2007年03月の日記

「なんでもいいのよ、ありがとう仏さんだったら」 2007.3.31[Sat]
「人身受(にんじんう)け難し、いますでに受く。仏法聞き難し、いますでに聞く」この言葉は仏教の宗派が共通して用いている「合言葉」だって言いました。

では、「仏法聞き難し、いますでに聞く」とはどういう意味かというと、「人はみんな仏から念じられている」ということです。

これは、無量・無数の「いのち」、すなわち大きな「いのち」の恵みをあなたの身と体が受けて、今のあなたがあるんです。すでに「いきいきと生きてくれよ」と24時間休みなく、もう一人の「私のいのち」に呼びかけ、この身体は念じてくれているんです。

その証拠に、眠っている間でも酸素を摂りいれ、血液を循環させ、食べたものを消化・吸収してくれています。もしも、眠っている間にこれらがストライキでも起こしたら大変です。まさに年中無休、24時間営業、休みなしです。

また24時間フル営業の身体の細胞も、昨日の自分と、今日の自分とを比較するならば、まったく同じ状態ではないです。
しかし、日々変化する身体の細胞によって構成されているわけですが、その身体の細胞を統一している目に見えない「いのち」という実体がそこにはあるのです。

つまり、時間の流れの中で日々変化する身体の細胞の背後には、永遠に変化しない「いのち」があるのです。これは人間にしても、動物にしても、植物にしてもです。

だから花は花。今日も花、明日も花。明後日も花としてのあり方が変化するだけで、花が花意外のもの、たとえば、動物とか、人間には絶対になりません。また、菊の花が途中でチューリップになることもなければ、チューリップが突然コスモスになることもありません。チューリップの花は、あくまでチューリップの花としてその一生を終えていくんです。

そこには、変化の中にあって変化しない「いのち」があるんです。その「いのち」を育み生かして下さってる大きな大きな「いのち」の働きがあるからこそ、僕たちは生かされて生きていることができるんです。

その大きな「いのち」に「ありがとうございます」と、ほとばしり出る言葉が「南無阿弥陀仏」という念仏であったり、「南無大師遍照金剛」、「南無妙法蓮華経」、「南無釈迦牟尼仏」、「南無観世音菩薩」という言葉なんです。

あなたも思いもしなかった親切に出遇ったとき、思わず「ありがとうございます」と出ますよね。思わず「ありがとう」と出る言葉と一緒ですね。「アリガトウ仏様」は、仏から呼びかけてくれる「ことば」なのです。
それはあなたの身体と「いのち」を仏様が、常に生かそうと念じて下さっている、ということなんです。
☆大きな「いのち」の働きと恵みで私の小さな「いのち」は生かされている。だからいつもありがとう仏様なんです。

「仏様からあなたは念ぜられている」 (2007.3.30[Fri])
「人身受(にんじんう)け難し、いますでに受く。仏法聞き難し、いますでに聞く」この言葉は仏教の宗派が共通して用いている「合言葉」です。

「人身受(にんじんう)け難し、いますでに受く」というのは、「人の身として生まれたことが、この上なく素晴らしいこと」ということです。そりゃあそうですよね、動物に生まれたら、植物に生まれたら、今のあなたの感覚はあり得なかった。人間に生まれたお陰で、こういう仏様の心を聞くことができる。実にありがたいって思いませんか。

この「人の身として生まれたことが、この上なく素晴らしいこと」と実感できるのは、やはり仏法を聞かないとなかなか無理ですね。どうしても人の身に生まれることを「当たり前」だと考えてしまってます。

昔「おしん」というドラマがありました。戦前の貧しい時代、食べていけない時代に、東北の農村などでは、「子どもがたくさんいると困る」ということで、口べらしのために、子どもは幼いうちから外に働きに出されました。そのドラマの中で、おしんは、お昼のご飯を食べさせてもらえず、背中に子どもを背負って子守しながら、「学校へ行きたい」と言ってました。

ところが、時代が変わって飽食の時代になったら、今度は、「学校へ行きたくない」「塾へ行きたくない」という人がたくさん出てきてますよ。

また、戦時中や戦後の荒廃期などの食糧難の時代には、意外に、自殺をする人はあまりいなかったのです。そんなことをしなくても、毎日食べずにいたら死ぬからです。「後何日、生きられるか」ということを、誰もが真剣に考える中で、わざわざ自殺はしないのです。
むしろ、飽食の時代、食べ物がたくさんあって、食べるものに困らない時代に、何かに不満を感じて自殺をする人が沢山出てきます。

食料のない時代には、自殺をするどころか「なんとかして生きたい。闇米を買ってでも生きたい。食料を盗んでも生きたい」という人が多いし、学校になかなか行けない時代には、「なんとかして学校へ行きたい」と言ってたわけです。
ところが、食料が豊富になり、学校へ行くことがありふれる時代になると、「勉強はしたくない」「学校へは行きたくない」と言ったり、「生きるのが面倒くさい」「あれこれ言われて嫌だ」ということで自殺します。

こういうことから見ても、人間は実にわがままにできてるのです。

自分よりも、もっともっと苦しんでいる人たちや貧しい人たちと比べて、自分は恵まれた環境にあることが分かるのですが、そこまで頭が回らず、自分を中心とした世界観で物事を見て、ちょっした原因で衝動的に死んだりする。
「自分だけの物差しを離れた目で自分を見る」ということが、いかに難しいかなのです。

☆「人の身として生まれたことが、この上なく素晴らしいこと」は仏法を聞かないとなかなか目覚めないってことなのです。

「精神修行が仏法ですか」 (2007.3.29[Thu])
以前、マリファナをすって検挙された芸能人が山寺にこもって修行をして、改心してやり直すと宣言したその2年後、またマリファナで捕まってました。
スポーツ選手が、シーズン・オフに座禅を組んだり、よく、サラリーマンなんかも日曜座禅会などで座禅を組んで精神力を鍛えるという話を聞きます。

自分のまがった根性に気づき、精神の弱さを感じるとき、僕たちは、まがった根性をまっすぐにしたい、弱い精神を強くしたいと思うのは当然です。
でもね、僕たちは自分の根性をまっすぐにしようとすればするほど、まっすぐにならない自分の根性に気づき、精神を強くしようとすればするほど、強くならない自分の精神にがっくりくるのです。

まがった根性のままで、弱い精神のままで生きぬくことのできる道、僕たちは、そんな道を求めずにはおれなくなります。

本当の仏法とは、決して精神修行をして強い精神力を身につけようとしたり、まがった根性をまっすぐにしようとするものではありません。また、苦しみを一時しのぎする道具でも、神仏は自分の願いを聞いてくれたりするものと考えたり、死者を鎮魂や慰霊するものと考えるものでもありません。

そういう教えは、まずインチキだと思った方がいいですね。また何かの教えを聞いて「心がカチカチになったり」「思い込みが激しくなったり」するのもおかしいです。

仏法を聞くとは「この私がはっきりする。あきらかになる」ということです。そして「自分自身を活かして下さる大きな“いのち”のはたらきがあきらかになり、はっきりする」ということです。
 言い換えれば、トヨタ生産方式で思い込みの強い自分があきらかになっていき、多能工をやりながら多くの人に支えられてるからこそラインが流れていくことに感謝できるようなもんです。

今、ここにいる僕たちは、本当に自己中心的な悲しい人間であり、いつなんどきどんなことで生命終わるかもしれない弱い人間でありながら、そんなことに少しも気づかず、毎日ちょっとうまくいくと、自分の力を誇りに自惚れて自分を見失い、うまくいかないと、腹を立てたり、愚痴をこぼしたりして、まわりの人に当たり散らして、自分を見失ってしまいます。

こんなのは、昨日今日から始まったわけではありません。はじめが分からないぐらい生死流転の遠い昔から、こんなことばっかり繰り返しているのです。また、こんな僕たちのあり方が、これからクルッと引っ繰り返ることは到底考えられません。永遠に、こんなことを繰り返していくんです。

よく僕たちは、「知らずにやったのは、しょうがない。知ってやってるのは悪質だ」と言いますが、どんなもんでしょうか。違いますね。自分が分かってやってる悪は反省もできますが、知らずに無意識にやってる悪が一番たちが悪い。まったく本人は気づいていないから反省もできないからです。だから「知らずにやる」「覚えがない」というのは恐ろしいことなんです。それが悲しいかな凡夫の実体なんです。だから仏様に導かれ、仏様と歩み、仏様の光(お話)に出遇わなければ本当の人の道を生きていくことはできない。それが仏法です。
☆ 愚かで弱くて智慧がない凡夫だから、「私」を当てにせず、「仏様」を当て頼りにして強く明るく生きていくのが仏法なんですよ。

「なぜ仏様が必要なのか」 (2007.3.28[Wed])
よく「私は仏に頼らなくても立派に仕事も生活もしております。どうして仏が自分の人生に必要なのかさっぱりわからん」という人がいます。
こういうことを聞くたびに思うことがあります。この人は死を目の前にしたとき、どのような気持ちで死んでいかれるんだろうか、と。

こういう人は「かなわぬ時の神だのみ」と、弱い人に限って仏さんは必要、強い人は必要ではないと思っているんでしょうね。

一生懸命勉強したが、間違いなく合格するという確信は持てない。それで神社、仏閣に入学祈願をする。婚期がきているのに、なかなかいい相手にめぐまれない、それで良縁祈願をする。車を購入したが、交通地獄の中、事故を起こさないという自信はない、それで交通安全の祈願をしてもらう。
その他、家内安全・商売繁盛・延命息災等、かぞえあげればきりがありませんね。
自分の思いをかなえたいとき、人生に行き詰まりを感じたときに、一時しのぎに神仏に祈る。

人間はどんな人でも基本的に弱い生き物なのです。他人のことならなんともいえますが、自分のこととなると、どうにもなりません。自分の力で、すべてのことが解決すればいいんですが、自分の力ではどうすることも出来ない問題が、この世にはあまりにも多すぎます。そこで、神や仏にすがってでもということになるんでしょうね。

問題が起きる度に神仏に祈る。こういうことを続けていくうちに、僕たちは自分をそのままにして神仏に祈る自分自身の身勝手さに気づきます。
  問題は外にだけあるのじゃない。自分自身の心の内側にも一杯問題はあるんです。自分自身を問題にしていくのが仏法であって、それを神仏への祈りへすり替えてはいけないと思いますよ。

またこの前、「代表、主人が半年前から身体の調子を崩し寝たきりなんです。そして、高校生の長男が単車で事故して入院しました。私の体の調子もいま一つです。それで、近所の人にすすめられて見てもらったら先祖が迷ってるから先祖供養を十分してあげなさいと言われました。先祖の供養をするお経はなんなんでしょうか」
「あんた・・・・“すなお”毎日読んどるんじゃないの・・、そんなこと僕は書いたことないんじゃけど」

たしかに悪いことが続くと、誰でも考え込んだりして、はっきりした方針がほしいもんです。でも「先祖が迷っているから供養する」というのはではなく「あんたが迷ってるんじゃろう」と言いたい。子を困らせようという親はないように、あとのものを苦しめようとする先祖はおりません。もし迷ってるとしても、それを迷わせているのは生きてる人たちなんです。

僕はこう言いました。「いつでもどこでもどんな時でも私がいるよ。心配せずに私と共にしっかり生きていきなさい。という仏さんの声を聞いて生きとらんじゃろう。あんたの不安な声ばかり聞いとったじゃろう。それじゃあ迷うわな」。その人はハッと気づいて「仏さんと一緒でした。頑張ります」と明るくなりました。
☆人間は誰だって弱い生き物です。死ぬときには尚更それが分かります。だから仏様といつも一緒がいいんです。

「凡夫(ぼんぶ)の自覚が仏の子」 (2007.3.27[Tue])
今日は「凡夫(ぼんぶ)の自覚が仏の子の自覚」というタイトルで、わかったようなわからないような「う〜ん」と思われる人も多いと思うので、少し説明しておきます。

