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2015年11月

vol. 4806
「中心感覚を持つと、友達が増える」  (2015/11/30 [Mon])
1人1人の個性がバラバラなのは、
それぞれ独自に中心感覚を持っているからです。
「あなた」と「私」という2つの中心感覚が存在します。
でも、中心感覚の周辺にあるあらゆるものは共有物です。
手も足も体も、すべて相手との共有物と考えるのです。
これは仏教の考え方です。

人に足を踏まれたからと言って、怒る必要はありません。
相手の足も自分の足で、自分の足も相手の足です。
右の足が左の足を踏んだ時に、怒る人はいません。
踏んだのも踏まれたのも、自分です。
すべての体はつながっています。
相手から何かをされても、それは自分の体やったことだから、
怒る必要がありません。

これが人間関係でストレスをつくらない方法です。
スポーツ選手が体を動かす時に大切なのは、
自分の体同士をケンカさせないようにすることです。

スポーツで実際に起こっているのは、
自分の右足が自分の左足を踏んで転ぶという状態です。
スキーでは、ターンをしきれなくて、
自分の右足で自分の左足のスキーを踏んで転倒することはよく起こります。
スキーだけではなく、あらゆるスポーツでそういうことが起こるのです。
自分の体同士でケンカをするのです。

ボールルームダンスでは、
自分の右足が自分の左足を置いてきぼりにして動いてしまう状態です。
または、自分の右足が自分の左足を邪魔する状態です。
相手との関係がうまくいっていない時でも、
まずは自分の体の中を意識してください。
体がバラバラになっていたり、体の中で対立しているのが、
中心感覚がなくなっている状態です。
中心感覚をきちんと感じている人は、
自分の体でも相手の体でも、調和がとれています。
格闘技でも、相手の体と調和をとりながら、
相手を倒しているのです。
自分の中心感覚と相手の中心感覚を感じて、
お互いが共有する状態をいかにつくるかです。
格闘技やダンスは接触型のスポーツですが、
サッカーやテニスのように距離があっても、
お互いの中心感覚を感じることができます。

中心感覚の延長線上にある体と、
さらにその延長線上にあるボールのやり取りをすることで、
お互いの体を共有しているのです。
調和をとって、バランスをとることによって、
ボールを打ち返したり、蹴ったりできるのです。

相手と接触しているかどうかでは関係ありません。
接触していなくても、力を及ぼし合っているのです。
その力は、反発力ではなく調和力です。
調和力を出すために、
自分の中心感覚がどこにあるかを常に感じるようにするのです。

「答えは、自分の中にある」より抜粋

vol. 4805
「中心には、メンツも目的もない。禅とは、中心を感じること」  (2015/11/29 [Sun])
中心は、てこの原理では支点です。
最も力を発揮するのは、てこの考え方です。
人間の力は、そもそもてこの原理で動いています。

力を発揮できない人は、てこの支点がないのです。
てこに必要なものは、支点、力点、作用点だと理科の時間に習いました。
ところが、力点と作用点はあるのに、支点のない人がいるのです。

てこで一番大事な要素は、支点です。
支点をどこに持ってくるかによって、
小さな力で大きな作用を生み出せるようになるのです。

ところが、どうやって力を入れればいいか、
どこに作用させればいいかということばかりに気を取られすぎて、
本来支点である中心感覚をおろそかにしてしまう人が多いのです。
支点には力はいりません。支点は目的とも違います。

「中心感覚は、目的ということですか」という人がいます。
中心感覚は目的ではありません。
目的というと、どうしても力んでしまいます。

目的というよりも、本来その人のあるべきところ、
エネルギーの湧き出る源泉、エネルギーのたどりつくところ、
それが中心感覚です。

「目的意識を持ちなさい」という言葉には弊害があります。
目的を持つと、人間は誰しも頑張るので、力が入ります。
そして、裏側の力として、メンツがムクムクと湧き上ります。

中心には、目的もメンツもありません。
中心は、力が入っていない支点です。
それは、もう少し純粋で、澄んだものです。

力の入らない支点があることで、
大きな力を生み出すことができます。
ボウリングでは、肩が支点になります。
力を入れようとすると、どうしても肩が前に動きます。
そうすると、大きな力を生み出せなくなります。

力を入れ過ぎている人は、支点を動かしてしまうのです。
支点に力を入れてはいけません。
支点を固定するように、柔らかく支えることが大切です。
そのために力が必要なのです。
支点を動かすことにエネルギーを注いではいけないのです。

「答えは、自分の中にある」より抜粋

vol. 4804
「自分らしさは、「外見」でも「中身」でもなく、「中心」だ」  (2015/11/28 [Sat])
よく「自分らしく」と言います。それはむずかしいことです。
「自分だしさ」とは、自分の軸に合っていることです。
軸に合っていると、バランスがとれるのです。

バランスの取れている状態だ、最も自分らしい状態です。
プラスもマイナスもないということではありません。
プラスとマイナスのバランスがとれて、
軸に沿っている状態です。

自分らしさを感じるためには、
あなたの中心がどこにあるかを感じる中心感覚が必要です。
中心感覚を感じることができないのに、
自分らしく生きるとか、自分らしさを感じることはできないのです。

「自分らしさ」は抽象的な表現です。
自分らしい仕事や、自分らしいファッションというのは、
結局はいかに自分の中心感覚を感じることができるかということです。
表面上の問題ではありません。

「自分らしさ」というと、どんな服装を着るのか、
どういう仕事をするか、この仕事が合うのか合わないのか、
人間関係で合うのか合わないのかなど、
表面上の議論にばかり行っていまします。

末端ばかりにとらわれていると、いつまでたっても、
自分らしさに出会うことができないのです。
一見、そりが合いそうにない人同士がうまくやっていることがあります。
それは中心感覚を持つ人同士がうまくやっていることがあります。
それは中心感覚を持つ人同士の波長が合っているのです。

「答えは、自分の中にある」より抜粋

vol. 4803
「好きな音楽を聴く時、耳ではなく、中心で聴いている」  (2015/11/27 [Fri])
好きな音楽を聞く時に、「ハートで感じる」と言います。
その「ハート」は中心感覚のことです。
焦点は「フォーカス」と言います。

それは「中心」ということで、
別の言い方では「集中する」ということです。
嫌いな音は耳障りなので、排除したくなります。

好きな音楽は、スッと入ってきます。
その時、耳という意識はまったくありません。

嫌いな人と電話で話していると、
その人の声は耳元で怒鳴っている感じがします。

ところが、好きな人と話していると、
電話で話していることを忘れるのです。

つまり、相手の声が中心にたどりついているのです。
嫌いな食べ物を食べる時は、前歯でかみます。
好きなものを食べる時、奥歯でかみしめます。
もっと好きなものは、のどで味わいます。

