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2013年 5月

vol. 3784
「物質と心の波動」  (2013/5/31 [Fri])
 仏教では、物質を素粒子のレベルでみて、
地・水・火・風の四つの要素としてとらえています。
地は質量をつくる力、水は引き寄せる力、
火は熱であり変化させる力、風は引き離す力です。
物質とはそのような性質が構成されたものなのです。

 そして、その物質の構成を認識するのは、心です。
言い換えれば、心は地・水・火・風を知るのです。
認識するのです。しかし、だれもこのことに気づきません。
感情にかられて貪瞋痴でデータを捏造して、
苦しみを司る俗世間的な知識世界を合成しているのです。


「ブッダの教え一日一語」より

vol. 3783
「ことばが浮いている」  (2013/5/30 [Thu])
 いろいろな宗教が素晴らしい教えを説きますが、
なかなか人間は道徳を守りません。
それは、なぜでしょうか。

 そこに言葉の重さがなく、浮いているからです。
例えば、西洋では「愛」生き方を掲げています。
けれども、そのような生き方をしてきたわけではありません。

 西洋ほど人を殺した文化はありませんね。
機関銃やダイナマイトや原子爆弾をつくったのは、
どこの文化でしょうか。

 自分たちだけ大量に核兵器をもって、
「おまえたちはつくるな、もつな」と平気で言うのです。


「ブッダの教え一日一語」より

vol. 3782
「どんなに獲得しても、完成はない」  (2013/5/29 [Wed])
 生きるということは、チャレンジです。
生きているうえで、何かを獲得するために、
いろいろなことにチャレンジします。

 しかし、何かを獲得しても、完成というものはないのです。

 音楽で一流になっても、世界の頂点に達しても、
完成ではないのです。もっと優れている人が出てくるかもしれない。

 いくら獲得しても、完全に満たされたということ、
やりおえたということは、成り立たないのです。



 「ブッダの教え一日一語」より

vol. 3781
「死にそうな人に対して」  (2013/5/28 [Tue])
 死にそうな人に対して、
どのようにお見舞いしたらいいのでしょうか。

 死にそうだからといって、深刻な顔をする必要はありません。
その人が元気なときのように、普通に合えばいいのです。

 「いろいろ楽しかったね」「あちこちに行ったよね」と、
世間話するのもいい。

 そして、「あなたはよくやってきたね。
ほんとうに親切してくれた」と感謝し、ほめればいいのです。

 人は、感謝されると、
「自分なりにこの人生をがんばってきたのだ」と
満足するのです。



 「ブッダの教え一日一語」より

vol. 3780
「何を「がんばる」のか」  (2013/5/27 [Mon])
 我々は、口ぐせのように、他人に「がんばってください」と言います。
それは単なる挨拶のようになっています。

 ほんとうは、人が挑戦していることに対して
「諦めないでください、やり遂げなさい」というニュアンスで
「がんばってください」というものなのです。

 そして、ブッダも勧めた最も優れたがんばりとはと言えば、
自分の欠点を克服するために、善行為をするために、
人格を完成するために「がんばる」ことなのです。

 「ブッダの教え一日一語」より

vol. 3779
「末期の人をお見舞いするとき」  (2013/5/26 [Sun])
 末期の人のお見舞いをするときは、
「がんばってください」と言わないこと。
「そのうち治ります」と言わないこと。

 「今の状態はどうでしょうか」と聞くのです。

 末期の人は、自分の苦しみと不自由を語るでしょう。
それは語らせてあげる。

 ただそれを聞きながら、
「人生というのは、だれでもそんなものです。
結局はすべて虚しいのですよ」と、
相づちを打ってあげる。

 最後に、「やっぱりきれいな心でいるしかないのですね」
と話を終了するのです。


 「ブッダの教え一日一語」より

vol. 3778
「勝ち負けを超越した道」  (2013/5/25 [Sat])
 仏教の教えは、「戦え、がんばれ」ということではありません。

 「今ここで戦うよりも、もっと優れた道はないか」という、
勝ち負けを超越した道を教えます。

 大切なことは、戦いの泥沼に足を入れずに、
戦いを「乗り越える」ことなのです。

 ブッダは、「聖者は、勝ち負けも乗り越えて平安に住む」と説きました。

 誰かに勝つ必要もないし、
だれかに負ける必要もないのです。

 「ブッダの教え一日一語」より


vol. 3777
「日常の暮らしを戦場にする」  (2013/5/24 [Fri])
「人生とは戦って勝つものだ」というような心で生きていたら、
いたるところで争いを起こし、よけいな苦しみを生むだけです。

