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2013年 9月

「自在人」自分に束縛されない存在  (2013/9/30 [Mon])
 「自由自在」という言葉がありますね。
自分の思うままになるという意味です。
私はアナウンサーの仕事もしています。
アナウンサーの仕事は大きく分けて二種類あります。
スタジオできっちり原稿を読む仕事、
それから現場レポートなどのフリートーク。
どちらが難しいかといえば、
それはやはり原稿をはずしたフリートークの方です。
好きに話ができるフリートーク。
ですが、「好きにしろ」と言われることほど難しいものはありません。

 私たちは自由になりたい、解放感を持ちたいと願っています。
でも同時に、その自由を恐れているところもあります。
自由であるからには、自分に責任を求められるためです。

 「自在」すなわち自由とは、
仏さまの視点から見ると「親愛」「喜び」「満足」という
意味も含んでいます。自在人とは、実は「自」分自身に束縛されず、
なおかつ私がここに存「在」していると、
はっきり名乗れる人のことなのです。

 比叡山で二十年過ごしたのち、自力修業は不可能と行き詰まり、
法然上人の「ただ念仏して、弥陀に助けられなさいよ」
という教えを一心に信じたのが親鸞聖人でした。
そして二十九歳で山を降りました。このときから親鸞さまは、
自在人となられたのです。


 「ほっとする親鸞聖人のことば」より抜粋

vol. 9493
「触光柔軟」柔らかさの中に本当の強さがある  (2013/9/29 [Sun])
 「無量寿経」の第三十三願「触光柔軟」を、
親鸞聖人は「教行信証」の中で引用しておられます。
柔軟というのは柔らかくしなやかな身のこなしを意味します。
しかし体は柔軟になっても、心まではなかなか柔らかくなれませんね。
むしろ年齢とともにかたくなになってしまいます。
頑固というのは心が固まるということです。
固くなった心を自分の力で柔らかくするのはむずかしいですね。
人間は「自分の都合」でしか心を変えようとはしないからです。

 イソップ物語に「北風と太陽」というのがあります。
北風と太陽が旅人の着ている上着を脱がす競争をして、
はじめに北風が強風で脱がせようとしますが、
旅人は脱がされてたまるかと頑なに抵抗します。
次に太陽が暖かい日差しを旅人に浴びせると、
旅人は上着を自ら脱いでしまいます。

 柔軟とは、無理に勝とうとしないことです。
現代は強さを求められます。しかし、強くなればなるほど、
相手も強くなろうとします。
お互いが引くことができなくなります。

 阿弥陀さんはそこに智慧という光をくださいます。
「知」ではなく「智」です。
知識にの「知」は我の張り合いにつながります。
けれども「知」に「日」と書く「智」は、仏さまの智慧です。
仏さまは、柔らかさの中に本当の強さがあるのだよ、と教えてくださっています。

 「ほっとする親鸞聖人のことば」より抜粋

vol. 9492
「報恩」生きていることの深い感動を捧げる  (2013/9/28 [Sat])
 如来大悲の恩徳は 身を粉にしても報ずべし 
師主知識の恩徳も ほねをくだきても謝すべし

 私が十六歳のころ、
塾から帰宅すると「勉強楽しいか」と父から聞かれました。
私は「楽しくはないけど、やらなければならないことだし」
と答えました。「勉強してどうするんや」と問う父に、
「勉強しなければ大学へ行けない。
大学を卒業し、就職をし結婚しないといけないんでしょう」
と私は反発しました。
すると父は「賢くならんでええ」と言うのです。
まったく理解できませんでした。

 さらに父は続けます。「あんまり賢くなると自惚れが強くなり、
自分と他人の境界線を引きたがる。それは間違っている。
なぜ真宗では報恩講を大切にするかわかるか!
そういう線を取り払い、親鸞聖人の教えに出遭っていくということや。
お前も一人で生きているんやない。
仏さま、衆生、親や師、社会の恩をいただき生きさせてもらっているのや。
目に見えない「恩」こそ大事にしていかなければいけないんや」

 それから何年かして父はお浄土へ還り、
やがて私は「恩に報いるとは、いいことをしてくださったから
それに応えるのではなく、この私がこの命をもって
ここに生きているという深い感動を捧げることなんだ」
と理解できるようになりました。


「ほっとする親鸞聖人のことば」より抜粋

vol. 9491
「自利利他円満」よかったねと言えるあなたが魅力的  (2013/9/27 [Fri])
 皆さんは、同窓生が成功したり評価されたり
する姿を見てどう思いますか?「よかったね」と言えますか?
もしかして「うまくやりよったな」とねたんだりすることはありませんか?

 さて、友人がライバル会社に行き、
「貴社の成功の秘訣を教えてください」と聞いたそうです。
しかし「企業秘密だから」と、おしえてくれませんでした。
ある日、海外へ出張に行ったとき、同じ質問をしたそうです。
すると「ウエルカム」と手招きされて、
会社の隅々まで見学させてくれました。
そして「お互いにいいものを作ろうよ」と肩を組まれたそうです。
その会社は見る見るうちにトップ企業になったとか。

 「自利利他円満」とは、自分の利益(自利)になる
ことだけを求めるのではなく、他の人々にも利益を与えて(利他)こそ、
自利・利他ともども円満になるということです。
「世界全体が幸福にならないうちは個人の幸福はあり得ない」(宮沢賢治)は、
まさしく「自利利他円満」そのものです。

生きとし生けるものすべてが、
そのいのちを輝かし共存できてこそ、
私も輝くのです。他人を大切にしてこそ、自分に満足ができます。
自分に満足できないから、他人のことを恨んだりするのでしょう。
他者と私は、つながっているのですよ。「よかったね」と言えたとき、
はじめてあなたは魅力的な人間になっているのです。