もっともっと好きなものは、胃でも味わいます。
一番好きなものが体にいいのは、体の奥で味わうからです。
体の中心で味わうほど、栄養にもなり、好きにもなるのです。

「答えは、自分の中にある」より抜粋

vol. 4802
「体の中心から、エネルギーの波紋が広がる」  (2015/11/26 [Thu])
呼吸によって外から入ってきた「気」が体のエネルギーになって、
体中に流れているというイメージを持つことが大切です。
体のどこに力を入れるかを考えるよりも、
自分の体の中にエネルギーが循環しているというイメージを持つのです。
これが中心感覚です。

中心感覚は、実は中心であって中心でないのです。
中心感覚は、エネルギーが流れているという感覚です。
「これが私の中心」という点があるわけではありません。
体中にエネルギーがみなぎっている状態が中心感覚なのです。

体中にエネルギーが広がっていくのは、
エネルギーが体中をグルグルまわるということではありません。
池に小石を投げた時に、
中心から外へ波紋が広がっていくイメージです。

そうすると、自分の体をどこまでも大きくすることができます。
エネルギーを末端まで浸透させ、次から次に広げていけるのです。

「古池や 蛙飛び込む 水の音」というのは、
今カエルが飛び込んだところが中心で、
その中心から池の波紋が広がり、
音の波紋がお寺中に広がり、自分の体を通り越えて、
宇宙までどんどん広がっていく中心感覚を感じている歌です。
中心から発せられたエネルギーは、
どこまでも遠くへ達することができるし、
どんな硬いものも通過できます。

「しずかさや 岩にしみ入る 蝉の声」というのは、
セミから発した声というエネルギーが岩を貫通しているイメージです。
松尾芭蕉の歌は、エネルギー感をとらえています。

「五月雨を 集めて早し 最上川」というのは、
エネルギーが通過していくイメージです。

「夏草や 兵どもが 夢のあと」は、
エネルギーが通過した後のイメージです。
絵画や書道など、すべての芸術品は、
その中心感覚を味わうところに価値があるのです。

「答えは、自分の中にある」より抜粋

vol. 4801
「体の中心でするのが、エネルギーの腹式呼吸だ」  (2015/11/25 [Wed])
呼吸は、古い空気と新しい空気を入れ替えていく作業です。
それは酸素の入れかえではなく、エネルギーの入れかえです。
呼吸は、末端ではなく体の中心で行います。

腹式呼吸で「空気をおなかまで入れる」と言いますが、
場所の問題ではありません。
自分の中心で空気の交換を行うイメージを持つようにしましょう。
そうすると、吸った空気を体の奥深くまで入れることになります。
一つ一つの呼吸動作が大きくなって、ムダがなくなります。
そして、呼吸の回数が少なくてすむようになるのです。

本来、空気には“エネルギーや栄養”が存在します。
大気中にあるエネルギーや「気」を、
体の中心まで持っていかなければ、
それを吸収することはできません。

ほとんどの人が思っている体の中心は、
本当の中心より高い位置です。
体の中心は、本当はもっと低いのです。

「腹式呼吸」と言いますが、体の中心は、
おへそよりも下にあるのです。呼吸の浅い人は、
胸のところで新しい空気がとまっています。
胸は体の中心ではありません。

それは、酸素の足りない水槽にいる金魚が、
パクパクしているような状態です。

ヨガの呼吸法では、鼻から吸って鼻から吐きます。
そのほうが体の中心まで呼吸が入りやすいのです。
日本式の呼吸法は、鼻から吸って長く口から吐く形です。
インドのヨガで鼻から吸って鼻から吐くのは、
のどの奥に意識を向けるようにするためです。
その時、のどの奥で音がなっていることを意識するようにしましょう。
のどの裏側に中心感覚を感じるのです。
そこに軸が通っている意識を持つのです。
呼吸をする時、のどの奥に意識を向ける人はいません。
ヨガも禅も、中心感覚を意識しなおすトレーニングなのです。

「答えは、自分の中にある」より抜粋

vol. 4800
「姿勢がいいというのは、中心感覚があるということ」  (2015/11/24 [Tue])
文字を書くときも、中心感覚を感じて書くといい字が書けます。
習字はまさにそうです。筆をどう持つか、どういう角度で書くか、
どういうレイアウトで書くかは、あまり関係ありません。

いい字を書く人は、いい姿勢をしています。
中心感覚を感じながら軸を持って書いていると、
いい姿勢になるのです。筆で書いているのではなく、軸で書くのです。

私は子どもの時に、習字の先生に字ではなく姿勢を直されました。
書いている時の姿勢が、字に出るのです。
悪い姿勢で軸がグラグラしたまま書くと、
字がグラグラしてしまいます。

1人1人違う軸を持っているのですが、軸を持って書くと、
その人なりのいい字になるのです。

絵を描く時もまったく同じです。
描く人がいい姿勢でなければ、いい絵は描けません。
子供が寝っころがって、夢中で絵を描いている時は、
意外に軸があるのです。それは夢中になっているからです。

夢中になると、どこにも力が入りません。
「一生懸命やります」と言う人と、夢中でやっている人は、違うのです。
一生懸命やっている人は、表面に力が入って、汗をかいたりします。

夢中でやっている人は、汗もかかないし、顔は淡々として、
かすかに微笑んでいるような感じです。
笑っているのではなく、無心でやっているのです。
無心でやると、周辺に力が入らず、
中心感覚とその人の意識が同調します。
面白い本を読んでいる時は、ページをめくっている意識もないし、
どういう姿勢で読んでいるかという意識もありません。

面白い映画を見ている時は、
「自分がどういう座り方をしているか」を意識しないので、
疲れないのです。中心感覚に権限を委譲している状態です。

あなたの中心感覚に、すべてのバランスを権限移譲することです。
もっと姿勢をよくしなくちゃとか、
もっとラクに寝ころがり方をしなくちゃと考えると、
よけいに疲れるのです。

ムリしてつくったいい姿勢は、疲れます。
姿勢のことなど忘れているのが本当のいい姿勢です。
だらけた姿勢をとることが、ラクにあることではありません。

リラックスとは、自分の中心意識を感じて、
その軸に沿っていることです。立っていても、
座っていても、歩いていても、動いていても、
寝ころがっていてもリラックスはできるのです。

「答えは、自分の中にある」より抜粋

vol. 4799
「器械体操は、中心感覚を目覚めさせる」  (2015/11/23 [Mon])
最近の子供は、鉄棒。跳び箱・マット運動をあまりしなくなりました。
器械体操は、最も中心感覚が必要な競技です。
選手を見るとすごい筋肉なので、筋力が必要なのだと思います。

