2007年04月の日記

「良心をごまかさず、仏の願いを聞いて正直に生きる」 (2007.4.30[Mon])
NCの朝は早いのです。おおよその人は朝6時30分までには本部のミィーテングルームに集まり、朝の仏参(ぶっさん)をします。そこに参加するスタッフの宗派は、真言宗、浄土真宗、日蓮宗、神道、曹洞宗といろいろですが、みんな中央に荘厳されている阿弥陀さんに心静かに手を合わせ、一応僕が浄土真宗の住職なので、それに合わせて仏さんを尊ぶ浄土真宗のお経を読みます。

その後「今日の法話」を僕がお話しして、それぞれがその内容に対して感じてる事を伝え合います。およそ早朝の30分はこんな仏事を繰り返しながら、日々自身の内観と感性を深めていってるわけです。こういった習慣が僕が広島から千葉に単身赴任してからというもの、みんなの間で、自然に広まり身についていきました。
今日の僕のお話しは、「良心をごまかず、仏の願いを聞いて正直に生きる」でした。昨日の某関西テレビの「水洗いを検証する」について、仏さんの目線から見たら一体どうだったのかをお話ししました。

「昔から“悪事千里を走る”と言うけど、ウソは雪だるまみたいに大きくなるもんや。小さなウソをつくと、その小さなウソを隠すために大きなウソをつく。そのウソがばれないように、またウソをつく。そうしてウソが膨れ上がっていくもんやね。
雪だるまのようにウソで固めた幸せなんて、いずれは脆くも崩れていく、必ずね。そして崩れたときに、自分への信頼も失われていることに気づき、人は苦しみ堕ちていく。だから正直が一番なんよ。
ただ、こういうことを話してる僕や、ここの会社が“水洗い”と言いながら“水洗いだとウソをつき、ドライクリーニングをやっている”と言われてるわけやね。なんのこっちゃ、わけのわからん話やけど、ウソはバレて信頼を失い、本当のことは黙っておいても必ず伝わっていく。まあ、そういうことを今回の一件を通して仏さんは教えてくれようとされてるんやと思うよ。ウソは言葉多く、真実は言葉少なしやな。弁解したり、ああだのこうだの反論したりするより、ほっといたら、ええってこと。」

実は、朝の仏参の前に、プレスの及川が、「代表、これ見て下さい。やっぱり昨日のテレビ局と京都の◎◎◎◎は組んでるみたいですよ。ここにうちの出したスーツが出てるでしょ。ほら、トイレットペーパーが破れてないので、水洗いしてないって、またうちのことをバッシングしてますよ。こんなことして一体何になるんでしょうかねえ〜。お客さんをなめてるとしか僕は思えません。どんなに鈍感な人だって人間だったら五感で感じますよ、このスーツはドライか水洗いかって。常識的に考えても、うちがウソつきながら9年も“水洗い”って看板出しておきながら、ウソをついて実はドライで洗ってたなんて出来ると思ってるんですかねえ〜、この人。そんなにお客さんも、世の中も、特に仏さんは甘くはないですよ。ここに研修に来たショップのスタッフたちの感想文はぜ〜んぶうちのやらせってこと・・?とにかくこの人がうちをバッシングする意味が本当に分からない。ウソだと思うのなら、何度でも何度でもトイレットペーパーやテッシュ入れて送ってくればいいんですよ。その分、うちは儲かるし、うちはいつも変わらず水洗いするだけなんですから。ただ、ハッキリ言って呆れますよねえ〜・・・」と興奮して、京都の◎◎◎◎さんのホームページからプリントアウトしたページを持ってきました。

見た瞬間、胸が痛かったですね。昨日うちの水洗いの原理は簡単にお話ししたので、もう何も話す気はないというか、こんな一件に関する内容のお話は、次元が低すぎてもうええやん、って感じです。学ぶことはしっかり学べたし、感謝することは感謝しましたし、それより、僕たちは次に向かってやることが山ほどあるからです。こんなアホみたいなことに関わってる暇はありません。
それより僕はいつも遊び感覚、ゲーム感覚なので、今回の一件をネタに、工場見学に新作メニューとして入れることにしました。実際に参加者の内ポケットにトイレットペーパーを入れて水洗いを体験してもらう。「トレットペーパーがまったく溶けない、驚異の魔法の水洗いを目の前で実体験!」。これでいきましょう。オオッ!そういえば、大手デパートの大規模な一日特設水洗いデモンストレーションが二つ控えてますが、これをやっちゃいましょう。これはお客さんに超ウケるかも・・・。正しいか正しくないかではなく、楽しいか楽しくないか、これが仏さんの願いを生きるですから。

☆フ〜ウ、何度やっても同じなのですが、今日もだめ押しで僕の麻のジャケットにやはり昨日と同じ「トイレットペーパー15センチ」を裏ポケットに入れて水洗いしました。それがこれです。何度やっても結果は同じです。水洗いでも、そのまんまです。とにかくうちは“水”が凄いのです。

「おかげさまやね」 2007.4.29[Sun]
人間一人の力なんて、たかが知れてると思いません?
今、うまくいっているとしても、自分一人の力だけでできたのじゃない。思い上がりは絶対禁物。
これまで陰ながら支え、応援し、援助してくれた人たち。そういう人たちがなければ、今の自分もないし、うちの会社もあり得ない。

ただ、そういう人たちの存在も力も思いも、ふつうは陰に隠れて見えないもんでね。忘れがちになってしまう。そうじゃない。縁の下の力持ちが一杯いてくれるんだって、決して忘れてはならないんです。
この4月中には、念願であった水循環リサイクルシステムが君津工房に設置されるのですが、これに関しても多くの人たちの陰の力があります。決してお金を出せばいいってものじゃない。存在、力、思いがなければ素敵な物語りなんて生まれるものじゃないです。

この水循環リサイクルシステムの話があったのが昨年の3月です。お金を出せば取り付けられたかもしれないけど、時期があるんです。こういうものがつくってことは・・・。それからおおよそ1年経過して今工事に入ってる。

昨日は鷺屋さんたちが夜遅くまで工事してくれてる姿を横目で見ながら、決して目立たない人だけど、心から「いつも、よくやってくれるよなあ〜」と感謝しました。できるもんじゃないです、いくら仕事とは言えども魂が入ってもの、あの人の仕事には。

また急遽、僕たちの志に共感し、原価でリサイクルの各分野のパーツを引き受けてくれた名古屋の中村さんや岐阜の山田さん。本当にこういった人の影の力が大きいですよね。決して前には出てこないけどね。

だから「おかげさま」なんです。

陰ながら支えてくれた、くれている人たちを思い出し「おかげさま」って感謝すること。

この「おかげさま」の心を決して人は忘れてはいけません。この「おかげさま」を忘れた時、人は人の道じゃなく、自己中心的な獣の道を歩んでしまってるわけですから。

何かいいことがあった日には、「おかげさまで、ありがとう」です。

何もいいことがなかった平凡な日にも、「おかげさまで、今日も無事に過ごさせていただきました」です。そういう感謝の心のあるところには、必ず幸せが向こうからやってくる。
そういうもんですね。

そうじゃなく、いいだ、悪いだって、正しさを主張していると、闘争と破壊の地獄の世界を生きることになってしまって、向こうからトラブルや地獄みたいなことがやってきます。だから自分の正しさを人に押しつけたり、その正しさに執着しないことです。ろくでもないことになっていきますから。

だからいつも「おかげさま」なんです。まさに、「感謝に勝る能力なし」ってそういうことなんです。

☆良い日も、悪い日も「おかげさま」で生きると幸せが向こうからやってくるよ。
今日30日は、鈴木専務の誕生日です。土曜日にバースデーケーキでささやかなお祝いをしました。 56歳ですよねえ〜、今日で。それにしても、僕たちはいつまでたっても中年の青春グラフティをやっ てるようなもので、肉体年齢は重ねていきますが、いつも心は青春そのものですものね。ただ、みつ おちゃんは、緑茶を飲んで血圧だけは気をつけてね。

「嫌な人にも感謝する」 2007.4.28[Sat]
自分によくしてくれる人には、感謝しますよね。
感謝は、人の心にプラスに作用します。だったら、嫌な人にも感謝すればいいのです。あなたの回りに、厳しいこと、嫌なことばかりを言う人って必ずいるはずです。