「ほっとする親鸞聖人のことば」より抜粋

vol. 9490
「遊煩脳林現神通」 遊びという余裕が大切なのです  (2013/9/26 [Thu])
 親鸞聖人が著わされた「正信偈」の一文です。
「神通を現じて、煩悩の林に遊ぶ」。
「煩悩の林」とはこの娑婆世界のことです。
私たちは憂い、悲しみ、苦しみ、喜びという煩悩の中で生きています。
その煩悩に流され、自分を見失ってしまっていることに気がつけないのです。

 一方「遊ぶ」は、世間では何もしないで
ふらふらしているイメージもあります。
しかし、仏教で「遊ぶ」とは決して悪いとではありません。
たとえば、衣類の合わせ目などに用いるボタンは、
あえて緩めに糸を縫います。布地とボタンの間に余裕がないと、
ボタンを布の穴に入れることができないからです。
マニュアル車のギアチェンジも、
遊びがないとスムーズな切り替えができませんよね。
生きるうえでも、この「遊び」という余裕が大切なのです。

 ところが人間は、悩み出すとどんどん深みにはまり、
心の余裕を失い、一点しか見えなくなります。
車もスピードを上げ過ぎると視野が狭くなるように。
悩み焦って心の視野が狭くなったら、
「こんな時こそゆっくりやろう」と心を緩ませたらいいのです。

 「神通」とは、煩悩に迷う私たちを救うために、
阿弥陀さんは浄土から還って自由自在に現れる、
ということです。「あなたを決して一人にはさせませんよ」と。

「ほっとする親鸞聖人のことば」より抜粋

vol. 9489
「皆もって世々生々の父母兄弟なり」 さまざまなご縁に包まれている感動を  (2013/9/25 [Wed])
 今、他人に無関心な人が増えています。
電車の中で化粧やヘッドホンの音楽に夢中な人々。
あるタレントさんは、新聞のインタビューで
「他人は風景でしかない」と言い切っていました。
 
 昔、喜劇役者のマルセ太郎さんと仕事をさせていただいたとき、
控室で「おせっかいおばちゃんになってね」と言われました。
「どういうことですか」と聞くと、
「タバコ屋のおばちゃんには重要な役目があったんだよ。
行き交う人を観察して、「急がないと学校に遅れるよ」とか、
ご近所さんに声をかけてね。
今ではこの光景もなくなったな」と。

 私のお寺の掲示板には、
仏さまの言葉を子供でも理解できるように書いています。
ある日、子供が掲示板を読んでいたので、
「こんにちわ!」と声をかけました。
ところが、黙って見ているだけです。「どうしたの?」と聞くと、
「親から知らない人とは話してはダメと言われているから」
確かに物騒な世の中ですが、何ともさみしい返事でした。

 親鸞さんは、「一切の生きとし生けるものは、父母であり、
兄弟である」とおっしゃいました。親鸞さんには、
多くの出遭いが自分を育ててくれたという確信が
あったのではないでしょうか。家族、宗旨を共にする人だけでなく、
すべての人々、いや、鳥、花、流れる雲からも、
さまざまなご縁によって包まれているという感動があったのでしょう。
人の間と書いて人間。私たちは皆、つながって生かされているのです。

「ほっとする親鸞聖人のことば」より抜粋

vol. 9488
「染香人」よい香りがゆっくりと染み込むように  (2013/9/24 [Tue])
 ある方からこんな相談を受けました。
「私は人から尊敬されたいし、癒しを与えることのできる人になりたい。
どうしたらなれますか」私は親鸞さんの詠われた和讃を届けました。

 染香人のその身には 香気あるがごとくなり 
これすなわちなづけてぞ 香光荘厳ともうすなる(浄土和讃)

「お寺の本堂に入るとお香のいい香りがします」と言われます。
今日お香を炊いたから香るのではありません。
毎日の香りが本堂の柱、
仏具全体に染み込んでいるから香るのです。
「香は薫習する」と言います。私の体全体に染み込み、
いつしかその存在そのものを染め上げて、
その人自身の香りにまでなるのです。

 人間は急に立派にはなれません。
癒しも意識してできるものではありません。
また、尊敬されたいという気持ちを持つと、
人間はかえって逃げていくのではないでしょうか。
お香を「聞く」と言います。薫習されることで、
他人が自然に私の人生に耳を澄ますようになるのです。
すると誰かが訪ねてきて、そこにはほんとうの向きあいが生まれます。

 花は「私ってきれいでしょう」とは言いませんよね。
自分の個性を一生懸命に生きる姿に人は感動を覚えるのです。
尊敬をされようとする前に、まずは、あなたの香りを見つけませんか。


 「ほっとする親鸞聖人のことば」より抜粋

vol. 9487
「自力の迷心」迷いは自分に執着する心から生じる  (2013/9/22 [Sun])
 バタバタと忙しく過ごしてきた人にとって何が苦痛かというと、
入院生活だそうです。何もせずベットに横たわっていることほど
つらいことはないといいます。「今ごろ、ライバルが頑張っている」と
想像しただけで、居ても立ってもおれなくなるのでしょう。

 先日、ヨガ教室に行きました。
インストラクターが「死体」のポーズをしましょうというのです。
とりあえず大の字に寝て目を閉じていました。
すると「川村さん。顔と足に力が入っていますよ」と言われました。
いくら全身の力を抜いたつもりでも、
どこかで気が抜けない私がいるのです。