競技が単純になればなるほど、
選手の「中心感覚がいかに目覚めるか」がポイントになります。

私の子供のころは、逆上がりができないと、
泣きながらでもやらされたものです。
私自身も、できるまで泣きながら親にさせられました。

逆上がりのコツに、筋力や力の入れ方は関係ありません。
中心感覚をどこに持っていけばいいかが、
わからないからできないのです。

そしてある瞬間、できるようになります。
逆上がりは、誰かにサポートをしてもらいながら練習します。

その時に中心感覚の運び方を覚えるので、
逆上がりの練習は大切です。自転車に乗るのも、
「自分の中心感覚をいかに運ぶか」の練習を無意識のうちにやっているのです。

「答えは、自分の中にある」より抜粋

vol. 4798
「『体がいい』というのは、筋肉ではなく、中心感覚のある骨格だ」  (2015/11/22 [Sun])
「いい体しているね」というほめ言葉があります。
ジムにトレーニングに来る人は、夏が近づいたら水着が来たいとか、
Tシャツが似合う体にしたいとか、
スリムなジーパンが吐けるようにしたいと言います。
でも、筋肉を鍛えることでいい体になることはできません。

筋肉は骨に付随しているものです。
本当にいい体は、骨格がつくるのです。
一流のコーチが選手の素質を見抜く時には、
筋肉ではなく骨格を見ます。

骨格は、半分は遺伝です。
そして、もう半分は遺伝的な骨格をいかに活用しているかです。
せっかくいい骨格をもらっているのに、それを縮めて、
台無しにしている人が多いのです。

筋肉をいくら鍛えても、骨格を意識せずに
鍛えた筋肉は邪魔になるだけです。
骨格を縮めていくような筋肉の鍛え方は間違っています。

筋トレがいいのか悪いのか、という議論ではありません。
骨格を意識した筋トレは効果がありますが、
骨格を意識しない筋トレはマイナスにしか働かないのです。
中心感覚を保つようにすれば、
いい骨格をつくり上げることができます。

O脚、X脚、猫背になるのは、
中心感覚を感じることができないからです。

本当のいい体は、中心感覚のある骨格を持った体です。
その骨格を支えるためには筋力が必要です。
いい骨格があれば、それに必要な筋肉はおのずからついてきます。
食事制限するだけで、おなかの脂肪はとれません。

おなかやわき腹の脂肪をとりたいと思ったら、
中心感覚を取り戻して、骨盤を立てるのです。
これは背骨の曲りを直すことです。
猫背のままいくら食事制限しても、
おなかの脂肪はとれないのです。

「答えは、自分の中にある」より抜粋

vol. 4797
「『ヨーイ』で、体は硬くなる」  (2015/11/21 [Sat])
陸上競技の短距離走はスタートが勝負です。
この時、一流の選手は「ヨーイ」と言われた時に用意していません。
素人は、「ヨーイ」と言われたら用意しすぎて出遅れます。
「ヨーイ」で体がガチガチに固まって、
「ドン」でスタートできなくなるのです。

トップアスリートは、「ヨーイ」の時に用意しないで、
体の力を抜いていきます。
だから、意外にスタートで力を入れていません。
素人が走る時は、スタートで思いっ切り蹴り出そうとします。

トップアスリートは、フワッとスタートするのに、速いのです。
どんな筋力も、最終的には重力にはかないません。
自分の筋肉の力を抜いて重力にゆだねることによって、
重力を利用できるのです。それが速くなる方法です。

椅子から立ち上がる時に、
筋力で立ち上がっている人はつらそうです。
椅子から立ち上がる瞬間に、その人の中心感覚がどこにあるか、
中心感覚に目覚めている人かどうかがよくわかります。
椅子から立ち上がる時に、
「ヨイショ」と言って、手をひざの上に置いて立ち上がる人は
筋力で立ち上がっています。

そういう人は中心感覚を使っていません。
手をひざに置くのは、重力に対して、
自分の筋力を反発させる力です。

中心感覚を使って立ち上がる人は、
足の筋力を使わずに立ち上がります。
椅子に座ったまま、前に落ちたものを
拾おうとするように前かがみになることで、

自分の筋力と重力を融合し、
重力を使って立ち上がれるようになります。
中心感覚を移動させることによって、
スムーズに立ち上がることができるのです。

「答えは、自分の中にある」より抜粋

vol. 4796
「中心は、かすかに揺れている」  (2015/11/20 [Fri])
中心感覚は固定されたものではありません。
固定されたものは、弱くて不安定です。
揺れない綱渡りはありません。
微妙に揺れることで、安定度を持っています。
揺れているから危ないのではなく、
揺れることによって安定度を保っているのです。

最も安定しているものは、かすかに揺れています。
じっとしようとすればするほど、安定度を失っていきます。
自分の中心感覚に、
内側で微妙に揺れた状態のイメージを持つことです。

完全にピタッととまってしまうと、次への動きができなくなるのです。
スポーツ選手が動き出す直前は、
静止しているように見えますが、
中心感覚はかすかに揺れています。
「中心感覚を持ちなさい」「軸をもちなさい」と言うと、
「固めよう、固めよう」とする方向へ行きがちです。
でも、そうすると、よけいに不安定な中心感覚になってしまうのです。

「答えは、自分の中にある」より抜粋

「遠くを見ることで、中心感覚が目覚める」  (2015/11/19 [Thu])
中心感覚は点で、軸はそこから伸びている延長戦です。
中心感覚と軸、と言う感覚を持つことが大切です。
中心感覚を意識できれば、その延長線上に棒を伸ばすことで、
どちらを向いても軸があります。

自分の中心感覚を感じる方法の1つは、遠くを見ることです。
船でも、遠い景色を見ていると酔いません。
酔うのは、近くの波を見るからです。
近くに目線が行くと、中心感覚が何処にあるかわからなくなって、
バランスを崩し始めます。遠くを見ている人は、
視線がキョロキョロしなくなります。

遠くの対象物と自分の中心感覚をつなげることで、
明確な軸ができるのです。

正しい直線を引く方法は、2点間を結ぶことです。
2点間の距離が広ければ広いほど、
間に引かれた線はまっすぐになります。

1センチ間隔の2点を10回つないで直線を引こうとしても、
曲がってしまいます。

それよりも、10センチ間隔の2点をつないで直線を引いたほうが、
よりまっすぐな線になるのです。
それは船酔いを防ぐために遠くの景色を見るのと同じです。
仕事をする時でも、自分の目標を遠くに定めることで、
自分の中心感覚を明確に定めることができるのです。

「答えは、自分中にある」より抜粋

vol. 4794
「軸からズレている時、ストレスを感じる」  (2015/11/18 [Wed])
中心には、軸が通っています。
その軸どおりに動いている時は、ストレスは感じません。
軸からズレていると、体では肩こりが起こります。