「凡夫」とは、「たいしたことのない発展途上人」ということです。まだまだ未熟ということです。その「凡夫」が何故「仏の子」なのかというと、「たいしたもんだろう」と思っている人はみんな傲慢であって、一人で生きてると勘違いしているからです。そういう人は仏の子ではありません。仏の光が射そうとしても射さないのです。でも「凡夫の自覚」のある人は、「たいしたものではない」と自覚しているから、謙虚です。謙虚だから感謝があります。感謝があると仏の光が射してきます。だから「凡夫の自覚が仏の子」なのです。

例えば、こういうことです。慈善家の人が年末に、生活に困った人達に餅を贈っていました。最初の二、三年は、感謝状がよせられました。それがつづくと、「今年も、そろそろ送ってくるころだ」「今年の餅はちっちゃいなあ」と不満の声が聞こえてきます。その慈善家といわれる人はムチャムチャ怒って打ち切ったそうです。

よいと思って努めているのに、相手がほめもせず、感謝もないと、途端に腹が立つ。僕もそうです。「あんなにしてやったのに」「これだけしてやってるのに」「してやっている」の恩着せ心の思惑が外れると、「もう二度とやるまい」と決意する。そういえば、昔うちの親父さんが「偽善者とは、人の為と言って善を成す者と書いてあるが、ほんまじゃのう」と言ったことを思い出します。

受けるよりも与える喜びを人は知っていますが、「与えた」という意識を握って離さない。困ったもんです、人間という生き物は。

じゃあ冷淡な人間であっていいのかというと、そうじゃない。逆境の人をあわれみ悲しんで、ふと気づくと、慈悲深い私と得意になってる醜さに気づくのは、心から善に向かおうとする者だけなのです。つまり仏の子の自覚がある人だけなんです。

真のよい人になろうとすればするほど、自分の心の醜さや、愚かさや、ちっぽけさに気づかされていきます。だからこそ、「ああこれじゃあいかん」と反省して努力していこうとするのです。

人は「こんなばかな私」と言いながら「ばかだ」と言われると腹が立つ。ばかだとは少しも思っていないからなんです。

だからこそ人間は「凡夫の自覚」がいるんです。考えることも言うことも自分の都合中心で、己を買いかぶり、ほめられたい心よりほかにないんです。

ただそういう「凡夫」だからこそ、仏様は僕たちを見捨てないんです。「必ずおまえを救う」とおっしゃるんです。昔から「馬鹿な子ほど可愛い」というでしょう。馬鹿に居直ることじゃあないけど、「自分はたいしたもんじゃない」という自覚があれば、人を見下したり裁いたりはできない。それが仏様の願いですね。本当にたいしたことないんですけどね、人間は。

☆善いことをして忘れることができないのが凡夫。善いことをするときはそんな覚悟をしていましょう。

「人は本来仏の子なのです」 (2007.3.26[Mon])
お釈迦様は「大宇宙の中で、人間をはじめとした、いろいろな生き物に手を貸そうとする、仏様の意志や働きがあって、すべての“いのち”は仏様の大きな“いのち”の中に生まれ、育まれている。その“いのち”が、目に見える現象の世界でさまざまな“いのち”の営みをしている。そのなかで生死流転もある。その事実を確認することが信仰にほかならない」ということです。

結局、信仰とは、「あなたは誰ですか。どこの家の子ですか」と聞かれ、「私は◎◎家の子です」と答えているのと同じことなんです。すなわち、「あなたは誰ですか」という問いに、「私は仏の子です。私の彼の親は両親ですが、本当の親は仏様です。」と言えることが信仰です。
要するに、信仰とは命綱のようなもんです。信仰のロープを伝って、元なる親のところへ還ろうとしているわけです。
無信仰とは、その本当の親がいないということです。ですから、ロープもないので還れないのです。還れないということは、迷いの世界をグルグル回るということです。

何千年も前の弥生時代の人々は深い信仰を持っていました。しかし、現代のインテリと言われる人が、信仰を持たず、「人は機械と同じだ。脳が人間の支配者であって、脳の機能が止まったら、それで終わりだ」と考えていたりしますが、「脳の機能の停止してから何カ月後に子供を出産した」という例があります。「死体が子供を生む」ということはあり得ません。
肉体は仮の宿、肉体に宿ってる「いのち」こそあなたなのです。そのあなたとは「仏の子」なのです。人は大きないのちの中に生かされていますから、本当はみんな仏の子なんです。でも、それを忘れてこの世の現象や物質ばかりにとらわれてしまうところに、不幸が生まれてきます。あなたが「私は仏の子」と自覚して生きていけば、運命は全然変わっていきます。仏の子は、仏の願い、親の願いを聞いていくからです。

仏の願いとは、「私がどんな時でも一緒にいるから安心してあなたの長所を生かして喜ばれる人生を送りなさい」です。

仏法とは、生きている人間が「仏の子」の自覚を持ち、仏の願いを聞いて生きたまま「救われる」教えです。よく先祖供養によって先祖を救うという人がいますが、そんな暇があれば、その人が生きてるうちに救われないと意味がないのです。

人は、それぞれに思うことや考えることは違います。だけど、たとえば、心揺さぶる言葉に接したときには、誰もが同じように感動します。「先祖をたどっていっても、親戚でも何もない」という関係でも、それでも同じように心が揺さぶられます。日本人に限らず、外国の人でも、美しいものを見たり、真実の言葉に触れる、「いのち」を揺さぶられます。

地上には六十億人以上の人々がいますが、みな、つながっている部分があります。その部分をたどっていくと、その元となるのが仏様という存在なのです。アフリカの人もアメリカの人も日本の人もなぜ良心があるのでしょうか。なぜ「正しい」ということが分かるのでしょうか。なぜ「美しい」と感動するのでしょうか。環境差はあって、みんな同じものを感じてしまうのはどうしてでしょうか。
それは、すへての人は「仏の子」だからなのです。

☆仏の子として自覚して生きる人は幸せになれる。

「泥の中に咲く蓮華の花のように生きていきなさいと仏様はおっしゃってる」 2007.3.25[Sun]
この世は自分の思い通りにならない世界です。また闘争や憎しみ、嫉妬に恨み、怒りに不満など、この世は、生きていくのがなかなか難しい世界でもあります。ただ、そういう世界の中で、仏様の心に出会うことによって、この世にあなたが生まれてきた意義、意味を見いだすことが、非常に大切なんです。
仏法では、これを「泥中(でいちゅう)の蓮華の花」にたとえています。

蓮華の花が咲いている沼や池はどこも泥沼泥池です。どう見ても汚い、不潔、臭い泥んこです。こんななかからスッと茎を伸ばして水面に咲いた蓮の花には、白い花や赤い花など、いろいろな種類がありますが、この一輪咲いた花を見れば、まるでお浄土のように見えます。

仏法は、どんな人生の中でも大切なのは「その中で、あなたは、いかにして一輪の花を咲かせられるか。いかにして、蓮の花のような清らかな花を咲かせるか」ということなんです。どのようなところにあっても、花を咲かせることは可能なんです。

超一流会社にいて、そこで花を咲かせる人もいますが、普通の会社、あるいは小さな会社の中で、努力して見事な花を咲かせる人もいます。

家庭の中でも不幸はあります。家族に病人が出る場合もあれば、家族の誰かが事故に遭って障害を負う場合もあります。僕みたいに兄弟が病気や事故で若死にすることもあります。両親のどちらかが亡くなる場合もあれば、両方とも亡くなる場合もあります。ほかにも不幸なことはたくさんあります。

ただ、「どんな環境下でも、泥沼の中から咲く蓮の花のように、一輪の花を咲かそう。清らかに生きていこう。すがすがしく生きていこう」と決意して仏様と共に生きていけば、それなりの花を咲かせることができます。その花の大きさは、さまざまですが、小さな花でもかまわない。
だから、「泥沼の中から蓮華の花は咲く」ということを理解してもらいたいのです。

周りや環境を変えることはできません。あなたが味わった、過去の不幸それ自体を、全部、帳消しにすることはできません。ただ、不幸な環境に生まれたとしても、同じような環境の中にある人が、みんな不幸ではありません。その環境の中で、あなたが心を磨き、仏様と共に道を求めて一輪の花を咲かせることはできます。

お釈迦様はそういうことを説いていたわけです。

お釈迦様は「すべての人には仏性(ぶっしょう)があり、仏になる可能性がある」ということを言われました。自分の環境の中で、泥沼の中で、一輪を咲かすことは努力次第で可能なんですよ、とお釈迦様は言われたのです。
また、どうかこの世的な結果主義者に終わらないように、「目先のこと、目に見えるこの世的なことがよければ、すべてよし」という考えにはなってはならないと言われたのです。人は「どんな環境下においても、自分なりの一輪の花を咲かせる」ということを一番仏様は願われているのです。

☆人はどんな環境下においても、自分なりの一輪の花を咲かせることが尊いのです。

「浮かばれる人と浮かばれない人」 2007.3.24[Sat]
よく仏様のお話しをすると「ほんとうに神さんや仏さんがいて、そんな世界があるのなら、はっきり見せてくれたらいいのに。目に見えないものとか、実感が湧かないものは信じることはできません」という人がいます。

ただ、誰もが分かるようになっていないのは理由があるんです。その理由は、「この世の世界そのもの、数十年のあなたの人生そのものが、ある意味で、一種の試験なんだ」ということです。
人が生まれてきた目的は生死流転の解決だとお釈迦様は言われたと、何度もお伝えしてきましたよね。あの偉大なお釈迦様が嘘をついて、僕らを騙そうと思ってると考えられます?あり得ません。またもし教えが嘘だったら2500年も続いて世界中に広がりません。人間はそこまで馬鹿じゃないです。

人間の「いのち」は迷いの世界から生まれてきて、肉体に宿り、物質的世界の中で生きています。そして、「この物質世界の中で生きながら、どれだけ、仏様の心に出会えるか。その仏様の心に出会って、どれだけ、自身や他の“いのち”を尊んでいけるか」ということを、ある意味試されています。人は、人生において、さまざまな経験を積んでいきますが、それはある意味試験でもあるんです。
その試験が終わったとき、自分の人生が終わったときには、仏様のことやあの世のことが分かるようになっています。

「神さん仏さんが目の前に現れたら信じてやる」と言ってる人は、試験問題を配られて、それを解くときに、「答えを印刷してくれよ」と文句を言ってるのと同じなんです。ただ時々僕のような人がいて、ヒントを与えてくれるってことがあるわけです。
人生は一種の試験なので、答えを、全部、教えるわけにはいかないんです。しかし、ヒントは、人生の途中で、たくさん与えられるようになっています。さまざまな気づきの機会が用意されてるからです。
この世の人生では、「仏様と共に安心して生きたら、あなたの中にあるいろいろな可能性を発揮できますよ。周りに対して優しさや親切や思いやりを持っていけますよ」ということが問われます。そして、死んだときに、それが満足であるか、合格点であるか、落第点であるかが分かるようになっています。その段階で、この世での成功や失敗、「偉い」「偉くない」なんて、この世的な価値観がグルッと引っ繰り返る事が、一杯起きてきます。

仏様のことを信じられなかったり、あの世やお浄土に疑問を持つ人でも、人はやがてみんな死にます。「仏さんのことなんて信じられん」と言って騒いでいても、それは、ほんの数十年

「私の“いのち”の還る場所」 (2007.3.23[Fri])
過剰なまでの「健康ブーム」です。どんな食生活が病気にならないか、遺伝子組み換え食品は安全か、環境ホルモンの汚染は大丈夫か、テレビでも雑誌でも一杯取り上げられていますが、凄いですよね。
風邪だと言われても驚きませんが、「ガンだ」「エイズだ」となると「オオッ!」と頭真っ白になって大騒ぎになってしまう。それは「死ぬ」と思うからでしょう。

ティリッヒというドイツの哲学者のおっさんは『生きる勇気』という本の中で、人間は一瞬たりとも、死そのものの「はだかの不安」には耐えられないと言いました。死と真っ正面に向き合うのは、あまりにも恐ろしいので、病気や環境問題と無意識に対決している人って多いです。