 「迷う」という字をよく見てください。
しんにょうは「歩く、進む」の意味ですが、
米という字がなんだか「×」と「十」を合わせたように見えませんか?
つまり迷路に入り込んだ状態です。右に行けども壁にぶつかり、
左に行けどもまた壁に……。
この状態を上から見ると「迷っている姿」とわかりますが、
当の本人はなかなか気づかず、
いつまでも自分の力に頼ろうとします。
そのように、「迷い」とは、自分に執着する心から生じるのでしょう。

 自分に限界を感じたら、どうか力を抜きましょう。
そして離れたところから自分という人間を観察してみませんか。
「な―んだ、バカみたい」と、きっと気がつきますよ。

 「ほっとする親鸞聖人のことば」より抜粋

vol. 9486
「遠く宿縁を慶べ」逃げるな!すべてを慶べ  (2013/9/21 [Sat])
「宿縁」とは、遠い過去からつながっている因縁のことです。
宿縁は変えようと思っても変えられません。
物事は必ず因と縁によって成り立っています。
誰しも父母という因があって生まれ、
目に見えないあらゆるご縁によって育てられました。
そかも、その縁はよい縁だけではありません。
遭遇したくない予期せぬ縁もあります。

 父は私に「慶子」と名付けました。
慶は「よろこ(ぶ)」と読みます。
親鸞さんは「慶び」と「悲しみ」を一対で表現されました。
自分に都合のよい幸せを喜ぶのは、
欲望が満たされただけのことです。
また悲しみも、そう。私たちは「失敗した」
「欲しいものが手に入らなかった」と言って悲しみますが、
これも自分の都合です。一方、親鸞さんは、
如来の本願に出遭いながらも愛欲の心を捨てきれず、
仏さまの仲間に入る慶びを得られないことを、悲しんでいらっしゃいます。

 そんな状況でも受け入れるには、勇気がいります。
その勇気をいただくのが、仏法に出遭うということなのです。
「悲しみ」に触れて初めて、
良いご縁も悪いご縁もすべて大切なんだと知る。
そして、そのことを受け止めて慶びに変えていこう、
というのです。親鸞さんはあなたに、
「逃げるな!すべてを慶べ」とおっしゃっているのですよ。


「ほっとする親鸞聖人のことば」より抜粋

vol. 9485
「本願他力」ただ聞き、ただ出会っていくしかない  (2013/9/19 [Thu])
 中国の随筆に、口と鼻と目と眉毛の問答があります。
口と鼻と目は眉毛に向かい、
「君は私たちより上にいて偉そうにしているが、
いったい何の役に立っているのか!」と聞きました。
すると眉毛は「確かに君らは食物をとり、呼吸をし、
ものを見る。その君たちのご苦労には感謝している。
お恥ずかしいことに、私はただここに座っているだけで、
何一つ役に立っていない。日夜すまぬと思いつつも、
ただ一生懸命に自分の場所を守っているだけなのです。」と言ったそうです。

 それを下から聞いた口と鼻と目は、
「今までは自分たちの心がけで暮らしてきたが、
それは間違っていた。
今後はぜひ眉毛の心がけでいきたい」と答えました。
自分は一人で成り立っているのではない。
私の居場所があるのも皆に助けられながら生きているからなんだ、
ということを眉毛の教えられたのです。

 他力とは「他人まかせ」ということではありません。
そうではなく、「自分一人でできたことなど何一つなかった。
私がここにいるのも、あらゆるものに支えられ、
阿弥陀さんに願われて生きている身である」
ということを知ることなのです。
「ただ仏法は聴聞にきわまることなる」。
人とほんとうに出会うためには、ただ聞き、
ただ出会っていくしかないのです。

 口と鼻と目と眉毛の問答をじっと聞いていたのは、
耳さんだったのですね。


 「ほっとする親鸞聖人のことば」より抜粋

vol. 9484
「自然法爾」あるがままの人生を生きる  (2013/9/18 [Wed])
 昔々、男が冬の寒い日に道を歩いていました。
すると、道の真ん中に小判が落ちています。
男は喜んで拾おうとしますが、凍りついて取れません。
石ころで叩こうにも、その石が見あたりません。
そこで、オシッコを小判にかけました。
尿の温かさでだんだんまわりが溶けていきます。
大喜びで小判をつかんだその瞬間、目が覚めました。
手にしたはずの小判は消え、困ったことだけが残りました。
現実は、生温かく濡れた布団の中で……。

これは、私たちの生きざまを物語っています。
ああなればいい、こうなればいいといろいろ追い求めて言った挙句、
大失敗に終わる――。ままあることですね。

政治家があの手この手を使って頂点に登りつめながら、
ついに万策尽きて政界を追われるケースもあるように、
自分の力だけを頼りに人生を生き抜くなんて限界があります。

 親鸞聖人が八十六歳のときに書かれた
『自然法爾章』という文章の中に、
「自然――あるがままに生きる」ことが書かれています。
私たちは、「あるがまま」に生きるのではなく
「思うがまま」に生きたいという願望の方が強いのではないでしょうか。
それを「我がまま」というのかもしれません。

 自分に都合よく生きたいから「今日はいい日だった、
悪い日だった」となるのでしょう。そうではなく、
今の状況にまかせて生きていくことも大切です。
「あるがまま」の人生を生きること、
それが自然な生き方なのですよ。


 「ほっとする親鸞聖人のことば」より抜粋

vol. 9483
「慙愧」自らを恥じ、人を敬う  (2013/9/17 [Tue])
 会社の上司が、部下の不始末に「慙愧に堪えない」と表現したりします。
しかし、この慙愧は、罪を犯した相手だけに向けられる言葉ではないのです。

