2006年11月の日記

“新しい疑似家族” (2006.11.1[Wed])
日々、10名ぐらいのBアパレルショップスタッフが工場見学と研修のために弊社を訪れています。 来る人たちはみんな僕の子どもと同じぐらいの年齢で、男の子も女の子も、まだまだ純粋でなんとも可愛い若い子たちばかりです。

おおよその工場現場での見学を終え、最後にミーティングルームで若い人たちと僕もお話しをするのですが、おっさんである僕が心オープンなので次第に全員オープンになっていく。そしてだんだんと目が輝き、一人ひとりの"いのち"が喜んでいるのを凄く感じます。

また、この場が彼や彼女たちにとっては凄く居心地が良いのか、おおよそ「この場が気に入りました」「安心できる場です」「仕事ではなくても、また来ていいですか」と言ってくれます。僕は「ああ、うちはかけ込み寺みたいなもんやから、いつでも来いよ」と言っては見送ります。

以前、自己評価のことをお話ししました。自己評価とは自己肯定感で「私は存在価値があるんだ」「大切な人間なんだ」「生きていていいんだ」という安心感覚です。この安心感覚を繰り返し繰り返し与えていくのが、僕たちが目指している仏教保育です。仏教保育とは「いつでも、どこでも、どんなときでも私がいるから心配ないよ」という大きな愛の仏様の願いを受け取っていく保育です。そのことによって子どもの心の根っこにはしっかりと安心感覚が育っていきます。つまり愛の乾電池が愛で満たされていくわけです。この安心感覚があるからこそ、少々のことがあっても子どもは頑張っていけるわけです。心の根っこを鍛え育む保育とはそういうものだと考えています。

 ただ現在、子どもにしても大人にしても、このような安心感覚を持って強く明るく生きている人はどれぐらいいるのでしょうか。僕が見渡す限り、非常に少ないと感じるのです。

人は大人になれば必ず仕事につきます。会社の場合、社員の面倒を見るためにありませんから、多少の嫌なことはあって当たり前です。もし職場が楽しくないのなら、自分が楽しい職場にするように努力しなくてはいけません。社会人は、受け身では駄目だからです。

会社とは、働かせてもらって、多様な人間関係の中で揉まれ、人間として成長させてもらって、食べるための給料をいただくところ、そういう謙虚な気持ちがないと、感謝の心は湧いてはきません。そうでないと、仕事や人間関係の不満は募っていくことになるでしょう。こういうことは実に当たり前のことばかりです。

ただ、そうではあるのですが、多くの人の心の中には自己評価が育ってない、愛に満たされてないから、人間関係でも仕事でもどうしても空回りしてしまう。また本当の力が発揮されない、いや、発揮しようとしない。そういう人たちが沢山いるのです。そういう人たちは何か分からないけど、自分のことを親身に考えてくれる親のような存在を求めていると思います。

 例えば、クールでなにごとも割り切っているように見える子どもや若者たちは一見、家族的な関係をありがたいとはどう見ても思えないと多くの経営者は言います。けれど、僕は「家族」を求める若者たちの姿、愛を欲し自己評価を無意識に得ようとしている人たちの姿を世間の随所で見るのです。

日本や世界の旅をしながら、民宿やペンションのおじさん、おばさんを慕う若者たち。これは若者たちだけではありません。大人たちもそうです。行きつけの定食屋さんや、喫茶店で、店主や女将に恋愛の悩みを聞いてもらっている若者たち。

彼らは心のどこかで「親」のぬくもりを求めているのです。ですから、僕が親身になって接したり、心オープンになってバカなことを言ったりすると、若い人たちは本当にリラックスして嬉しそうな笑顔になります。そんな姿を見る度に「遠くの親戚より近くの他人」といった、今は新しい疑似家族がとても必要とされている時代なんだと思えたりもします。

昔の疑似家族はいかに結束は固くても「よその人」はやはり「よその人」でした。ただ新しい疑似家族は血縁を超越したお互いの"いのち"がつながった家族と言っていいでしょう。それがもっと拡大して家族でない「よその人」は一人もいないような家族になればいい。究極的には、地球上のすべての人間を一つと見なすような家族になればいい。このような家族が実現すれば、この世は素晴らしい浄土のような世界になっていきますよね。

まあそこまでは無理としても、せめて僕たちが生きる場が、どんな人でも受け入れられ"いのち"を認められる場でありたいと願っています。

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