。
管理もずさんになって、「あれっ、どこに置いたっけ?
まあ、いいや、高いものじゃないし、また買えばいいんだから……」
ということにもなるのではありませんか?

 もちろん、消耗品やふだん使いの実用品は
<100円均一>のショップで間に合わせる、
というのはいいと思います。ただし、物とのかかわり方が
それ一辺倒では少し寂しい気がするのです。

値段は高くても、思い入れがあるもの、愛着が持てるものがあると、
人生が豊かになります。たとえば、欲しくて仕方がなくて、
お金を貯めてやっと手に入れた万年筆なら、当然、
大事に扱うことになりますし、そうしているうちに、
どんどん愛着が湧いて来ます。
道元禅師は「他戸」という言葉を使っていますが、
他(物)と己(自分)が一体と思えるようになるのです。

 物というのは、ただあるのではなく、
人生に寄り添ってあるのだ、という言い方をしてもいいでしょう。

 「彼にはじめて書いた手紙も、それから二年後に
婚姻届を書いたのもこの万年筆だった。
母子手帳のこの字は、うれしくて思いきり明るい
ブルーのインクにしたのだった……」

 こんなふうに万年筆を見ると、人生の印象的な場面が甦ってくる。
物が人生に寄り添って、共に歩んでいる、という気がしませんか?
物がいきいきと人生を彩ってくれるなんて、なんだか豊かだなぁ、
と思うのです。100円ショップを活用するのもおおいにけっこうですが、
こんなメリハリもあっていいですね。


枡野俊明著「美しい人をつくる所作の基本」より転載



vol. 3626
「日本文化に触れる」  (2012/8/18 [Sat])
 美しい人になる、また、美しく生きるうえで必要不可欠なのが、
日本文化に触れることでしょう。ここまでお話ししてきたこともすべて、
どこかで日本文化に触れることにつながっている、
と私はひそかに信じています。

 日本文化ほど心を和ませ、癒し、
穏やかにさせてくれるものはありません。
手前味噌になって恐縮ですが、「禅の庭」などは
その最たるものではないでしょうか。石組と白砂だけで構成された庭は、
どこまでも簡素で、しかし、深みと広がりを感じさせます。
ですから、いつまで見ていても飽きるということがないのです。

 「禅の庭」の前に立ったとき、誰もが
その澄み切った静けさに心を打たれるのではないでしょうかと思います。

 静けさを生み出しているのは「余白」。
京都の禅寺・竜安寺の石庭(枯山水)は
世界遺産にも登録されているほどの名庭ですが、
置かれている石はわずかの15石でしかありません。
あとは敷きつめられた白砂と何もない空間、
すなわち余白です。その余白が石と響き合って、
限りない静けさ、永遠の静寂を醸し出している、
という気が私にはします。
見ているうちにその静けさが心に沁み入ってくる。

 京都や鎌倉には禅寺がたくさんありますし、
わざわざそこまで出向かなくても、あなたの近くにもきっとあるはず。
折に触れて訪れ、「禅の庭」の前にしばし佇んでみてはいかがでしょうか。

 生きていたら、仕事や人間関係、
その他諸々が原因となって心が騒いだり、
荒んだりすることがあって当然です。
大事なのはそれをそのまま放っておかないこと。
「禅の庭」はもちろん、書でも絵画でも、あるいは茶の湯でも、
何か日本文化に触れて、心を静めてください。

 そして、静かな心で悩みや迷いを吹っ切っていく。
美しい生き方とはそんなことだろう、と私は思っています。


枡野俊明著「美しい人をつくる所作の基本」より転載

vol. 3625
「無駄を省く・捨てる極意」  (2012/8/17 [Fri])
 前項で「見立て」ということについてお話ししましたが、
現代人の生活は何から見立てたらいいのか戸惑ってしまうほど、
たくさんの物に囲まれている、というのが実情ではないかと思います。
わが家には無駄なものなどひとつとしてない、という人は皆無でしょう。
こで、できるかぎり無駄を省いていく、
つまり、ものを捨てることも必要になるわけです。