仕事の場合では、ストレスを感じて、疲労がたまります。
労働時間が長いから疲労を感じるのではありません。
軸からズレている時に、ストレスを感じて、
疲労を感じるようになります。

一般に、「好きな仕事をしている人は疲れない」と言われます。
好きな仕事はその人の軸に合っているので、
動きが軸からズレていないのです。

軸は一人一人違います。
他人から見ると楽しそうな仕事をしている人が、
ある日突然自殺してしまうことがあります。
その仕事は、自殺した人の軸からズレていたのです。
まわりから見ると楽しそうなのですが、
やっている本人に軸にはズレていたのです。

すべての人の軸にマッチする仕事はありません。
自分の中心感覚がわからなければ、仕事を探すことはできません。
仕事を探すというのは、結局は自分の軸が
どれぐらい一致するかを探すことです。
自分の軸と仕事の軸のペアを探していくことが、
「仕事を探す」ということです。

表面上楽しそうとか、表面上きつそうとかは、関係ありません。
表面を見ているうちは、自分の軸に合った
仕事を見つけることはできません。
自分の軸も相手の軸もわからずに、
自分に合った仕事を探すのはムリがあります。

そこでストレスを感じるのは当たり前です。
でも、自分がなぜストレスを感じているかもわからないはずです。
ストレスは、人間関係や金銭関係や条件の問題だと言われます。

本当は、自分の中心感覚がわからないからストレスを感じるのです。
「自分が何をやりたいのかわからない」
「夢が見つからない」と言う人がよくいます。
「夢」と言うと、抽象的で、ずいぶん遠いところにあるような気がします。
でも、中心感覚を感じることができたら、
夢は今ここに存在しています。
そこから先に軸が伸びていて、そこにも夢が存在しているのです。

「答えは、自分の中にある」より抜粋

vol. 4793
「地面をつかもうとすればするほど、足は地面から離れる」  (2015/11/17 [Tue])
飛行機が乗るのが怖い人に、
「ハダシになったほうがいいですよ」というアドバイスする人がいます。
映画「ダイ・ハード」の第1作の冒頭のシーンで、
飛行機が怖いブルース・ウィルスが、
飛行機の中でハダシになって床をつかんでいるシーンがありました。

「怖い時でも、地面をつかめば恐怖から逃れられるし、
恐怖を鎮めることができる」という言い伝えがありました。

人間は、地に足がついていないと不安定になって、
ストレスを感じます。
「地に足が着いていれば落ち着くことができる」と
いうのはある面では、たしかに正しいのです。

ところが、地面をつかもうとして足に力を入れれば入れるほど、
足は地から離れていきます。
意識が中心ではなく足に向かってしまうので、
ますます不安になってしまうのです。

大切なのは、中心感覚がどこにあるかを感じることです。
そうすれば、自然に地に足が着くようになり、
不安がなくなっていくのです。

もし地面をより強くつかみたければ、
地面をつかもうとするのではなく、背伸びをしましょう。
それは一見、不思議です。
背伸びをすれば、バランスが悪くなって体は上に行くから、
足はよけいに地面から離れるような印象を持ちます。

でも、高くなることによって、体はバランスをとろうとして、
中心感覚の存在をより強く感じようとするのです。
そうすると、足は地面に深く突き刺さります。
つかもうとすればするほど、地面は逃げていくのです。

「答えは、自分の中にある」より抜粋

vol. 4792
「中心感覚を感じると、身長はもっと高くなる」  (2015/11/16 [Mon])
ダンスをやっていると、背伸びをした状態から、
まだ5センチも背が高くなります。これはすごいことです。
「一番高い状態をつくって下さい」と言われて、
「そこからあと5センチ高くして下さい」と言われるのです。
「物理的にムリ」と言ってはいけません。

あなたの身長は、あなたの思っている身長よりも実際はもっと高いのです。
身長測定では、実は縮めてしまった身長を測っているのです。
中心感覚を磨くと、周辺の力が緩むので、背はもっと伸びます。
あなたの背は、本当はもっと高いのです。

中心感覚を感じないで、縮める方向に力を向けているから、
今の身長になっているのです。精神状態の持ち方で、
背は伸びたり縮んだりします。

中心感覚を感じている時は、背はもっと高いのです。
身長を測る時は、緊張することが多いはずです。
前より低くなっていたらどうしようとか、
ちょっとでも高くしようとか、よけいなことを考え始めます。

すると、中心感覚を感じられなくなって、
背は実際よりも低くなってしまいます。
誰も自分の正しい身長を知りません。

中心感覚を感じることによって、骨も筋肉も緩むので、
本来の長さのところまで伸びていくのです。
大の字になって寝ている時に身長を測る人はいないので、
自分の本来の身長はわからないのです。

小学校の身長測定の時に、背が高くなりたいと思って、
こっそりかかとを浮かせたり、つま先立ちしたりしたものです。

ところが、そういうことをするわりには数字は伸びません。
実は、高く見せようすれはするほど、末端に意識が行って、
背丈は縮んでしまうのです。見せようという意識があると、
その段階で表面に意識が行って、中心に意識が行かなくなります。
見せよう、見せようとすればするほど、
ベストな状態を見せることができなくなるのです。

「答えは、自分の中にある」より抜粋

vol. 4791
「『鍛える』のではなく、『感じる』」  (2015/11/15 [Sun])
スポーツだけではなく、仕事や勉強でも、
「トレーニング」というと、鍛えるとか鍛錬とか、
ハードなイメージがあります。

それは周辺の力を鍛えることが目的になっていて、
中心感覚を目覚めさせるという意識にはつながっていません。
中心感覚は、「鍛える」のではなく、「感じる」ことが大切です。
スポーツの練習をして、あなたはどう感じたか。

勉強をして、あなたはどう感じたか。
仕事をして、あなたはどう感じたか。
どれが大切です。

感じることができれば、ズレている中心感覚を修正することができます。
会社にいた時、外資系のクライアントにプレゼンテーションに行きました。
その時にクライアントのマネージャーがいつも最後に、
「こちらはこちらなりの意見を言いましたが、
あなたはどう感じましたか」と聞くのです。

これは、日本のクライアントでは聞かれたことのない質問です。
プレゼンテーションの後に、「どう思いますか」や
「どう考えますか」ではなく、「どう感じましたか」と聞くのです。

仕事でも、中心感覚は大切です。
常に中心感覚を意識しながら、
「感じる」ことをベースに置くことです。

「答えは、自分の中にある」より抜粋

vol. 4790
「筋肉を鍛えるのではなく、体の中心意識を目覚めさせる」  (2015/11/14 [Sat])
私はよく、「ジムに行っているのですか」とか
「ウエイトトレーニングはどうやっているんですか」と聞かれます。