それは未来がはっきりしていないと、不安なんです。先の見えない闇の中を走っているから、何を手に入れてもその時は「嬉しい」と思うけど、心から明るくはなれない。だから一時的な安心感は手に入れても、本当の安心も満足も得られないんです。
だから仏法では「生死の解決」がなかったら永遠に本当の安心も満足も得られないと言ってますが、その通りなのです。

例えば親が付けてくれたあなたの名前は、家族も知ってるし、世間も知ってる、自分もそう思ってます。そういう名で呼ばれているあなたという存在は一体何者かということが、生死の問題なんです。お浄土へ行くのはあなたの「いのち」が行くんです。地獄へ行くのもあなたの「いのち」です。あなたの身体はお浄土へは行けません。あなたの骨は納骨所で止まっているかもしれませんが、あなたそのものはそこに留まらない。

あなたは永遠の「地獄・餓鬼・畜生・修羅・人間・天上」という迷いの世界を生死流転です。仏様の「おまえを必ず大きな大きな愛の仏の世界へ生まれさせるよ」という言葉を信じなかったら、生まれ変わり死に変わりして留まることがない永遠の生死流転です。あなたというものは死んだぐらいでは終わらないのです。死んだらまた生まれます。地獄の鬼は亡者を何遍も殺して生き返らせる。切り刻んで悪い思いや悪い行いをした人を苦しめて殺してしまう。死んだら苦しみから解放されるかというと、そうではなく、今度はまた生き返らせそして又苦しめる。それが生死流転です。一回死んだら終わりじゃない。死んでまた生まれてくる。そして、やはり今世と同じように、死ぬのは嫌だと思って生きるわけです。

仏法を聞かない人は、人生を80年ないし100年と自分で決めています。死んだらそれで終わりだと思っているからでしょう。しかし死んでもまた生まれるんです。また生まれるということはまた死ぬ身になることです。
そういう生死流転の解決するのが仏法の目的なんです。仏様の救いを信じなかったら、あなたは死んでも続いてゆく。生死の終わりはない。これが人間のいろいろな苦しみのもとなんです。

あなたも嫌な人がいるでしょう。だけど無常なんです。それをつい忘れるから、嫌な人は1000年ぐらい生きてるように思ってしまう。その嫌な人と1000年間どうやって生きていくか。そんなことが人生の一大事になってしまって、本当に一番大切な問題を解決することを忘れてしまっているわけです。一番大切な問題とは、死んだらどうなるか、あなたはどこへ行くかということなのです。
☆あなたの人生の一番大切な問題は、あなたが死んだらどうなるか、あなたはどこへ行くかということなのです。

「私が生きてると、お陰様で私は生かされて生きているの違い」 (2007.3.22[Thu])
人はなぜ仏様のことを信じられないでしょうか。人はなぜ死んでも苦しみの生死流転を繰り返すのでしょうか。
それは「私が生きてる」と思い込んでるからです。 お釈迦さんに「人はなぜ悩み苦しむんですか」と聞かれたら、それは「自分が思いどおりにしたいのに、それが思いどおりにならないから」と即答されるでしょうね。
そうなんです。この「私が」という「我」に執着している以上、成仏できないんです。この宇宙のシステムは。
だってそうでしょう。「これは私がやったのに」「あんたより私の方が偉いでしょ」この「私が」です。この「私」という存在を立たせるために、人はいろんなものを身につけようとします。お金、土地、自宅、名誉、地位、ポジション、家族、会社、称賛、こういうものを死んでも手放せないのです。つまり執着してるわけです。

じゃあ何故執着するのでしょうか。それは「人は死ねばなにもかも終わりだ」と思い込んでいるからです。この肉体が本当の自分だと思い込んでいるからです。だから、この世でのさまざまな快楽に「いのち」を奪われ、執着に身を焦がして生きていくわけですが、仏法では、「来世は厳然としてあり、地上において悪しき思いと行いで一生を生きた人は地獄に堕ちる」と説かれています。これは決して脅しているのではありません。「因果の理法」から言ったら、そりゃあそうだろってことなのです。

仏様は「あなたの本当の古里に還っておいで」とおっしゃいます。それはこの世を去ったら、浄土という世界へ還ってきなさいということです。
浄土とは、光り輝く世界だと言われてます。常楽の世界とも、無量光明土(むりょうこうみょうど)と言われてます。分かりやすく言えば「仲のよい人たちが集まって、とても楽しく語り合っている」という世界です。天真爛漫で飾り気がなく、生地のままで美しい世界です。

是非皆さん自分を振り返ってみて下さい。「自分の肩書や地位、家族や自宅や土地やお金を取り去ったとき、素直な笑顔を持って執着なく生きていけるかどうか」ということを、心を裸にして考えてみたらいいんです。
またもう一つの目安は「多くの人に“私が”“わしが”で嫌われていなかったか」ということです。つまり素直な心で生き、多くの人々に好かれ、多くの人に感謝できる人物であったかということです。
こういう人は「仏様に生かされて生きてる」と素直に生きれたのです。そうじゃなく「私が」と生きてきた人は、どんなにお金があったとしても、お浄土には還れないのです。何かの執着につかまっている人は、死んでいけないからです。

よく昔父が「お浄土は、ガラス張りの心の世界だからな」と言ってましたが、肉体が焼かれて「いのち」そのものになったら心は丸見えですから、そりゃあそうですよね。臭いもの、悪いもの、醜いものがあったらまずいですよ、それは。

でも「必ずお前お浄土に連れて還るから心配するな」という仏様の呼び声を聞いて生き仏様と共に生きた人生なら、安心して死んでいける。それは仏様に死んだ後はお任せできてるからです。北原さんがそうであったように。
☆思うとおりにしたいと「私が」と頑張って生きていくか、すべては仏様から与えられたご縁の世界を生かされていると、仏様に感謝しながら仏と共に生きるかで死後は全く違う。

「仏さんの大きな“いのち”に生かされている私の“いのち”」 (2007.3.21[Wed])
仏法の本質は、このことを信じたら家族仲良くやっていけますとか、嫁と姑の仲が良くなりますとか、子どもの成績が良くなりますとか、大学の入試がパスしますとか、商売繁盛しますとか、ガンや神経痛が治るとか、そんな問題じゃあないのです。どれだけ神経痛が治ったところで、100l死んでいくことにはかわりません。

本当のものに出会わなかったら、私という存在は死んでも還る場所なんてどこにもないのです。誰かが死んで、「あああの人は成仏されたなあ」なんて思っていますが、それは死を外から見ているからです。あの人はお骨になったら、あの人は終わりというわけにはゆきません。骨という物質はおとなしくしてじっとしていますが、私という存在は「生死流転」の存在ですから、どこまでも迷っていくんです。 私という存在は、何回も生まれ何回も死んだわけです。この世で生まれたのは前の世で死んだということです。たとえば子どもが生まれてきたら、この世界では一人家族が増えたと言っているけど、前の世の人は、「ああまた一人亡くなった」と言ってるでしょうね。

人間はとにかく気の遠くなるような時間を無限に生死流転してきたわけです。この無限の生死流転が苦しみであり、迷いです。これをいつまでもやめることができない。この生死流転を気の遠くなるぐらいやってきたのです。
ところが、この限りない生死流転というものから僕たちを脱出させたいという大きな愛があったんですね。それが仏様の大きな願いなんです。そういう大きな願いの中に生かされている私だということは、仏法を聞いてはじめてわかります。これは勉強してもわからないし、学校でも教えてくれません。仏法を聞いてはじめてわかるのであって、仏法を聞かない人には、このことは全く分かりません。分からないから問題を解決せずに死んでしまいます。

実は私という存在をこの世に生まれさせて下さったのは大きな“いのち”の働きがあったからです。その大きな“いのち”の働きがあったからこそ、私たちは父母を宛としてこの世に生まれてこれたのです。これは実に不思議な働きによるものです。これを仏様のはたらきといいます。
仏様とは無限なものです。有限ではない。この大宇宙を司る意志・意識・はたらきを仏というのです。その無限なものの中にしか有限な僕たちはいることができないのですから、その無限を否定できないですよね。その無限者の不思議なはからいによって僕たちはこの世に生まれさせてもらって、そしてこの世でいろんなことをやっているのです。一瞬、一瞬、無限者の仏様のはからいによって、息もできるし、心臓も動かされている。空気も水も太陽もすべてを与えられている。どうですか、たとえば息をする時に、考えて息をしていますか。心臓を自分の意志の力で動かしていますか。だいたい空気は自分でつくったんですか。

よくよく考えてみて下さい。自分の力なんてどこにもない。私を生かそうとする絶対的で不思議な仏様の大きな働きがあるだけです。一瞬、一瞬、不思議な仏様のはからいで、このいのちを営ませていただいているのです。その仏様に生かされて自分が生きていると思っているのか、それとも一人で頑張って生きているのか、これは全く違います。仏様に生かされ生きていると頷け感謝できる人は、死ぬことには何の心配もいりません。「この世を去ったら仏の世界へおまえを生まれさせてやる」と約束して下さっているからです。でも一人で生きていると思っている人は、ブッブ〜なんです。
☆生まれてくるのも、生かされているのも、死んでいくのも仏様のはからいの大きな愛の中にいるということです。その大きな愛の仏様のいのちに包まれて生きてる人は仏の世界へ還り、一人で頑張って生きてると思っている人は、また迷いと苦しみの生死流転に突入します。

「なぜ無明の闇が、人の苦しみや悩みの根源なのか」 (2007.3.20[Tue])
あなたが幸せだと思っていても、フッと不安になることがあったりします。うまく物事が運んでるのに、妙に心配になったりします。どうしてなんでしょうか。

例えば、あなたが三日後に大手術を控えていたとしたら、どうでしょう。「今日だけでも、楽しくやればいいじゃん」といって頑張って楽しくしようとしても、無理ですよね。
これは未来が不安で暗いと現在が不安で暗くなるということなんです。現在が不安で暗いのは、未来が不安で暗いからです。つまり無意識に「死の不安と恐怖」を人は生まれてこのかたずっと抱きかかえているのです。

トルストイというおっさんが「懴悔」という本の中に、

「こんなことがよくも当初において理解できずにいられたものだ、とただそれに呆れるばかりだった。(死んでいくということは)こんなことはいずれもとうの昔から誰にでも分かり切った話ではないか。きょうあすにも病気か死が愛する人たちや私の上に訪れれば、死臭とうじ虫のほか何一つ残らなくなってしまうのだ。私の仕事などは、たとえどんなものであろうと、すべては早晩忘れ去られてしまうだろうし、私もなくなってしまうのだ。とすれば、なにをあくせくすることがあろう?よくも人間はこれが眼に入らずに生きられるものだ、これこそまさしく驚くべきことではないか!生に酔いしれている間だけは生きても行けよう、が、さめてみれば、これらの一切がごまかしであり、それも愚かしいごまかしであることに気づかぬわけにはいかないはずだ!」と語っています。

物凄く死ぬことをビビッてますよね。今までがむしゃらに生きてきたのは、真っ暗な中を、ただ突っ走ってきたようなもの。「死んだらどうなるのか」未知の世界に入っていく底知れぬ不安を、何かでごまかさないと生きてはいけなかったわけです。まあ、「死ぬ」ことを自分はごまかしてたってことです。
お釈迦さんは、
「世の中の人は、目先のことばかりに心を奪われて、無明の闇を破る人生の大事を知らない」と言ってます。
この前「死んだらどこへ行くって、墓場へ行くのと違いますか」という人がいましたが、墓場へ行くのは僕の身体がいくだけのことです。あなたの身体ではなくて、あなた自身はどこへ行くのですか、ということなんです。ここがはっきりしていない。だから生きていて元気であっても、フッとした時に無意識に不安になったりするんです。