 ところが、これがなかなかできない。
「捨てられない症候群」という言葉があるくらいですから、
どこかに必ずものへの執着があるのが人間というものなのでしょう。
自分のなかで一定のルールをつくる。それが捨てる極意です。

 たとえば、三年間一度も使っていないもの、
三年間一度も袖を通していない衣類は捨てる。
というルールを決めるのです。
これまでの経験を思い出してみてください。
三年間使っていなかったものを、再び使ったことがありますか?
三年間気なかった洋服を、また着たことがあるでしょうか。
答えは「No」のはずです。

 だったら、それらはあなたの生活空間を無駄に
占領していることになります。<捨て方>はいろいろあります。
使ってくれる人、着てくれる人がいたら、
さしあげるというのもそのひとつ。衣類などを集めて、
必要としている国や地域に送る
ボランティア団体などもありますから、
そこに寄付するという手もある。
フリーマーケットに出すというのも上手い捨て方ですね。

 無駄なものがなくなると、生活空間が広がって
暮らしが快適になります。ものを捨てるとことは
執着を捨てることですから、心も軽くなるはずです。
さらに、捨てるには大事なもの(必要なもの)と
不要なものを選り分けることが不可欠。その結果、
大事なもの(必要なもの)だけが残ることになります。
大事なものは大切にするでしょう。
そう、捨てることでものを大切にする生活が
自然に実現するのです。「放てば手に満てり」は
道元禅師の言葉。放って(捨てて)満ちるのは、
生活の美しさですね……きっと!


枡野俊明著「美しい人をつくる所作の基本」より転載

vol. 3624
「<再利用>とは<見立て>をし、別の命を吹き込むこと」  (2012/8/16 [Thu])
 茶の湯には「見立て」という考え方があります。
ひとつのものが壊れても、使い込んですり減っても、
それを何か別のものとして、使っていく、というのがその意味。
いわゆる「再利用」ということですが、単に物を大事にする、
無駄にしない、ということだけではなく、ものに別の命を吹き込み、
最後まで生かし切る、という含みがこの見立てにはあるのです。


 私が住職をつとめている横浜の建功寺には竹林があります。
竹は間引きが必要ですが、間引きのために切った竹は、
そこで命を終えるわけではありません。
私は一輪挿しの花器にしたり、萬燈除夜の鐘のときに
蝋燭を入れる燭台として使ったりしています。
大地に根を張る竹としての命はなくなっても、今度は花器として、
また、燭台として新たな命が吹き込まれて、生き続けるのです。


 最後には焼いて竹炭にして、部屋の置いて飾りとしたり、
お檀家さんに差し上げたり、焚火をして暖をとったりする。
そして、燃え残った灰は大地に返って新しい竹の命を育むことになります。


 建功寺の竹はこうして、形を変えながら永遠の命を生き続けています。


 見立てということを意識すると、ものとのかかわり方が
大きく変わります。たとえば、それまでなら、「この柄もデザインも、
もう古くさくなっちゃったな」と箪笥の奥にしまいっぱなしに
なっていたスカーフについても、「ちょっと待てよ。
何かに活かせないかしら?」と考えるようになるのです。
すると、さまざまな活かし方が浮かんでくる。
既製のブックカバーに貼り付ければ、オリジナルができあがりますし、
少し手を加えれば、ボックスティッシュのカバーにも、
ランチョマットにも、フォトスタンドの縁飾りにもなります。
活かし方は無尽蔵。「何にしようかな」と考えるのも
楽しい作業になるに違いありません。

 身の回りのものを、早速、<見立て>て命を吹き込みましょう。


枡野俊明著「美しい人をつくる所作の基本」より転載

vol. 3623
「家族との時間を大切にする。できれば、三世代一緒に暮らす」  (2012/8/12 [Sun])
 人が決して一人では生きていけないことは誰にでもわかっています。
誰もが人とのつながりのなかで生きている。
その最小単位は家族です。禅語に「露」という言葉がありますが、
私はこれが家族の関係の基本だと思っています。
すべてが露わになって、どこにも隠すところがない。
これが露ということです。