でも、まったく何もやっていません。
ボウリングをする時は、ゲームを通して必要な筋肉を使っています。
ボールルームダンスをする時は、それに必要な筋肉を使っているのです。
それは、「鍛える」という感覚ではありません。

筋肉の場合は、「鍛える」という表現を使います。
中心感覚は、「目覚めさせる」という言葉が一番適切です。
中心感覚は、ほとんどの人が本来持っているはずのものです。
いつの間にかそれが寝ぼけてしまっています。

寝ぼけた中心感覚を目覚めさせるために、
トレーニングが必要なのです。
それは、筋力を鍛えることではありません。
筋力をつかさどる中心感覚を、
それぞれの種目に応じて目覚めさせていくのです。

ある種のスポーツで中心感覚に目覚めた人は、
別のスポーツをやってもそれなりにうまくできます。
すべてのスポーツは、中心感覚でやるものだからです。

ところが、筋肉だけを鍛えている人は、1つのスポーツがうまくできても、
ほかのスポーツはうまくできません。
種目によって、筋肉の使い方が違うからです。
「鍛える」よりも、「目覚めさせる」という意識を持つことです。
女性で腹筋運動のできない人がよくいます。
それは、腹筋がないからではありません。

腹筋をどう目覚めさせていいのかわからないのです。
腹筋が寝ぼけたままの状態だから、腹筋運動ができないのです。
腕立て伏せができない女性も多いです。

それも、筋力がないからではありません。
腕立て伏せをする時に、中心感覚をどこへ
持っていけばよいのかわからないのです。

一時、私は腕立て伏せに凝っていました。
どうしたらもっとハードな腕立て伏せができるかと考えていました。
片腕立て伏せをしたら、それはできることがわかりました。

次に、片手・片足で腕立て伏せができないかと考えて、
これも「できないことはない」と感じるようになりました。
そして、逆立ちで腕立て伏せができないかと考えて、
それもやがてできるようになったのです。
それは筋力がついてきたからではありません。

「中心感覚をどこへ持っていけば、
腕立て伏せが最も軽くできるか」というコツがわかったのです。
腕立て伏せは、顔をしかめて、力でエイッとやるものではありません。
自分の中心感覚をどこへ持っていけば最も軽く上がるか、
というイメージを持つことが大切です。

筋力はそれほど必要ではありません。
今持っている筋力を使うだけで十分です。
寝ぼけた筋肉を目覚めさせるだけで、
たいていの動きができるようになるのです。

「答えは、自分の中にある」より抜粋

vol. 4789
「足を意識しているうちは速く走れない。意識を、足から中心に移す」  (2015/11/13 [Fri])
速く走ることのできる人に、
「足をどう使うんですか」とみんなが質問します。
でも、本人には足をどう使うかと言う意識はないのです。

そういう意識があるうちは、速く走ることはできません。
自分が足で走っていることを忘れるところまで行って、
初めて速く走ることができるのです。

つまり、足を解放するのです。
足を忘れることができるのは、
意識が中心感覚へ到達しているからです。
中心意識を移動させることだけを考えていると、
足がついてくるのです。
速く走ろうとして足に力が入る人は、足が先に行って、
中心感覚が後からついてきます。

足に命令をしているので、その人は足を信じていません。
部下を信じられない上司のようなものです。
「ああしろ、こうしろ」と命令しているうちは、部下は働きません。
部下を信頼して任せることで、のびのびと働ける環境になるのです。
調子のいい時は、自分がどうやっているか、
自分自身ではわからないものです。

うまい人のプレーや、できる人の仕事ぶりを見る時は、
その人の中心感覚の使い方を見抜きましょう。
末端の部分の動きを見ても、
その人の本質をまねることはできません。

表層をまねればまねるほど、
その人の本質からは遠ざかってしまいます。
バリバリ仕事をこなしている人のまねをしようと思ったら、
その人の中心感覚をまねるのです。

仕事をバリバリこなしている人は、
もはや仕事をしているという意識がないのです。
中心に意識が行くと、周辺はぼんやりとして力を抜くことができます。
周辺に意識が行っている人は、目がキョロキョロします。
周辺は範囲が広いので、1点を見ることができないのです。
集中している人は、周辺をぼんやり見ています。

中心感覚に意識を集中することによって、
全体をぼんやり眺めることができます。
そうすると目玉はキョロキョロしなくなって、
体の軸もブレなくなるのです。

「答えは、自分の中にある」より抜粋

vol. 4788
「力があるだけでトップになれるスポーツは、存在しない」  (2015/11/12 [Thu])
一般に「筋力」や「体力」と言われているものは、周辺の力です。
それは年齢とともに衰えます。ところが、中心感覚は衰えません。
それを意識すれば、どんなに年をとってもますます
中心感覚に磨きをかけていくことができます。

スポーツは、筋力の戦いではなく、中心感覚の戦いです。
筋力を鍛えるだけで勝てるような競技は、競技として成立しません。
誰もそれを面白いとは感じないからです。

日本人がオリンピックなどで欧米人に負けた時に、
「筋力の差がでた」とよく言います。
でも、本当は、筋力だけで勝てるスポーツは、
そもそもオリンピック競技になっていません。

そんな競技はつまらないので、とうにすたれてしまっているのです。
ある程度の競技人口があるスポーツで、筋力を鍛えたり、
持って生まれた体力だけで勝てるものではないのです。

スポーツは、中心感覚と中心感覚の戦いです。
自分の中心感覚を守って、
相手の中心感覚を揺さぶる戦いがスポーツなのです。
私はボウリングにハマっています。

ボウリングは、いわば的に当てるゲームで、
自分の中心感覚を鍛えるトレーニングになります。
自分の中心感覚をめざめさせなければ、
的に当てるゲームは上達しません。

ボウリング・射的・ゴルフ・ビリヤード・ダーツ・アーチェリー・
弓道など、的に当てるゲームは他のスポーツよりも
トップクラスの年齢が高いのです。
こういった競技は、体力のあるなしよりも、
意識の持ち方が重要です。
ここで「経験」と言ってはいけません。
経験ではなく、意識の持ち方、意識の目覚め方、
意識の鍛錬で差がつくものなのです。

「答えは、自分の中にある」より抜粋

vol. 4787
「迷うのは、中心を見失っているからだ」  (2015/11/11 [Wed])
迷うというのは、考え方が堂々巡りをして、
同じところをグルグルまわっている状態です。
結論は焦点にあるのに、外側ばかりグルグルまわっていて、
どこまでいっても結論が出ないのです。