 『涅槃経』の中で、父を殺した大きな苦悩を抱えて阿闍世王を、
耆婆という医師が仏の教えに導きます。
それを親鸞聖人が重く受け止め、私たちに伝えてくだっています。
「『慙』は内に自ら羞恥す、『愧』は発露して人に向かう。
『暫』は人に外に羞ず、『愧』は天に羞ず。
これを『慙愧』と名づく。『無慙愧』は名づけて人とせず。」

 「暫」とは、自分で自分の言動を見つめ、自分自身に恥じること。
「愧」とは、他の人が間違った道に歩まないように、忠告を与えることです。
また、他人様に対して恥ずかしいと思うことです。
だから、「慙愧」を自分自身のことであったと気づくことができない者は、
人と呼ぶことはできない、と言われているのです。

私たちは完璧な人間ではありません。
私たちも、人を傷つけながら生きています。
人の不始末は他人事ではないのです。
私たちはしばしば、父母を亡くしてからようやく、その親心に気がつきます。
生きているときは反発のほうが先に立っていたのに、
亡き人を前にしてはじめて、素直な気持ちになれるのでしょう。
「慙愧」を知ってこそ、人を人として敬うことができるのです。

「ほっとする親鸞聖人のことば」より抜粋

vol. 9482
自性唯心に沈みて浄土の真証を貶す」人と向きあうために念仏を唱えよ  (2013/9/16 [Mon])
 結婚して10年になる友人は、子供に恵まれませんでした。
ある日、彼女が仕事から帰ると、
姑さんが誰かと電話で話しをしています。
「うちの嫁は仕事はできるかもしれんけど、子供を産めないのよ。
○○家としてはまったく役に立たんかったわ。性格もきついしね」。

日ごろの不満がたまっていた彼女は、
「お母さん、私だって一生懸命やっています。
あなたは子供を産んだ経験があるかもしれませんが、
そうではない人だってたくさんいる。
そんな無神経な人がよく民生委員なんかできるわね」と
大きな声で泣き出してしまいました。
それに対して姑さんは、「またヒステリーが始まった。
情けないですね。なんまんだぶつ、なんまんだぶつ」と、
内仏に向かって合掌を始めたというのです。

 私はこの話を聞かされて、
親鸞聖人の「自性唯心に沈みて浄土の真証を貶す」と
お言葉が胸をよぎりました。
姑さんにしてみたら、日ごろ忙しい彼女とろくに会話もできないという
もどかしさもあったでしょう。でも、そのとき唱えられたお念仏は、
「自分さえ大人であればいい」という自分本位の世界に
沈み込んでいたとしか思えません。

 お念仏は決して自分一人のためではなく、
目の前の人と向き合っていくものではないでしょうか。
親鸞聖人のお言葉は、
「その人の悲しみの声にどこまでもうなずいていけよ」と
呼びかけてくださっているような気がします。


「ほっとする親鸞聖人のことば」より抜粋

vol. 9481
「詮ずるところは信心」  (2013/9/15 [Sun])
私たちは何かに失敗したとき、「あの人と出会っていなければ」
「こんな時代に生まれたばっかりに」「親のせいだ」などと、
失敗理由を他人のことばのせいにしたり、
まわりの人の責任にしてしまうことがあります。

 ほんとうはそうではないのです。誰が何を言っても言わなくても、
自分自身のうちにしっかりしたものがあれば、
流されることはありません。
それなのに、他人に影響されるのは、
自分自身にしっかりしたものがなかったということです。

 大切なのは、失敗を通して、
自分自身がしっかりした生き方を見出していなかったことに気がつけるか、
なのです。親鸞聖人の息子である善鸞が、
間違った仏法の解釈で世の中を混乱させました。
親鸞聖人はそのとき、「詮ずるところは、
人々の信心ならぬことの現れて候」と悲しまれました。

 息子善鸞の言行がどのようなものであったとしても、
「人々の信心」が真実のものであったら、
世の中も乱れることはないはずだとおっしゃるのです。
阿弥陀如来のお心に適っていれば、
迷うこともフラフラすることもないはずです。

 「ほっとする親鸞聖人のことば」より抜粋
 

vol. 9480
「雑毒の善」善行もわずかな欲で毒となる  (2013/9/14 [Sat])
 あるスポーツジムに行ったとき、更衣室で会話が聞こえて来ました。
「インストラクターの先生に毎回、
旅先のお土産やらスカーフやらプレゼントしているのに、
私のかけてくれる時間は他の人と一緒なのよ」とかなりお怒りの様子。
つまり、「こんなにしてやっているのだから、
私だけ特別扱いしてほしい」ということなのでしょう。

 「お先へどうぞ」と言っておきながら、
お礼がないと突然怒り出す方もいます。
誰かのためになっていても、そこの「欲の心」が混じると、
それは雑毒となります。
そして、ほんの一滴でも毒が混ざれば、その水は飲めません。

 先日、タレントのSさんが「涙の謝罪は嘘でした」と
コメントしましたが、ある意味正直な方だなと思いました。
外では謙虚そうに振る舞いながら内心で怒りの感情を持つ、
そんな内と外が裏腹な状態で生きているのが私たちです。

 ある学生がボランティアに参加しました。
そして終わったあとに、「え?本当に全然お金もらえないの?」と
依頼者に訊いたそうです。意味をはき違えると、困ったことになります。
親切も使い方を間違えると毒になります。ご用心。
いくら善行を積もうとも、そこにわずかでも「欲」があれば、
それは「雑毒の善」でしかないのです。