 日本の社会は、日常の暮らしを戦場にしています。

 ただでさえ苦しむことがいっぱいあるのに、
苦しみを積み上げているのです。
それはあまりに不幸な生き方です。

 「ブッダの教え一日一語」より

vol. 3776
「戦いに勝つのは一人もいない」  (2013/5/23 [Thu])
 戦って勝つことが、幸福への道ではありません。

 戦いを挑んだら、勝つ人は一人もいないのです。

 負けた人は負けて悔しい思いをします。

 勝った人は負けた人に恨まれます。

 さらに敵が増える結果になります。

 勝ってもいいことはないのです。


「ブッダの教え一日一語」より

vol. 3775
「殺人者があらわれること」  (2013/5/22 [Wed])
 一人の人が孤立して怒りや憎しみに
固まって無差別に人を殺すことがあります。

 このような理不尽な犯罪が起こる原因は、
社会全体にもあるのです。

 犯人は、殺人を起こすところまで孤立していたのでしょう。
犯人が、怒りで固まっているとき、
なぜ周りの人々が優しくしたり、
気持ちを理解してあげたりできなかったのでしょうか。

なぜ未然にやめさせることができなかったのでしょうか。

 結果として、それができなかった社会にも原因があるのです。
私たちは互いに心配しケアしあう義務があるのです。


「ブッダの教え一日一語」より

vol. 3774
「頼まれごと」  (2013/5/21 [Tue])
 人から頼まれごとをされやすいというのは、
本人が親切で優しいからでしょう。

 自我が薄くて明るい人に、人は頼みごとをします。

 頼まれやすい人だということは、
とてもありがたいことなのです。

 頼まれてばかりで、
自分の人生は何も成り立たなくなったとしても、
その人はやはり立派です。

 ただ、そのことで、自分のすべきことができないなら、
苦労ばかりです。頼まれごとは、
自分に害を与えない程度でやらなくてはいけないのです。


 「ブッダの教え一日一語」より

vol. 3773
「自分が悪くないのなら幸せなはず」  (2013/5/20 [Mon])
 私たちは、不幸の原因は自分の外にあるように思っています。

 「経済状態が悪いから」「血圧が高いから」「謝金さえなければ」
「あいつがいなければ」「妻がもっとしっかりやってくれたら」……、
など「他のだれか」や「何か」のせいにするのです。

 他人のアラを自分の不幸の原因にして、自分は悪くないと思っています。

 しかし、自分が悪くないならば、ほんとうは幸福なはずなのです。

 「ブッダの教え一日一語」より

vol. 3772
「不幸になる秘訣」  (2013/5/19 [Sun])
 「親の育て方が悪かった」と思っている人は、
不幸であることが折り紙付きで確定しています。
 苦労して育ててくれた親に対してイチャモンをつける人は、
自ら幸福になりたい気持ちすらないのです。

 ましてや、他人を助けて社会の役に立つ人間にはならないのです。

 大きな人物として成長する第一歩は、
親に対する感謝の気持ちなのです。


 「ブッダの教え一日一語」より

vol. 3771
「親は一生、子供の心配をしている」  (2013/5/18 [Sat])
「親は一生、子供の心配をしている」

 親から「もう、おまえとは親子の縁を切った。
敷居をまたぐな」と言われても、
親は、ほんとうは心配で仕方がない。
「何とか立派になってもらいたい」と思っているのです。

 「子供に対する親に気持ちは、骨髄まで響く。
でも、子供はそれを知らない」というスリランカの歌があります。

 親の愛情は一生涯、続くものなのです。

 だからと言って、子供は親の所有物ではありません。

「ブッダの教え一日一語」より

vol. 3770
「親孝行できる人」  (2013/5/17 [Fri])
 親に頼らない人が、親孝行しているのです。

 早く自立して、親に頼らないようになった人は、
ちゃんと親を喜ばせます。

 そして、親が優しくしてくれたこと、親切にしてくれたこと、
叱られたこと、叩かれたことなど、思い出すたびに、
「ずいぶんよくやってくれたなあ……」と
感じたり思い出したりして、
笑ってしまえるなら、それは親孝行できる人です。