「どうしていいかわからない」と言っているうちに、
グルグルまわっている円がどんどんしぼんでいきます。
これが追い詰められた状態です。

外側をグルグルまわっているのが堂々めぐりです。
答えは縁の外側にはありません。
どうしていいかわからない時にいろんな人に意見を聞いても、
結局は結論が出ないはずです。

Aさんは「右」、Bさんは「左」と言うことで、
あなたの考えが左右に揺れるのではなく、
グルグルまわってしまうのです。

情報化社会は、外部情報の多い社会です。
そういう社会では、ますます周辺に力が入ってしまいます。
今は、外部情報があまりにも多いので、
中心感覚を意識しないと感じることができなくなっているのです。
情報社会であればあるほど、
あなたの中心感覚をもう一度取り戻す必要があるのです。

「答えは、自分の中にある」より抜粋「

vol. 4786
「末端に力が入ると、中心に力が入らない」  (2015/11/10 [Tue])
中心感覚を感じるためには、周辺に力を入れないようにしましょう。
周辺に力が入ると、中心が何処にあるかわからなくなってしまうのです。

人間の体を一つの円と考えて、その真ん中に焦点があるとすると、
その焦点に中心感覚があります。
円の周囲に力が入ると、円はどんどん拡散します。
そして、中心感覚がどこにあるかがあやふやになるのです。

それは輪ゴムのようなものです。
本来、人間の体は、輪ゴムのようにどんどん伸びていけます。
ところが、ゴム自体が固くなると、切れやすくなります。
円の中心である焦点がぼやけて、
中心感覚が感じられなくなってしまうのです。
体は、円の縁のようなもので、ドーナッツ状のものではありません。
真ん中に焦点が合って、そこから広がっているのが体なのです。

「答えは、自分の中にある」より抜粋

vol. 4785
「中心を感じると、体の中にスペースが生まれる。これが余裕だ」  (2015/11/09 [Mon])
疲れている人は、骨も筋肉もギューギューに詰まっています。
本来はもっと柔軟に動けるはずなのに、
詰まりすぎることで、スムーズに動けなくなるし、
力もだせなくなるのです。

人間の体の中には、たくさんのスペースがあります。
中心を感じることができれば、骨の間隔が広くなり、
筋肉も緩くなって、より柔軟度が生まれて、
スペースを生かすことができます。

体の中にスペースが生まれると、精神的にもスペースが生まれます。
これが「余裕がある」という状態です。
「フトコロが広い」というのは、
体の中に広いスペースを持っているということです。

中心感覚があれば、体の中にスペースが生まれます。
中心感覚がなくなると、周辺に力が入ります。
そうすると、自分の体の中心がどんどん小さくなってしまうのです。

「答えは、自分の中にある」より抜粋

vol. 4784
「中心は、自分の意識よりも、後ろにある」  (2015/11/08 [Sun])
レストランなどでコートを着せてもらう時に、
手に着せてもらえる人と、下手な人に分かれます。
上手に着せてもらえる人は、オシャレで、
中心感覚がしっかりしている人です。

人にコートを着せてもらう時に、手の甲と手のひらとの
どちらかを基準に袖に腕を通すかがポイントです。
上手に着せてもらう人は、手の甲を意識します。

うまく着せてもらえない人は、手のひらを意識します。
手のひらを意識すると、思ったところに腕が入らないので、
1回でスッと着せてもらえません。
変なところに手が入って、「すみません、もう1回」となるのです。
上手な人は、手の甲を洋服の袖に合せてスムーズに通せます。
中心感覚は、体のど真ん中にあります。

でも、あなたが真ん中だと思っているところは、
自分はかなり手のひら側に寄っています。
前は意識しやすいのですが、後ろは意識しにくいので、
あなたの意識する中心は、本当の中心よりもかなり前に来ています。

だから洋服を着せてもらう時に、
ついつい手のひらの側に意識がいってしまうのです。
そうではなく、手の甲の側に意識がいけば、
中心感覚は元の正しい位置に戻すことができます。

自分が思っているよりも、中心感覚はもう少し後ろに側にあるのです。
相撲の力士が四つに組んで前みつを取りに行く時は、
指を意識するのではなく、手の甲ですべらせて取りに行きます。

老人介護をしている人が寝たきりの老人を起こす時に、
手のひらをすべらせていってもうまくいきません。
寝たきりの人は、脱力しているので重いのです。
上手に起こすには、手の甲を相手の背中の中にすべらせていきます。
相手の背中にまわったところで、
手のひらに反して起こし上げると、簡単に起こすことができます。
中心感覚は、手の甲や背中のような後ろ側に近いところにあるのです。
余裕のない時は、あごが出たり、あごが上ったりします。
それは、意識しているつもりの中心感覚が、
実際よりも前へ前へと出ていってしまうからです。

「答えは自分の中にある」より抜粋

vol. 4783
「『真剣な顔』のできる人が、成功する」  (2015/11/07 [Sat])
あなたが一番真剣な顔をしているのはどういう瞬間か、
思い出してみましょう。真剣な顔ををしている瞬間は、
自分では気づきません。

仕事をしているときが一番真剣な顔ともかぎりません。
真剣な顔をしている時は、おそらく鏡を見る余裕はないはずです。

私は「ボウリングをしている時に一番真剣な顔をしている」と言われました。
ボウリングしている時は、
仕事中や仕事以外でも見たことのない怖い顔をしているようです。
これは真剣勝負をしているからです。

私は遊び半分ではなく、
メンタルトレーニングとしてボウリングをやっています。
怖い顔をしながらやるようなことを、一日一回はしてみましょう。
いつ怖い顔をしてやっているか、自分ではなかなかわかりません。
一日中怖い顔をしてやることはありません。

一日に一瞬ぐらいは怖い顔をして何かをやるのです。
誰かを叱るために怖い顔になるのではありません。
好きなことを一生懸命やる時に怖い顔になるのです。
人を怒る時の怖い顔と、
何かに夢中になっている時の怖い顔は、全然違います。
普段ヘラヘラ笑っていても、
物事に真剣になる顔を一瞬持つことができたら、
何をやっても大丈夫です。

「自分力を高めるヒント」より抜粋

vol. 4782
「ほおづえをついたら、面白い話を聞き出せない」  (2015/11/06 [Fri])
大人になっても、ほおづえをつく人がけっこういます。
私もサラリーマン時代に、得意先へプレゼンに行って、
上司から叱られたことがあります。

得意先との会議の途中に「ほおづえをつくな」という紙が回ってきたのです。
たしかにその時はあまりに得意先の言っていることがつまらなすぎて、
わざとやっているところがありました。
こんな退屈な会議には参加したくないというアピールの意思もありました。
ほおづえはそれぐらい感じの悪いしぐさです。