 「ほっとする親鸞聖人のことば」より抜粋

vol. 9479
「罪悪深重 煩悩熾盛」他者に迷惑をかけているわが身の自覚  (2013/9/13 [Fri])
 ある日、少年からこんなメールが届きました。
「書店で万引きしたけれど、今、とても苦しいです。
どうしたらいいですか?」私はすぐ返事を返しました。
「よくぞメールをくれたね。あなたは犯した罪を後悔している。
それはどんな後悔かな?」すると「制服で万引きしたから、
誰かに見られていないかと後悔しています」と返ってきました。
親や学校にばれたらどうしようというのは、
自分のことしか考えていない後悔です。

 私は再び少年にメールをしました。
「本の後ろのページを見てごらん。
著者、デザイナー、出版社、印刷所……
多くの人の手でこの本ができているのがわかるね。
皆、これを仕事として生きているんだよ。
もしあなたが本を書く仕事についたとき、
平気で万引きする人を見たらどう思う?
名乗らないでいいから、
夜、そっとビニールに入れて返そうね」。

 翌日、この書店の店長からメールがきました。
今朝、店のシャッターを開けたら、ビニール袋に入った
本が店の前に置かれていて、「本当に悲しませてごめんなさい。
妙慶さんに謝ってこいと言われました」
と書いたメモが添えられていたそうです。

 親鸞さんは、教えに出遭い、見えてきたわが身を
「罪悪深重煩悩熾盛の衆生」と表現しました。
罪悪が深くて重く、貪る欲や怒りや愚痴が盛んな、
他者に迷惑をかけているわが身を、
そこで初めて自覚されたのです。

 「ほっとする親鸞聖人のことば」より抜粋


vol. 8478
「旧里はすてがたく」腹が立ったら大空を見上げて  (2013/9/12 [Thu])
 先日、あるスポーツ選手が、怒りを暴力に変えてしまった事件がありました。
「むかつく」ことは誰にでも多少なりともあります。
何とかここは大人になろうと心の中ではコントロールしようとしますが、
怒りが頂点に達するとなかなか抑えられない場合もあるでしょう。
それが感情の怖さです。
でも、その苛立ちを暴力に変えてしまうというのは、
また別の問題です。

 怒りがおさまらない奥底には「自己主張」があります。
「あなたに私のキモチがわかるのか?」と、
私の苦しみとあなたの苦しみに差があると思ってしまうのです。
また自分を否定されるほど嫌なこともありません。
言葉でその否定を覆せないとなると、
あとは暴力で相手をギャフンと言わせてやろう
としか考えられなくなってしまいます。
抑えられない気持ちもわかります。
皆、煩悩を持った人間です。

 「歎異抄」に「苦悩の旧里はすてがたく」とあります。
「私の苦しみはすごいのだ」と、
自分の苦悩からいつまでも離れられなくなることです。
けれども、お互いが自分の苦悩を絶対化してしまったら、
最後まで主張し合うままで終わってしまうでしょう。

 「売られたケンカは返す」というのでは何も解決しません。
腹が立ったときは、大空に向かってその怒りを吐き出しましょう。
空があなたの怒りを受け止めてくれますよ。


 「ほっとする親鸞聖人のことば」より抜粋

vol. 8477
「煩悩成就」腹を決めて生きる確信  (2013/9/11 [Wed])
 親鸞さんは、誰にでも悪人の要素があることをお示しくださいました。
すると「所詮煩悩を消せない悪人なんだから、
何をしてもいいんだ」と開き直る人が、今も昔もいます。
煩悩を盾にして、快楽を自己弁護する。煩悩のまま生きることは、
いかにも自然のままの心の現れだと錯覚してしまう。
それは煩悩にただ流されて生きているだけです。

 お釈迦さまが「欲は底なし」とおっしゃったように、
煩悩は満ち足りることがありません。
たしかに私たちから煩悩は取れない。
煩悩が成就している。つまり「煩悩の完成品」です。
だからと言って、
親鸞さんは「開き直る」ことを進めているのではありません。

 ある日、会社のお金を使い込んだというメールがきました。
死んでお詫びするというのです。
私は居ても立ってもおれず指定してきた場所へ向かいました。
「妙慶さん。ほんまに来てくれたんか。
俺はもう最悪の人間や。過去は真っ黒に汚れてしまった。だから、
これからも真っ黒の人生しかないわ」と。

 私は伝えました。「あなたの未来はまだ真っ白ですよ。
あなたが黒だと決めつけているだけです。
死ぬことは逃げることで、詫びることではない。
迷惑をかけた人に直接会って詫びなければ。
申し訳ございませんでしたと」。

 ほんとうに煩悩が成就するとは「迷惑をかけている」
という自覚を持ち、腹を決める、ということです。すると、
そこではじめて、「生きる」という確信もいただけるのです。

 「ほっとする親鸞聖人のことば」より抜粋

vol. 8476
「業縁」縁があれば変わってしまう自分を自覚する  (2013/9/10 [Tue])
 ある待合室で、「女優の○○は、夫のDVが原因で離婚するらしいわ!
なんであんなきれいな人に暴力をふるうのか考えられん。
俺だったら絶対に幸せにするのにな」という会話が聞こえてきました。
でも人間は、その場の環境におかれなければわからないことだらけです。
「業縁」という縁に遭遇すれば、人は加害者にも被害者にもなるのです。

「歎異抄」の中に次のような一文があります。
「一人にてもかなひぬべき業縁なきによりて害せざるなり。
わがこころのよくてころさぬにはあらず。また害せじとおもふとも、
百人千人をころすこともあるべし(業縁が調わないから人を害さないのだ。
自分の心が善いから人を殺さないのではない。
調えばたとえ百人でも千人でも殺すであろう。
人間とはそもそも、そうするはずの因縁があれば、
どんなことでもする存在である)」

