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2013年 3月

vol. 3724
「相手に判断をゆだねる」  (2013/3/31 [Sun])
 ブッダの説法は、「そのようなことをするのは、
こういう理由でよくないし、悪い結果が出る。

このようなことをすれば、こういう理由でよい結果が出る」と、
あくまで説示するだけです。

「法則、真理」を示し、「どうだろうか」と相手に判断をゆだねます。

相手は自らの意志で、「じゃあ、やってみよう。ためしてみよう」と
決めて実行するわけです。

 ブッダが押しつけることはまったくない。

聞く人には、いつでも自由があります。
仏教徒は自由な人間なのです。

「ブッダの教え一日一語」より

vol. 3723
「ただちに苦しみから解き放つ説法」  (2013/3/30 [Sat])
 ブッダの説法には、その場にただちに人々を苦しみから
解き放ってしまうほどの力がありました。

ブッダは悩み、苦しみについて説き、
悩みそのものをなくす実践方法を示されたのです。

 ですから、聞いた人たちはたちまち幸福になったのです。

大富豪でいい暮らしをしていた人が、散歩の途中でブッダに出会う。
説法を聞いただけで、もう家には帰らず、
そのまま出家してしまうほどでした。

 ブッダの教えはいつでも具体的、
現実的な苦しみをなくす教えなのです。

死後の天国を約束するだけの教えではありません。


「ブッダの教え一日一語」より

vol. 3722
ブッダは救済者ではなく「人間の師」」  (2013/3/29 [Fri])
大乗仏教には大日如来、阿弥陀如来、お地蔵さま、
観音さまなど無数の如来・菩薩がいます。

彼らは、超人的な力をもって人々を救おうと約束する「救済者」です。
我々はそれらをひたすら信仰して、すがる以外ありません。

 しかし、本来のブッダ(お釈迦さま)は
拝む対象というより模範にすべき人格完成者です。

人間として生まれ、修行によって人格を完成し、
悟りに達してから四十五年間、
人々に正しい生き方を説き示したのです。
ブッダは人間の師です。我々はブッダから学び、
知恵の完成を目指すのです。


「ブッダの教え一日一語」より

vol. 3721
「如来とは」  (2013/3/28 [Thu])
 如来は、パーリー語で“タターガタ”と言います。
“タターガタ”には二つの意味があります。

 一つは、真理に達したという意味。

 もう一つは、真理から来たという意味。

 そして、ブッダ自身で、“タターガタ”の定義をしています。

 自分が他人の説くのは、すべて自分が行っていること。
自分が行ったことを他人にも教える、ということです。

 「言うとおりに行う」「行っているとおりに言う」
という意味で、“タターガタ”なのです。


「ブッダの教え一日一語」より

vol. 3720
「ブッダが歩んだ道は模範となる」  (2013/3/27 [Wed])
 ブッダは私たちの偉大なる師匠であり、
慈愛をたたえた母親のような存在と言えます。

ブッダが歩んだ道は、私たちの模範になるのです。

 ブッダは雲の上の人ではありません。
人間として生まれて人格を完成した人です。

どんな悩みの対しても、ブッダは見事に答えを出しています。

 ブッダを礼拝するのは、ブッダという人格を尊敬し、
生き方を学び、教えを実践するためなのです。

ブッダを念ずることで、励みになり、
自らを高めることになるからです。


「ブッダの教え一日一語」

vol. 3719
「勉強だけでは頭が悪くなる」  (2013/3/26 [Tue])
 勉強をすれば「頭がよくなる」と思われていますが、
勉強するとかえって「頭が悪くなる」場合もあります。