 自分を飾り立てたり、大きく見せようとしたり、あるいは、
必要以上にへりくだったり、おもねったり……。
世間の付き合いでは、ともすると顔をのぞかせそうになる、
そんな自分ではなく、ありのままで、裸の心で、向き合えるのが、
家族というものではないでしょうか。
しかし、家族は今、音を立てて崩れかけているように見えます。

 そんな今だからこそ、家族との時間を大切にすることを、
提案したいと思います。ふだんはすれ違っていてもいいですから、
週に一度くらい家族全員で食卓を囲む時間を持ったらいかがでしょう。
そこは家族ですから、一緒に食事をすれば、
会話も生まれるものです。なにげに会話、他愛ない会話からでも、
「ああ、そんなことしているんだ」という、
そのときどきのおたがいの姿が見えてくる。
それは人とつながっている自分を確認することでもあります。
人が生きるということの<原点>に立ち戻ること、といってもいいですね。
そこから、家族の絆を肌で感じ、それを確固としたものに
していくことの大切さに気づくまで、そんなに遠い距離ではありません。

 東日本大震災が掘り起こした絆の美しさ。
それが日本の津々浦々まで広がっていくかどうかは、
まず、一人ひとりが家族との絆を取り戻す努力をする、
ということにかかっている、と私は思っています。

 できれば、三世代が一緒に暮らす。それが家族の理想だ
という気がします。かつて日本では祖父母、両親、
子どもの三世代が、共に生活するのが当たり前でした。
両親が働いて家計を支え、隠居した祖父母が孫の面倒をみる。

 その家族関係のなかで、孫の世代は折々に、
祖父母から昔話を聞き、その土地に伝わる遊びを教わり、
人としての振る舞い方を学んでいきました。
ふつうに日々の生活を送りながら、ごく自然に、
地域の伝統や習俗、その家の家風のようなものや家の歴史、
生き方の基本、といったことが世代を貫いて伝えられていったのです。

 長幼の序のわきまえとか、他人への思いやりとか、
慎み深さとか……。そうした日本人が祖先から営々と
受け継いできた美徳は、あえて言挙げするまでもなく、
育ちのプロセスで醸成されていった、といってもいいと思います。
そんなしくみが家族にはあったのです。

 翻って今、核家族化がますます加速し、三世代は愚か
二世代同居というのも珍しいのが実情です。
首都圏に人口が、とりわけ若い世代の人口が集中していること、
そのこととの関連もあって住宅事情が厳しいこと、
など問題は山積していますが、家族が持っていた
日本人らしさを代々伝えていく<しくみ>を易々と手放してしまうのは、
とてもおしいという気がします。

 三世代があるいは二世代でもできるだけ近くで暮らすとか、
接触する機会を増やすとか、今すぐにでもとりかかれることはあるはず。
禅の本分は<実践>です。
あなたにできることからやってみましょう。


枡野俊明著「美しい人をつくる所作の基本」より転載

 

vol. 3362
「月を愛でる。月齢に合わせて生活する」  (2012/8/11 [Sat])
 日本人は古来から「月」を楽しみ、愛でて来ました。
建物を建てるときに月を見るための月見台を設えるとか、
中秋の名月がおさまる位置に窓をつくるとか、
月を愛でるためにさまざまなアイディアを駆使してきたのです。

 よく知られるのは足利義政が建立した京都の銀閣寺
(正式名称は慈照寺)の「向月台」。
白砂を富士山のような形に盛り固めた向月台と
その傍波のように敷かれた白砂の銀沙灘は、
月を楽しむための造形の最高傑作といってもいいでしょう。
今は亡き芸術家の岡本太郎さんは、
「私の発見したよろこびの、もっとも大きいもののひとつだった」
(「日本の伝統」知恵の森文庫)と、
はじめて向月台を見たときの感動を綴っています。

 禅では月を「真理」に重ねています。
「千江同一月(せんこうどういつのつき)」という禅語がありますが、
それぞれに違う千の川面に同じひとつの月が映っている、
つまり、濁った川面であろうと、そこには分け隔てなく月が
映し出される(真理があらわれている)、ということを意味しています。