そういう人には、できるだけ近づかないようにするのも、一つの対処法です。でも、その人がどうしても付き合っていかなければならない人もいるものです。

実は昨日、某関西のテレビ局のディレクター・・?から電話がありました。

 「あのですね、関西のチャウチャウというテレビ番組の中で、ドライクリーニングと水洗いクリーニングの違いで、“水洗いを検証する”というコーナーがありまして、水洗い専門の御社に実は黙ってスーツの裏地の中にトイレットペーパーを15aほど切って入れ込んで送っておいたのですが、帰ってきたスーツの裏からは、何も変わらないトイレットペーパーが出てきました。水洗いなら本来、トイレットペーパーはバラバラになってしまうはずなのに、どうにもなっていませんでした。専門家に相談しましたところ、水洗いでは洗ってないという結果でしたので、御社の見解を聞かせていただこうと思いお電話させていただいております」

結局この人はしょっぱなから「水洗いしてないのにウソついて水洗いって看板出してはおかしいんじゃないの」という、ある意味、疑いとご意見と改めて検証して確認のつもりで電話しているわけです。
それにしても失礼な話だよね。ここに取材に来て直接見て言うのなら分かるけど。まあ、世の中にはいろんな人がいますから、こんなことをあえて言ってくる人もいるのでしょう。ただ、毎日毎日水洗いで君津・木更津両工場合わせて1000点は水洗いしているという当然の事実があるし、それも9年も前からですよ。それも日々40万円以上の繊細なスーツを君津では150点は洗って仕上げてるわけですから、「はあ〜〜〜?何をいまさら・・」と、ただただ呆れていました。

ただしっかり本当のことは伝えないといけないので、はっきり、きっちりと自信を持って伝えましたよ。他社との水洗いの圧倒的な違いの内容を。またここの水洗いがどれほどブランドやアパレルから信頼を得てるか。月に一度はアパレルスタッフが研修に来て、水洗いを自身が目の当たりに体験してるとかね。とにかくうちの水洗いの水は水道水を使ってやってるようなものじゃなくて、地下500メートルから汲み上げた自然水を、最先端テクノロージーや特殊セラミックを通して洗浄に一番適している「特殊水」に生まれ変わってるんだって。その「特殊水」そのものが「いのち」なんだって。そのための研究開発費に今まで、あなたあ〜、この特殊水を開発するために何億使ってきたと思ってるのって。

最後は、「ふ〜ん、どうやら本当みたいですね。分かりました。ありがとうございました。」でガチャン。消費者センターじゃああるまいし、それにしてもこんなことをマスコミが調査するってどういうことなんでしょうかねえ〜。どうもウサン臭い節もありましたが、ただね、このご意見のお陰で僕は早々自分のジャケットの裏ポケットに、マスコミが言った同じく15センチのトイレットペーパーを入れこみ、洗い場のさっちゃんには内緒で「水洗い」してもらいました。

すると、「お〜い、みんな来てくれえ〜。これみてみい、水洗いしてもトイレットペーパーはなんともなっとらん」みんな「なんのこっちゃ?」ってポカ〜ンとしてましたが、そりゃあそうです。ジャケットは丁寧に畳んで網ネットに入れての揺りカゴソフト洗いだし、脱水だって型くずれを起こさないように遠心力を利用した強力脱水だし、その後は、立体乾燥ボックス、人体プレスとシルエットは何ら変形しない、いや、変形させないわけで・・・。

で、思いました。「他社の水洗いに出したらみんなトイレットペーパーがバラバラになって帰ってきました。だから他社は水洗いしていることが分かりました」と言ってたあの人。はあ?そんなバラバラになるぐらい洗濯機で回してたら、芯地はグシャグシャになって、シルエットもボロボロで、プレス不能まで形は崩れてるでしょうに。そういった乱暴な洗い方が水洗いって考えてるし、ペーパーがグシャグシャに破れるということは、スーツはグシャグシャに洗われてるってことなのにね。

 そういやあ、以前にも京都の◎◎◎◎さんとかが、同じようなパターンで検証して、「あそこは水洗いの名を語る悪徳商法だ!」って、本でバンバンうちのことを叩いてるって誰かに聞いたことがあります。が、その前の取材テレビを見たら人のいい前社長(現会長が)「うちの水洗いは何でも洗えちゃいます」なんてペロッて喋ったもんだから、それに噛み付いてもきたんでしょう。油汚れがひどくて水で洗えないものも実際はあるわけですから、言葉が勝手に歩きだすとああなってしまうって典型的な例ですね。それにしても、ああいった批評批判のお陰で、うちも随分鍛えられたし実力もつけてこれました。
またそういう人たちのお蔭で、見ても体験もしていないことを語る怖さにも気づかされました。それと自分の正しさを主張して、相手を叩くというやり方も。それがもし本当であっても楽しくないです、何ら。だから、嫌な人は本当にいろいろな大切なことを僕たちに教えてくれているわけです。そこに気づけば、嫌な人にも感謝できます。今回のトイレットペーパー事件で、益々うちの水洗いは凄いと自信を持てました。今回のディレクターに感謝。
☆嫌な人から学び、嫌な人にも「ありがとう」と感謝する。

「今、この瞬間に何ができるか?」 (2007.4.27[Fri])
風邪を引いたのはおおよそ3年ぶりでしょうか。

 人が風邪でバタバタ倒れても、僕だけは「俺って元気だなあ〜」ってピンピンしていましたが、やはり人の子ですね。精神的な疲れなのか・・、肉体的な疲れなのか・・、まあどっちでもいいですが、僕の潜在意識が「おまえ頑張り過ぎだからちょっと安みんさい」ということだったのでしょう。とにかく病院へ行くのが嫌いなので、葛根湯づけです。
広島の保育園の方でも、嘔吐下痢が流行ってるみたいだから気をつけないとね。職員の皆さんにはご心配をおかけしましたが、まだ少しフラフラしながらも、ボチボチと無理せずやってます。

それにしても、布団の上で横になっているといろんなことを考えるものです。

あしたは、どうなっているか?
来年、どうなっているか?
5年後、10年後にどうなっているのか?

そして誰にでも訪れる死の瞬間、涙が出るほど嬉しい、幸せな、愛に満たされた自分でいられるかどうか?
ああ、もう一度、こんな人生を生きたいと感謝できるかどうか・・?

そんなことを考えてましたね。

ただね、その答えは、過去の中には見つからない。未来の中にも見つからない。「今、この瞬間」の中にある、風邪でもうろうとしながらもそんなことを考えていました。

風邪の中でも「今僕は何ができるのか?」を考えていたら、それは部屋の中に置いてある観葉植物に水をやることでした。そして観葉植物に水をやりながら思いました。元気な時はそんなことなんて思ったこともなかった。いつも、やまっちがやっていたよなって。

すべて起こってくることに無駄なことなんて一つもありません。必ず気づきと目覚めの意味があります。僕は今回の風邪で、今まで見えていなかったものが見えてきました。それは植物であったり、部屋の隅のクモの巣であったり、見慣れているはずの外の風景であったり。

風邪は僕の心と身体に大きな深呼吸を与えてくれたのです。ですから、風邪は引くべくして引いた。そのお陰で、「この風邪の中でも今やれることは何か」と言ったら、意識から外れていた植物に水をやることだった。「潤いを取り戻せって」ことだったんだね。

どんなささいなことでもいい。風邪を引いて調子が悪くても、今できることをやる。それが結果的には未来を決めているんだって思えました。

◎今できことをやる。そこから次の世界が開けていく。


一言
●風邪から少しずつ立ち直っています。すべてに意味があるわけで、風邪は悪いということじゃない。そのお陰で見えないものが見えてきたし、潤いを取り戻せたし。とにかく、なんでもかんでも、おかげさまの世界を生きることなんだって感じましたね。

「いかにも“生きてる!”って感じで生きる」 (2007.4.26[Thu])
しっかり生きてしっかり死んでゆく。これが仏様と一緒に生きる人生です。
そういう人は、いかにも「生きてる!」って感じで生きる。

ただ生きてるだけでは、人生ではない。楽しく生きがいがあってこそ人生なんです。

人生というのは「いのち」の進歩と調和を体験するために与えられた宝物なんです。人は肉体の中に「いのち」をもって生まれてくる。その「いのち」が肉体を借りていろんな体験をして学習していくんです。

その人の「いのち」のレベルを少しでも上げるために、人生というものはあるんです。

人生で出会う困難は、「いのち」のレベルを上げるための課題ですから、それを乗り越えていくことに喜びを感じなくちゃあいけません。

生きてる限り学びです。学んで、学んで、学び続け、自分が学んだことを人に上手に伝えて「いのち」の古里のお浄土へ還るんです。

「いのち」の古里へ持ち帰れるものは、あなたがこの世で人に与えたものだけです。決して与えられたものじゃないよ、与えたものだけ。

人に愛を与え、智慧を与え、大切な人たちに囲まれて、いろんな困難があってもそこから逃げずにそれを乗り越えて、「いのち」の輝く生き方をして、「本当に幸せだったな」っていう記憶しか古里には持って帰れません。