僕そのものは一体どこへ行くのかという問題は、人間の永遠の問題です。これは墓場で焼かれたぐらいじゃあ決して終わらない問題なんです。この落ち着き先はどこかということがハッキリ解決しない限り、僕たちの不安は解消できない。それははっきりしています。
生きているうちにこの問題を解決して安心して生きていけば安心して死んでいけるのです。現在の日本人は仏法やお寺といったら、何かおまじないで癌にならないとか、ぽっくりいくための供養とか、商売繁盛、家内安全をする教えや、場所だと思っています。お釈迦さんはそんなこと一言もおっしゃってない。「無明の闇」を破る、「死後の解決をする」、この大問題の解決を説かれたのです。
☆人間の一番大切な問題を解決していくのが仏法です。私たちはみんな一つの課題を持って生まれてきたのです。一人一人、この生死の一大事、無明の闇を晴らすという問題を持って生まれてきたのです。仏法を聞かないで死んでしまったら解決できない問題なんですよ。

「無明の闇」 (2007.3.19[Mon])
「100l堕ちる飛行機に乗るものはいないが、私たちはそんな飛行機に乗っている」という言葉があります。
仏教で「無明の闇」とは、「死んだらどうなるのか分からない、死後に暗い心」をいいます。実は黙ってるけど、みんなこの「死ぬ」ということには無茶苦茶ビビッてます。

だから、とかく、死を口にすると「エンギが悪い」と言います。「死ぬ話をするとお前もすぐ死ぬぞ、そんなこと言うな」とか、「そんなことよりパッと明るい話をしようや」なんて現実から目を背けようとします。
「四」と聞くと「死」を連想するから、病院には四号室がなかったり、エレベーターに四階が抜けていたりもします。それだけ「死」という問題から逃げようとする、また一種のビビリです。

人は元気のうちは威勢がいいのですが、いざ自分が「死」という大問題に直面されると、もうどうにもなりません。有名な作家が死ぬことを目の前にして、「なんと大きな不安なのか。こんな不安は今まで味わったことがない」と死の恐怖におののいたと言いますが、「門松は、冥土の旅の一里塚、めでたくもあり、めでたくもなし」と一休さんは、人は一日生きれば一日死ぬことに近づいていると言ってます。

「100l堕ちる飛行機に乗るものはいないが、私たちはそんな飛行機に乗っている」と言いましたが、ハッキリ言って100l堕ちる飛行機に乗っているのが実は私たちの姿なんです。

死は万人の確実な未来なのですが、誰も真面目には考えてません。いや、考えたくないからでしょうね。 例えば、友人、知人、肉親などの突然の死にあって、いやおうなしに考えさせられるときは、「う〜ん、次は私かも知れない・・」なんて思いますが、喉元すぎればって感じで、あとはケロッとしてしまう。ガンと闘った医者が、「死を自覚したとき、ながめている他人の死と、目の前に迫った自分の死は、動物園で見ている虎と、山中で出くわした虎ほどの違いがあるほど不安や恐怖が襲ってくる」と手記に書いているのを読んで、仏さんと共に生きれなかった人の不幸を感じざるを得ません。

「死んだ後そんなものなんてないよ」と言ってる人でも、知人や友人が死ぬと、「ご霊前で」とか、「ご冥福を祈ります」と言ってます。「霊前」は故人の霊の前であり、「冥福」は冥土の幸福のことだから、いずれも死後を想定してのことですよね。果ては「安らかにお眠り下さい」「迷わずに成仏して下さい」なんて不慮の事故者なんかには言ってます。

「死ぬってことは考えても、どうなるもんじゃないよ」「その時はその時のことよ」「そんなこと考えてたら生きてなんていけない」。頑固に「死」から目を背けていたり、気楽に考えていても、「いざ鎌倉」となると、先はどうなるのかだけが大問題として確実に自分に襲ってきます。

仏法では「死んだら分からない心」を、「無明の闇」といい、「後生(ごしょう)暗い心」と言います。仏法とは、この世の金儲けとか、病気を治すとか、家内安全を祈るものでも何でもありません。そんな問題は死んだらすべて解決できるからです。この人間の一番の大問題である「無明の闇」を解決するのがお釈迦さんが説かれた仏法の本質なんです。
☆人は生きているうちに「死」という大問題を解決しておかないと地獄に落ちます。地獄に堕ちるとは、安心して死んでいけない心が地獄の状態だからです。

「空しい人生」 2007.3.18[Sun]
「ママ パパへ わたしは 生きていてもいみのない人げんです。わたしがいきていても みんながこまるだけです。 ママ パパ 長いあいだおせわになりました。なにもいわず わたしをしなせてください。わたしはじごくで みんなのことをみまもっています」
小学二年生の女の子の遺書です。

どれほど物質的に恵まれても、自殺の増加、殺人、暴力、虐待、そして戦争と「生きる意味ってあるんだろうか」「苦しくても、生きていかなければならない理由って何なの」と、子どもも大人も心の中に常に「恐れ」と「不安」を抱きながら生きているのが現代ですね。
少年犯罪が急増していますが、どれほど少年法を改正しても、罪の意識のない少年たちにどれだけ効果があるのでしょうか。これらの諸問題の根底にあるのは「生きてていいんだ」「私には生きる意味がある」といった「いのちの尊厳」と「人生の目的」がはっきりしないかぎり、どんな対策も絵にかいた餅で終わってしまいます。

どんな行動にも「目的」がありますよね。「あんたなんで勉強してるの?」と聞かれたら、「明日、試験があるから」「資格を取るために」と答えます。「どこへ行くの?」と聞かれれば、「会社」「気分転換に散歩」というように、行動には必ず目的があります。
では、あなたに聞きますよ。「なぜ生きるの?」。今、あなたは何と答えますか・・・。
一般的には生きることは大変と言います。受験勉強を勝ち抜き、就職難をくぐり抜け、リストラにおびえて働き、元気がよくてもやがて老いや病気になっていきます。愛する人とも死に別れするかもしれない。また人間関係のストレスに悩まされ、突然訪れる、事故や天変地異など、思わぬ事が襲ってきます。

完全自殺マニアルという本に、「あなたの人生はたぶん、地元の小中学校に行って、塾に通いつつ受験勉強をしてそれなりの高校や大学に入って、4年間ブラブラ遊んだあとどこかの会社に入社してから20代前半で結婚して翌年に子どもをつくって、何回か異動や昇進をくりかえして幹部まで出世して、60歳で定年退職して、その後10年か20年、小遣い稼ぎのパートか、趣味を生かした生活を送って、病気か事故で必ず死ぬ。どうせこの程度のものだ。しかも絶望的なことに、これがもっとも安心できる理想的な人生なんだ」って書いてありますが、仏教的に見るとこれじゃあ成仏はまず無理ですね。
「生きてきて本当によかった」という満足や心の奥底からの安心がなく、来る日も来る日も「食べて寝て起き仕事する」の繰り返しならば、ゴールを知らずに走ってるランナーと同じです。
生きる目的がはっきりしていれば、勉強も仕事も健康管理もこのためだ、とすべての行為が意味をもち、心から充実していきます。病気がつらくても、人間関係に落ち込んでも、それを精一杯乗り越えていけます。

うちの保育園では「いつも仏様と私は一緒。何があっても仏様に常に護られてお浄土に向かって強く明るく生かされて生きていきます」と子どもたちに、仏様の言葉を伝えています。
「仏様と共に生きる」「仏様の大きな大きな愛の世界であるお浄土に還るということを目的に生きる」このことがはっきりうなずけたら、死んでいくだけの人生じゃなく、お浄土に生まれていくのが私の人生だったと喜べる。このことが実に大切なんですよ。
☆生きるには本当の「目的」が必要です。人間の生きるための究極の目的は「お浄土」に生まれていく「いのち」だったと頷いていくことです。それがふに落ちれば安心して生きていけます。

「いのちの還る場所をあきらかにする」 2007.3.17[Sat]
仏教(宗教)の本質は、仏教(この信仰)を聞いたら(持ったら)家族が仲良くなりますとか、嫁と姑の関係がよくなりますとか、子どもの成績がよくなりますとか、大学の試験にパスしますとか、商売繁盛しますとか、神経痛やガンが治るとか、そんな問題じゃないのです。どれだけ神経痛が治ったところで、必ず人は死んでいかなくてはならない。死んだら神経痛からも解放されます。結果的によくなることは圧倒的にありますが、そんな問題の解決のためにお釈迦様は仏教を説かれたのではありません。

よく「死んだら仏」と言いますが、死んだらただの「死人」です。「生死の一大事の解決」なくして、人は本当に安らかには死んではいけないのです。
「生死の一大事の解決」とは、私が肉体を抜き捨てて還る「いのち」の古里があきらかになり、死んでいくことにまったく不安がなくなった心の状態をいいます。
この問題を解決しないことには私という存在は永遠に救われないのです。死者に「安らかにお眠りください」といったところで、死者自身がこの問題を生前に解決しておかなかったら安らかに眠れません。この問題の解決というものが仏法なんです。

現在どんなに政治体制が整備されて社会福祉が行き届いたところで、科学技術がどれだけ進んだって、この人間の永遠の「いのち」の問題は人間の力では到底解決できません。これを解決するのが本当の宗教だし、お釈迦さんが説かれた仏教です。これは体験的によ〜く分かります。
僕たち人間は生死という一つの事実の半分だけを見ています。しかし、仏教でいう生死とは、生まれるということは死ぬことだという意味です。生と死は十円玉の裏表みたいなもんなんです。
死んでから生まれるじゃなくて、前の世で死んだからこの世に生まれてきたんです。死んで生まれると言うと二つになるから駄目なんです。前の世で死んだことそのことが、この世で生まれたということです。だから「生は死」なんです。逆にこの世で死んだからといってそれで一巻の終わりじゃない。この世に死ぬということは次の世に生まれるということです。だから「死は生」なんです。

この無限の生死流転を繰り返してきたのが僕たち人間の本当の「いのち」の姿なんです。この無限の生死流転がそのまま、苦しみであり、迷いです。これをいつまでもやめることができない。生死流転とは「地獄・餓鬼・畜生・修羅・人間・天上」と、六つの迷いの世界をクルクルクルクル生まれ変わり死に変わり迷いながら苦しみながら流れて転がっていくということなんです。

ところが、この限りない生死流転というものから僕たちを脱出させて大きな大きな愛の世界、光の世界、仏の世界、浄土という世界へ還らせてやりたいというのが仏の願いです。この真実を発見されたのがお釈迦さんです。だから仏教が世界三大宗教の一つなんですね。世界に行くと必ず「あなたの宗教は何か?」と聞かれます。「ブッディスト」と言うと、相手は「オ〜、ブディスト・・」とニコッと笑って認めてくれます。世界で宗教をもたずにフラフラ生きてるのは日本人ぐらいで、どこに行ってもみんな自分の信仰を持ってるのが当たり前。持ってない人は“気味悪がられ”軽蔑されるか、人権的に人として扱われないですね、まず。

 さて、お釈迦さんが発見した大きな大きな愛のはたらきがあるのです。それを仏のご本願(ほんがん)と言います。そういう大きな大きな愛のご本願の中に生かされている私だったということは、仏法を聞いてはじめてわかる。これは勉強しても分からないし、学校でも、職場でも絶対に教えてくれません。

仏法を聞いてはじめてわかることであって、仏法を聞かない人には、こんなことはさっぱり分からないから、人間として生まれて一番解決しなければならない大問題を解決せずに死んでいきます。そしてまたまた六道の生死流転に突入。ふ〜う、実に哀れやなあ〜と、仏様は嘆いてらっしゃる。だから生きてる僕たちが、生きてるうちに仏法を聞いてこの大問題を解決しておくこと。すると安心して生き安心して死んでいける「安心立命」の道がある。その安心の道を生きれる人こそ、本当の人生の成功者なんですよ。

☆人間が人として生まれてくる一番の目的は生死流転を解決し「いのち」の本当の世界、大きな大きな愛の仏の世界に還ることにあったのです。

「お釈迦さんの悟ったこと」 (2007.3.16[Fri])
仏教において、2500年前にお釈迦さんが悟ったことは、結局、心の法則であったということです。 お釈迦さんは心の法則を悟り、その心の法則を使うことによって、どのような世界が展開するかということについての経験を得て、智慧を手に入れました。
地上に生きている人間は、「いのち」が肉体に宿った存在であって、外から目に見える部分ではなく、そのなかにある、目に見えない「いのち」の部分こそが、本当の自分なんです。長島監督ではありませんが、肉体は焼かれて灰になっても、「いのちは永遠に不滅」であるわけです。