 何も分け隔てしない、誰の命も等しく大切にする、というのが禅の心。
ときには月を眺めながら、それを心ゆくまで愛でた日本人の心、
そこに真理を見た禅の心に、軽〜く思いを馳せて見てはいかがでしょう。

 月の初めを「ついたち」といいますが、漢字で書けば「朔日」。
その語源は「月立ち」だといわれています。
月が立つとは月があらわれるという意味。
月の満ち欠けによって月日を数える旧暦では、
新月があらわれる日をその月の最初の日としていたわけです。
月は私たちの生活とも深く結びついていたのです。

 今、月の満ち欠けが書き込まれた「月齢カレンダー」が
ひそかなブームになっているようです。
「おっ、今夜は満月か!寄り道しないで帰って、
ベランダからお月見しよう」。
忙しい日々のなかにそんな時間があると、
気持ちが穏やかになるような気がするのです。
一度、試してみませんか?


枡野俊明「美しい人をつくる所作の基本」より転載
 

vol. 3361
「割り箸が最高のおもてなしである理由」  (2012/8/10 [Fri])
 日本独特の食文化のひとつが「割り箸」です。
これもおもてなしの心が形になったものといっていいでしょう。
食事でおもてなしするお客様に、誰も使っていない
真新しい箸を準備する。割りばしの意味はそこにあります。

 途中まで割って在るのは、手間をおかけしないため。
そして、最後にお客様自身が割ることで、
それが<未使用><清潔>であることが、
お客様におのずから伝わるというわけです。

 ここにも「語らずに通いあう心」があります。
ただ、手元に置かれているだけの割り箸が、
「あなたのために新しいお箸を準備させていただきました」
「お心遣いありがとうございます」という
コミュニケーションにもなっているのです。
あらためて、ひとつの行動、所作に込められた深い意味、
日本の文化のすごさを見る思いがするのですが、
みなさんはいかがでしょうか。

 ちなみに割り箸が使われるようになったのは、
江戸や大坂、京都などの大都市で庶民が
飲食店を利用するようになった江戸時代中期だといわれます。
もっとも使用頻度が高かったのは鰻屋さんだそうです。

 割り箸は一回使ったら捨てられるため森林資源への
影響や焼却処分する際のCO2問題などが取り沙汰されます。
そうした問題を無視することはできませんが、
もともとは製材するときに出る端材や間伐材を何とか使おう、
という<もったいない精神>から生まれたことを知っていて良いと思います。
それが、清らかなもの(清潔)を好む日本人の価値観、
箸一本にまで気配りをして相手をもてなしたい、
という日本人の思いと合致して、文化として定着したということでしょう。

 そんな割り箸の成り立ちを知ると、「○○すし」と書いてある
出前についてきた割り箸や、ビニール袋に入った
コンビニの割り箸などは、おもてなしの際はちょっと控えたい、
という気持ちになりますね。



枡野俊明著「美しい人をつくる所作の基本」より転載

vol. 3360
「打ち水の意味とは」  (2012/8/09 [Thu])
 和風の料理屋さんや飲み屋さんの前を通ると、
玄関前に綺麗に水が撒かれていることがあります。
「打ち水」と呼ばれる作法です。

その場を水で清め、万全の態勢を整えてお客様をお迎えしよう、
というのが打ち水の意味。
塩こんもりと盛った「盛り塩」をしているところもありますが、
どちらも、よろこんでお客様をお迎えしたい、
お客様を心地よい時間を過ごしていただきたい、
というおもてなしの心をあらわしたものです。

 水や塩に清める力がある、とするのは、古くからの日本の風習です。
お寺や神社に参拝する前に水で手や口を清める。
現代にもそうした身近な形で風習は生きています。

 打ち水には、埃が舞うのを防ぎ、夏場は見た目も涼しく
、実際の温度も下がるという、実質的な効果もありますから、
生活の知恵もそこに反映されているのでしょう。

 お茶会やお茶事には打ち水が欠かせません。
主催者である亭主は準備万端が整ったことを確認したうえで、
路地や玄関に打ち水をします。
招かれた側は打ち水がされているのを見て、
その家に入っていきます。
わざわざ亭主とお客様との間で、
「さあ、お越しください」「それではお邪魔いたします」
という会話を交わさなくても、打ち水がその呼吸を合わせてくれる。
まさに打ち水によって「あ・うん」の呼吸が成立するのです。

