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2013年 1月

「自分は何に縛られているかを考えてみる」  (2013/1/31 [Thu])
「こうしたいのだけれど、どうにもならない」

 こころの葛藤はだれにでもあるもの。
「葛藤」は仏教用語です。
「葛(かずら)」と「藤(ふじ)」という字から構成されますが、
どちらも蔓のある植物で、まとわりつくとなかなか解けず、
厄介なさまを言います。

 人間は悩めば悩むほど、どこでどう絡まっているのかわからず、
自分の心をグルグル巻きにして苦しむもの。

 しかし、葛藤があるからこそ、
多くの人は犯罪にまで走らないとも言えるのです。

 自分は何に縛られているのか。

 時間をかけて、心とじっくり対話したいものです。


川村妙慶著
「心の荷物をおろす108の知恵」より


vol. 3964
「柔軟な心が生きやすい」  (2013/1/30 [Wed])
 ゴツゴツした松と、そよそよ風にゆれる草。

 嵐のとき、どちらが折れやすいでしょうか?

 かたい松は、雷が落ちたりしたら、ポキッと折れてしまいます。

 草のほうは、どんな強風にも柔軟に風に身をまかせ、折れることはありません。

 柔軟な心が大事なのです。


川村妙慶著
「心の荷物をおろす108の知恵」より
 

vol. 3963
「苦しみから解放されるには」  (2013/1/29 [Tue])
 仏教には「業」という言葉があります。
 いまある現実は、偶然ではなく、
自分にその理由がある必然だという意味です。

 たとえば、仕事が忙しいとき、
「どうして自分ばっかりに仕事を押しつけるの?」
と周りを責めたりします。

 でも、考えてみれば、その仕事を選んだのは自分自身でもあります。
 いつも自分だけが辛い目にあうと、人はつい考えがちですが、
それを招いているのも自分自身であることが多いのです。

 だから今の苦しみを「あきらめなさい」と言いたいのではありません。

 苦しいのは、じつは自分自身に迷いがあるからだ、と知ること。
そして、「何がしたいのか」「どうありたいのか」に、
じっくり向きあうことがたいせつなのです。

 亀を見てください。

甲羅という重い荷物を引き受けて、
コツコツと自分の人生を生きています。


川村妙慶著
「心の荷物をおろす108の知恵」より

vol. 3963
「執着は奴隷心なり」  (2013/1/28 [Mon])
 小さいころ、叔母から「私は苦労したんや。
だから、おまえにもその苦労を味わってほしくて、
キツくあたるのや」と言われたことがあります。

 私は、小さいながらどうしても納得いきませんでした。

 「苦労が多い」というのは、深い人生経験を味わえるということで、
「苦労しておけば、どんな逆境にも耐えられる」
というのが叔母の育て方だったのでしょう。
苦労したことで、心が豊かに育つなら苦労も生きてきます。
 
しかし、そこに愛情というものがなければ、
単なる苛立ちを押し付けているのと同じです。

残念なのは、自分だけが苦労したと思っている場合です。
他人の苦労が認められないからです。
「私の苦労に比べたら、あなたの苦労なんて小さいわよ」というわけです。

 清沢満之という層は、「執着は奴隷心なり」と言われました。

 苦労したという思いが執着となって、
自分のした経験が絶対なんだと言い切ってしまうと、
人のつきあいは生まれません。

 執着によって本来の人間の姿を見失ってしまいます。

 みなそれぞれに苦労をしています。
その人にしかわからない苦労というものがあるのです。
苦労に重い軽いはありません。
自分の知らないところで、みな育っているのです。