例えば、片栗粉を水に溶かして熱を加えると、どんどん固まっていって、固形状になります。しかし、それが本当の姿かというと、そうではない。熱が冷めると、また元の液体に近い状態に戻ります。
人間の実態もそれとよく似てますね。人間は、肉体に宿っているあいだは、熱せられて固まった片栗粉の溶液のような姿を取ってるんですが、やがて死を迎えて肉体を去ると、元の液体状の姿に戻ります。

この世に生きているあいだは、親からいただいた肉体に「いのち」が宿り、この世で接種した栄養素をもとに生活し、肩書や男女や生きてる環境などで自分を形成して自己認識しています。でも、本来の自分の「いのち」とは、「私は温和で、とても寛容な“いのち”です」「私は何事に対しても熱心な“いのち”です」「私は知的なものに憧れる、非常に知性的な“いのち”です」「私はとてものんびり屋の“いのち”です」といった、それぞれ別個の特性を持った「いのち」なのです。それが本当の「あなた」なんです。

仏教は一言で言うと、仏法を聞くことによって、本当の「あなた」に目覚めてその「いのち」を生きることなのです。自分と思い込んでいた個性の部分に実は二種類のものがあって、それはちょうど、川で砂金と石ころを選り分けるような感じです。

 石ころの部分とは何かというと、生まれてこれまで肉体を自分だと思い込んで生きることによって、つくってきた殻のことです。あるいは、肉体として自分の生きやすいような選び方をする傾向性です。そういうものが、船の底のカキ殻のように、たくさん付着しているのです。まあ、これがあなたの「我」です。それを自分だと思い込み、それに執着して生きると「人生は苦である」ということになってしまうのです。

仏様は「それは本当のあなたじゃない!本当のあなたに目覚めなさい。気づきなさい」と言われるのです。自分の内にある砂金の部分、あなたの「いのち」に目覚めることを仏様は願っておられるのです。金色の部分、自分の「いのち」を発見できない人は、他の人の中にある砂金の部分、相手の「いのち」を発見するのは難しい。だから物の見方もとらえ方も実に唯物論的、無神論的、自己中心的で豊かさや潤いがありません。

実は本当のあなたの「いのち」を発見し「いのち」が還る場所が定まって安心するためにお釈迦さんは仏の教えを説かれたのです。

☆この世は本当のあなたの「いのち」に目覚め、大きな仏様の「いのち」の中に還るまでの目覚めと気づきの「修行の場」であり「遊び場」です。

「運命とは何か」 (2007.3.15[Thu])
「運命」とは「命」が「運ばれる」と書きます。「運勢」とは「勢いよく」「運ばれる」と書きます。まさしく仏様の願いを聞いて歩む人生は仏によって「いのち」が勢いよく運ばれていくことです。

ここで「運命」を形成している因子をお伝えしましょう。

@「その人の気質や性格」
A「国や地域や両親や兄弟といった家庭環境」
B「時代環境や社会環境」
C「本人の自助努力」
D「他の人々の縁と協力」

おおよそこの五つの要素が運命を形づくってると思います。
ところで、@〜Bまでの「その人の気質や性格」「国や地域や両親や兄弟といった家庭環境」「時代環境や社会環境」はすでに生まれたときから決まっているので何ともなりません。変えがたいです。ですから運命には前提条件として決まっている部分が確かにあると思います。
あとはC〜Dの「本人の自助努力」「他の人々の縁と協力」の部分が、その人の人生でどのような役割を果たすかということになりますよね。

結局こういうことから考えてみると、「運命というものは、生まれ落ちたときに決まっている条件と、その後の条件が、複合的に関連し合って決まっていくものである」と考えられます。

ところで、皆さんはこうやって日々「すなお」を読んでいらっしゃるわけです。そして仏法を学び、仏様の光に照らされた道を歩んでいらっしゃるか、どうかは分かりませんが、とりあえず歩んでいるとしましょう。
それはまさしくC〜Dの「本人の自助努力」「他の人々の縁と協力」の部分を生かしているわけですね。その部分を生かせばあなたの運命は大きく変わっていきます。

例えば、今あなたがもし他の仕事や職場にいたと考えて下さい。またこんな仏法もまったく関係ない、それこそ利害損得だけや表面的な人間関係の世界に生きていたとしましょう。
どうでしょうか。今のあなたのような物の見方やとらえ方や考え方ができてたでしょうか。ひょっとしたら、冷静に考えれば考えるほど、まったく逆の物の見方やとらえ方や考え方をしてはいなかったでしょうか・・・。
大当たりでしょう。あなたの過去とは比べられないぐらい見方も考え方も変わっている。ということは、あなたの「運命」は大きく変わっているのです。それは仏様の大きな愛と智慧(人間ではない仏の物差し)に出会い、日々学び続けているからです。その事実にハッと目覚めれば、どうぞ、今まで以上に仏様の大きな愛と智慧をいただいて生きていって下さい。それが仏様の願いなのですから。
☆運命は「本人の自助努力」「他の人々の縁と協力」で大きく変わる。仏縁をいただく皆さんは大きく変わるチャンスを仏様から与えられているってことですよ。もう感謝しかないよね。

「業とは何ぞや」 (2007.3.14[Wed])
「因果の理法」をさらに詳しく掘り下げていくと、「業」の思想に突き当たります。昔から「人間には業」があると言われますが、「業」は「行為」ということで「カルマ」ともいい、「宿業」と呼ばれることもあります。

よく「人間はみな平等だ」と言われますが、それぞれの人の生い立ちや境遇を見ると、どうしてこれほど境涯に差があるのかとさえ感じることがあります。
また外見にも中身にも違いがあるし、この違いの出発点はどこにあるのか。それを簡単に言えば今生だけのものではない、人間は生死流転を繰り返している存在であり、前生の集積が今生に影響を与えているというのが一般的仏教の「宿業論」です。

法則から見れば、業にはよい面も悪い面も両面あって、業は主としてネガティブな面でとらえることが多いようです。
 ですから、インチキ宗教家や拝み屋さんなんかは、「あなたのご家庭のご不幸はあなたたちの前世からの宿業なのだ」とか「先祖が迷っているからだ」とか言って、「宿業の浄化やお払い」や「先祖供養」のために凄い金額を要求します。
 間違っても、そんなのにひっかかっては駄目ですよ。こういった「不安」や「恐れ」や「弱み」をつついては、何らかの「幸せ」?を手に入れさそうと誘導する宗教が世の中には一杯あります。実に気持ち悪いやつが。

僕も昔、心理学的催眠療法でその人の乳幼児期の過去の心の傷を調べたことがあります。その時間が進み過ぎて、前生のものが出てきて内容を聞いていて「な〜るほど」と「業」について納得したこともあります。ですから、「因果応報の法則が、宿業、すなわち積もり積もって業となって、今世に現れて来る」「人生の不幸の多くは、多くの人々の恨みの念、マイナスの念によって引っ張られている」ということも納得できます。

ただ、ご心配なく。とんでもない金額を請求されて業から解放されなくても、仏さんの光に出遇うとまったく「業」は消えていきます。親鸞さんの書かれた「現世利益和讚」の中に、 「南無阿弥陀仏をとなふれば この世の利益(りやく)きはもなし 流転輪廻(るてんりんね)の罪消えて 定業(じょうごう)中夭(ちゅうよう)のぞこり」とあります。
仏さんの「おまえを必ず救うよ。私がいつも一緒だから大丈夫」というお心を「ありがとうございます仏様」と真受け(まうけ)した人は、「定業(じょうごう)」というのは過去の業によって定まった病気や事故や寿命ということですが、その定業によって苦しんで生きている。「中夭(ちゅうよう)」ということは早死にということですが、それらの「定業」や「中夭」は全部消えてしまうんです。

私たちの業は、助けずにはおかないというたのもしい仏様の誓いによって消され安らかな生が恵まれる。元気が出るよね。これが念仏の凄さですね。僕はこういう人を何人も見てきましたから、仏様の本願力(ほんがんりき)というものは凄いものだと、いつも驚いているのです。ですから、仏様の光にあったら人間の業なんてくそくらえってことなんです。まったく心配がいらないってことなんです。日々が温かい光がバッチリ差してくるからです。
☆どんな業に苦しめられている人も心配なし。大きな大きな「いのち」そのものの仏様の光に遇えば全部消えていきます。それが解放された人生ですよ。

「因果の理法」 (2007.3.13[Tue])
例えば、「今世で夫婦になったのは、過去世で縁があったからだ」という考え方があります。この考え方は「ある原因行為があると、それがなんらかの結果を生むことになる。気持ち良い原因をつくると、気持ち良い結果が生まれ、気持ち悪い原因をつくると、気持ち悪い結果が生まれる」という法則になります。

ということは、親子や兄弟、夫婦の縁、今世のみならず過去世からもきている理由は何だと考えると、「お互いに幸福だった。学び合えて自己成長できた」という思いがあるからこそ、今世においても、親子や兄弟、夫婦の縁となって表れてきているということになります。

 このように考えると、「人間は日々気持ち良い、気持ち悪い、どちらかの因果の種をまいて生きている」と言えます。日々に種まき作業を行い、その結果、まいた種がどのように発芽し、どのように成長していくか、そのことによって喜びの成果が見られてくるようになるわけです。

「いかに喜びの種を日々まいて、水や肥料をやり、日差しを当てて、成長させることができるか」が家庭、商店、企業、人間関係、なんでもそうですが、人生の成功というキーワードになってくるわけです。

また、昔から「悪事、千里を走る」といいますが、悪いことをしていると、やがて どこかで必ず露見して、破滅を生むことになります。今の時代はあらゆる場所から悪事が露見していってますから、このことはよく分かるでしょう。
お釈迦さんは「自らの不幸という結果を嘆いてばかりいるのではなく、将来に向かって幸せの種まきをしていきなさい。そのために、努力・精進があるのです。そのために、人に布施(善意を与える)をするのです。」
こうおっしゃています。

でも、本当にその通りだと思いますね。NCの「水洗い」だって、日の目を見るのはおよそ10年はかかると思っていました。その通りでしたね。コツコツコツコツ、改善改善を繰り返しながら、とにかく「仕上がり」「洗い」「工程や物流システム」などを構築するためには、人も資金も機械もすべてがご縁によって与えられてきたものばかりです。すべては仏縁ですから、ありがたい。ですから、必ず仏縁によって「水洗い」は全国に喜びの輪として広がっていくでしょう。「因」が喜びである限り、「果」も喜びになるからです。

それは「いかに喜びの種を日々まいて、水や肥料をやり、日差しを当てて、成長させることができるか」という仏教の「因果の理法」的発想があったからですね。

これはあらゆるところに見受けられる法則です。「一生懸命喜びの種をまく努力をすれば、その努力は必ずなんらかの形で実る」というものです。そういえばメールで「京都の◎◎クリーニングに負けるな!」なんてのがきてましたが、最近ではNCの支持者が凄く増えてきました。したがって、「因果の理法とは、時間の流れにおける一種の喜びの法則である」ということに気づかされるのです。
☆いかに喜びの種を日々まいて、水や肥料をやり、日差しを当てて、成長させることができるかが因果の理法の成功ポイントです。

「子どもも大人も自己評価が一番大切」 (2007.3.12[Mon])
僕はここで、子どもにとっても、大人にとっても一番大切なことは、「自己評価」「自己肯定感」といわれるものを持つことだって言ってます。
「自己評価」とは、私の「いのち」は存在価値があるんだ、私の「いのち」は大切なんだ、私の「いのち」は生きている価値があるんだ、という「いのち」の安心感覚です。
子どもは、お母さんに抱っこされたり、よしよししてもらったり、ただをこねたり、一緒に笑ったり、「ありがとう」「助かったよ」「嬉しいよ」と認めてもらったりして、この「自己評価」が育っていきます。この「いのち」の自己評価が育った子どもはやがて「自立」して自分の道を歩もうとします。