この世に生きて何を大切にするのか、ってことが大切なんです。

自分も相手も目の前にいる人もいつ死ぬか分かりません。そういうことを考えて生きてるだけで、人はまともな愛の道に戻れます。

命という字を見ていて面白いなあと思います。それは「人は、一度は叩かれる」と書いてあるからです。人はこの世に生まれてきたら、一度は大きな試練を受けるようになっているってことなんです。

だけど、これは絶対に乗り越えられる試練です。仏様はその人が乗り越えられる試練しか与えられません。

だから何があっても、生きているときは、生きてるって感じで生きる。死ぬときは、真面目に死んでいく。しっかり生きて、しっかり死んでいく。しっかり死ねない人は、しっかり生きてなかっただけ。だから、しっかり生きてしっかり死ぬのです。
●生きるときは、生きるって感じでしっかり生きる。死ぬときは、真面目に死んでいく。自分も相手も目の前にいる人も、いつ死ぬかわからない。そういうことを考えて生きれば愛の道に戻れます。

「反省する暇があったら、すぐ直す」 (2007.4.25[Wed])
僕は反省はいらないと思っている人です。それより「なるほど」と間違いに気づいたら、すぐに直して次に進めばいい。

「あんた、こういうところを直した方がいいよ」

といわれると、ズコ〜ンと落ち込む人がいますが、それは間違いです。だって、直すべきことを「なるほど」と直せばいいだけのことなんですから。だけどプライドの高い人は「ああたら、こうたら、へ〜たら、ふ〜たら」と言い訳が長い長い。

一瞬、ムカッとしますが、「この人の現状維持メカニズムがそうさせているんだろうなあ」と思いながら、「まあ、時間が経ってふに落ちたらやったらいいんじゃない」と言います。

「2+2=3」と書いたとき、「それは4ですよ」と教えてもらったら、「なるほど4か」と「4」を書けばいい。「なんで3って書いたんだろう・・」とかグズグズ考え込む必要はないです。直したら、すぐ次に行く。

そして「4」と教えてくれた人に、もっともっと教えてもらう。教わっているうちに、だんだん要領がわかって、ものごとの見方やとらえ方も学べます。だから反省なんてしなくていいんです。

反省している暇があったら、間違ったところをすぐに直せばいいんですから。

人生もおんなじです。人生とは、その人が考えて、その人が切り開いていくもんです。もちろん、判断を間違うこともあります。だけど、間違ったからって、何も問題はありません。間違ったって気づいたら、変えればいいんですから。

自分が考えたことを自分が行う。すると、そこに学ぶものがあるわけです。

判断が間違っていたら、それをすぐに修正する方法はどうなのかって考える。考えて分からなかったら教えてもらう。すると、次にまた新しい判断が出てくる。

人生って、常に、これの連続なんです。この繰り返しをすることが一番大切なんですよ。


●反省しているヒマがあったら、間違ったところをすぐに直す。判断を間違っていたら、すぐに変更すれぱいい。人生って常にこれの連続なんです。   

「必ず人には不安がある」 (2007.4.24[Tue])
人の心には必ずなんらかの不安があります。人は不安な生き物だから、不安は絶対になくなりません。不安がなくなるのは、お浄土へ還ったときです。
仏さんを信じた人が死んだときに「涅槃に入る」といって、このときが「大安心」なんです。

絶対になくならないものを、なくそうと思ってはいけません。無理がかかってかえって自分がおかしくなってしまいます。不安を嫌だと思っても、なくならないものは、なくならない。

それを嫌だと思うと同時に、苦しみがやってくる。だから、僕は、始めは嫌だったけども、段々これを面白いと思うようになりました。
また結構、不安を利用して人生を楽しんでる、なんて思うようにもなりました。

嫌だと思っているだけでは、何も生まれないけど、「この不安の中で、自分は何ができるだろう」と考え出したとき、人は自然と動き出すものです。すると現実が変わります。

また人間というもは本当に不思議なもので、不安があるのが普通だと思うと、意外と不安がなくなっていきます。不安を消そう消そうとすると、不安は倍返しになって返ってくるけどね。

よく考えてみれば、この世の中はフグ料理みたいなものです。フグは美味しい魚ですが、毒があります。
人が何かをすれば“いいこと”と“悪いこと”がセットで起こるものなんです。動くと必ず風が吹く。“いいこと”と一緒に“悪いこと”がくっついても、不安になる必要はありません。フグに毒があるといっても、その毒を避ければ、ただの美味しい魚です。

“悪いこと”が起こったときは、フグの毒をどれぐらい避けられるかのゲームなんだと思えばいい。そうすれば人生が豪華なフルコースになるってえものです。

●「この不安があるなかで、自分は何ができるだろう」と考え出したときに、人は動き出します。

「暇な波動が人やお客さんを遠ざける」 (2007.4.23[Mon])
人間には、人の出してる波動を感知する能力があって、同一の波動はお互いに引き合うという性質を持っています。
だから、言葉や考え方の波動が同じような人は、その波動を好む人を引き寄せます。

一緒にいて心地よい人をよく「あの人とは波長が合う」といいますが、そういうことです。

また波動の特徴として、ある波動が原因となって、その波動の合った出来事が引き寄せられてきたりします。「バカ!」と言えば「バカ!!」が倍返しで返ってきたり、「ありがとう」と言えば「ありがとう」が気持ち良く返ってくるということなんです。

波動は音楽みたいなもんで、心がある音色を出していれば、その音色に同調するような出来事が集まってきます。同じ波長同士は引き合うということですね。

例えば、仕事場、工場、お店、どこでもそうですが、「忙しく活気のある波動」と「暇で怠惰な波動」があって、注意すべきは「暇で怠惰な波動」です。この波動はお客さんを遠ざけてしまいます。これは暇な従業員から出てくるんです。

お客さんは敏感だから、そうした波動が出ている場所には近づかない。というか、行きたくないんです。
だから、「暇で怠惰な波動」ではなく「忙しく活気のある波動」を出してるかどうかなんです。よい業績が期待出来るか、そうじゃないかは。

じゃあ、「忙しく活気のある波動」がどうやったら出るかというと、仕事を一気呵成にやることです。勢いをつけるというか、勢いが波動を高めるから、これは、普段の川の流れと堤防を決壊させる鉄砲水との違いのようなもので、勢いがあるとエネルギーが大きい。

勢いをつけるためには、とにかく一気呵成でバリバリやってくこと。返事をテキパキすること。勢いのある人だけを雇うこと。勢いをつけて「これで一気に終わらせますよ!」と元気にやれば、勢いがお客さんに伝わって、お客さんが元気になりやすくなる。

みんながやる気がないときに、やる気を出すから光り輝くんです。

勢いをつけて波動を高めることを覚えておけば、悩むヒマなんてないって分かってきます。
☆「忙しく活気のある波動」と「暇で怠惰な波動」があって、「暇で怠惰な波動」だとお客さんが逃げ、「忙しく活気のある波動」だとお客さんはよってくる。忙しく活気をつけるためには一気呵成に仕事に取り組むと勢いがついて波動が高まるのです。

「“みなさま”“おかげさま”といいう仏様」 2007.4.22[Sun]
この日本でビジネスをする場合だけに力を発揮する特別な仏様がおられます。
それは「みなさま」という仏様です。

お客さんは、「このクリーニングは水洗いで気持ちいいですよ」と言っても、あまりピンとこない。勧めるときには「このクリーニングは水洗いで気持ちいいとみなさまおっしゃっていますよ」という言葉を入れると、ピンときて「ああ、そうなの」と納得する。

「みなさま、こうされていますよ」「みなさまに喜ばれていますよ」と、「みなさま」という仏様の力を借りないといけないようになっています。これはお客さんに、安心感を与える言葉なんです。

それと誰かに「繁盛してますね」と言われたら、「おかげさまで」と答える。
「いいクリーニングだね」と言われたら、「おかげさまで」と言わなければいけません。

何でも「おかげさま」のおかげ。

どんなにほめられても「おかげさまで」と言って、決して威張ってはいけません。
日本の最大のビジネスでの仏様は、「みなさまのおかげさま」なんです。

だからうちのスタッフもどんどん「みなさま」「おかげさま」の言葉を使ってお客さんに安心を与えてほしい。そしてどんどん稼いでほしい。

とにかくお金儲けは、世の中のためによいことだからです。

日本人は、お金を儲ける人は悪い人だという観念がありますが、それってまったく違います。だって、世の中に役だっているなら、お金が儲からないとおかしいでしょ。
本当に世の中に役立つものなら、誰でも喜んでお金を払うはずなんです。だから、儲けとはよいことをした証拠です。

世の中のためにがんばっている人が、お金をもっていないのはおかしいんです。うちの会社も投資投資で支払いっぱなし、です。ただ、この8月末まではしっかり儲ける基盤を固めて、9月の水洗い10周年からはどんどん儲けようと思っています。