「ブッダの教え一日一語」より

vol. 3769
「だれの意見でもない正しい意見」  (2013/5/16 [Thu])
 多くの人は「自分が正しい、相手がまちがっている」
ということで議論する傾向があります。

 しかし、すでに議論が起きているということは、
明らかにみんな正しくないのです。

 みんな正しくないのだから、互いに話しあってだれの意見でもない
正しい意見を見出さなければいけないのです。

 それがブッダの説かれた「中道」の生き方です。


「ブッダの教え一日一語」より

vol. 3768
「どう話せばいいのか」  (2013/5/15 [Wed])
 自分の利益のみで話すと、ケンカになります。

 自分の利益も他人の利益も、
ともに実るようにと考えて話すならば理想的です。

「私もあなたも得する方法は何だろうか」というのが、
正しい話し方なのです。


 「ブッダの教え一日一語」より

vol. 3767
「共通点を必死でさがす」  (2013/5/14 [Tue])
 まちがいを指摘したり、攻撃することで相手の性格がなおることは、
けっしてありません。ただ、争いの泥沼に陥るだけです。

 相手の不完全なところをさがしだすのは、意味がありません。

 そんなことよりも、「どこか仲良くできることはないか。
どこか共通点はないか」を、必死にさがしたほうがいいのです。


 「ブッダの教え一日一語」より



vol. 3766
「自分でまずやってみてから」  (2013/5/13 [Mon])
 人の過失をみつけては説教する人は、嫌われます。
人に説教するのは、「大きなお世話」なのです。

 説教ばかりする人は、「はやく帰ってくれ」と嫌がられます。
やがては孤立して、寂しい人生になります。

 では、まったく説教をしないほうがいいのでしょうか。

 そうではありません。
自分でまずやってみてから言えばいいのです。

 自分自身が行ったことを他人に伝える場合には、
とても説得力があります。


 「ブッダの教え一日一語」より

vol. 3765
「他人のことは、ほうっておく」   (2013/5/12 [Sun])
 他人の欠点や過失をみていては、
永久に問題解決にはなりません。

 他人のことは、ほうっておけばいいんです。

 自分のやるべきことだけを、きちんとはたしていけば、
ものごとはうまくいくのです。

 ブッダの大切な教えは、
「他人のやったこと、やらなかったことをみるのではなく、
自分自身のことをみなさい」ということです。

「ブッダの教え一日一語」より

vol. 3764
「人をどうこう言えるほど立派か」  (2013/5/11 [Sat])
 自分というものは、人のことを、
どうこう言えるほど立派ではないのです。

「あの人はまちがっている」と指摘しても、
自分がその立場になったら、
同じことをする可能性があるのです。

「あの人は嘘をつく、けしからん」と言っても、
自分だって不利になったりその場を逃れようとすると、
嘘をついてしまうんじゃないでしょうか。

「あの人は頼りにならない」と言っても、
自分が同じ立場になったら、
人から信頼されるふるまいができるでしょうか。


「ブッダの教え一日一語」より

vol. 3763
「自分の過ちが見えているか」  (2013/5/10 [Fri])
 他人の過ちはみえやすいものです。

 しかし、ほんとうにみえているわけではありません。
自分の勝手な思い込みでみていることが、よくあります。

 自分が同じ過ちやもっとひどい過ちを犯したときには、
「たいしたことはない」とごまかしたり、
あらゆる工夫をして正当化しようとします。

 自分に対するその態度を、
どうして他人に対してもとうとしないのでしょうか。


 「ブッダの教え一日一語」より

vol. 3762
「叩きやすいだれかをみつけがち」  (2013/5/09 [Thu])
 世の中の人は、自分たちは批判されない場所にいながら、
他を責任追及して、ぶん殴りたいと思ってアラをさがしているのです。