 だからこそ苦労の自慢話になってはいけないのです。

 たいせつなのは、苦労の先に何が見えるのか、
何がわかったのかということです。

 人を認めていきましょう。

 人を認めることで、
今まで知らなかった世界が見えてくるのですから。


 川村妙慶著
「心の荷物をおろす108の知恵」より

vol. 3962
「ひとりじゃない」  (2013/1/27 [Sun])
 人間が避けてとおれないのは「生老病死」です。


 これを解決してくれるのが宗教と思われている方もいます。


 しかし、宗教は「超越的なこと」で
悩みをなくすということはできないのです。


 修行したら摩訶不思議な力がそなわる
ということはありえません。


お釈迦様は、思いでは解決できない
「苦悩そのもの」と向きあったのです。


 親鸞聖人は私たちを、「選ばず、嫌わず、見捨てず、救いますよ!」と
約束してくれました。


ここまで言い切ってくださる人がいたでしょうか。
人生に降りかかる苦悩に、ひとりで立ち向かう必要はありません。


阿弥陀さまが必ず寄り添い、一緒に歩いてくださるのです。
安心してともに生きていきましょう。


川村妙慶著
「心の荷物をおろす108の知恵」より

vol. 3961
「自分を発見する方法」  (2013/1/26 [Sat])
 大晦日には、百八つの除夜の鐘をつきます。

 人間には百八つの煩悩
(人間の身と心の苦しみを生みだす精神のはたらき)
があるといわれています。

しかし、仏教では百八どころか
「八万四千の煩悩」という表現もあります。
数は問題ではないのです。

 煩悩は箱形のティッシュペーパーのように、
取っても取っても湧き出してくるものです。
煩悩の貯蔵庫が私たちにはあるのです。

 元旦になれば、また煩悩はつくられます。

 親鸞聖人は、「煩悩の『煩』は身を煩わす、『脳』は心を悩ます」と
丁寧にその意味を示されました(『唯信鈔文意』より)。

 しかし、「煩悩をなくしましょう」と言われたのではないのです。
 性格を良くしようと言われたのでもありません。

 人間が必ず持っている煩悩と、
じっくり向きあいましょうと言われたのです。

 私たちには、必ず煩悩があります。
「仕事が終わったら一杯やりたい」
「異性とデートしたい」
「ケーキを食べたい」……。
これも煩悩です。

 また、「子煩悩」という言葉があるように、
大切なものには悩みや心配ごとがつきものです。
煩悩は、人生の悩みや苦しみを生じさせますが、
しかし同時に、人生の楽しみを生じさせます。
煩悩があるから、生きる原動力になることもあるのです。
だから、煩悩は消せばいいというものではありません。

 まず、自分の煩悩に光をあててみていくことがたいせつなのです。

 「私は正しい」と心のバリアをつくっていては、
自分の煩悩と向きあえません。
 
煩悩に向きあうことで、
それまで気づけなかった自分を発見できるのです。



 川村妙慶著
「心の荷物をおろす108の知恵」より

vol. 3960
「闇を経験してこそ光が見える」  (2013/1/25 [Fri])
私たちは暗さ(苦)を恐れ、明るさ(楽)を求めます。
しかし、どんなに暗さを避けても、
それはおそらく見ないフリをしているだけ。

ごまかしの人生です。

たとえば、闇夜に光るホタルは、
私たちに「暗さの中に光が見える」ことを教えてくれます。

闇を経験してこそ、明るい光が見えてくるのです。
生きることさえ辛いときもあるでしょう。
しかし、その暗闇にじっと目を凝らせば、きっと光が見えてくるはずです。

仏教でなぜロウソクを使うかご存知ですか?

心の闇を照らすということなのです。


川村妙慶著
「心の荷物をおろす108の知恵」より



 

vol. 3959
「物ごとは意識ひとつで変わる」  (2013/1/24 [Thu])
人間の苦悩の本質は、
お釈迦さまがお示しくださった「一切皆苦」です。

たとえば、好きな人にフラれた悩み、モテすぎる悩み……。
人によって悩みは違います。
お金持ち、貧乏、それぞれに「苦」というのはあるのです。

私たちは自分でわざわざ「苦」を作り出してしまうところがあります。
これを「壊苦」といいます。
楽しいことがたくさんあるのに、
自分の意識の中で「くずれていく」ことなのです。

物ごとは意識ひとつで変わります。
見方ひとつで苦にも楽にもなるのです。

川村妙慶著
「心の荷物をおろす108の知恵」より

vol. 3958
「いじめられて苦しんでいる子へ」  (2013/1/23 [Wed])
 みなさんの心の叫びのようなメールを毎日拝読させていただいています。

 いま子どもたちの「いじめ」による自殺が相次いでいます。
もちろん今に時始まったことではありません。

 そんなとき、「死なないで!」とか「生きていればいいことがあるよ」
という言葉はなかなか通用しません。

 子どもが「いじめ」をするのは、「過去にいじめられた」
経験があるから、というデータも出ています。

しかし、「いじめてしまう原因」には、
子どもたちがイライラしていることが大きいのではないでしょうか。
心の置き場がなくて、自分より弱いと思える人に「あたって」しまうのです。