うちがどんどん儲かるということ、それだけ世の中によいことをしてる証拠だってことなんですから。

☆お金儲けは、世のため人のためによいことをしている証拠。そのためにも「みなさま」「おかげさま」という仏様の力を借りる。

「えこひいきされるサービスマンになりましょう」 2007.4.21[Sat]
僕ははっきり言ってサービス業についたお陰で人として磨かれたと思っています。お寺の住職や空手の師範じゃあ、やっぱりエラそうです。謙虚そうで、エラそうなんです。権威的ですしね。だけどサービスでそんなことやってたら、誰も相手にしてくれません。

サービスって、人さまからえこひいきされるようにならないと駄目ですね。遠方よりお店に来てくれるというのは、えこひいきしてくれるからです。つまり可愛がってもらえる性格になることです。

「お客さん」とは、どういう人のことを言うかというと、自分にお金を出してくれる人、それがお客さんですね。
だからお金を儲けるコツは、お客さんを喜ばせることです。これはどの業種でも一緒です。相手を喜ばすということはね。

工場や技術ばたけの従業員さんにとってのお客さんとは誰だと思います。勤めている会社の社長さんです。給料をくれるのは、社長さんしかいませんから。だから、社長さんに喜ばれるようなことに投資する。勉強する。技術や資格を身につける。

社長さんに喜ばれることは何かというと、答えは、会社の業績が伸びること、それ以外にあるわけがない。そのために、今、自分は何が必要なのかを考え、自分に身銭を切って投資することです。
そうすれば、やがてあなたは、会社にとって欠かせない人になっていきます。

サービスマンは、お客さんからお金をもらったら当然「ありがとう」っていいますが、従業員さんもお給料をもらったら、社長さんに「ありがとうございます」というだけで、全然イメージが違うし、社長さんも喜んでくれますよ。

それが「労働の対価としての給料なんて当たり前だろ・・」なんて顔をしていると、「こいつはなんて感謝のないやつなんだ」ってどこの社長さんも心の中では必ず思っています。

人が言わないから自分も言わないのではなく、良い事、相手が喜んでくれる事は絶対にやった方がいいんです。親が子どもにこずかいをあげる時には「ありがとうは?ありがとうは?」ってひつこいぐらい聞くくせに、自分はできない大人ってなんて多いのでしょうか。

お客さんだけじゃなく、社長さんにも、そして周りの人にも「ありがとうございます」と言える人って、必ずえこひいきされて運のいいことが起こってきます。実は「ありがとう」やプラスの言葉は宇宙貯金に利息をつけるわけで、それがえこひいきとなって目の前に現れてくるんですけどね。
☆プラスの言葉や気持ちのよい言葉をどんどん相手に与えて、えこひいきされる人になりましょう。プラスの宇宙貯金の結果、えこひいきされる結果が起きてくるんです

「サービス業の人はどんな時でもサービス業を貫く」 (2007.4.20[Fri])
最近つくづく思うことがあります。サービス業はサービス業らしく振る舞わないと、駄目だって。
基本的に僕は人から謙虚には見えないと思っています。どちらかというと親分肌ですから、取り繕って笑うとか、感謝ぶるなんて出来ません。心の底は違うんですよ。どちらかというと自分で言うのもなんなのですが、シャイですから・・・、ざっくばらんで裏表ないので好かれる人もあれば、一見横柄そうに見られて嫌われる人もいると思います。

ただサービス業の基本的態度は、人に好かれることです。
 笑顔で人に接することです。
 楽しい雰囲気を作り出すことです。
謙虚さや感謝の気持ちを持った言動を心掛けることです。
お客さんは、楽しいことがあると思うから来るわけであって、だから、24時間いつも、 サービスマンでいなくては駄目。最近本当にそう思います。もう少し、僕もサービスマンを意識して行動しないといけないと。

プロとは、いつだってサービスマンであることを貫くことです。これは保育士だったらいつでも保育士を。道を歩いているときもサービスマン、買い物をしているときもサービスマン、ご飯を食べているときもサービスマン。

お店にいるときだけサービスマンじゃあ駄目ですね。お金を遣っているときもサービスマンでいるのです。どこかでご飯を食べていて、そこの接客態度が悪いからって、腹なんて立てていたらいけません。サービスマンとしてご飯を食べて、サービスマンとしてお店の人と接し、良いとこは学び、悪いところも学ぶ。

だって、そのお店の人はうちのクリーニングに出してくれているお客さんかも知れない。これから出してくれるのかもしれない。そう思えば、出会う人は皆、お客さんなんです。すべての人にいつも感謝の気持ちで接する。凄く難しいことですが、これが本当のサービスマンですね。

サービスマンは、しゃしゃり出たことはしない。知っていることも、知らないふりをする。そうすればはっきり言って穏便にすみます、何事も。サービスマンはお客さんに物を買っていただきます。つまり「この人は誠実な人だ」と思ってもらえばいいんです。

専門的なことでお客様の得になることはお客さんに教えなければならない。だけど、いちいち教わりたいと思っている人は少ないです。お客さんというか、人間というのは、自分が一番偉くなりたいって思ってますからね。

☆とにかくどこにいても、何をしていても24時間サービスマンであり続けることですね。
目の前の人がいつお客さんになってくれるかわからないんですから。

「お金は良くも悪くもない。遣うその人次第」 (2007.4.19[Thu])
世の中には大事なものが沢山あります。大事なものを大事にするとそれが残ります。だから、人も大事、お金も大事、お客さんも大事です。大切なものを大切にしたとき、それは確実に残ります。

だから「別にお金なんて」ってお金を軽く扱ったり、お金の悪口は絶対に言わないようにしましょう。お金を大切にして、お金に感謝している人は、お金に困りません。
お金は良くも悪くもありません。遣うその人によって良い悪いのイメージがついているだけです。お金とは仏様の最高のアイデアなんですから、感謝して人の喜ぶために遣えば、これほど尊いことはありません。宇宙貯金は貯まる一方です。

感謝の多い人って必ず成功します。また人からもお金からも必ず助けられます。
でも、いいことがあったら感謝するでは、普通ですから宇宙貯金は貯まりません。いいことなんてめったになくても、感謝するそれよりも、嫌なことにも感謝する。

自分が失敗したときは、
「ああ、こういうことをすると、失敗することがわかった」と失敗に感謝する。
失敗を恨むより、失敗したお陰でまた実力がつくって、嫌なことにも感謝する。
だから、良いこと、悪いこと、両方に感謝できる人って強いですよ。
必ずそういう人にはお金がまわっていきます。

お金にだって、持ち主を選ぶ権利があます。感謝のある人のところにお金は行きたがるし、感謝のない人のところからはとっとと離れていきたい。これは人でも物でも何でもそうです。
世間では、お金に苦しみがあるかのごとく思っている人もいます。でも、お金そのものに苦しみなんてありません。
お金のことで苦しむことがあるとしたら、必要以上のお金を求め出したとき。それから、必要なお金がないとき。お金は善でも悪でもなく、お金そのものに力があるのでもなく、それをどうやって活かすかということだけなんです。お金の力とは、その智慧を持ったときに、お金は善になり力にもなるということなんです。

それと、本当の大金を持つことは、人の力や努力だけでは無理なんです。人知を超えたもの、仏様というか、天というか、そういうものによって、大金を持つにふさわしい人が選ばれます。

仏様が選ぶのは、大らかで、人も物も生かし切れる人、とっさにブレーキをかけられる人なんです。
大金を持てる人は、天に味方してもらえる人です。そして、儲けとは仏様がつけてくれた成績表のようなものですね。

☆人や物やお金を大切に感謝する人のところにお金は行きたがります。また大金を持てる人の特性は、人や物やお金を生かして使い切ったり、何かの時はとっさにブレーキをかけられる人。そういう人を仏様は選びます。

「お金にきちんと礼を尽くしましょう」 (2007.4.18[Wed])
お金の流れを見ていると法則があります。お金は、「この人は本当に私のことを大切に扱ってくれる」と思える人のところに流れていってます。
例えば、お札をグチャグチャにして持ち歩いている人のところには、一時は行っても、すぐにどこかに行ってしまいます。お金を大切に扱わない人をお金自身は嫌ってるからです。もしあなたがお札だったらどうですか?あなたのところにずっといたいと思うでしょうか。

ちゃんと揃えてあげましょう、顔の向きをきちんと揃えて札入れに入れる。顔の向きが、あっちを向いたり、こっちを向いたりしていると、お金に対して失礼なんです。お金にきちんと礼を尽くさないと、お金は入ってこないんです。