 世間では勉強と称して、「何のためか」を考えず、
情報や知識をやみくもに詰め込んでいます。

役に立たない知識で頭が雑然とするばかりで、
結局、何も理解していない。

でも、「何も知らない」とも言えません。

ほんとうは知らないのに、
知識のせいで「知っている」と思ってしまう。

 雑然と詰め込まれた知識は実際の役に立たず、
しかも余計な知識によって、
明晰に見ることができなくなるのです。


「ブッタの教え一日一語」より

「何物にも依存しない生き方」  (2013/3/25 [Mon])
 「捨てる」ということは、「何物にも依存しない」ということです。

 それは単に、ものに頼らないことだけではありません。

 神であろうが仏であろうが、
まったく何物にも依存しない生き方なのです。

 それが真の自由ということです。


「ブッタの教え一日一語」より

「適量を知る」  (2013/3/24 [Sun])
 本を読むのは喜びを感じるため、楽しみのためと理解していれば、
リミットを守って依存症にはなりません。

 飲まず食わずで本を読みっぱなしとはなりません。
結果が出たら終わります。

 体を維持するために食べているのだと知っている人は、
適量の栄養をとったところでやめます。

 依存していることを理解していれば、リミット、適量を知るのです。


「ブッダの教え一日一語」より



vol. 3716
「依存はなぜいけないのか」  (2013/3/23 [Sat])
依存はいけないのでしょうか。

依存は、完全に絶つことができないことです。
そもそも、生きること自体が依存なのです。

だから、依存からはけっして逃れられません。

こわいのは、依存に気づかないと、
依存症に陥って危険だということです。
食べ物に依存すると、健康を壊します。

心の刺激に依存すると、自己破壊に陥ります。

生きている間、完全に依存から脱することはできませんが、
依存していることに気づくことが大切です。

「ブッダの教え一日一語」より

vol. 3715
「依存に気づかないと」  (2013/3/22 [Fri])
「これは依存なんだ」「今自分は依存している」とわかってやることと、
わかっていないことは、大きく違います。

依存していることをしっかりと理解していると、
やりすぎにはなりません。問題はおこりません。

 依存していることを知らないでやる人は、
ますます依存症に陥るのです。


「ブッダの教え一日一語」より

vol. 3714
「いのちがけでやります」  (2013/3/21 [Thu])
よく「いのちがけでやります」
「必死でやります」という人がいます。

では聞きます。

あなたは、そのことに、そこまで依存しているのでしょうか。

本当にいのちをかけるほど、
価値のあることに挑戦しているのでしょうか。

自分の依存症を、ごまかしてはならないのです。


「ブッダの教え一日一語」より

vol. 3713
「いいことに依存するのは」  (2013/3/20 [Wed])
お酒や賭けごとに依存するのは悪いと決まっていますが、
「いいこと」に依存していることがあります。それはどうでしょうか。

例えば、ボランティア活動、平和活動、地域活動などはいいことです。

しかし、いかに「いいこと」でも、それに依存すれば、
やはり自分を見失っていくのです。

いいことでも、依存して行えば、いい結果にはなりません。


「ブッダの教え一日一語」より

vol. 3712
「人生の歯車」  (2013/3/19 [Tue])
私たちが依存するものは、酒、金儲け、仕事、賭けごと、
お喋り、テレビなど、限りなくあります。

酒や賭け事に依存するのがよくないことは、
だれにでもわかります。

けれども、ブランド、健康食品や読書、
インターネットに依存しているかもしれません。

それが何であれ、依存すると本来なすべきことを後まわしにして、
「いま何をすべきか」がわからなくなるのです。

人生の歯車がおかしくなるのです。


「ブッダの教え一日一語」より

vol. 3711
「依存症のキャリア」  (2013/3/18 [Mon])
 私たちは、みな何かの「依存症」にかかっているといえます。

 今は依存症でなくても、
次の瞬間に依存症にかかることもあります。

いわば依存症のキャリア(保菌者)なのです。



「ブッダの教え一日一語」より

vol. 3710
「離欲にチャレンジ」  (2013/3/17 [Sun])
完璧に勝利を得る道とは、「何かを得る道」ではなくて、
「物から離れていく道」なのです。
「離欲」の道には完成があるのです。