 あなたのことを愛し続けると誓いながら、気がついたら愛する人を
裏切ってしまっていたということもあります。私たちは愛と裏切りとの
あいだに横たわるあいまいな境界を、識別することができません。
そういう根本的な問題を、親鸞さんは私たちに投げかけているのです。
大切なのは、「私に限っては、絶対にない」ということはありえない、
縁がきたらいつでも変わってしまう自分がいる、という自覚を持つことなのです。

 「ほっとする親鸞聖人のことば」より抜粋

vol. 8475
「罪福心」強い執着心という弱い心  (2013/9/08 [Sun])
 ある日、道を歩いていると、女性から声をかけられました。
あなたはこのままでは不幸が続く。
三年以内に家族の誰かが死ぬでしょう」と言われました。
さらに「印鑑を変えれば、あなたの人生は100%思い通りになる」
と言うのです。こんなことを突然言われたら、
どんな人間でも不安になります。

 人間というのは、どこまでも自分の不幸は避けたい、
幸せを手に入れたいと願うものです。しかし、親鸞聖人は、
その心を「罪福心」と呼びました。

 人間は、幸せになれるのだったら神様だろうと仏様だろうと、
利用できそうなものは何でも利用したい。
そういう人間の持つ「強い執着心」という弱い心を、
親鸞聖人は「罪福心」と言いました。

 私にも罪福の心があるということを自覚せよ

――しかし、その心は何によるものなのでしょうか?
それはすべて、「思い通りにしたいという欲望」なのです。
思い通りになることが本当の幸せではないということに気がつき、
心を決めよ――

そのためにも阿弥陀仏の信に立って生きることが必要なのです。

 振り子の時計も軸がゆるんでいると針が狂うように、
私の心の中心軸がゆるむと迷いが生まれます。
どんな状況でも事実と向きあえること、それが大切なのですね。

 「ほっとする親鸞聖人のことば」より抜粋

vol. 8474
「地獄は一定のすみかぞかし」  (2013/9/07 [Sat])
親鸞聖人が残した「歎異抄」の中の名文です。
ここから私は、芥川龍之介の「蜘蛛の糸」を連想します。

お釈迦さまは、悪事を働いて地獄へ落ちたカンダタという男を見て、
極楽へ救ってあげようとし、蜘蛛の糸を垂らします。
カンダタは糸をつたって昇り始めますが、
数限りない地獄の罪人たちが自分の下から続きます。
このままでは糸が重さに耐えきれないと不安になった彼が、
「この蜘蛛の糸は俺のものだ。おりろ!」と喚いた途端、
糸は切れて、自分も一緒に再び地獄に落ちてしまうのです。

 この糸は私たちに何を教えてくれるのでしょうか。
上に昇るというのは、私たちでいう出世、
エリート・コースを進むことです。
でも、それが本当の私たちのすみかでしょうか。
上に昇れば昇るほど、「落ち目」を恐れるようになります。
それを見たくないから、他人を蹴落としてまで、
さらに上に昇ろうするのです。
いつになっても心は落ち着きません。
常に追われることを気にしなくれてはならないからです。

 もしも親鸞聖人がおられたら、
「はじめから昇らなければいいのに」とおっしゃることでしょう。
「この地獄こそが私たち人間の住みかなんだぞ」と。
「落ち着く」とは、落ちて大地に着くこと。地の底から、
私たちはじっくり人生を見つめ、
本当の底力をいただきたいですね。


 「ほっとする親鸞聖人の言葉」より抜粋


vol. 8473
「生きるのが大変」なのは、人も犬もミミズも、みんな同じ  (2013/9/06 [Fri])
 「生きるとは、死なないように必死で支え続けること」
もう一つ大事な話を付け加えておきましょう。
そもそも、生きるということは忙しいものです。
ずっと働き続けなければ、どんな生き物も生きていけません。
犬も、猫も、ミミズも、人間も、忙しく働き続けることによって、
かろうじて生きているのです。まさに生きるというのは、
死なないために必死で支え続けることです。

 たとえば、私たちは一日三回の食事をしますそのうちの
一度や二度食べなかったからといっても
すぐに死んでしまうことはありません。
しかし、体は一日に三回栄養を吸収するのではなく、
絶えず細胞の一つ一つに栄養を補給し、
血液を循環させています。
その循環が止まってしまえば、私たちは生きてはいられません。

 つまり、私たちの体(脳や内臓の細胞の一つ一つ)は
常に栄養や酸素をとり続け、血液は循環し続けています。
二十四時間、三六五日、まったく休むことはありません。
その状態を維持することで、
私たちは死ぬことからやっと逃れているのです。

 そんなふうに自分の体が休まず働き続けているのだと、
あなたは考えたことがありますか。
それだけ、生きるということは忙しいものなのです。
死なないように必死で動き続けることが、
すなわち生きることなのです。
しかし、どんなに抗っても、いつかは必ず負ける。
これも生きるものの宿命です。

 体や脳が休まず動き続ける「忙しさ」というものは、
ビジネスマンが日常的に感じている「忙しさ」とは、
少し種類の違うものかもしれません。ですが、
生きることが忙しいのは同じですし、
休みが必要だというのは誰にでも共通するものでしょう。

 忙しく働くことは決して悪いことではありませんし、
社会のために一生懸命になるのは素晴らしいことです。
ただし、そもそも生きるとは忙しいものであり、
だからこそ休息が必要だということも忘れないでください。


 「一生、仕事で悩まないためのブッダの教え」より抜粋

vol. 8472
どんな状況でも「できること」は必ずある  (2013/9/05 [Thu])
自分の体をケアする上で「どんなふうに疲れているのか」
「どうしたら疲れが取れるのか」を理解することはとても大切です。
疲れの正体を知らずに、疲れを取ることなどは不可能だからです。