本当のお金持ちに共通しているのは、お金に礼を尽くして、お金を心底愛しているということ。
お金持ちには二種類あります。
ひとつは、稼いだ結果、一時的にお金持ちになる人。華麗なる一族やホリエモンみたいなもので、いつか必ずおかしくなっていきます。
 もう一つは、そのあとも、ずっとお金を持ち続けている人。そうしたて人たちは、お金を有り難いと思い、本当に必要なものでなければ買いません。無駄なお金を遣わないんです。

よく、お金がなくなるまで洋服やブランド物を買う人っていますが、その人は洋服やブランド物を愛しているわけで、お金を愛しているわけではありません。別にいいんですよ、ブランド物を愛しても。ただ、お金を愛するのが、お金持ちになる条件です。これは法則だから、どうしょうもない。

これはお札だけを大切にするということじゃなくて、1円玉、十円玉、百円玉、五百円玉、全部大切にするということなんです。
そういう小さなお金を大切にできる人は、大きなお金も大切にします。だからお金を大切にする人は、絶対にバクチなんてやりません。

よく「運の強い人はギャンブルも強い」と言いますが、そんなことはありません。マージャンに強い人、パチンコに強い人、競馬や競輪に強い人。そんな人で成功した人を見たことがありません。
本当に成功する人って、バクチなんてやりません。お金を愛しているから、役に立たないことには絶対にお金を遣わない。それはお金という自分の子どもには何かの役に立ってほしいからです。

有意義なことにお金を遣う。お金を愛するということは、そういうことです。

そして本当のお金持ちは入る額より遣う額を少なくしている。物凄く単純な問題なんです。
☆本当のお金持ちはお金を愛し、お金に感謝しているし、有意義なことにしかお金を遣いません。あなたがお金だったら、そういう人のところに行きたいって思いますよね。

「お金について」 (2007.4.17[Tue])
唐突ですが、ニュースでお金にまつわる事件なんかを見ていて、うちのおふくろといつも話すことなんですが、「・・・僕らはお金でほんと〜に困ったことないよな。ありがたいよな〜」って。
決して裕福すぎるんじゃあないんですよ。昔から、「ちょっとお金が足らないなあ〜」と思うとどこからともなく入ってきます。これは昔から一貫してそうなのです。

「お金とは何ですか?」
っていうと、これは仏様からの御褒美だと思っています。
一生懸命働いたり、人や世の中のお役に立ってるよ、ということをお金は教えてくれます。だからお金とは自分がどれぐらいお役に立っているかのバロメーターのようなものなんだと思います。
だから、お金って非常に大切なものですね。特にビジネスをやっていると、お金がないと運営できない。だから、人にとっても会社にとってもお金って物凄く大切なものです。

「世の中はお金じゃない」とか、「何でもお金で解決しようとする奴はろくなものじゃない」って、よく聞きますよね。
僕は果たしてそうなのか?と疑問に思えます。何でもお金を出さないで解決しようとする奴もろくなもんじゃあありません。「世の中はお金じゃない」と表面では言いながら、お金に物凄く執着していたり、逆にお金にコンプレックスを持っていて、自分からお金から遠ざかって、実際にお金に困っている人もいます。

お金というのは、仏様の最高のアイデアですね。
だから、お金は自分も人も幸せになるために遣う。こういう人はお金の遣い方のうまい人です。遣い方を知らない人はいつの間にか不幸になってしまう。

人間には、魅力的な人と魅力的でない人がいます。魅力というのは引力みたいなものです。笑顔で、素直で、行動的な人は魅力的ですね。
先程は、お金のことをお話ししましたが、この宇宙には目に見えない宇宙貯金というのがあって、魅力的なこと、人が喜ぶことをやっていると宇宙貯金にプラスされていくんです。それを昔から「徳を積む」と言われてました。
逆に人の嫌がること、マイナスのことをやっていると、その宇宙貯金はどんどん減っていきます。宇宙貯金はとんでもなく金利もつけば、逆に借金にもなってしまう。なにか気持ちいいことや、ラッキーなことばかり起こる人って、魅力や喜びの宇宙貯金をしているんです。無意識にね。

宇宙貯金が借金になると、とにかく嫌なことばかり起こって「何でこんな嫌なことが続くんだろう」ってなる。そういう人はマイナスを振り撒いてるか。だから借金するような、愚痴、不平不満、悪口、自己中の行動、威張るなんてやめた方がいい。それより、魅力や喜びを与えて貯金していく。これさえやっていれば、何をやっても時期さえ来れば必ず成功するんです。
☆人に魅力と喜びを与え、目に見えない宇宙貯金をしていきましょう。必ず利息がド〜ンと下りてきます。

「嫌な人と仲良くすることはない」 (2007.4.16[Mon])
我慢するということは、イヤイヤそこにいること。調和するということは、楽しくそこにいることです。

昔の僕は学校教育で学んだことや、世間の常識を考えて「イヤイヤでもそこにいなければならない」と思い込んで生きてきました。この「イヤイヤそこにいたり」「イヤな人でも我慢して一緒にいないといけない」のは物凄くイヤだし疲れます。そんな状態の中で楽しいものは何一つ生まれないし、何も生まれない。

そして僕が取った行動は、気の進まないことは「どうしても」という以外は一切やらないということ。気の向くこと、気の進むことはどんどんやるということ。「快」はうまくいくけど、「不快」はうまくいかない。

 宇宙の普遍法則である「波動の法則を生きる」って決めてから人生がゴロッと変わりました。人生も仕事も無理がなく楽しくスムーズに流れていくようになりました。だって「快」のことしかやらないんですから、そうなるのは自然です。

で、そういった経験を通して言えるのは、少なくとも、周りのみんなと仲良くしなくてはいけないのかというと、そんな必要はまったくないということです。

イヤな人はイヤなんです。イヤな人と仲良くする必要なんてありません。イヤな人と仲良くすると、人生がイヤになるからです。

また今では、会いたくない人は僕の目の前に現れません。どうしてだと思います?答えは簡単です。僕は、そういう人と会わないことにしているからです。万が一、そういう人と会わなければいけなくなったら、誰か人を立てるか、サッサと避ける。

会っていて楽しくなければ、会わなくていいんです。相性が悪いのに会っていると、兄弟だって殺されることがあります。人間には一生に一度会えばいい人と、一年に一度会えばいい人、一月に一度会えばいい人、それから毎日でも会いたい人がいます。

その距離を保っていると、距離が縮まることもあります。だから、ムリに会う必要もないし、ムリに仲良くしようとする必要もない。その距離を大切にしておけばいいんです。そうすることによって、お互いが幸せになれるんです。

人にはそれぞれの波動があります。いいわるいじゃなく、その人の「いのち」の気持ちいい波動の世界を生きればいいんです。それが人にとって一番幸せを感じるんです。よく「このままじゃあいけないと思うんですけど・・」と言う人がいるんですが、それはこのままじゃあいけない状態が実は気持ちいいんです。本当に嫌だったら、人はそこに留まることは絶対にあり得ません。なんとかして脱北するように、そこから脱出していきます。
◆嫌な人と仲良くすることはありません。会いたくない人に会わなきゃいけなくなったらサッサと避ければいい。人との距離を保っていると距離が縮まることもあります。無理をしないことです。

「執着から解放される“まっいいか”」 2007.4.15[Sun]
世の中の八割は白黒をつけなくてもいいようなことばかりです。それをムリに白黒つけようとするから悩んだり争ったりしてしまいます。

たとえば、自分が信じてる宗教だけが正しいと思うから戦争や争いが起こるんです。

「あなたのところの宗教もいいですね。うちの宗教もいいんですよ。お互い、いい宗教でよかったですね」

だから、「まっいいか」を口癖にしましょう。肩の荷が下りたように、人生がラクになります。

「まっいいか」という言葉は執着から解放してくれる言葉です。また、足ることを知ってる言葉です。

世界で一番幸せな人って、足ることを知っている人です。

 常に、今、自分に足らないものを、

 「これがあれば、幸せになれる」

 と思っている人は、実は一生幸せは手に入らないのです。

 何故かというと、幸せとは心の問題だからです。

不幸せだと思っている人は、欲しいものを手に入れた瞬間から、次に足らないものを求め始めるからです。

だから「まっいいか」なんです。

 これが欲しいなあと思っても「う〜ん、まっいいか」。あれが欲しいと思っても「まっいいか」。正しいこともごり押しだと「まっいいか」。

とにかく「まっいいか」でいってごらんなさい、もっとラクになって物事が流れ出していきますから。そして幸せだと実感できますから。

☆「まっいいか」でいこう。もっとラクにハッピーになれるから。

「不完全主義者がいい」 2007.4.14[Sat]
世の中には、完全主義者と不完全主義者の二つのタイプの人がいます。
僕はどちらかという不完全主義者です。はっきり言って完全主義者にはなりたくありません。