 現代の日常生活では打ち水をする機会はないかもしれません。
一軒家なら誰に憚ることなくできますが、マンションやアパートでは
苦情の対象になりかねません。
しかし、誰かを迎えるときのその心は持っていたいものです。
打ち水ができない場合は、三和土や上がり口の
水拭きをするだけでも、違います。

 また、その人のために選んだスリッパを玄関の上がり口に
さりげなく置いておく、辛いものが好きな人なら、
普段自分が使わなくてもホットな香辛料を用意する…。
そんなあなただけの<打ち水>を工夫すると、
おもてなしがいっそう楽しくなりますよ。


枡野俊明著「美しい人をつくる所作の基本」より転載

 


vol. 3359
「手拭を使おう」  (2012/8/08 [Wed])
 風呂敷とともに復活を望みたいのが、手拭い。
古くは神仏を清掃する神聖な道具として使われ、
神事を催す際の装身具でもあったことが知られています。
その流れから、今でも各地のお祭りでは、
独特の手拭いのかぶり方をしたり、
手拭いで鉢巻をしたりしています。

威勢のいい御神輿の担ぎ手に手拭いの鉢巻は欠かせません。
手拭いがタオルやハンカチと決定的に違うのは、
その使い勝手のよさ用途の広さはまさに独壇場の感です。

手を拭う、体を拭くことはもちろん、
掃除のときに頭にかぶれば埃よけになりますし、
寒かったら首に巻いてマフラー代りにもなる。

お化粧や髪を整えるときに肩にかければ、
洋服に汚れがつくことはありませんし、仕事や勉強に取り組むとき、
ねじって頭に巻けば気合いも入ります。

 今は和風の飲食店に暖簾がかかっていますが、
あれももともとは手拭いから発展したもの。
江戸時代の寿司屋台などでは、
寿司をつまんだ指を帰り際にかかった手拭いで拭くのが習いでした。

 草履や下駄の鼻緒が切れたら、その替えにもなりますし、
江戸っ子は着流しの肩に手拭いをかけ、
粋やいなせを演出していました。
こうして見てくると、手拭いの使い方には、
日本人の信仰心や生活の知恵、
遊び心といったものが色濃く反映していることがわかります。

身近に手拭いがあるということは、
そうした日本文化に触れ合って生きること、
という言い方もできそうです。
手拭いというと「いかにも古めかしい(今風にいえばダサい)」
と感じるかもしれませんが、それは明らかに認識不足。

 デザインも色使いも現代風のファッショナブルな
手拭いがたくさん登場しています。
東急ハンズやロフトにも手拭いコーナーがありますし、
東京の浅草などには、専門店もあります。
スカーフやバンダナとして使いたくなるようなものが、
いくらでも見つかるはずです。

見直す価値は十分すぎるほどあります!


桝野俊明著「美しい人を作る所作の基本」より転載

vol. 3358
「風呂敷を使おう」  (2012/8/07 [Tue])
 風呂敷というと、できもしないことを吹聴する、
いわゆる大言壮語の意味で「大風呂敷を広げる」
という言い方が頭に浮かぶ人が多いでしょう。
しかし、風呂敷は日本の長い歴史を生き抜いてきた
伝統文化そのものなのです。

 その起源は奈良時代までさかのぼり、
正倉院にも舞楽の衣裳を包む布が所蔵されています。
これが風呂敷の原型。当初は衣包、平包と呼ばれていましたが、
室町時代中期になって、禅寺で僧侶が入浴のときに
この布で衣を包み、湯上りには布の上で着衣を整えたことから、
風呂敷の名が生まれたとされています。