本当に充実するためには、ものはいらないのです。
足りないから満たそうとするのではなく、
ものがいらないということで、心を満たす道があるのです。

ものから離れる、離欲というところから、安らぎが生まれるのです。

離欲にチャレンジすることが、最高のチャレンジなのです。


「ブッダの教え一日一語」より

vol. 3709
「人と花」  (2013/3/15 [Fri])
みじめな心に 花が咲く
苦しい心に 花が咲く
みにくい心に 花が咲く
どうにもならぬ そのまままで
みんな尊い華となる
みんな浄土の華となる
            (木村美登利)


地球上になぜいろいろな花があるのだろうか。
人間にとって花とは何だろうか。

花と人間の関係を哲学するわけではありませんが、
花は季節によって、形によって、色によって、香によってみな違います。

そしてそのいろいろな花は、いろいろの人間の心に、ささやくように
語りかけてきます。

人間のみじめな心に、苦しい心に、
みにくい心にやさしく花の心が伝わってきます。

ひょっとしたら、この地球上の花は、
仏さまからのはからいで人間に贈られたものかもしれません。

つらい時、悲しい時に、これらの花を見て頑張って、
青色青光・白色白光・黄色黄光と咲ききそうお浄土の花のように、

みんな精一杯生きてほしいと励ましておられる、
おはからいの花なのでしょう。



vol. 3708
「冥加の心」  (2013/3/15 [Fri])
風は見えないけど
風のすがたは
なびく草の上に
見える
        (大江淳誠)

自動車をいくらで買った。このテレビはいくらだった。
旅行代金はいくらだった。

私たちは流通経済社会の中で、お金と引き換えに、快適な生活を送って
いますが、あらゆるものの価値を貨幣価値中心に考えがちではないで
しょうか。

一台の車が自分の手に入るまでには、幾千人もの人たちの頭脳や
労力を経なくてはなりませんし、地球上のありとあらゆる資源が、
一台の車の中に凝集されています。

風は見えないけど、なびく草を見て、見えない風の存在に気づくように、
私たちの周辺には、あまりにも多くの見えないはたらきがあるという
ことに気がつきたいものです。

目に見えないもの、「冥」に守られ 生かされている「加」のことを
感じなくてはなりません。

vol. 3707
「ひかりといのちきわみなき」  (2013/3/14 [Thu])
みほとけの
光あふれて
いのちまいにち
新しい
        (喜多内十三造)

哲学者の亀井勝一郎先生は
「人間が宗教的になると、今まで見えないものが見えてくる。
 今まで感じないものを深く感じるようになり、今まで当たり前
 であると思っていたことが、驚きになる」と言われました。

生物としての人間や、仏像としての阿弥陀さまは肉眼で見えますが、
人のいのちや如来さまのひかりは肉眼では見えません。

亀井先生の言葉のように、宗教的感覚がないと「いのちやひかり」を
感知したり、感得することはできません。

「意訳正信偈」の始めに「ひかりといのちきわみない、あみだほとけを
あおがなん」とありますように、如来さまのひかりに照らされて、はじ
めていのちはきわみなきものになるのです。

みほとけの大きな愛の光にであって、このいのちが無量寿のいのちと
して生かされて生きていくことをよろこびたいものです。


vol. 3706
「自然法爾」  (2013/3/13 [Wed])
すべてのことは、あるがまま。

自分の力で運命を変えてしまおうと考えたり、
ある出来事を自分のおかげだと思ったり、
逆に人のせいにしたりしていませんか。

この世の中は、一人の人間の力で
回っているわけではありません。

宇宙や自然、ほかの人々…
すべての力が結びついて回っているのです。

今までのこと、これからのこと、
すべてはあるがままの進んでいきます。

そのことを受け入れ、感謝して、
大切にしていくことが私たちのできる唯一のことなのです。


親鸞

vol. 3705
「心暗きときは、すなわち遭うところことごとく禍なり。眼明らかなれば途にふれてみな宝なり」  (2013/3/12 [Tue])
 落ち込んでいる時、やましい気持ちがある時は、
すべてのことが自分への災いのように感じられます。