ロダンの「考える人」がほおに手を当てているのは、
一見何かを考えているように見えます。
でも、お客様の前でほおづえをついても、考えているようには見えません。
ほおづえをつくと、退屈していたり、ヤル気がないようにしか見えません。

ほおづえをつくのは、若い人でも、そこそこベテランの人でも両方います。
先輩やお客様からアドバイスを聞く時に、平気でほおづえをつく人がいます。
ほおづえをつく姿勢が、その人の習慣になっているのです。

研修や講演での講師の話を聞く時も、ほおづえをついている人がいます。
そういう人はメモをとりません。メモをとっていたら、ほうづえはつけません。
ペンを持つほうの手でほおづえをついていることが多いのです。
結局は、その瞬間に頭がまわらないし、受け入れ態勢ができなくなります。
そうすると、話す側も、「聞きたくないならいいや」となります。

デートの時にほおづえをついたら、まとまる話もまとまりません。
無意識でほおづえをついていることがないか、意識してみてください。
無意識でやっていることは、生きる姿勢につながります。
デートでまとまる話がまとまらなかったのはなぜか、
お客様が契約してくれなかったのはなぜか、よく考えてみることです。

その原因は、あなたが大切な話を聞くことができなかったり、
知らず知らずのうちにほおづえをついていたからかもしれません。
これはポケットに手を入れるのと同じ話です。
マナーというより習慣です。習慣は、生きる姿勢です。
マナー以前の生きる姿勢として、
ほおづえをつかないことを体に覚えさせておきましょう。
話がつまらないからほおづえをつくのではありません。

逆に、ほおづえをついて聞くと、話がつまらなくなってしまうのです。
ほおづえをつかれたら、一生懸命に聞く姿勢がないので、
話す人もがっかりします。真剣に話してくれなくなります。
授業中にほおづえをついていた人は、
仕事もほおづえをついてしまいます。
マナーは、面白い話を聞くための姿勢です。
話が面白くないからマナーが悪くなるのではありません。
マナーが悪いから面白い話が聞けないのです。

「自分力を高めるヒント」より抜粋

vol. 4781
「落ち着いている人は、手をポケットに入れずに、手の位置が決まっている」  (2015/11/05 [Thu])


マナーで大切なのは、手の位置です。
手の位置を決めるのはむずかしいことです。
子供と大人の違いは、手の置き場でわかります。
子供は、手を何処へ置いていいかわかりません。

スピーチの苦手な人は、人前に出た時に、
スタンドマイクもつい握ってしまいます。
両手を自分の前できっちり組める人は、
人前で話すことに慣れている人です。

そうできるだけで、けっこう落ち着いているのです。
大人になっても相変わらず手をポケットに入れている人がいます。
これはサラリーマンにも多い特徴です。

自営業の人は、まず手をポケットに入れません。
お客様に失礼になるからです。
ホテルマンは、必ず前で両手を組みます。
サービス業界の人たちに比べると、
サラリーマンは手にズボンのポケットに入れている人が少なくありません。
そういう人はふだん歩いている時も、ポケットに手を入れています。

サイン会で「サインしてください」と来る時でも、
サラリーマンは手にポケットに入れています。
パーティーでは、手をポケットに入れてはいけません。

マナーの悪い人は、片手にグラスを持って、
片方の手はポケットに入れています。
本人は、マナー違反をしているという意識がありません。

手をポケットに入れたままでは、
相手に対して心を開いている感じがしません。
威張っている感じがします。
信用が感じられません。

私が子どもの時は、ポケットを縫われていました。
「手をポケットにいれない」というのは、子供に対しての教育です。
マナーは、子供に言っていることでも大人がまだできていないことがあります。
逆に、子供のほうが守れていたりします。

マナーは、逆転現象が起こっています。
大人が手をポケットに入れていたら、
子供も手をポケットに入れるようになってしまいます。
手をポケットに入れると、背中が曲がってきます。
それでは姿勢が悪くなり、品がなくて、だらしないポーズに見えます。
本人は無意識です。

手をポケットに入れないでどう過ごせるかに、
まずチャレンジすることです。
芝居でも、手をポケットに入れる役者はヘタです。
手の位置をどうしていいかわからないのです。
新聞やカバンを持っている時はまだラクです。

うまい役者さんは何も持たなくても手が外に出ていて自然です。
手が落ち着かない人は、人の話を聞く時に、
ペンをコチョコチョ回したり、学生がやるような手遊びを始めます。
ポケットの外に手が出ていて、しかも手遊びもしていなくて、
さりげなく置かれていることが、その人の精神の安定度を上げます。

ポケットに手を入れない自分のスタイルをつくりましょう。
話し上手な人の手はいったいどこにあるのか、よく見てみることです。
スピーチをする時に演台に手を置くのは、
まだ手のやり場に困っているのです。
スタンドマイクがあった時に、マイクを持たないようにすることです。
手に何も持ってない時こそ、手でアピールできるのです。

「自分力を高めるヒント」より抜粋

vol. 4780
「体にも、ウインカーがある」  (2015/11/04 [Wed])
車の運転がうまい人は、ウインカーの出し方が上手です。
ウインカーだけでいろいろな意思表示ができます。
それと同じように、人間の体にもウインカーがあります。

タクシーを拾う時、近くに待っている人がいるのに、
その人の川上で手を上げてはいけないのは当たり前です。
でも、タクシーを待っているのか
待っていないのかわからない人が時々います。
これは困ります。
待っている気配なのでこちらが気を使って川下に行ったら、
せっかくの空車のタクシーを拾わずに逃してしまうかもしれません。

自分がタクシー待ちでない時も、
タクシーを拾おうとしている人が、
明らかに自分の川下に来た気配を感じとりましょう。

たとえば、自分たちはタクシーを待っているのではなく、
知り合いの車を待っているだけだという意思表示か何かをするのです。
その意志は口頭で伝えることもできます。
これが、体のウインカーです。

車道側からちょっと離れるだけで、
もうそれで「自分はタクシー待ちではありませんよ」ということが表現できます。

こういう感性のない人が起こしやすいマナー違反は、
タクシー乗り場で起こります。
タクシーを待っている時に、仲間同士で、譲り合いをします。
これは列の後で待っていて急いでいる人にとって迷惑です。
タクシーの運転手さんにとっても、迷惑です。

得意先とそこで別れて、別々のタクシーに乗るような場合、
その相手に対しては気を使っていても、
まわりの人にはまったく気を使っていないのです。
これは、狭い範囲の気の使い方です。
狭い範囲に気を使いすぎると、もうひとまわり外の相手には、
失礼なことをしている場合があります。
後ろの人は、自分とは利害関係のまったくない人です。
一流のマナーとは、利害関係のまったくない人に
どれだけ迷惑をかけないでいられるかです。