ところが、ほとんどの子どもはこの「自己評価」が育ちません。自己評価が育たないということは自己否定で生きていくということです。そうすると、私の「いのち」は存在価値がないんだ、私の「いのち」は大切ではないんだ、私の「いのち」は生きている価値がないんだ、という「いのち」の不安と恐れ感覚が生まれ、自分も人も疑って生きるようになってしまいます。
これは子どもだけの事ではありません。多くの大人も自己評価が育っていないのです。あなたに「自分のこと好き?」「自分をツイてると思う?」「自分は今ムチャクチャ幸せ?」と聞いて「・・・」となる人は、はっきり言って自己評価が低い。どちらかというと自己否定的なんです。
こういった自己評価の低い私たちを何とか「不安」や「恐れ」から解放して、救ってやりたいと願っておられるのが仏様なんです。だって僕たちの「いのち」の親は仏様だからです。

僕達は自分のこの「いのち」をどこにたてて生きたらいいのかというと、「どんな時でも絶対おまえを捨てない」と誓って下さる仏様の心をいただき、その心をよりどころにして生きていき、それをよりどころとして安心し て死んでいけるのです。それが僕は「勇気」「希望」「安心」「ツク」一番気持ち良くて歩きやすい道なのです。
実は「水洗い」当初、北原さんという男性の従業員さんがいました。当初ですから、大変な苦楽を会長たちと共にしてくれた人です。この人は僕の法話を聞くのが好きな人で、暇さえあれば「先生、仏さんの話して下さい」と僕のところへ来ていました。
しかし突然彼は工場から姿を消しました。原因は末期のリンパ癌でした。会長と共に自宅にお見舞いにいった時のことです。生前のふっくらした顔立ちとは違い、ゲッソリ痩せた北原さんが布団に横たわった姿に僕たちは愕然とし、ショックと共に当分言葉すら出ませんでした。

 沈黙の後、奥さんを通して一言、二言お話して「大事にしてね、北原さん」と言って帰ろうとした時、彼は精一杯の力を振り絞って僕にこう言いました。「先生、お 浄土 で また 遇え ます よ ね・・」。僕は首を立てに振り、流れ落ちそうになった涙を必死にこらえながら、「また来ますから」と奥様に深々とお礼をして玄関の外に出ました。「北原さんはもう死の覚悟を決めてる。それは仏様の大きな愛で包まれてることを実感しているから覚悟が決まったんだ。ああ救われてるんだ。北原さん必ずお浄土であなたと遇えるよ・・」心の中で一人頷き、後は涙で前が見えなくなっていました。

それから一週間後、彼は本当に仏様に抱かれてお浄土へ還っていきました。

彼は日蓮宗でしたが、最後の言葉は「仏様ありがとうございます」「なんまんだぶ」だったそうです。仏様の愛の世界に抱かれて安心して還っていった北原さんのことは、片時も忘れることはできません。

「縁起の法則」 2007.3.11[Sun]
お釈迦さんの教えの中で特徴的なものの一つに「縁起(えんぎ)の法」があります。
「縁起」は「縁が起こる」と書きます。よく「今日は車が当てられて縁起が悪い」というのは、ウソの言葉ですね。「縁起というものを不運なこと」のように使ってしまう。こういった仏教用語を間違って使ってる人が多いので、皆さんは間違えないでね。

さてよく僕たちは「ご縁があったね」とか「ご縁を大切にしたい」「そで振り合うも多生の縁」といった言葉を使いますよね。
「縁」とは「この世に偶然なものは何一つない」という考え方の表れです。その奥にあるのは仏様の大きな愛です。「人は、目に見えないえにしの糸に結び付けられているんですよ。この世で偶然に会ったと思っていても、実は、えにしの糸によって、深い絆で結び付けられているんですよ」ということが「ご縁」なのです。

非常に運命論的な響きがありますが、よくよく考えてみれば、この世で出会う人は数多いのに、なぜか気が合って友人になったり、夫婦となったり、親子になったり、同僚となったり、師弟となったりすることがありますが、これは単なる偶然ではないということです。

 過去の「生死流転(しょうじるてん。生まれ変わり死に変わり)」の過程で、親子や兄弟、友人であった縁が、繰り返し出てきてるってことなんです。もちろん、この世での新たなご縁もあるでしょうし。でも、それは全部仏縁なんです。仏様の導きによってつくられるものですから。そして、その縁がさまざまな形で展開されていきます。

僕がNCに来るようになったのも、この仏縁によるものです。広島での教育行政を十年で退職し、企画会社を起こして運営していたら、現在の鈴木専務(広島に経済セミナーの講師として来ていた)と出会い、その後、東京での鈴木さんの経営セミナーの講師に呼ばれた時にNC現会長の山田さんと出会い、山田さんからの依頼で「新年御礼会」の記念講演講師に呼ばれ・・・というように、すべてが縁によって運ばれていきます。ただこの背後には大きな「いのち」の、仏様の「はからい」があるように思えてなりません。

人生の成功、不成功も、実はこの縁に関係があります。人間関係はすべて「縁の連鎖」です。さまざまな人とのつながり合いのなかで、事業の成功、不成功、人との調和された人間関係や、不調和な人間関係も生まれてきます。

こうやって皆さんは日々仏様の心に触れることができるというのは、本当に素晴らしい仏縁をいただいているんだと思います。
だって、地球人口65億7614万人。日本人口1億2700万人の中で、どれだけの人が仏法に出遇えるのでしょうか。
お釈迦さんは、ガンジス河の砂の数の中から親指の爪の上に乗るぐらいの砂の数しか仏法には出遇えないと言われてますが、そういうことなんですよ。皆さんは超えるツイてるし、超ラッキーであると同時に、「縁起の法則」を知って、すべては仏様からいただいたご縁として、縁を大切に育んでいってね。
☆人生の成功、不成功は縁に関係があります。仏様に導かれて嬉しい楽しい幸せなご縁を大切に育んでいきましょう。

「お経とは何か」 2007.3.10[Sat]
お経としてお釈迦さんが残された説法を、お経というかたちで、私たちも聞かせてもらうために読むのが「読経(どきょう)」です。
ですから、お経を読む前には、「今から読むのはこういう内容が書いてあるんですよ」と解説しながら僕はお経を読むことにしています。さっぱり意味が分からずに読んでても楽しくないですしね。

そして、法事のはじめには、「今からお勤めするお経は、亡くなった◎◎さんが、縁のあった人たちに聞いてもらいたいと思って、お釈迦様に変わって、お話し下さるお話しだと思って聞きなさいよ」と。「私が読むんだけど、これは私の声でなく、今日は◎◎さんの法事ですから、◎◎さんが生きた者に、おまえもいっぺん聞いておくれと、話して下さっているのだと思って、聞いて下さい」と。そう言って、お経本を配って、見ていてもらうと、多少はみんなでお経を共有することができるのです。

そのお説法は、「対機説法(たいきせっぽう)」といって、お釈迦様が、その時その場に座っている人の顔を見ながら、説いて下さっているのです。相手を無視して、いつでもこれを読んだら間違いないということではないんです。そういうあり方を「対機説法(たいきせっぽう)」と言います、言葉を変えたら「応病与楽(おうびょうよやく)」です。医者が病気に合わせて薬を与えるように、人間の悩みは各人各様ですから、相手の悩みに応じて説いて下さってます。

お経というのはいろんな説き方がしてあります。ちょっと厳しいのもあるし、やさしいのもある。相手のレベルに応じて説いていますから、いろんなお経があるわけです。
ですから、お経というのは、一律こんなもんだと言えません。仏教は昔から「八万四千の法門」といわれ、現在でも「大蔵経(だいぞうきょう)」というのはすごい分量です。

よく皆さんが知られているお経に「般若心経」があります。「色即是空、空即是色」という言葉は有名ですから、聞いたことはあるでしょう。簡単にこのお経の内容を説明すると、「空」とはあの世です。「色」とはこの世です。つまり「この世は仮の世界である。あの世の世界こそが実の世界であり、この世の物は、やがて滅びていく」が「色即是空」です。そして「空即是色」とは、「いのちは、修行という目的を持って、この世に何度も生まれ変わって生活する」ということです。そういうことがこのお経には書かれているわけです。これはこれで「な〜るほど」という点は多いのですが、これを実践するのは非常に難しいので、あまり一般の人にはお勧めはできません。

で、僕が読んでるのが「浄土三部経」です。これは仏様の大きな愛と救いが説いてあるお経です。僕自身も昔は「般若心経」や「八正道や六波羅密多(ろくはらみった)」を実践してやろうと勉強して頑張った時もありましたが、意志の弱い普通の人では日々の実践は無理です。一時は可能でも。

僕みたいな意志の弱い普通の人がこの人生をしっかり生き抜かせてもらうためには、私の「いのち」を支えて下さる大きな愛に支えられて生きるしかないって、そんなことを通して分からせてもらいました。そしていろんなことをやってきてみた結果、結局、人は仏様の大きな愛と智慧をいただいて生きるしかないんだよなあ〜って気づかされていきました。すると心身の力がス〜と抜けていったのです。
その仏様の大きな愛、深い慈悲の心を説いてお経の内容を僕はいつも皆さんに紹介しているのですよ。
☆沢山のお経がありますが、私たち普通の人がお経を読むのなら、仏様の大きな愛の真実が説かれているのが一番気持ち良くて心のドーナッツの真ん中が安心で埋まっていきますから。

「ご先祖さまの思い」 (2007.3.9[Fri])
今年は姉と父と祖母のご法事を勤めさせていただきますが、本当に先祖を大事にしたいと思うなら、姉、父、祖母の「いのち」が残された僕たちにいったい何を願い、何を問いかけているのかを確かめていくことが大切だって凄く感じています。

「忙しい、忙しいと走り回っているだけで、おまえ仏さんから心が離れてるんじゃないか、たまにはゆっくり仏さんの前に座って、仏さんのお顔を拝見して、仏さんの教えを味わってみんさい」と、みんなが言うのではないかと、僕は思います。

だから、法事というのは何かというと、「おねえちゃん、お父ちゃん、おばあちゃんの魂よ、安らかに」ということではなく、亡くなった肉親の縁をいただいて、後の者が、おねえちゃんの気持ちを大切にする。お父ちゃんの気持ちを大切にする。おばあちゃんの気持ちを大切にする。それと共に、ついつい忘れがちな仏様の教えに遇わせてもらう仏事です。(もしお経だけ読んで帰るお坊さんだったら、事前に何か仏様のお話しをして下さいと頼みましょう。)

そして仏様の教えに遇って、一つでも二つでも気づかせてもらったら、「おねえちゃん、お父ちゃん、おばあちゃんのお陰で、こんな大切なことに気づかせてもらった、おねえちゃん、お父ちゃん、おばあちゃんの法事を勤めさせてもらったお陰で」ということになることですね。

だから亡き肉親を慰めたり、魂をどうにかすることではないし、亡き肉親のありし日を偲びながら、後の者がしっかりと仏教に遇うというのが、法事なのです。それが実際は亡くなった人の鎮魂のためであったり、会食の場になってしまっているのは、実に悲しいことですね。

またお墓や、仏壇にお酒のワンカップや水やお茶をお備えしている家もありますが、それはやらない方がいいです。亡き故人は生きてる時は、お酒やお茶や水が好きでも、お浄土へ帰っても、酒好きで酔っ払いの亡き故人では困るのです。それでは浮かばれずに迷っているということですから。真言宗のご家庭にはそういうのが多いですが、事実を言うとそういうことなんです。

ですから、お仏壇にはいつも生花を生け、蝋燭と、お香があれば十分です。それとお掃除はかかさずにね。
敬うということは、こちらの気持ちで勝手に、酒が好きだったから、まんじゅうが好きだったからお供えしようということではありません。