それが室町時代末になって、大名に広がり、
一般に定着したのは江戸時代に入って銭湯が普及し、
庶民も同じ使い方をするようになってからといわれています。

 今は何でもバックや鞄に入れて持つ時代ですが、
風呂敷の包む機能は他に類を見ないほど優れています。
たためば、着物の懐やポケットに入るほど小さくなる。
広げれば、かなりの大きさ、量のものまで包める。
しかも、包むものの形を問わないという変幻自在ぶりです。
「水は方円の器に従う」という言葉があります。
器が四角かろうが、丸かろうが、
水は自在に形を変えてそこに収まる、ということですが、
方円の器を包みこんでしまうのが風呂敷です。

 みなさんも、お世話になった人に贈答品を
持参するということがあると思います。
その際、紙袋からガサコソと品物を取り出すのが一般的でしょう。
ぜひ、風呂敷を復活させてください。
丁寧に品物を包んだ風呂敷をほどいて品物を差し出す。
その所作は、「あなたのために心を込めて選ばせていただいた品物を、
こうして大切の持ってまいりました」という無言のメッセージ。
感謝とともに伝統の香り漂う品位が伝わります。

 ここでちょっとした提案。ワインはそれ自体おしゃれな贈り物ですが、
ボトルをきれいな色の風呂敷でラッピングして、
そのまま差し上げるというのはどうでしょうか。
さあ、すぐれた日本文化の継承者にあなたからなりませんか?


枡野俊明著「美しい人をつくる所作の基本」より転載

 

vol. 3357
「ゴミをポイと捨てると、そのあと、みんなそこに捨てる」  (2012/8/05 [Sun])
 街中でも道路でも、いつもきれいに掃除が行き届いているところは、
不思議といつまでも汚れない。ところが、ゴミなどが散らかっている場所は、
あとからあとからゴミが捨てられて、
ゴミが捨てられて、ゴミ捨て場のようになってしまう。
そう言われたら、「たしかに!」と共感する人は多いのではないでしょうか。

 ゴミがひとつも見当たらなかったら、「ここに捨ててはまずい」
という気持ちになるのに、ひとつでもあれば、「まあ、いいか」と
思うのが人間の不思議な心理です。あなたが捨てたゴミが、
ほかのゴミをどんどん呼び寄せる。
そう考えたら、ただちに、「無責任なポイ捨てに<禁止令>を発動しよう」
ということになるのではないでしょうか。

さらにもう一歩進みましょう。ホテルでもレストランでも、
あるいはデパートでも、化粧室を利用したときに、
洗面台のシンクのまわりを見て、「あ〜あ、こんなに水浸し。
危うく洋服が濡れてしまうところだった」と感じた経験はありませんか?
たいがいのシンクは、手を洗ったときの水が飛び
散ったままになっています。たくさんの人が利用する場所ですから、
水滴は次から次にシンクを濡らすことになります。

しかし、あなたが手洗いのあとに使った備え付けのペーパータオルで
水滴を払って置いたらどうでしょう。
その後、水滴がついていない綺麗なシンクを使った人は、
自分が飛び散らせた水をそのままにするでしょうか。
「あっ、(自分で)拭いておかなくちゃ」ということになるとは思いませんか?

そうはならないとしても、まわりに一滴の水滴もついていないシンクは、
使っていてすごく気持ちがいい、と思うはずです。
わずか数秒もあれば、シンクまわりを拭くことはできます。
それが、次に化粧室を使う見知らぬ誰かを、
気持ち良く幸せな気分にさせる。
そんな所作、いいじゃないですか!


枡野俊明著「美しい人をつくる所作の基本」より転載

vol. 3356
「高齢者に対してすべきこと」  (2012/8/04 [Sat])
 老若男女が<共に生きる>。世の中とはそういうものです。
共生(ともいき)のためにはそれぞれが、自分をわきまえる、
ということが必要になってきます。しかし、今はそれが忘れられている。

公共の交通機関でお年寄りが前に立っていても、
知らんぷりで携帯メールや漫画本に熱中していたり、
寝たふりを決め込んだりしている若者がいます。
ゆっくりとしか歩けない高齢者が前にいると、露骨に嫌な顔をしたり、
押しのけて前に出たりする若年者がいます。
どこか歪んだ風景だと思いませんか?