利害関係のない人にもちゃんとマナーを守り、
礼儀正しく、優しく、迷惑をかけないようにすることが大切なのです。

「自分力を高めるヒント」より抜粋

vol. 4779
「マナー通りの定型のお礼状は、かえって失礼になる」  (2015/11/03 [Tue])
誰から来たのかもわからない形式的なお礼状がよくあります。
差出人の名前が書いてないという意味ではありません。
名前は書いてあっても、1回しか会ったことがなくて、
ありきたりの定型の手紙の場合、
その人とどんな話をしたのか、何も手がかりがないために、
結局誰だかわかりません。

手紙の書き方のマナーは、きちんと守れています。
マナーのいい書き方はおのずと定型文になりますが、
いったい誰からの手紙かわからないようでは、
本当はマナー違反です。

定型のあいさつだけの手紙ほど失礼なことはありません。
ていねいな言い回しとか、時候のあいさつが入っていなくても、
差出人が誰かわかることが大切です。
本人も損をしています。

礼儀正しく出したお礼状のはずなのに、
結局相手には誰だかわからなかったら、
お礼状を書かなかったのと同じです。
本人はお礼状を書いたことで安心しています。

しかも、きちんとルールを守った定型文で書いて出しています。
こちらがそのお礼状に返事を書きたくても、
書く手がかりがありません。
そうすると、定型の返事しか出せません。
相手が誰かわかるからこそ、やりとりを文章の中に入れられるのです。

ただ定型文と名前だけの手紙には、返事のしようがありません。
返事のしようのない手紙を書くのはマナー違反です。
たとえばせっかく筆で書いているのに、定型の手紙もあります。
本人は、パソコンで書くよりは、
直筆で書いているから心がこもっているつもりでいても、
それはやはり形にすぎません。
まじめにきっちりやろうとすればするほど、誰だかわからなくなります。

ここがマナーもどきと本当のマナーの違いで、
大きな落とし穴があるのです。
それはマナーの本を一生懸命読んでいる人に多いのです。
マニュアルに書いてある通りに書いているのに、
それが結局大きなマナー違反になっているのです。
たとえ差出人の名前を書き忘れてもいいのです。
差出人の名前が書かれていないのに「あの人だ」とわかるお礼状が、
最高のお礼状なのです。

「自分力を高めるヒント」より抜粋

vol. 4778
「中座する時は、その場の雰囲気をしらけさせないのがマナーだ」  (2015/11/02 [Mon])
飲み会などで自分だけが中座するような場合、
帰り際にみんなにあいさつをして帰る人がいます。
そうすると、そこで場がシラけます。

せっかく盛り上がっているのに、「じゃあ、これでお開きにしますか」
という流れになってしまいます。
そういう場合は、本当は誰か一人だけに
声をかけて帰るのが正しいマナーです。

よく解釈すれば、その人は、みんなにきちんと
あいさつをして帰るのが正しいマナーだと思っているのです。
でも、悪く言えば自己顕示欲です。
そこで、マナー違反と、全体の空気を壊すことと、
どちらが悪いかを考えないといけません。
自分さえマナーをちゃんと守れば、
全体の空気を壊してもいいというのはおかしいです。
これはマナーの根底にある考え方です。
黙って帰ったらみんなに「あいつは黙って帰ってなんだ」と
言われてしまうこと心配して、
「これで失礼します」と声をかけてから帰ろうとします。

でも、マナーの根本的な考え方としては、
場をしらけさせてはいけません。
誰にも言わずに黙って帰ったら、
トイレで倒れているのではないかと心配させる恐れもあるので、
とりあえず誰か1人に伝えればいいのです。

「○○さんどこ?」と聞かれた時に、
「もう先に帰られました」という誰か1人のコメントがあればそれでいいのです。
飲み会では、みんなに声をかけて帰らないことがマナーです。
もしあなたが飲み会を主催する時は、帰らなくてはいけない人、
帰らなければいけない用事はなくても帰りたくなった人は、
自由に帰れる雰囲気づくりをしておかないといけません。

気がついたら1人減り、2人減りしているというのが、
会が盛り上がっている時のあり方です。
帰る時は、誰か1人だけに声をかけて、
トイレに行くふりをして、サッといなくなることです。

帰る人は、中にいる人たちに言うと大騒ぎになるから、
主催者にかぎらず、お店の人に声をかけて帰ってもいいのです。
お金はしっかり払っておいて、お店の人の口から
「○○さん、もう先にお帰りになりました」と後で伝えてもらうのもオシャレです。

「自分力を高めるヒント」より抜粋

vol. 4777
「合コンでは、みんなの幸せを考える人が、一番モテる」  (2015/11/01 [Sun])
合コンは、修行の場です。自分を磨く修行の場です。
合コンは、ただの遊びではありません。
僕の博報堂時代からの同期で、
今は日本テレビの編成マンをしているO君は
10年間で1000回の合コンをしました。
1年に100回です。

O君の結婚式で、合コンで場を盛り上げるO君の姿が、
スライドで紹介されました。
それを、奥さんの前で堂々と披露できるもの、O君の人徳です。
O君が結婚することになり、仲間は心配しました。
合コン王が引退すると、合コンに呼んでもらえなくなるからです。

僕は、仲間を代表して、スピーチしました。
「奥さん、合コンは人間を鍛える修行の場なのです。
それほど、合コンとは、過酷であり、忍耐力のいることなのです。
人間は死ぬまで勉強です。どうか、ご主人に死ぬまで、
勉強させてあげてください」仲間は拍手しました。

O君の合コン1000回は、実は、誤りでした。
実際にはもっとたくさんしていたのです。
合コンで、一番大切なことは何か。
まず、合コンは修行であることを、忘れないこと。
次に、合コンとデートを混同しないことです。

合コンとデートは、どこが違うか。
合コンは、同性2名以上、
男女最低4名以上のチームで行うということです。
合コンをデートと勘違いしているヘナチョコ君がよくいます。
合コンが、チームプレーであることを忘れて、
私利私欲に走るヘナチョコ君は、勝手にデートすればいいのです。
チームプレーだから、
自分一人が幸せになればいいということではありません。
同性はもちろん、相手チームも含めて、
参加者全員が幸せになることが、合コンの目的です。
まさに、無我の境地です。だからこそ、デートよりはるかに
高度な知性と感性が求められるのです。
自分一人が幸せになることよりも、
まわりの人すべてが幸せになることを考える人が、
真の幸せを手に入れるのです。

合コンとは、マザー・テレサになることなのです。
煩悩を押さえてマザー・テレサになれた人が、
もっともモテるのです。合コンを通して、
人間を鍛えましょう。合コンで成功する人は、
何をやっても成功します。

「人間力を高めるヒント」より抜粋

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