完全主義者というのは、完璧にできなかったことをずっと悔やんで自分を責めるか、他人を責めるか。いずれにしても、人間を責める人のことです。
そうなると、自分で自分のことを嫌いになるか、責めた人から嫌われるかのいずれかになってしまいます。

僕は、どちらも嫌だから、不完全主義者なんです。

不完全主義者だからと言って、いい加減にやるのではありません。やるからにはやはり100lを目指します。でも、人間がやることは良くて80lですから、結果については「よかったね」という。
それで、できなかった20lをチェックしておいて、次回はこれを改良する。これを繰り返していけば人は向上していきます。

人は無意識に限りなく完璧を目指す生き物です。だけど完璧にはなれません。だからこそ、退屈しなくて済むわけです。

人生は悲劇じゃなくて、喜劇が一番楽しい。喜劇は不完全主義者にもってこいです。完璧でない凡夫同士、何とか完璧に近づこうと努力しながら生きる。これで十分です。「なんだかんだと言っても、お互い頑張ってるよな」と、言えたら喜劇でハッピーになれます。

人間はいくつになっても恥をかきながら向上していくものです。「人は恥をかいて成長する」とみんな分かっていると、楽になって見違えるように伸び伸びしていきます。僕自身も恥をかいてきました。「穴があったら入りたい」どころか、「穴を掘ってでも入りたい」ということが、山ほどありました。

「何て自分は愚かで馬鹿だったんだ」

ということがわかれば、人間は進歩したことになります。だから恥をかいていいんです。恥をかくのは悪いことではないんです。恥ずかしいと思ったとき、人は次の手を考えて向上するんです。

だからわからないことがあれば、知っている人に素直に聞けばいい。わからないことを質問するからこそ、人は利口になれるんですから。そういう人のことを不完全主義者と言います。

☆完全主義者でなくて不完全主義者でいくと人生が喜劇になってハッピーになれる。

「クレームや問題は、一つステップアップするために仏様が出してくれた階段」 (2007.4.13[Fri])
 仕事にしても人生にしても、何かしら問題が必ず出てきます。

これはあなたを一つ上にステップアップさせてくれるために、仏様が出してくれた階段なんです。要するに、自分を成長させる学びをもらっているんです。

成功の法則は、問題であっても会う人すべてを自分の味方にしてしまうってことです。

敵をつくらない。問題を通して会う人すべてを味方にしてしまう、クレームだってそうです。クレームの人を味方にしてしまう。こう言うと凄く難しいと思ってしまいます。だけどこれが意外と難しくない。

いくらガミガミ言われても、いくらネチネチ言われても、人の悪口や愚痴、嫌味、泣き言、不安や恐れなど、誰もが嫌がることを言わなければいい。そういうマイナス波動を発振しなければいい。

全員が好ましいということは何だろうと考えてみると、笑顔と愛のある言葉、思いやりある言葉をかけることなんです。

とにかく人の悪口や愚痴、嫌味、泣き言など、とにかく誰もが嫌がることを、言わなければいいんだということなんです。すると問題やクレームがあっても、必ず「何かの学び」を得てステップアップしていくんです。
問題とは、心の問題、肉体の問題、仕事の問題、お金の問題です。これらの問題を解決しないと、人って幸せにはなれません。


これらの問題を解決するためには、

「毎日会う人のすべてが、私を幸せに導いてくれる。私のまわりには幸せの仏の子がいっぱい。私の人生は最高に幸せだ」
心の底からそう思えるようになれば、必ず問題はそこそこ解決されてステップアップしていくようなシステムになっています。それがなかなかそう思えないから、思い通りにならないと腹が立ったり、相手を悪く思ったり、深刻に考えてドツボにはまっていくんです。

すべてはあなたの成長のために仏様が用意してくれていることばかりです。ですから目の前の現象に引っ張られない、とらわれない。もっとその奥にある本質を感じ取ることが大切です。すると「あ〜やっぱりそういうことなのよねえ〜」と「学びと感謝」の気持ちが起こってきますよ。
☆「毎日会う人のすべてが、私を幸せに導いてくれる。私のまわりには幸せの仏の子がいっぱい。私の人生は最高に幸せだ」と心底思えるようになれば、しめたもの。後は勝手に問題は解決されてワンランクステップアップしていきます。

「あなたはどんな物語りをつくりたいですか」 (2007.4.12[Thu])
昨日は自分は自分で人生のシナリオ通りを運ばれているとお伝えしました。
 そのシナリオを運ばれながら、人間っていうのは、その人が何を思い、何を行動するかによって、ハッピーなものにもなるし、物凄く悲惨なものにもなってしまいます。

ということは、すごい悲劇もできるし、物凄くハッピーな物語りにもできるわけです。つまり、あなたは、どんな物語りでも作ることができるんです。

いい物語りをつくるにはルールがあってね、人の悪口をいっちゃあ駄目です。いつもポワ〜ンとした笑顔でいて下さい。そうすると仏様からお呼びがかかります。それはちょっとしたことで人様のお役に立てるということの呼びです。

人のお役に立てると、心がウキウキワクワクする物語が生まれてきます。

どうも私の物語りは楽しくない。面白くない。なにか悲劇的と思う人がいたら、あなたは自分に対してウソでもいいから、こう言い続けて下さい。

「いつも仏様に守られてる仏の子なんだから、どんなときでも明るく輝く太陽になれるんだ。私は人に生まれてこれたから幸せなんだ」

こう言い続けてみて下さい。絶対に面白いことが起こり始めますから。

よく、「笑えない」「面白くない」という人がいますよね。そんな人はまた、「自分はどうして、幸せになれないんだろう・・・」とか言い出します。
でも、目の前に起こった現象が「おもしろくない」じゃありません。常におもしろくないことばかり考えているから、「おもしろくない」物語が起こってくるんです。

あなたす仏の子なんですから、安心なんです。仏様が見守って下さっているからです。だから安心しておもしろくなることばかり考えてみて下さい。そうすれば、人生、ハッピーな物語が展開されていくようになっているんです。

☆面白い物語りをつくるためには「いつも仏様に守られてる仏の子なんだから、どんなときでも明るく輝く太陽になれるんだ。私は人に生まれこれたから幸せなんだ」と言い続けてみましょう。自己評価が育って面白い物語が展開されていくようになります。

「困ったことは起こりません」 (2007.4.11[Wed])
人は、幸せになるために生まれてきました。
人生というのは、自分の作ったシナリオ通りにほぼ運ばれていきます。

人間って、死ぬと肉体は滅びますが、「いのち」は絶対に滅びません。
「いのち」はこの世を去って、「いのち」の古里であるお浄土へ還っていきます。

人生というのは、自分の作ったシナリオ通りにほぼ運ばれていくと言いました。それなのに何故、「お浄土へ還れる人」「六道輪廻する人」「地獄に堕ちる人」と分かれるのでしょうか。

それは「仏様を信じれる人」「仏様を信じられない人」「仏様を嫌う人」と分かれるからです。「仏様を信じられる人」は、何があっても感謝とプラス発想ができる人です。「仏様を信じられない人」は、日ごろはよくても何かあったらすぐに人や環境や回りへ責任転換する人です。「仏様を嫌う人」は、なんでもかんでもマイナス発想してしまう人です。

自分が作ったシナリオ通りを生きていても、「ものの見方やとらえ方」で大きく分けると三つの心の状態に分かれてしまいます。

人は仏様を信じられたら、学び癖がついていきます。自分の経験から学んで、学んでいって、学び癖をつけたときに、

「あのときはああっだったから、今、こういうふうによくなったんだ」

と、思えるときがきます。幸せだなあって思えるときがきます。だって、人間は、幸せになるために生まれてきたからです。でも、現実には、楽しいと思えないことも起こります。それは仏様がいろんな課題を与えてくれるからです。

その課題を与えられた時に「仏様を信じれる人」「仏様を信じられない人」「仏様を嫌う人」にはっきり分かれてしまうのです。

「仏様を信じられる人」は何があっても始めは落ち込んだとしても、やがて幸せを感じていきます。それは仏様が一緒にいて下さっていると分かっているからです。仏様がこのことを通してもっと「優しさを学びなさい」「気配りを学びなさい」「いのちの尊さに気づきなさい」「周りからいつも与えられていることに気づいて感謝しなさい」と温かい親の心であなたに課題を与え下さっていることに気づけるからです。

仏様は教育好きです。あなたをどうにかして人として心豊かになれるように育てようとされています。ですから本当は「困ったこと」なんて何も起こっていないのです。すべては自分が書いたシナリオ通りを生きているだけなんですから。
☆人には自分が書いたシナリオを完璧に生きています。ただ「仏様を信じれる人」「仏様を信じられない人」「仏様を嫌う人」の三つ心の状態によって同じ人生でも天と地の差が出てしまいます。