お浄土へ帰った人が一番好きなものは何かというと、「愛楽仏法味(あいぎょうぶっぽうみ)」です。お御法(みのり)が一番好きなのです。僕たちが亡き先人を供養するには、仏法味を愛楽させてもらう、これが一番いいんです。

法事は「勤めてやる」のではなくて、亡き先人のご縁をいただいて、私自身がご縁に遇う場を持たせてもらう場なのです。僕達はしてやったことは覚えてますが、してもらったことを忘れています。法事は、自分自身の生き方を省みることのない私たちが、このままでよいのか、仏法に出遇って生きてる喜びを見出せ、と亡き人に導いてもらうところに意味があるんです。そういうことが、法事の一番大事なことなんですよ。
☆本当に先祖を思うということはどういうことなのかを、もう一度しっかりと考え直してみましょう。

「本当の供養とは」 (2007.3.8[Thu])
本当の供養とは敬いです。敬いを姿、形であらわし、そして集まった人と共に仏法を味わっていくのを供養といいます。だから供養の心は敬いです。供養の目的は生きてる僕たちが亡き故人を縁として、仏法を聞き、「いのち」が育まれていくことです。
だから「敬い」と「いのちが育まれる」ということが抜けたら、供養ではありません。

死んだ人の霊を慰めてやろう、先祖のために勤めてやろうと思っている人の心には敬いってないですね。人によっては、近所の手前、親戚の手前、義理で勤めている人もいます。法事をきちっと勤めておかないと、我が身に災いがくるから勤めたというのでは、敬いでも、相手を大切にすることでも、いのちが育まれる事でも何でもありませんね。
相手を大切にしようと思ったら、まず何よりも相手の心をしっかり聞かないといけません。相手を無視して、相手を大事にするようなことなど決してないんですから。

僕の母は八十二歳になります。最近はめっきり老けて、あまり外に出なくなりました。いつも帰ると、テレビの前で椅子に座ってテレビばかり見ている。「おかあちゃん、今日は天気がいいからテレビ消して外に出たら」と言っても、「まあ、あとでね・・・」と言ってはテレビを見ている。
なんとかかんとか言って外に連れ出そうとしても、一向に出る雰囲気がない。つい最近までは、「三越に行きたい。そごうに行きたい」なんて言ってましたが、まったく言わなくなった。

ただ不思議なことに僕がお寺でお説教をする時は必ずテレビを消して本堂の最前列の定位置にちょこんと座っては聴聞(ちょうもん)しています。
時折法話の中で冗談を言うと「フフフフ・・」と笑っています。
母は物凄く正直な人間ですから物事をはっきり言う人なのです。副住職である淳一が「今日の住職のお話しはどうじゃった?」と必ず聞くのだそうですが、母は間髪入れずに「よかったよ」と答えてくれるそうです。まだ母に僕は「・・・・」と間を空かせたことはありません(聞くときはちょっと緊張します)。

ただ他のお坊さんが講師の時はス〜と本堂を抜け出して自宅のテレビの前に戻っています。「おばあちゃんどうだった」と淳一が聞くと「・・・・まあね」と言うだけ。こういう時は「つまらん」ということなんです。
母は物凄く感性が豊かで、自分で何か感じる事じゃないと動こうとしないし、「いい」とも思わない。まさしく歳を取れば取るほどごまかしがなくなってきました。だから母の「よかったよ」という言葉は、法話をする者にとっては「仏さんの心を感じたよ。仏さんの心が伝わってきたよ」という最高の賛美なのです。

これはお寺で育った母にとっては、当然のことであったのかも知れませんが、母が求めているものはもはや世間の楽しみではありません。三越も、西条プラザも、そごうも、美味しい物を食べることも、そんなことはもうどうでもいいのです。それより、お経に遇いたい。お法(みのり)に遇いたいと母の「いのち」が求めている、願っているわけです。最近の母の行動を見ていると本当にそう思います。
本当の供養とは「母の“いのち”の願いを聞く」ことです。母の「いのち」の願いとは、お経に遇うこと。お法(みのり)に遇うことです。自宅でも日々家族全員で朝六時半になったら正信偈をお参りし、一言づつのご法話を味わっていく、そういうことを母は求めている。それが母に対する供養ですね。
☆本当の供養の心は敬い。供養の目的は人の「いのち」が仏法によって育まれていくことです。

「本当の先祖供養」 (2007.3.7[Wed])
僕は多くの人たちの先祖供養に対する思いを聞いて愕然とすることがあります。それは、だれのために先祖供養しているかというと、自分たちが幸せになるためです。故人には、安らかに休んでもらわないと、生きているものが安心できない。故人の霊が起きてゴソゴソすると、生きてる僕たちへ災いをもたらすことになるからです。
だからお経を読んで、「安らかにお休み」と、慰霊・鎮魂ということをやるわけです。慰霊・鎮魂のために、お経が利用されてるのです。お坊さんたちもそれを当たり前のようにやってます。先祖供養ってほとんどがこんな具合です。
お経がこんなふうに使われてるって知ったら、お釈迦さんは愕然とするでしょうね。「そんなことに使うために私はお経を説いたんじゃないよ!」って。

先祖が、子孫を苦しめたり、祟ったりすることってあると思いますか。そんなことをする先祖がいると思いますか。どれほどつまらない息子であって、一生懸命災いをもたらす先祖なんていません。もし迷っていたとしても、それはあなたたちの「感謝の生き方」を見て自己反省して浮かばれていくことであって、決して坊さんがお経をあげたからって、護摩を炊いたからって、どうなるもんじゃあありません。あなたがお経を聞いてもチンプンカンプンと同じように先祖もさっぱり意味なんて分からないでしょう。またいろんな宗派の修行したお坊さんと知り合いですが、彼ら自身が「私たちに霊を救える法力なんてない」って言ってましたが、そういうことなんでしょう。

先祖を大事にするということは、先祖供養をするということではないんです。やっている人たちは気づいてないけど、今行われている先祖供養というのは、決して先祖を大事している行為じゃない。先祖を魔物にして、お経を読んでもらったら、これで先祖も安らかになるから、そういう人が多いのです。

墓相というのもありますが、あれもそうですね。僕はインドで薪で焼かれてガンジス川に流されていく死体を何体も見ましたが、インドにはお墓はありませんよ。じゃあ、あの故人の「いのち」はみんな迷っているんでしょうか?
 墓もそうです。あの墓石というのは、「死んだら出てくるな」と大きな意志で押さえ付けたのが起源なんですよ。亡くなった人が動き出すと、私の人生に災いをもたらすからってね。だからと言って墓を粗末に扱うことではありません。ただ墓にこだわるなってことです。何らかの都合でお墓が持てない人のために、うちのお寺では立派な納骨堂を解放してますので、お墓がない人は言ってくれたらいい。

僕が今の先祖供養や法事はおかしいと思うのは、現実の人生の苦難を自身の生きる問題集とせず、その苦難の原因を外に求め、先祖のせいにしてしまうからです。拝屋さんに見てもらって、先祖供養や墓に取り組む。そういうものの見方・考え方・生き方が物凄く自己中心的なんだって気づかないといけないんです。亡き人の「いのち」と人生から、残された私たちの生き方が問われているのにね。
こうした先祖供養やお墓建立は、先祖を決して大事にすることじゃあないんです。それをお釈迦さんは外道として物凄く嫌われたんです。先祖供養とは、故人の心を素直に聞くということなんです。こちらの思いだけで相手に何をしても、それは相手を粗末にしてるんです。
「おじいちゃんがいたら、私のやってることを眺めて、おまえ何してるんだ、と怒るだろうな」と、おじいちゃんを思い出しながら、「自分の人生、もう少ししっかりせんといかんな」と味わうことが、亡くなった人を大事にすることなんですよ。

☆先祖「供養」の供養という字は「人」と「共」に「養われる」と書きます。亡き故人を通して、そこに集まった人たちが先祖や仏様のお心(生かされて生きてることに気づけよ)に出遇っていくことです。

「お釈迦さんの求められたもの」 (2007.3.6[Tue])
NCは仏教経営の会社です。仏教経営とは、一言で言えば「自利(自分のいのちが輝き)利他(他のいのちも輝く)円満(大調和)」の道を気持ち良く歩む経営の会社ということです。つまり物にしても人にしても商品にしても、すべての“いのち”が仏様の光に遇って活かされ、生き切っていくということですね。

ただ仏教と言えば「葬式仏教」という言葉で批判されているように、死んだ人に向かって、慰霊(いれい)・鎮魂のお経を読むのがお坊さんであり、生きている時はあんまり用のないのが仏教である、というのがどうも一般的理解のようですから、仏教経営と言っても「ハア?先祖供養しながら、お祈りしながら、商売繁盛させようと思ってるの?」ぐらいに思われてしまう。「フ〜ウ、あんた何言ってるの・・?」と僕は思ってしまうのですが、それが実態なんでしょう。

そこでもう一度原点に戻って、お釈迦さんが解かれた仏教とは何か、ということからお話ししてみようと思います。

まず、先祖を先祖供養のためと思っている人が多いと思いますが、「ブッブ〜」です。それは多くの人たちにとって仏教にふれる機会が、お葬式とかご法事の時だけになってるからです。

現在僕はお寺の住職や保育園の園長でありながらNCの代表を任されています。よく「お寺や保育園はどうしてらっしゃるんですか?」という質問をされることがありますが、おかげさまでスタッフに恵まれてますので、お寺の方は副住職で甥の淳一(すなおのイラストを書いている)や法務員の長谷川くんが葬儀や法事や月命日参りの法務や寺報で門信徒の「いのち」を育み、総代さんたちがお寺に集まってはしっかりお寺を護寺(ごじ)してくれてます。
 保育園は上さんが副園長を勤め職員十五名で仏教保育に専念してくれ、子どもの“いのち”を育んでくれています。だから僕は安心してNCで水洗いを通して多くの「いのち」を育むことに専念できるのです。

仏教は、私の「いのち」とは本当はどういうものであるのか、またその「いのち」をどう生きるのが本当なのかを教えてくれる教えです。ただ一般の人は、仏教というのは、葬式がないと用がない、法事がないと用がない、というのが実際です。それは、そういう場面にしか顔を出さない僧侶のあり方が、仏教をまったく誤解させてしまったからでしょうね。
まず、先祖供養を考えてみましょう。例えば、多くの人の先祖供養の根底にあるものは「恐れ」「不安」です。生きている人にいろんな問題が起こる、次々に苦しみやトラブル、おかしな事が起こって来る。災いから自分たちを守り、自分の安泰のためには慰霊のために「死んだ人にお経」をお坊さんに依頼して、先祖の供養をしてもらってるわけです。なんというか、僕は言葉が出てきません。

よくよく考えて下さい。これでは亡き人は魔物と同じ扱いであるということを。生きた身内に災いをもたらすものとして、亡くなった人を見てるってことに気づいて下さい。先祖供養の根底にあるものは「恐れ」。水子もそうです。だから法事を勤めたら、「これでほっとしました」と言う。はっきり言っときます。本当の供養とは、亡き人を「敬う」ということ。先祖を「敬う」とは、素直に先祖のことを思い出しながら故人の願いを聞いて素直に我が「いのち」を振り返り、襟元を正すということです。

☆仏教本来の供養には、鎮魂や慰霊という意味はまったくありません。故人が私たちに対する願いを聞きながら素直に我が「いのち」の生き方を振り返るのが法事という場です。

「投げかけたものは絶対に返ってくる」 (2007.3.5[Mon])
相手を変えようとか、自分の目の前の現象を変えようと思っているうちは、問題は解決しませんよ。宇宙にはもともと困ったことも、問題も一切ないからです。困ったことも、問題も無いのに「私が」問題だ問題だと言ってるだけなんですよ、と。

こう言うと、「そんなに肯定的な考え方ばかり人間ですからできん」と怒り出す人さえいます。それはもはや相談じゃなくて、からんでいるだけ。そういう人にはニコッと笑って「すきなだけ好きな生き方をして下さい。それが気持ちいいんだったら」って言います。