疲れもマンネリの中で蓄積していきます。パソコンの前に座って、
ずっと同じ姿勢でいるのはやはり体が疲れます。
しかし、そんなことを言うと「私は座り仕事だからどうしようもない」と
いって体を酷使し続ける人がいます。実に発想が貧困です。

それならいっそ、「午後二時から四時までは立って仕事をする」と
決めてしまえばいいでしょう。
その時間だけは机の上にさらに台を置いて、
その上で仕事をすればいいだけのこと。
そんな代くらい100円ショップの道具を使えば、
わずかなお金で作れてしまいます。
「肩が痛い」「腰が痛い」と嘆いていないで、
そのくらい大胆に変える発想が欲しいものです。

「環境に適応することが大事」といってきましたが、
「自分は座り仕事だから、黙って苦痛に耐える」と
いうのが環境に適応することではありません。
それで体を壊してしまうのは、むしろ環境に適応できていない証拠。
自分が置かれている状況を把握し、
その中で「どうしたらよりよくなるか」を工夫することこそ、
環境に適応するコツです。その時こそ、大胆さが必要です。

一日中座っているのがつらければ、立って仕事をすればいい。
嫌な仕事があるなら、それを誰かに放り投げる術を考える。
会社に就職できないならば、自分でできる仕事を探す。
環境に適応するには、ときに大胆で、タフな発想が求められます。
自分が知らず知らずのうちに持ってしまっている
固定観念や社会システムに準じることが「適応」ではありません。
むしろその殻を破って、柔軟に、順応していくことが大事なのです。

肉体や精神が疲れてしまっているときに、
「仕事だから仕方がない」「この会社ではどうしようもない」
「こんなご時世、どうすることもできない」などと、
勝手に閉鎖的にならないことです。
周囲の環境は変えられなくても、自分でできることは必ずあります。


「一生、仕事で悩まないためのブッダの教え」より抜粋



vol. 8471
「そんなことどうでもいい」――これでうまくいく!  (2013/9/04 [Wed])
 物事が予定通りに進まないのは当たり前。
これこそまさに世の常なのですが、
なかなかそう思えない人も多いようです。
「それが世の中というものさ」と開き直ることができず、
結果に対して一喜一憂してしまうのです。

 物事がうまくいけば明るくなり、うまくいかなければ暗くなる。
予定通りに仕事が進めば明るくなり、予定より遅れたら暗くなる。
自分が関わっているプロジェクトがうまくいけば明るくなり、
失敗すれば暗くなる。思うような仕事、
役職が与えられれば明るくなり、
期待外れの仕事を与えられると暗くなる。
たくさんの給料をもらったら明るくなり、少なかったら暗くなる。

 あなた自身、あなたの周囲にも、
そんな人がたくさんいるのではないでしょうか。
しかし本当に大事なのは、
そんなものに左右されない「心の強さ」です。
自分が勝手に抱いた期待や
希望が裏切られたといっては暗くなる。
外部の環境が自分の思い通りにならなかったといっては暗くなる。

 そんなことを繰り返していれば、
あっという間に心は壊れてしまいます。
外部の環境はあなたの都合で変わってくれるものではありません。
それは仕事であれ、職場環境であれ、人間関係であれ、
すべて同じです。あなたの外側にあるものが、
あなたの都合など考慮してくれるはずがないのです。
もっといえば、あなたの期待を裏切ることばかりでしょう。
でも、それは仕方のないことです。
ただ単純に存在している環境の中で、
私たちはただ生きているだけです。
環境を変えることなど、到底できないのです。

 結局私たちは環境に適応することで、
生きていくしかありません。環境を把握して、
受け入れて、順応していくしかないのです。
その際最も大事なのが「いちいち心を揺さぶられないこと」。
何があっても何がなくても、予定通りに進んでも進まなくても、
「まあいいや。それはそれでよろしい」と開き直って、
淡々と、冷静な気持ちでいることが肝心。

 物事を予定通りに進めようと、
無駄な労力を使って心を痛めつけるのではなく、
何があっても平静でいられるよう自分の心を管理するべきです。
仕事が予定通り進まなかったり、
誰か(何か)に期待を裏切られたりした時こそ、
このことを思い出してください。
仏教で一貫して語っているのは、まさにこの自己管理についてなのです。


「一生、仕事で悩まないためのブッダの教え」より抜粋


vol. 8470
「心のあくび」なんて、簡単に抑えられる  (2013/9/03 [Tue])
 落ち込んだ時は、どうしたらいいか。
こんな問いかけもよく受けます。
大体この手の質問をする人は「落ち込み」というものを、
ひどく大げさに考えている傾向にあります。
そりゃ誰だって落ち込みますよ。
私だって、あなただって落ち込むのは当然です。
仕事がうまくいかなかったり、人間関係でトラブルが合ったりしたら、
嫌でも落ち込んでしまうのが当たり前です。

 つまり、「落ち込み」などというものは、あくびをするようなもの。
日常のちょっとした瞬間に、ちょくちょく出てくるものなのです。
生きていれば、落ち込みもする。ただそれだけのことです。
ぜひ、こんなふうに考えてください。
もしあくびが出たら、どうしますか。
ちょっと席を立って運動をしたり、
お茶を飲んで休憩したりするでしょう。
落ち込んだ時も、それと同じで大丈夫。
お茶を飲んで一息つけば、気分は少しは変わります。
落ち込みなんてそんなものです。
そうやって落ち込みを継続させないことが大事なのです。