 こんな言葉をご存知でしょうか。
「子供を叱るな来た道じゃ、老いを笑うな行く道じゃ」。
今は若くてもやがては年を重ね高齢者になっていく。
誰もその必然から逃れることはできません。
<明日は我が身>の姿がそこにあるのです。


「閑古錐(かんこすい)」という禅語があります。
「古錐」は使い込まれて先が丸くなった錐のこと。
先が丸くなった錐は、切っ先鋭い新しい錐のように、
簡単に穴をあけることはできませんが、
幾多の仕事をこなしてきたことを思わせる刃先や黒光りした胴からは、
何とも言えない穏やかで落ち着いた風格が感じられる、
というのがこの禅語の意味です。

 高齢者の存在とはこの古錐のようなものではないでしょうか。
その高齢者を敬い、大切にするのは、
若い世代の当然のわきまえです。
だたし、こんな意見があるのもたしか。
「席を譲ろうとしても、<私はまだそんな老人ではない>
という人がいますが……」

 実際、老いてますます盛んという高齢者もいます。
そういう高齢者にとって、その申し出はありがた迷惑かもしれません。
そこで問われるのが心配りです。

 「お座りになりませんか?」「こちらいかがですか?」
といった言い方で、判断は相手に委ねる。
これならプライドを傷つけることはありません。

 いずれになっても、その場の空気はほのぼのとするでしょう。
高齢者を敬い、大切にするという若い世代のわきまえと、
受け入れるにしろ、断るにしろ、感謝の気持ちで申し出を
受け取る高齢者のわきまえが上手に噛みあっているからです。


枡野俊明著「美しい人をつくる所作の基本」より転載


vol. 3315
「なぜ、電車のなかで、化粧や食事がいけないのか?」  (2012/8/03 [Fri])
 "目に余る所作″を、ひとつあげるとすれば、
電車のなかでお化粧をしたり、
ものを食べたりしている場面が思い浮かびます。
その姿が周囲に与える印象はこんなものでしょう。
「朝、食事も化粧もできないくらい、ギリギリまで寝ていたんだ。
時間管理がなっていない生活をしているに決まっている。
そもそも、人前で化粧をするのを恥ずかしいと思わないなんて!
鏡を見ている自分は見えないけど、その姿を端で見る人には、
"自分のことしか見えていない恥ずかしい人
"化粧中の顔ってみっともない″としか映らないのに」

 女性としての評価、大暴落は確実です。
電車のなかは公共の場です。みんなが譲り合って、
その場を不快なものにしない、というのが最低限のルールのはず。
冒頭の所作は不快感をまき散らすものだ、という認識は必要です。

 だたし、ご当人たちに一分の理もないことはない。
「だって、誰にも迷惑をかけていないじゃない」というのがそれです。
男性が大股開きをして座席を二人分占領しているのは迷惑だけれど、
ちゃんと一人分の座席におさまっているのだから、
何をしようと自由ではないか、というわけです。

 では、こう考えてみてください。あなたが憧れている人、
魅力的だと感じている人が、電車のなかでやおら
鏡を取り出してお化粧を始めたら、さらに、お化粧後に
ハンバーガーをガブリと頬張ったら、憧れや
魅力(美しさといってもいいと思います)は変わりませんか?
ふつうは幻滅を感じるのではないでしょうか。
たった一瞬で、憧れが吹き飛び、美しさが地に落ちる所作がある。そ
れでも迷惑をかけていないからいい、と開き直っていられますか?