宇宙には絶対的な法則があります。

投げかけたものは必ず倍返しで返ってくるという法則です。愚痴を言ったり泣き言を言って宇宙に不平不満を投げかけていることが、結局自分にとっては物凄く損なんです。投げかけたものは倍返しで返ってくるわけですから、絶対に気持ちいいことなんかが起こってくるはずなんてありません。今まで以上に嫌な事が起こってくるだけです。

このシンプルな法則を知って生きるのと、全く知らないで生きるのでは雲泥の差があります。

好ましいものに囲まれていない、という人は、自分が投げかけたものが好ましいものじゃなかったということです。いい思いをしたい、無理にでもお金儲けをしたい、ということばかり考えている人は、何も投げかけていません。むしろ自我という名のエネルギーを投げかけています。だからエゴのかたまりに囲まれていく。

喜ばれるように生きていくと、喜びに囲まれるようになる。実に簡単な構造です。

自分の人生が楽しいほうへ展開していかない、という人は、楽しいものを投げかけていないかなんです。だから義務的にやってるイヤイヤな仕事は駄目。イヤイヤしか返ってきません。楽しくやってる仕事は、初めは収入が少なくても、そのうち楽しくて楽しくてしょうがないような状況に囲まれるようになります。好きでやってるのだったら寝食を忘れてやっていられるのだから、膨大に投げかけることができる。そして将来、膨大になって返ってきます。

夫が気に入らない、妻が気に入らないと悪口を言ってるほうが問題なんです。そういう悪口を言う暇があったら、どっちかに決めた方がいい。別れるなら別れる、別れないなら別れない。別れないなら、まず愚痴や泣き言や、悪口や過去の嫌なことを言わない。それができないのならきっぱり別れる、そうじゃないといつまでも地獄が続きますから。

☆とにかく良い悪いは関係なく投げたものが倍返しで返ってくるということを忘れずに。

「思いが軽いと、思いどおりになる」 2007.3.4[Sun]

僕の人生は常に100l思いどおりになっています。
「えっ!?また何言ってるの。今までと言ってることが違うじゃあないですか」と言われるかもしれませんが、それはこういうことです。

「思いがないので、思い通りになっていく」んです。何かを絶対になんとかしようと思っていないで、目の前に生じることが全部思い通りだ、と思えば良いだけ。すると、思い通りってことになるでしょ。

人生は、「後出しジャンケン」なんです。勝つことよりも負けることを自分で選べる。何か起こったことに対して、「おっと、そうきましたか」と追認すればいい。事前に思いがあるから、思いどおりにならないという結論になってしまうのです。もともと強い思いを持たないで、目の前の現象をそのつど、思い通りだと認めたらいい。

従って、「おもい」がないと「軽い」。軽い人生。それが楽な人生、というわけで、とても気持ち良く生きていけるのです。

こんな話をすると、うちのスタッフなんて当初は「?????」って顔をしてました。ところが、「代表、この前言った通りになっていますよね」とか「本当にこうなっちゃいましたよねえ〜」ということを間近で何百回も体験していけば、今では、「なるようになりますよね〜」と何でも軽くとらえられるようになってしまいました。

「人生は自分の思い通りになる」と思っている人ほど、あちこちの罠にひっかかります。「自分の思い通りになる」と思っている人が多いのは、教育すべてが、「自分の思いどおりにしよう」という教え方をしているからでしょう。「問題点を書き出しなさい。自分の気に入らないものを見つけだして、自分の気に入るようにしなさい、無いものを手に入れなさい」というシステムを教え込んでいます。

人間関係の中で、相手が自分の価値観では認められないことをしたとしても、この人をどうにかしようと思うのではなく、ただ「まあそういう人なんだよな」と受け容れると楽です。この人をどうにかしようと思うから苦しいのであり、人は思い通りにはならないのです。その都度、「まあ、そういう人なんだから」って思いながら付き合えば楽です。

結局、自分の思いをふりまいて、相手を変えようとしたり、売上を上げようとしているうちは何も変わりません。

世の中には嫌な人もいっぱいいますよ。だけど、その人たちを変えようとする労力を使うぐらいなら、自分が「まっいいか、そういう人もいるよな」って軽くなってそういう人を気楽に受け容れればいい。また仕事にしても、必死に頑張るんじゃなくて、ワクワクで、これからどうなっていくんだろうって、楽しんで面白がればいい。その事が周りの人たちから喜ばれることで、気持ち良いことなら時期が来ると必ずラッキーは向こうからやってきます。
☆本当に喜ばれる存在になったら、強い思いを持たなくて、投げかけた喜びが必ず返ってきます。

「思いどおりにされる人生」 2007.3.3[Sat]
お釈迦さんは「世の中は思いどおりにならいことに満ちている。だから人生は苦である」と言われ、「苦の正体は思い通りにしようとすることだから、その執着を持たなければ人はすべての苦から解放されると」と煩悩から自由になっていかれました。

人生に「悩み」「苦しみ」を感じているのならば、「その思い」を捨てればいい。「思うことを」「ヤ〜メタ」とやめればいいのです。

生まれることも、老いることも、病むことも、死ぬことも、自分の思い通りになるのではない。愛している人と別れること、嫌いな人と顔を合わすこと、求められるものが得れないこと、寒い、暑い、という感覚も自分の意志で思い通りにコントロールできない。
すべてのことは思い通りにならないということがわかって、思いどおりにならなくたっていい、思い通りにしようとすることが、そもそも自己中なんだって気づいた瞬間から、はっきり楽になります。
じゃあ、あんたは思いを持たないのか?と聞かれたら・・・、持ちますよ。

じゃあ、おかしいじゃないですかってことになる。思いは持つけど、その思いを「どうしても」って執着しないのです。そうすると不思議と周りから与えられていく。
例えば、仕事の流れだってそうです。今回は「こうした方がいい」と思い込むのではなくて、流れを見ていてス〜と流れていけば「流れていく」ということですし、スムーズに進まなかったら「時期が違うんだな」とやめます。「こうした方がいい」ということに執着しないのです。

で、その時の判断基準は「気持ちいいか気持ち悪いか」と「人に喜ばれることを選ぶ」です。常にそれを判断基準にしておくと、時期が来るとス〜と物事が展開されていきます。

あなたたちはこんなことを言うと驚くかもしれませんが、今まで一度なりとも、お金があるので新しい機械を入れよう。工場の増改築をしよう。事務所を移転させよう。出店しよう。なんてことは一度もありません。

必ず向こうや、周りから、「これってお願いできないですかねえ」とか「そろそろこういうのがいるんじゃないですか」と頼まれ事が来ます。今まで一度も「それは絶対そうならなければいけない」と思ったのではなくて、頼まれて、「ああそうなんだ」と「じゃあそういうことが必要なんだったら、お金は入ってくるだろう」「どんな状態で入ってくるんだろう」とワクワクして待っていたら、「な〜るほど、こういうことでお金が入ってくるのか」と思うことばかりが起こってきます。

とにかく気持ち良い頼まれごと、みんながよくなり楽しくなる頼まれ事であれば、それを断らないでやっていくと、いつのまにか頼まれた事が現実になっていく。そんな繰り返しなんだよね、本部の皆さん。

☆人間の生きる目的とは、頑張ったり、思い通りにしようとしたり、何かを成し遂げるということではなく、「いかに喜ばれる存在になるか」だって思えるようになってきます。

「幸せという現象は存在するのか」 (2007.3.2[Fri])
あなたに聞きたいのですが、僕が「今、目の前に、誰か僕に『幸せ』という名の現象なり、事物なりを持って来て下さい」と言ったりします。

「はい、これがそうですよ」と言って、僕の目の前にそれを持って来られる人っています?もしそういう人がいても、ひょっしたら「それってパス」とそれを拒否するかもしれない。

実は「幸せ」という名の現象は、過去にも存在したことがないのです。「幸せ」という名の絶対的な現象、絶対的な名称、絶対的な価値を持つ「幸せ」というものはないんです。

ただ絶対的な「幸せ」がないといいながら実は存在する時があります。それは「私が」「幸せだ」と思った瞬間に、その思ったことが「幸せなこと」になるのです。

個人がこれを「幸せだ」と思ったとき、そういうふうに決めたときに、それがその人にとっての「幸せ」になります。

「幸せ」はつかむものでなく、「幸せ」になるものではない。「幸せ」とは、ただひとえに「感じる」ものなんです。「幸せ」は感じた人にのみ、そこに存在する。感じた人のみ「幸せ」が生まれる、という構造になってるんです。

ドイツの詩人のカール・ブッセの詩です。

山のあなたの空遠く、「幸(さいわい)」住むと人のいう。
噫(ああ)、われひとと尋(と)めゆきて、涙さしぐみ、かえりきぬ。
山のあなたになお遠く、「幸(さいわい)」住むと人のいう

山のあなたに「幸せ」が住むというので、友人と訪ねてみた。ところが、山のあなたに「幸せ」などというものは存在せず、涙を流しながら、帰ってきた、ということです。

この詩をよくよく考えてみれば、そりゃあそうでしょう、と言うしかないですよね。

つまり「幸せ」というものは、存在してないってことなんです。ただ、あなたが「幸せ」を感じた時に「幸せ」だと思い、その思ったときに、間違いなくその人にとって「幸せ」は存在するんです。

その人のみに「幸せ」は存在するものであり、「幸せ」は求めて行くものではない、手に入れるものでもない。そして「幸せ」になるという、そういう状況も、まったく存在していない。
もし、ここのところが分かれば、人生は物凄く楽になります。

☆「幸せ」というものは、個人に、ただ一人それを感じる人にのみあるものなんです。

「本当のプラス発想とは」 (2007.3.1[Thu])
よく「プラス発想をしようと思うんですが、うまくプラスにいかないんです。」
と、相談を受けます。

単純に言えば「プラス発想」というのは、マイナスのことがあっても、プラスに考えたらいい、という考えかたです。

僕も若かりし時、「ポールジェイ・マイヤー」や「ナポレオン・ヒル」という人の成功哲学テープを専念して聞きました。「夢は必ず実現できる。私には無限の可能性がある」というやつです。その方向性自体はまったくその通りだし、そのテープを聞くことによって、目標設定に向かって行動もでき、結果も手に入れました。

ただ、潜在意識の現状維持メカニズムが強くて自己評価の低い人(自己評価とは、私は存在価値がある人間なんだ。生きている存在意義があるんだという自己肯定感。安心感覚のこと)には、「マイナスのこともプラスに置き換えて考えればいい」というのは少し無理があります。

それより、お釈迦さんは「現象にプラスもマイナスもない。もともと現象はゼロで、ただ淡々と起きているだけである。その起きていることをマイナスやプラスと捉えたり、考えたりするのはその人の発想なのである」と言われたのです。

そりゃあ、その通りで、「これは不幸、これは幸福、これは悪いことで、これは良いこと」という発想をそれぞれが勝手に追いかけてますよね、よくよく観察すれば。基本的には、世の中には「不幸」という現象はなく、ただ自分がそう思っているだけだ、そう感じているだけだ、人によって全部とらえ方が違う、とお釈迦さんは言われたのです。

ということは、結局は自分がそのように決めている、ということなのです。

マイナス現象が存在するというのではなくて、現象はすべて因縁によって起こっており、そのすべてはゼロである、と。
ですから、仏教的にとらえていくと、どのような悲劇的なことも、不幸的なことも、「あなたのとらえ方次第」ということになります。

お釈迦さんの伝えてくれるプラス発想とは、マイナスや不幸や悲劇が存在するのをプラスにとり直しなさいというのではなく、「もともと現象は全部ゼロですよ。そのゼロを否定的にとらえたがゆえにマイナス的現象になっているだけで、もともとゼロなのだから、それをプラスに直してみたら面白いのではないか」ということを言ってるのです。

「自由」とは「自らに由る」と書いてありますが、実は、起きてくる現象を「不幸だ、悲劇だ」ととらえるのも自由である反面、一つ一つの起きていることを、「ありがたい」って感謝の気持ちでとらえることも自由です。
☆マイナス現象が宇宙にあるのではなく、マイナス現象は常にそう決めた自分の心の中にあるんです。

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