「自然(しぜん)と自然(じねん)」 (2007.4.10[Tue])
「自然(しぜん)」と「自然(じねん)」。同じ自然でも全く読み方もとらえ方も違うのがこの「自然(しぜん)」と「自然(じねん)」です。

「しぜん」というのは西洋的な見方ですね。人間中心に自然界を見ているというか、ミレーの「落ち葉ひろい」なんてそうです。自然の中心に人がいるということです。二元論的というか、「しぜん」という時には人間と自然が敵対したり、味方になったりします。「自然の猛威」とか、「自然を征服する」と言ったりしますよね。とにかく人間との対立概念として、向こうにあるものです。だから「人間と自然」です。それが「しぜん」という言い方です。

もともと仏教では「じねん」と読んできました。すべてが一つ如しなのです。「じねん」とは「私を私として存在させて下さっているもの」という言い方です。というのは、私の思い、私の計らいでここに存在しているわけではないということです。

たとえば、あなたはこの時代に、日本に生まれてこようと思いました?よく分からない。いないんです、そんな人。私を超えた大きなはたらきの中で、自らこの身をいただき、この場をいただき、この時間をいただいて、今、ここにいるのです。私を私として成立せしめて下さっているもの、それを「自然(じねん)」と言います。

だから「じねん」というのは、私と対立するものではなくて、私を私たらしめて下さるもの、その「じねん」です。この「じねん」の世界を生かしめている“はたらき”を仏様と言います。この「じねん」を発見されたのがお釈迦様です。お釈迦様は、仏様を発明されたのではなく、発見したのです。コロンブスがアメリカ大陸を発見したと言いますが、コロンブスにアメリカ発見させたのは誰かというと、アメリカ大陸自身なのです。

お釈迦様をして、仏様の世界に気づかしめたのは誰かというと、「仏様」自身です。コロンブスにアメリカ大陸を発見させたのはアメリカ大陸です。大陸がなかったら発見できませんからね。それと同じように、お釈迦様が、仏様に出遇ったのは、色もない、形もない、けれども間違いなく存在して、私を生かして下さっている仏の“はたらき”に気づかれたからです。

その仏のはたらきが、私の小さな「我」の世界を開いてくれます。とにかく私たちは小さな「我」にとらわれて生きてます。まあ、腹立ったり、嫉妬したり、妬んでみたり、執着して正しさを押し付けたり、そういう「我」にとらわれて、後にある「大きないのち」の世界を見失っていくんです。いや「大きないのち」を見失うのではなく、身近な人の「いのち」さえも見えてません。その人が本当は何を考えてるのかなんてほとんどわからないんです。

どうして見えないのかというと、私たちは「大きないのち」の世界を見失って、小さな「我」の世界を生きているからです。私たちは「私が」という小さな「我」のとらわれの中で、「大きないのち」の世界を見失うと同時に、周りの人の「いのち」すら見失っているのです。ということは私たちは、まったくなんにも見えない生き方をしてるんです。その原因の「我」を開いて下さるはたらきが、仏様が名前となってくれた「なむあみだぶつ」の仏様です。色も形も匂いもない仏様が、私たちがいつも苦しんでる「私が」から名前になって救って下さろうとしている。凄いよね、大宇宙のはたきは。
☆大きな「いのち」に出遇うことによって、「私が」から出られるのです。

「宇宙の中のあなた」 (2007.4.9[Mon])
昨日は、無限の「いのち」の歴史があって、あなたは「今ここに居る」ことができています。その無量の「いのち」の世界が背景にあって、あなたは「今ここに居る」ことを許されています。その真実に気づいていくのが仏教です。その真実に気づき目覚めたら、あなた自身を飾ったり偽るのが馬鹿らしくなってくると言いました。

あなたはいつでも、ものすごく長い「いのち」の歴史の上に置いてもらうと同時に、広い広い世界の真ん中に置いてもらっています。それは地球があるから、「ここ」があるということは、あなたは地球のど真ん中に生きてるということです。地球のど真ん中に生かされて生きてるのが、あなたの「いのち」なんです。そんなことに気づいたら、一人ひとりが自分に責任を持って生きていかなければならないですよね。
「私なんて、居ようと居まいと、この地球には関係ない」と、自分で自分を軽いものにして、自分の値打ちを軽くしているんです。

『ケンカ』
「太平洋と 日本海と オホーツク海と 東シナ海の 真ん中にある日本の 古河第一小学校の運動場で 僕は今 ケンカしている」

ふ〜う、そういうことだよね。地球のど真ん中を生きてるだよね。だから「古河第一小学校の運動場で僕は今ケンカしている」だよね。多くの人間ってそうじゃない。地球の隅っこの、日本の隅っこの、
 また隅っこの、隅っこの、隅っこの方で、グチグチやったりコショコショしてるから「いじめ」になったり、やる事や考えることが陰湿になってしまう。これは大人も子どもも。
これは自分が隅っこを生きてるからなんです。だから「私が生きていようと、寝ていようと、死んでいようと、世の中関係ない、どうだっていいじゃん」というような気になってるから、平気で無責任なことがやれるってことです。自分で自分のことを物凄く軽く扱ってるってことです。

あなたはいつでも、ものすごく長い「いのち」の歴史の上に置いてもらうと同時に、広い広い、広い世界の真ん中に置いてもらっているんです。だから、あなたの「いのち」はちっぽけでも、あなたの「いのち」の背後にあるものは凄いものです。あなたを生かそう生かそうという大きなはたらきの「いのち」があるんです。その凄さに気づいてないわけです。さっぱりね。

今あなたが生きているというのは、「無量の時間(寿)」「無量の空間(光)」という、大きな大きな途方もない、広い広い世界の中に生かされているんです。そして、その大きな「いのち」の世界は、どんなことがあってもあなたを捨てることがない、あなたの「いのち」を支え、育み、愛してくれています。

この大きな「いのち」の世界には、ここからここまでは他人、あそこは仇、あれは関係ないというような垣根がない。全部「一つ如(ごとし)」に繋がっている「いのち」の世界です。それは縁起(えんぎ)の世界でもあります。そんな縁起の世界にあなたは身を置いてもらっているから、今ここを生かされて生きることができる。このことに深く気づく、目覚めるというのが仏教なのです。
☆あなたの「いのち」を支え生かして下さっている大きな「いのち」の世界のはたらきに気づいていくのが仏教です。その大きな「いのち」の世界は、お互いの「いのち」を傷つけ合うのではなく、「一つになって互いに手を取り合って生きよ」と教えてくれているんですよ。

「自分のことが一番分っていない」 2007.4.8[Sun]
  仏教で「縁(えん)なき衆生(しゅじょう)は度(ど)し難(がた)し」という言葉があるんです。縁のない人とは、自分のことが問題にならない人ということです。それが「縁(えん)なき衆生(しゅじょう)」です。

「そんな人がこの世にいるんだろうか?」と思ってはいけません。あなたを含む、ほとんどの人がそうだからです。自分のことを問題にせず、人のことばかりを問題にしてしまう人のことを「縁(えん)なき衆生(しゅじょう)は度(ど)し難(がた)し」と仏教では言います。
自分のことはさておいて、外ばかり眺めて、あれはいい、これは悪い、あるいはあれは間違ってる、あれは正しいと、人のことばかりを問題にしている人って多いって思いませんか。

だいたい人間というのは人の話が大好きですよね。あなたのことを言われたらムッとするくせに、人のことになったら目が冴えてキラキラしてきますよね。井戸端会議の最中に居眠りする人はいません。人の噂話になるとみな目が冴えてきて。
 
 「へえ〜、それってどうなったの、それから・・・」「やっぱりそうだったのかあ〜、いやよねえ〜・・・」と。反対に、自分のことになると、しんどくなって、寝てしまうことになります。

仏教はしんどくても、あなたをきちんと見つめていくことから始まります。人のことはどうでもいいとは言わないけど、「私が今ここに居る」ということはどういうことなのかをじっくり味わっていくと、大きな慈悲の仏様に出遇っていくんです。
あなたに今があるのは、この世に生まれたからです。ただその後ろには長い人生があるんです。親がいたから、あなたは生まれました。その親にも親があり、その親にも親があり、その親にも・・・と、あなたの「いのち」の背景、DNAには40億年の長い「いのち」の歴史があります。

もっと言うと、46億年前に地球ができなかったら、あなたの「いのち」はありません。さらに190億年前に銀河系が誕生しなかったら、いや宇宙の誕生はもっと昔でしょうから、まさに計り知ることのできない無限の時間の経過がなかったら、今という時間をあなたが生きておれるのは、こんな長い「いのち」の歴史があったのです。