 その所作が、美しいか、美しくないか、
それを自分のなかの判断基準にするといいのです。
長々と話をしている人に思わず舌打ちをしたくなったとき。
両手が塞がっていて足でドアを閉めようとしたとき。
「これって美しい?」と自問してみる。理屈なんかいりません。
問いかけの返答に「NO」が出たら、「しない」と決めたらいいのです。


枡野俊明著「美しい人をつくる所作の基本」より転載

vol. 3314
「苦手な人と付き合う場合の所作」  (2012/8/02 [Thu])
 人間同士には相性というものがあります。
とくにこれといった明確な理由がある訳ではないのに、
"うまが合わない"゛ちょっと苦手"という人が、
あなたのまわりにもいるかもしれませんね。

 その人と一緒になると、自然に振る舞えない、
素直な心が出せない、という状態だったら
「けっこうつらい」と感じるでしょう。
しかし、それはあなただけではありません。
相手もきっと同じような感じを持っているはずです。
相手は精いっぱい好意を寄せているのに、
こちらは苦手意識しかないという関係はないと思うからです。

 美点凝視という言葉をご存知ですか?
美点、つまり、いい点、すぐれた点だけを見つめるということです。
人間には誰にでも長所も短所もあります。
美点もあれば欠点もある。もしかしたら、
苦手だと感じている人については、その短所、
欠点ばかりを見てしまっている、ということではないでしょうか。

 だから、表情がしかめっ面になったり、
「嫌だな」という気持ちが所作にもあらわれてしまう。
文字どおり、視線を変えて、美点を見るようにしてみたら、
状況はきっと変わります。

 「なぁんだ、こんないいところもあったのか」。
そんな発見があったら、表情がやわらいで、
所作も相手を受け入れようとするものになる。
それが相手を変えることはいうまでもないでしょう。
もともと理由などないのです。
ちょっとしたきっかけがあれば、苦手意識はほどけていきます。

 禅語に「見性成仏」というものがあります。
自分のなかの仏性に氣付くということですが、
それまで見ようとしなかった相手のいいところを見つけ、
それまで受け入れがたいと思っていた相手を受け入れる、
ということも大いなる気づきです。
それは人間として一皮むけるということ。
あなたのなかの゛苦手なあの人゛も違った姿で映ります。


枡野俊明著「美しい人をつくる所作の基本」より転載

vol. 3357
「ゴミをポイと捨てると、そのあと、みんなそこに捨てる」  (2012/8/01 [Wed])
 街中でも道路でも、いつもきれいに掃除が行き届いているところは、
不思議といつまでも汚れない。
ところが、ゴミなどが散らかっている場所は、
あとからあとからゴミが捨てられて、ゴミが捨てられて、
ゴミ捨て場のようになってしまう。そう言われたら、
「たしかに!」と共感する人は多いのではないでしょうか。

 ゴミがひとつも見当たらなかったら、「ここに捨ててはまずい」
という気持ちになるのに、ひとつでもあれば、「まあ、いいか」と
思うのが人間の不思議な心理です。あなたが捨てたゴミが、
ほかのゴミをどんどん呼び寄せる。そう考えたら、ただちに、
「無責任なポイ捨てに<禁止令>を発動しよう」
ということになるのではないでしょうか。

さらにもう一歩進みましょう。ホテルでもレストランでも、
あるいはデパートでも、化粧室を利用したときに、
洗面台のシンクのまわりを見て、「あ〜あ、こんなに水浸し。
危うく洋服が濡れてしまうところだった」と
感じた経験はありませんか?たいがいのシンクは、
手を洗ったときの水が飛び散ったままになっています。
たくさんの人が利用する場所ですから、
水滴は次から次にシンクを濡らすことになります。

しかし、あなたが手洗いのあとに使った備え付けの
ペーパータオルで水滴を払って置いたらどうでしょう。
その後、水滴がついていない綺麗なシンクを使った人は、
自分が飛び散らせた水をそのままにするでしょうか。
「あっ、(自分で)拭いておかなくちゃ」ということになるとは思いませんか?

そうはならないとしても、まわりに一滴の水滴もついていないシンクは、
使っていてすごく気持ちがいい、と思うはずです。
わずか数秒もあれば、シンクまわりを拭くことはできます。
それが、次に化粧室を使う見知らぬ誰かを、
気持ち良く幸せな気分にさせる。
そんな所作、いいじゃないですか!


枡野俊明著「美しい人をつくる所作の基本」より転載

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