 怒りのはけ口のために、
叩きやすいだれかを見つけようとしています。

 何か他人の失敗をみつけたら、やたらと批判して、
自分はまちがいを犯すことなんてないつもりなのです。

 弁解できない弱いものを一方的に非難するのは、世の常です。
それは、ハイエナが弱い動物を食べて肥えるようなものです。


「ブッダの教え一日一語」より

vol. 3761
「自分が正しいという思い込み」  (2013/5/08 [Wed])
 相手を許さないのは、
「自分が正しい」と思い込んでいるからです。

 しかし、「自分が正しい」というのは、
この世ではありえないことです。

 ケチをつけようと思えば、だれにもつけられます。
しかし、その権利が自分にあるのかどうかです。
よくみれば、自分だってよくまちがうし、失敗するのです。

 すべてのものは不完全。

なに一つ完全なものはない。

 それが真理です。

 「いかに完全に近づくのか」ということが生きる道です。
その道は限りなく、一生続くのです。


「ブッダの教え一日一語」より

vol. 3760
「どこかで隙間や過ちが」  (2013/5/07 [Tue])
 相手の間違いを厳しく指摘したり、
なかなか許さない、という人がいます。

 しかし、そういう人だって、
自分をよくみればいろいろな失敗や過ちがあるのです。

 人はとにかく不完全なものです。
何をやっても、どこかで隙間や過ちが生まれます。

 ブッダでさえ、どんな人に対しても、
いきなり「あなたはまちがっている」ということはありませんでした。



「ブッダの教え一日一語」より

vol. 3759
「いつまでも恨み続ける心」  (2013/5/06 [Mon])
 自分の幸福を壊すのは、
自分に悪いことをした「嫌な人々」ではありません。

 それは、悪いことを忘れないでいつまでも
恨み続ける「自分の心」なのです。

 あなたを攻撃したり意地悪した人も、
やりたくてやったわけではなくて、
ただ真理がわからなかったから過ちを犯したのだと思いましょう。

 相手に仕返しをすることで、けっして幸福は得られません。

 子供が何か過ちをしでかしても、許してあげられるように、
人を恨むのではなく、許してあげるのが賢い生き方です。


 「ブッダの教え一日一語」より

vol. 3758
「傾いた基礎」  (2013/5/05 [Sun])
 人を恨み、人の過ちを許せない人は、心が育ちません。

 「許さない」という心は、土台が傾いているようなものです。

 傾いた土台の上に建物をつくれば、
そのまま傾いて、いつか壊れてしまいます。

 だから、恨みはさっぱりと捨てることです。


「ブッダの教え一日一語」より

「ほめながらしつける」  (2013/5/04 [Sat])
 しつけとは、世の中でしっかりと生きるために何を学べばいいかと、
一つひとつを教えてあげることです。
子どもは何も知らないのだから、「これはこういうふうにやるといい」と、
やりかたを教える。

 「それはまちがっている」と怒れば、子どもは反発します。
まちがっているのではなくて、子供は知らないのですから。
「ちゃんと、こんにちはと挨拶しなさい」と頭ごなしに叱っても、
うまくいきません。

 挨拶することはカッコいい、賢いことなんだと教えましょう。
ほめながらしつけるのです。


「ブッダの教え一日一語」より

vol. 3756
「子供は宇宙人だと思って育てる」  (2013/5/03 [Fri])
 子育てをするとき、自分のもの、自分の子供、
という思いが入ると、かなりストレスになります。

 子どもは自分のものではありません。
むしろ「宇宙人」だと思ったらいいです。

 宇宙人だから、この地球のことは、何一つわからない。
宇宙人にとって、世の中は不思議で仕方がありません。
だから、一つひとつ丹念に教えてあげてください。

 やがて、子どもが大きくなったら、
「もう一人前の独立した人間であって、だれのものでもない」
という気持ちで接するとよいです。


「ブッダの教え一日一語」より

vol. 3755
「自己犠牲もまちがい」  (2013/5/02 [Thu])
 自己主張が強いと、あちこちでトラブルが起きます。
あまりに自分のことばかり考えて生きていると、
生きづらい環境をつくってしまうのです。

 逆に、人の世話をすることがカッコいいとも思わないほうがいいのです。

 自分のことさえもろくに知らないのに、
その人にとって本当に何が必要なのか分かるはずがないのです。

 自己犠牲によって人の役に立とうとするのは、
ただの大きなお世話になってしまうのです。


「ブッダの教え一日一語」より

vol. 3754
「我が強すぎる人」  (2013/5/01 [Wed])
 自我という代物が、苦しみの原因の一つになっています。
それは「自分が偉い」という思考から発生します。

 我が強すぎると、何事もうまくいきません。
学校ではいじめられるし、会社に行っても苦労します。

 競争社会の中では、衝突ばかりなのです。
学校に行っても、会社に行っても苦しみばかりです。
家庭でも、楽々できることでさえ、わざと戦争にしています。

 我が強いために、わざわざ生き地獄をつくってしまうのです。


 「ブッダの教え一日一語」より

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