しかし、物事を平明に見る気持ちがあれば、同じものを見ていても、
あらゆることが大切でかけがえのないものであることに気づきます。


心のあり様によって、自分を取り巻くものの印象が全く異なるのです。


もし世の中がつらいものに感じられるならば、
自分の心の中にその原因を探ってみましょう。


空海

vol. 3704
「月はかけて満ち、潮はひいて満つこと疑いなし」  (2013/3/11 [Mon])
月はかけてもやがては満月になり、
潮も引いてはやがて満ちてきます。

人生もまた同じ。

今、苦難の日々を送っていても、
やがて幸福な日々が訪れます。

また、幸せな毎日を送っていても、
いつ苦しいときがやってくるか分かりません。

幸せであるとか不幸せであるとかは、
移ろい変わる表面的なもの。

そうした状況に流されて一喜一憂するよりも、
どんな時でも自分にとって大切なものを、
しっかりと守り育てていかなくてはならないのです。

日蓮

vol. 3703
「生れ生れ生れ生れて生の初めに暗く死に死に死に死んで死の終わりに冥し」  (2013/3/10 [Sun])
人は、何度生まれ変わっても真理から遠く離れた場所にいて、
何度死を目前にしても迷いの闇の中にいるのです。

なぜなら、より良く生きて、
真理に近づきたいという気持ちを心の中に持っていても、
多くの人はそれに従って生きていこうとしないからです。

それでは永遠に真理の光に包まれることはないでしょう。

心の中の真心を育てていく気持ちを大事して、
どんなことがあっても、それに従うことが大切なのです。


空海

vol. 3702
「ほのおは空にのぼり、水はくだりさまにながる」  (2013/3/09 [Sat])
 炎は空高く上がり、水は海へ流れ下っていきます。
これは自然の摂理で。子どもでも分かることです。

 自分にとって大切なことを懸命にやっていれば、
その結果として充実した人生を送れます。

しかし、日々を、無駄に過ごし、
つまらないことに時間を使っていれば、
実りのない人生になってしまいます。

これも炎が空に上がり、水が海へ下るように、
自然の摂理であって、当たり前のこと。

 日々の過ごし方がその人の人生を決めるのです。


法然

「遠くして遠からざるはすなわち我が心なり」  (2013/3/08 [Fri])
 とらえどころがなく手の届かないところにあるようでいて、
いつもすぐそばにより添っているのは自分の真心です。

欲や怠惰に囚われて毎日を過ごしていると、
自分には真心がなくなってしまったように思えることもあるでしょう。

しかし、真心は決してなくなることはありません。

いつも自分のそばにあるのです。

欲や怠惰から抜け出し、
真心とともに生きたいと思ったその瞬間からあなたと共にあるのです。

空海

vol. 3700
「蔵の財よりも身の財すぐれたり。身の財より心の財第一なり」  (2013/3/07 [Thu])
 蔵に積まれた財宝よりも、体の宝すなわち健康が大切です。
そして体の健康よりもっと大切なのは心の健康です。

 心の健康とは、誠実に正直に生き、
人々に愛情をもって接する気持ちのことです。

 お金がなくては、日々の暮らしが成り立ちません。
健康でなくては、十分に働くこともできません。

しかし、たとえお金があって、
健康で毎日を無事に過ごすことができても、
心に誠実さがなければ、
人生はむなしいものになってしまいます。


日蓮

vol. 3699
「迷と悟とは相依りてなり、理と事とはこれ一般」  (2013/3/06 [Wed])
人は皆、迷い苦しみながら、問題を解決しようと努力します。