 あくびが一度出たくらいでは病気ではありませんが、
ひっきりなしに続いたら、それは病気かもしれません。
落ち込みもこれと似ていて、いつまでも落ち込み続けるのは問題です。
大切なのは、「気分が晴れない」
「落ち込んだ」という状況を敏感に察知して、
すぐに気分を入れ替えることです。
自分の精神状態に気づき、意識的にコントロールすることが大事です。
往々にして、落ち込みというのは、マンネリの中に蓄積していきます。

 落ち込みから脱する方法の一つは、
人生にバリエーションをつけること。
普段あまり会わない人と会って話をしたり、
滅多に行かないお店で食事をしてみたり、
たまには外をジョギングしたり、
いつもと違う道を通って散歩がてら帰ってみたりするのも一案です。
いつもはやらないことをちょっとやるだけで、気分はけっこう変わるものです。

 落ち込むこと自体は仕方ないことですし、
大した問題ではありません。その状態を長引かせないように、
コントロールする術を持っていることが一番大事なのですよ。


 「一生、仕事で悩まないためのブッダの教え」より抜粋
 

vol. 8469
すべての*地獄*は、あなたの心がつくり出している  (2013/9/02 [Mon])
 どうすれば穏やかな気持ちで日常を送ることができるのか。
ここではメンタルコントロールについて、考えてみたいと思います。
私が一番おすすめしたいのは
「どんなものにも楽しみを見つける癖をつけること」。
結局、これが実に優れたメンタルコントロール術なのです。

 たとえば、信号が赤だったとします。
その環境は変えられません。
文句をいっても赤は赤のままです。
そのとき「どうして赤信号なんだよ!」
「急いでいるのに、イライラするな!」と思う人もいるでしょう。
しかし、そう思った瞬間、穏やかな気持ちとはかけ離れてしまいます。

 たとえ同じ状況でも、少し視点を変えれば
「今日はけっこう車がたくさん走っているな」とか
「今日は抜けるような青空で、とても天気がいいな」など、
ちょっとした楽しみを見つけ出すことだってできるはずです。
実際子供たちはそうやって物事を楽しくとらえています。
だから、彼らは退屈せずに、人生を楽しく生きていけるのです。

 大人になることは、人生をつまらなくすることではありません。
病気をしても、仕事がたくさん溜まっていても、お
金を盗まれたとしても、そこから楽しみを見つけることは可能です。
病院のベットで「ああ、健康っていうのはありがたいものなんだな」と
改めて気づくのもいいでしょう。忙しい仕事の最中、
「これだけの人に必要とされるのは、すごいことだ」と
自分を褒めるのいいでしょう。お金が盗まれたとき、
「大金でなくてよかった」「これからはお金をもっと大事に使おう」と
考えることだってできます。

 事実は事実として変わりませんが、それをどうとらえ、
反応するかは自分で選ぶことができる
ということを忘れないでくださいね。
「つらい」「苦しい」「嫌だ」「腹が立つ」など
ネガティブな反応をすれば、どんどん気持ちはすさんでいきます。
それを環境のせいにして、
すさんだ気持ちのまま人生を送っていきますか。
どんなに怒ったって、文句を言ったって事実は
変わらないのですから、笑って楽しんだほうがいいでしょう。

 ぜひとも「楽しいほうに目を向ける」癖をつけてください。
事実があなたを苦しめるのではありません。
その事実をネガティブにしかとらえられない精神状態が、
あなたを苦しめているのです。


「一生、仕事で悩まないためのブッダの教え」より抜粋

vol. 8468
イラッとしたら、考え方を「ほんのちょっと」変えてみる  (2013/9/01 [Sun])
 誰かとペアを組んで一つの仕事をする場合、
相手の能力が低いことにイライラしたりはしませんか。
デキの悪い部下を持って、
「なんで、こんなこともできないんだ」と
怒鳴ってしまうことはありませんか。
これもよくある仕事の悩み。
一人っきりで仕事をしている人はまれですから、
結局他人との能力差に悩まされるわけです。

 能力の低い人は、同じ作業をするにも
人一倍時間がかかるし、「ここはどうすればいいんですか」
「このやり方を教えてください」などとしょっちゅう声をかけてきます。
その都度あなたは自分の仕事を中断して、
教えなければなりません。イライラが溜まって、
爆発する人もいるでしょう。

 しかし、ここが考えどころです。
能力の低い人に対してイライラする気持ちはわかります。
ですが、ちょっと視点を変えてみると、
この瞬間こそ、まさに「人の役に立てる場面」ではないでしょうか。
「仕事とは人の役に立つことをするという大前提があります。

 わからない人がいれば教えてあげる。
困っている人がいたら助けてあげる。
これこそ仕事を楽しみ、喜びを感じる
王道パターンではないでしょうか。
「仕事がつまらない」「周囲にロクな人材がいない」と
文句を言う人ほど、自分の都合や希望を周囲に求める
ばかりで「人の役に立つ」という大前提を忘れています。
あるいは「人の役に立ちたい」と口では言いながら、
本当は「自分の好きなやり方で人の役に立ちたい」と
だけ考えているわけです。
結局、それも自分本位で働いているに過ぎません。

 もともと仕事をするからには「どうしたら人の役に立つのか」
「周囲(社会)はあなたに何を求めているのか」を考え、
行動するのが当たり前です。あなたがやりたいことを(あるいは、
やりたいように)するのではなく、
「人や社会がやって欲しいと思うこと」をやる。
これが仕事です。この目的が達成されたとき、
きっとあなたは「人の役に立てた」「感謝された」
「喜んでもらえた」という満足感が得られるのです。
まさにそれが仕事の楽しみです。周囲にあれこれ文句をいうのは、
結局のところ「仕事の本質」がわかっていない証拠なのです。

「一生、仕事で悩まないためのブッダの教え」より抜粋

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