 親がイライラしていたら、子どもにもそのイライラ感は伝われます。
子どもだけの問題ではなく、
大人も一緒にみんなで考えていかなければならない問題なのでしょう。

 いじめられて苦しんでいる子どもに伝えています。

「あなたのいのちはたったひとつしかありません。

 あなたのいのちは自分だけのいのちではありません。

 そして、あなたの居場所は、ひとつだけではありません。

 悲しみだけに目をもっていかないでほしい。
 
ある人、あるグループからいじめられているからといって、
全世界から拒否されているのではありません。

 あなたを思っている人、愛している人は必ずいます」

河村妙慶著
「心の荷物をおろす108の知恵」より

vol. 3957
「泣いていい」  (2013/1/22 [Tue])
 子どものころ、悲しいとき、
悔しい思いをしたときは泣きじゃくったものです。


 言葉にできない思いを、
泣くという行為でした表せなかったのでしょう。


 しかし、大人になったからと言って、
悲しみは小さくなるわけではありません。


むしろ、悲しみは年を重ねるごとに深まるようにさえ感じられます。
しかし、いつのまにか、涙することに抵抗をおぼえるようになっていました。
だからこそ、仏さんの前では童心に返って、思いっきり泣いていいのです。


河村妙慶著
 「心の荷物をおろす108の知恵」より

vol. 3956
「気持ちのウサを晴らしたいとき」  (2013/1/21 [Mon])
 昔の人はよく縁側で、日なたぼっこをしたものです。


日なたぼっこは、平安時代の今昔物語に、
「春の節になりて日うららかにて日なたぼこりもせむ」と出てくるように、
「日なたぼこり」と言われていたようです。


 「日なた」は「日向」と書き、日の当たる場所を言います。
また、「ほこり」は「誇り」のことでプライドや自慢というよりは、
「心がウキウキするさま」「気が晴れるさま」を言います。


 何かと気ぜわしい現代ですが、
ときに日にあたることはとてもたいせつ。
 

心がジメジメしたときは、ボーッと日にあたり、
気持ちのウサを晴らしたいものです。


河村妙慶著
「心の荷物をおろす108の知恵」より

vol. 3935
「わかる」より「悩みつづける」ことが大事  (2013/1/20 [Sun])
 本屋さんに行くと、「ひと目でわかる本」というのが多いのに気づきます。

 結果だけを重視しがちな私たちの心理をついたタイトルなのでしょう。

 真宗大谷派の僧侶・高光台船(1879〜1951)は、
「回心(改心)なき聴聞は自力の聴聞であり、ただなる徒労である」と言っています。

 人は「わかること」ばかりに囚われると、
「考える」ことを怠ります。

 むしろ、「わからん!」と悩みつづけてこそ、
自分の生き方をテーマとし、
自分や他人の悲しみをも受け入れることができるのです。


 人は知識だけでは生きられません。
知識だけでは、生死の問題も理解だけで終わってしまいます。
何もかも、ムリにわかろうとしなくていいのです。


 川村妙慶著
「心の荷物をおろす108の知恵」より

vol. 3934
「ひとりになれない人へ」  (2013/1/19 [Sat])
 人は考えないでおこうと思えば思うほど、考えてしまうものです。

 遊びやお酒で何とかごまかせても、ひとりになったら考えてしまうのです。

 ひとりになりたくないという人は、考えてしまう現象から逃げたくて、
一人になれないのかもしれません。

 人間は、誰もいなくなったとき、本当に自分がためされます。

 どん底はどん底として、そこから生きていきましょう。
 必ず何かが見えてきます。


川村妙慶著
「心の荷物をおろす108の知恵」より

vol. 2933
「悩み苦しむのは思いどおりにならないから」  (2013/1/18 [Fri])
 私たちは「こんな人間になりたい。
あの人のようになりたい」と願います。