そして、解決できたときに、人生への新たな理解が生まれます。

つまり、迷いがあるからこそ、理解があります。

現実の日々を迷いながら生きていくことは、
すなわち人生の真理を深めることにつながるのです。

私たちが成長し、充実した人生を歩むためには、
特別なことをする必要は何もありません。

特別な言葉も要りません。
迷いや苦しみに立ち向かいながら日々を生きる。
それだけで良いのです。


良寛

「心が澄みわたる名僧の言葉」より

vol. 3698
「たとい七八十の齢を期すとも、思えば夢の如し」  (2013/3/05 [Tue])
 長生きして幸せに暮らしたい――誰もが願うことです。

しかし、自分の思ったように長生きできるとは限りません。

じぶんの命がいつまで続くか、それは誰にも分らないのです。

何歳になったらこれをして、何歳になったらあれをする…
なんて考えるのは本当は無意味なことかもしれません。

それよりも、今この瞬間、あなたにとって
一番大切なことをすることが大事なのです。


法然
「心が澄みわたる名僧の言葉」より

vol. 3697
「善人なおもて往生をとぐ、いわんや悪人をや」  (2013/3/04 [Mon])
 自分のことを善人だと思っている人は、思い悩み、
反省し、立ち止まって考えることがあまりないでしょう。

真理を追求する気持ちにも欠けているはず。

そんな「善人」でもいつかは真理に導かれ、救われます。

 それならば、自分の心の暗闇を見据え、悩み、
苦しみながら真理を追い求め、自分を「悪人」だと感じる人が、
やがて真理に導かれて、救われることは当然だといえます。

苦しみを抱える人こそ、ほかの人の苦しみを理解し、
その心を癒すことができるのですから。


親鸞
「心が澄み渡る名僧の言葉」より

vol. 3696
「元気」  (2013/3/03 [Sun])
  一人の元気はみんなの元気になる。
 
人は皆、生きる力を持っています。

それを「気」とも言います。より良く生きようとする気持ちも、
病気を治そうとする心も「気」の力です。

 その「気」を生み出す元となるのが「元気」。

元気は自分の力になるばかりではなく、人と分かち合えます。

たくさんの元気がある人の周りにいると
元気をたくさんもらって自分まで元気になれます。

ある時はあなたが元気を配り、
またある時はあなたが元気をもらい……

そうやって、みんなが元気でいられるのです。


作者不詳
「心が澄み渡る名僧の言葉」より

vol. 3695
「悲しい別れを乗り越えるには」  (2013/3/02 [Sat])
 自分にとってかけがえのない人、心のよりどころにしていた人が、
ある日突然なくなってしまうということは悲しいことです。

しかし、人間はいつか必ず別れなくてはなりません。

 辛いことですが、別れることの苦しみは必ずやってくるものです。
 
 なぜ辛いのでしょう。
 
 それは、その人を「外のもの」として見ているからでしょう。

 たいせつなのは、その人を「内に感ずる」ことができるかどうか、なのです。

 阿弥陀さんの存在もそうです。

「阿弥陀さんが私に何をしてくれるのか」
「どうやって私を救ってくれるのか証明してほしい」
とおっしゃる方もいます。

 しかし、阿弥陀さんは、
お金や車みたいに「物や形」では表現できません。

「自分の中に阿弥陀さんの慈悲の心を感じることができるのか」
ということなのです。

 たいせつな人を疎外するのも、しないのも、あなた自身なのです。



川村妙慶著
「心の荷物をおろす108の知恵」より

vol. 3694
「出会いの記憶」  (2013/3/01 [Fri])
親鸞聖人は「憶念」ということを言われました。

私たちは人の話を、ただ記録として聞くのではないのです。

「記録」はただ物を覚えているというに過ぎませんが、
「記憶」はその人との出会い、
感動が心の奥底まで染みとおっているものです。

記憶と記録は違います。

記憶の奥底の匂い、感覚などをからだが憶えてのです。

私たちの耳を通じて毛穴の一つひとつにまで染みとおってゆくとき、
私たちの人生が深く深く、うなずかされていくのでしょう。


川村妙慶著
「心の荷物をおろす108の知恵」より

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