 しかし、願ってもなれるときとなれないときがあります。
では、仏さんを信じれば、少しはマシな自分になれるでしょうか。
信じればなれる、というわけではありません。


私は親鸞上人の教えから、
「そんな思いでは変わったことにはならないのだ」と
学ばせていただきました。


そこには「思い=自力」があるからです。
私たちは「思いどおりにしたい」と思うから苦しみ悩むのです。


たとえば、いま自分がここにあるのは、
もうすでに命を賜ってるのです。


お母さんのお腹の中で「世に出たら
こんな人間になってやる」とは思わないでしょう。


「今いただいた命を生きさせていただいている」
というところに帰ってみませんか。


河村妙慶著
「心の荷物をおろす108の知恵」より

vol. 2932
「いいことも、悪いことも、両面あっての人生」  (2013/1/17 [Thu])
 毎日、多くのみなさんが「苦しいよ」と
いう心の叫びを訴えてこられます。


 私たちは「苦」なしでは生きていけないのでしょうか。


 楽しいことばかりだと、どれだけいいかと思うのですが、
そうはいかないのが現実ですね。 


 親鸞上人の言葉に、「観音勢至もろともに」というのがあります。
「観音」と「勢至」――阿弥陀仏の二面を表現した言葉です。


 空気、水、食料、衣服、情報、娯楽など、生きる中での喜び、
楽しみをもたらしてくれる力のことを「観音」と呼びます。


 一方、台風、大雨洪水、地震、病気、事故、死など、決して喜べない、
できれば裂けてとおりたいようなことを「勢至」と呼びます。


 私たちはできるだけ楽しいこと、ラクなことをつい求めてしまいます。


 しかし、「観音」だけの人生だと、人はおごりやうぬぼれを強くしたり、
また、無気力になったりします。


 苦しいことにもフタをせず、いいことも悪いことも、
明暗を同時に見ていく。


 親鸞上人は、ご自分の人生と照らしあわせながら、
この言葉を私たちに送ってくれたのですね。




 川村妙慶著
「心の荷物をおろす108の知恵」より



vol. 2931
悩みの源は「他人に認められない」こと  (2013/1/16 [Wed])
悩みの源は「他人に認められない」こと

私たちの悩みは、「つねに自分を中心」に
もってくるところから始まります。

「損した」
「プライドが傷ついた」
「腹が立った」
「金儲けしたい」……。


すべて自分にとってどうかなのです。自分もたいせつです。

しかし、自分のことばかりだと、まわりは何も見えません。
悲しみ、苦しみを共有することもできません。


まわりが見えてこそ人間となれるのです。

苦しいときには、少し自分中心から意識をはずしていくといいですね。

本当は、他人に認められないから苦しんでいるだけなのかもしれません。


川村妙慶著
「心の荷物をおろす108の知恵」より

vol. 2930
「人に触れないと成長しない」  (2013/1/15 [Tue])
 考えても仕方のないことがあります。
 考えなければならないこともあります。
 

私たちの人生に台本はなく、
人はみな悩みやすくできているのです。


親鸞上人は、じっと考えて、自分を追い詰めてしまう
自力修行には限界があると悟られました。

そうではなくて、具体的に動きながら、人に触れながら、
その身で修得していくしかないと考えられました。


その中で、阿弥陀さんが自然に気づかせてくれるのです。
なんとか自分の力で生きてきたと思っていたけれど、
生かされてきたということなのです。

だって、髪の毛一本、自分の力で生やすことはできないのですよ。



川村妙慶著
「心の荷物をおろす108の知恵」より

vol. 3929
「苦しみは必ず力になる」  (2013/1/14 [Mon])
 仏教は、楽しく平和でいるときにだけ、生きる教えではありません。
 むしろ、苦しみ、憎しみ、苛立ちの中でこそ、生きる教えなのです。
 苦しみの中にあって、はじめて「問い」が生まれます。
 問いがあってはじめて、その問いを明らかにしたいと願うものなのです。


「ひとしく苦悩の群萌(ぐんもう)を救済し」という教えがそれで、
だれしも苦しみは経験したくないものです。


 しかし、あなたの苦しみは自分を気づかせてくれるチャンスなのです。
 いかに苦しまなくて済むかが、現代では重視されます。


 探してまで「苦労を見つけろ」という気はありませんが、
苦労が私たちを見つめ直し、原点に戻してくれるのです。


 苦労は必ず力になる。


 だからこそ、「苦しみを超えていける力」が大切なのです。


川村妙慶著
「心の荷物をおろす108の知恵」より

vol. 3928
あなたは親にとって「かけがえのないいのち」  (2013/1/12 [Sat])
あなたは親にとって「かけがえのないいのち」

 「いのち」がたいせつだと私たちは訴えます。
 しかし、「いのち」そのものがわからなくなってもいます。


 またどこかで、人を役に立つか立たないか、
だけで見ているのではないでしょうか。


役に立つものを認め、役に立たないものは
切り捨てていくという考えで、「いのち」を
見ていることが多いような気がします。
大変おそろしいことです。


 自殺も年々増えていますが、
こうした価値基準が身についてしまうと、
自分のことさえもその価値基準でしか見られなくなってしまいます。
 

会社の上司が、「おまえはとてもたいせつな人間である」という場合と、
親が子に、「おまえはとてもたいせつな人間である」という場合とでは、
同じ「たいせつな人間」であっても内容はまったくちがいます。


 会社の上司が「たいせつな人間である」と言ったのは、
会社にとって役に立つから。利用価値があるからです。


 一方、親が子に「たいせつな人間である」と言ったのは、
役に立つ、立たないを超えて、
その子の「いのち」を「いのち」として見ているのです。


 たとえ仮に出来が悪いと受けとめているにしても、
親にとってはかけがえのない「いのち」です。
取りかえがきかないのです。


 「私」が「いのち」を作動しているのではありません。
「今、いのちがあなたを生きている」のです。


 役に立つ、役に立たないという価値観を超えた、
大きく広い意味のある「いのち」の世界があるということを、
いま一度考え直さなければいけないのではないでしょうか。



川村妙慶著
「心の荷物をおろす108の知恵」より


vol. 3927
「なぜ悩む?」  (2013/1/11 [Fri])

 毎日、何かと疲れきっている私たちです。
 
迷い続けている私たちです。

 なぜ迷うのでしょうか。

 それは足元がぐらついているからです。

 まわりが暗くて不安だからです。

 そんなとき、阿弥陀さまは、
「安心して迷える道」を教えてくれています。

 だから心配しなくていいのです。

 親鸞上人が、先にその道を切り開いてくれています。

 その道のうしろを、ただついて行けばいいのです。
 
どうぞ生きつづけましょう。自分を開放しましょう。

 必ず明るい光が見えてきます。


川村妙慶著
「心の荷物をおろす108の知恵」より


vol. 3926
「自分を責めずに生きて」  (2013/1/10 [Thu])
 忘れたくてもわすれられないこともあるでしょう。

 あまりに辛くて悲しいことは、そう簡単に忘れられません。

 しかし、その辛さを阿弥陀さんに預けていきましょう。

 自分ひとりで背負い込まず、

「阿弥陀さまが私の悲しみを受け止めてくださる。
南無阿弥陀仏」

と念仏を称えてみてください。

 自分を責めずに生きなさいと励ましてくれているように、
過去へのこだわりがスーッと解けていきますよ。



 川村妙慶著
「心の荷物をおろす108の知恵」より

vol. 3925
「いつでも、ここから出直せる」  (2013/1/09 [Wed])
 人生に「もう遅い」はないのです。
 

その歳まで気づかなかったのは事実ですが、
気づいたのもまた事実です。


 だから、気づいたときがスタートライン。


 気づけたのは、人との出会いや経験があればこそ。


 そこまでの時間もまた、必要だったのです。


 一番怖いのは、気づけないことではなく、
気づいているのに、気づかないふりをすること。


 浄土真宗は「いつでも、ここから出直せる」という教えです。


川村妙慶著
「心の荷物をおろす108の知恵」より

vol. 3924
「ときには空を見上げる」  (2013/1/08 [Tue])
 じっくりと「空」を見上げてみてください。


 自分が空を見ているのではなく、
空が自分を見てくれているような気持ちになってくるでしょう。


 そんなとき、「大いなる慈愛にまかせよ」という
南無阿弥陀仏の呼び声を我が身に感じることができます。


 地球という大地に包まれ、
「おまかせして生きさせていただいている」ことを感じてみてください。



川村妙慶著
「心の荷物をおろす108の知恵」より

「ひとりよがりにならない」  (2013/1/07 [Mon])
 「往生安楽国」というのがお経に出てきます。


 ひとりよがりの世界から、
ともに生きることのできる世界をいいます。


 一人ひとりの存在に頭が下がることで、
自分の命にも頭が下がるということなのです。


 隣人も、自分もかけがえのない存在なのです。


 川村妙慶著
「心の荷物をおろす108の知恵」より


vol. 3922
「自分がかわいい。ただそれだけのこと」  (2013/1/06 [Sun])
 私の母校の同窓生に、浅田さんという方がおられます。


 もともと農業の仕事をしていたのですが、生活の問題、
家庭環境のに悩み、家を飛び出されました。
そして、迷いながらも浄土真宗の教えに出会われた方です。


 その後、お寺に入って働く中で、
日々感じたことをこんな言葉で残されています。


 「自分がかわいい
  ただそれだけのことで
  生きてきた
  それが 深い悲しみとなったとき
  ちがった世界がひらけてきた」


 私たちはいろんな悩み、問題が起きたとき、
まず自分で自分を守ろうとします。


だから、言い訳したり、腹が立ったりするのです。
 しかし、よく考えてみると、「自分がかわいい」、
ただそれだけのことなんですね。


最後の最後までそこから離れられないのです。
 でも、自分を守ろうとすればするほど、まわりにも、
世間にも、背を向けてしまいます。


すると、隣の人の声さえ聞けなくなってしまうのです。
 「悪いのは他人、かわいそうなのは私」と、
自分を守りながら他人を責めてしまいます。


 まず、「自分がかわいい」という状態を
「悲しむ」という視点が大切なのです。


その心に気づいたとき、
はじめて違った世界が開けてくるのです。


今置かれた状況をしっかり見ながら、
自分や他人と向き合っていきましょう。


 川村妙慶著
「心の荷物をおろす108知恵」より

「人間関係の溝をうめる」  (2013/1/05 [Sat])
 大阪で行われたNHK交響楽団のコンサートに行ってきました。
 とても響きのいいホールでした。


ホールを見渡すと、壁にはデコボコの溝があることに気づきます。
そこで、一緒に行った方にうかがいますと、


「これが平らな壁だったら、お風呂場のように
音が跳ね返って終わりなのですが、溝をつくることで、
微妙に音を吸収したり、返したりするのですよ」
という返事でした。

壁と溝――。


なんだか人間関係にも結びつくような話だなと思いました。
私たちは他人と打ち解けられないと「大きな壁」を感じるものです。
一切を切られたような寂しい気持ちにもなるでしょう。


では、壁ではなく、「溝ができた」という関係ではどうでしょう。
 
「溝が深まるばかり」という言葉もありますが、
誤解があったり、喧嘩をしてしまうと、
どうしても心に溝ができるものです。
しかし、壁ができてしまうより、まだ回復の余地があるのです。


人間はちょっとしたことでも傷つきやすいものです。
そんなときはケンカをしただけで終わるのはではなく、
「なぜケンカになったんだろう」と事実を受け入れ、
こちらの気持ちをそっと返してあげることが大切なのでしょう。


こちらが強い感情だけ投げかけると、相手は壁を作ってしまって、
あたりがきつくなります。溝というのは、
そっと相手のすき間に気持ちを入れながら、
相手も気持ち出せる関係なのではないでしょうか。


溝がある関係なら、まだまだ修復できます。



川村妙慶著
「心の荷物をおろす108の知恵」より
 

「あなたは話しやすい人ですか?」  (2013/1/04 [Fri])
 あるご門徒さんがこう言われました。
「僧侶は威厳がなければダメだ」と。
聞いていた住職さんは丸くなっていました。
一体「威厳」とは何でしょうか。
住職にはたしかにリーダーシップも必要でしょう。


 しかし、お寺は住職のものではありませんし、
ご門徒さんが仕切ってしまうものでもありません。
それぞれの役割というのがあるのです。
威厳が強すぎると、言いたいことも言えない、
という関係になりがちです。


 「怖くて言えない」「あの人にはお世話になっているから、
恩があるから、お金を借りているから、何も言えない」……。
こうなると、人と人は支配関係に陥ってしまいます。
そうではなくて、人と人との出会いとは、
そうした壁を取り払ったところにこそ生まれるものです。


 話しやすい人―――。
私はいつもそんな僧侶でありたいと願っています。


川村妙慶著
「心の荷物をおろす108の知恵」より


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