あなたの「いのち」がそこにあるということは、あなたの「いのち」の背景にこのような無量寿(むりょうじゅ)の世界、無量の「いのち」の世界があるんです。だから、あなたの「いのち」というのは立派な洋服を着ないと値打ちがないようなそんなお粗末な「いのち」ではない。素のあなたがそこにあるだけで、大変な「いのち」をいただいて「今ここに居る」ことができているんです。

 そんなことが分かってないから、人のことをあれこれ言ったりするようになってしまう。自分をまったく問題にしないでね。「縁(えん)なき衆生(しゅじょう)」とは、無量の「いのち」の世界に生かされている我が「いのち」であったと、まったく気づけない。分からないということなんです。

☆無限の「いのち」の歴史があって、あなたは「今ここに居る」ことができています。その無量の「いのち」の世界が背景にあって、あなたは「今ここに居る」ことを許されています。その真実に気づいていくのが仏教です。その真実に気づき目覚めたら、あなた自身を飾ったり偽るのが馬鹿らしくなってきます。

「学校向きの子と、社会向きの子」 2007.4.7[Sat]
50年前には心療内科に行く人が5万人だったのが、現在は48倍増えて240万人とか。それも氷山の一角と言えるそうですから、心が病んでる人はおおよそその10倍の2400万人はいるということです。

 物は豊かになったけど、その反面人の心と心の関わりが希薄になっていき、心を病んでる時代が現代ですね。
 子どもが不登校に悩む家族が多いけど、そんなとき子どもに対して親がしてあげることがあります。
 
それは「信じてあげること」「働くことは、楽しいんだということを教えてあげること」「自分で考え自分で決められる材料やヒントを与えてあげること」です。それを与えてやれば、何も心配しなくていいんです。
 
学校向きじゃない子は、社会向きな子です。社会では楽しく働いたら働いただけにお金が稼げる。社会に出て勉強すると、学校とは違ってお金になって楽しく生きられることを教えてやることです。
 だから、社会向きの子は、早く社会に出るほうがいいのです。
 楽しくいっぱい働いて、いっぱいお金を稼いで、自分の好きなようにお金を使えるようになったら楽しいよ。大人になるのは楽しいことなんだって教えてやること。
 
こういうことを教えてやらないから、嫌々学校に行って中退したり、ニートになったり、フリーターになったりするんです。大人になりたくないし、仕事が楽しいと思えないから。
全部親から教えられた通りを、子どもは生きてるだけなんです。
人には誰にでも個性というものがあります。
 顔も違えば、考え方や生き方もそれぞれ違います。それが自然だし、みんな一人ひとり違っているところが人間の“いいところ”です。
 あなたも僕と違ってOK。人は、他人にはなれないわけですから。
 
あなたは、自分らしい仕事の仕方、自分らしい生き方をしていけばいいのです。ただ「人も自分も楽しく喜んでくれる」ことを目指してね。そうすれば必ず成功者になるはずです。

子どもにもそのことを教えてやって下さい。
 
だから、社会向きの子は早く社会に出た方がいい。その方が、宇宙法則をいち早く学べるからです。
 
それは、笑顔でいれば好かれるし、怒ってばかりいたらキラわれる。笑顔で愛のある言葉をしゃべれば好かれるし、嫌なことばかり言ってたらキラわれる。
 
今、自分の目の前にいる人たちのために全力を尽くせば好かれるし、過去や未来のことばかりをボヤいていたらキラわれる。愛のある言葉と愛のある言葉をしゃべる、これに全力を尽くせば仕事も人生もうまくいくって分かりだすからです。
★学校向きじゃない子は、早く社会に出て、宇宙法則を学んだ方が絶対にハッピー。

「悩み」 (2007.4.6[Fri])
悩みとは、自分でどうにもできないこと。思い通りにならないこと。そのことがどうにもならないから人は悩みます。
 
お釈迦様は「悩み」を解消しようとすれば「思いどおりにしたい」という思いを持たないことと言われました。

ただ、人は「悩み」を抱き、その悩みを一生悩んだままかというと、そうじやない。
あなたは、一年前に自分が何に悩んでいたか、覚えてますか?
 
あなたが今悩んでいることも、一年後には消えてなくなってしまっています。世の中は常に移り変わっています。人の心も常に変化しています。無常なんです。だから悩みはやがて消えてなくなっていきます。

悩みとは勝手になくなるものです。
自分がなにかをして、あれを解決し、これを解決し、悩みが解決した、解消した、というものではありません。それは時間が解決してくれているのです。

時間とは愛そのものです。時間があなたの味方をしてくれているから、「思い通りにしたい思い」を手放せない人は、悩みを時間に任せておけばいいのです。
 
それと「自分はこのままの悩みを抱えてていいんだよ」と自分に言ってあげること。なんとかしようと思ってる自分が、ス〜と楽になるから。

悩みを抱えている人に対してもそうなんです。「あんた、そのままでいいんだよ。悩みは時間と共に消えていくもんなんだから、悩むことも自然。そういうそのままのあんたが、すばらしいんだよ」つて、言ってあげる。その方が相手もラクになります。

「人生、ラクでしあわせ」これが僕たちのテーマです。
 
ラクがピンとこないとしたら、楽しいでいいです。ラクを極めていくと、最終的には「楽しい」になります。だから、「このままでいいんだよ」つて、自分にも相手にも言ってあげることですね。

ラクに生きれると感謝が生まれてきます。それもいいことがあったら感謝じゃなく、何があっても感謝するようになっていく。それは仏さんが自分を育ててくれるためにぜ〜んぶ与えてくれているから。仏さんが与えてくれることは、ぜ−んぶ解決できることばかり。

「いつも仏様と一緒。だから安心」すると悩みも自然と解消されていきます。「人生、ラクでしあわせ」というのは、仏様と共に生きれることの感謝の気持ちから起こってくるものなんですよ。

「人間にはみんな人にはない能力がある」 (2007.4.5[Thu])
人間にはみんな能力があります。僕にも、出来ること、出来ないことがいっぱいあります。あなたにも、出来ること、出来ないことがいっぱいあります。

世の中、辛抱強い人もいますし、そうじゃない人もいます。頭の回転が速い人も、そうじゃない人もいます。

それを自分ができるからって、できない人に同じことをしろっていうのは、イジメと同じです。

「みんな頑張ってるよね」と思いますよ。そういう思いを持って「みんな頑張ってるね」と言ってみましょう。

「ああ、自分のことを認めてくれる人がいる」
 そうすると、心に明かりがともって、歩いていく勇気が湧いてきます。
 
で、「もう少しこうやったらあの人はよくなるな」と思ったら、その後「この部分をもう少しこうやったらまだよくなるよ」と言ってあげましょう。
 
説教されたって、理屈や正しさを押し付けても、何をやったって、人は動けないし、変われません。もし変わろうとしても、それは人の目や、恐れによってですから、本当に変わったりはしない。変わったとして、逆に周りの人を裁き出すのがおちなんです。
大事なのは、安心を得て、その中でどうやったら自分が幸せに生きられるかなんです。
それは、人間関係でも、家庭でも、職場でも一緒なんです。

 僕の母は82歳になりますが、みるみる歳を取ってきました。また以前には考えられないような行動も取ったりするようになってきました。
 
それぞれの「いのち」が、それぞれに花を咲かせる。若い時は若い時の彼女の花があったし、母親になり、おばあちゃんになって、その時どきの花を咲かせてきたわけです。そして今、確かに年老いてきて、以前とは違ってきたけど、それはそれで存在の花を咲かせているわけです。

僕たちはいつの間にか相手に100lを期待しようとします。
 あなた、100lの人間になれますか?100lの上司になれますか?100lの社員になれますか?
 
それと同じように100lのおばあちゃんにはなれない。なれないですよね。それでいいんです。誰だってなれない。
「おばあちゃん頑張ってるね」と言うと、母はとても嬉しそうでした。
☆みんな、それぞれに頑張って生きています。

「恐れより愛が多い時間の方が気持ちがいい」 (2007.4.4[Wed])
子どもに対して「おまえのことが心配で」とか「親だから心配するのが当たり前でしょ」というのは、実は自分の心の中にある恐れが言わせてるんです。
 
だからそれは愛じゃない。愛じゃないものはおかしくなっても、絶対によくならないんです。
愛は「お母さんは、あんたのことを信じてるからね」「あんたなら大丈夫だよ」「お母さんが生んだ子なんだから、私はあんたのこと大好きだよ」という言葉です。そこには不安も恐れもありません。

人間関係でも、家庭でも、職場でも、「恐れ」より「愛」が多い時間を作れば作るほど、よくなっていきます。

「恐れ」とは「闇」です。その闇を打ち消すのは「光」です。その「光」の言葉が、「仏様と一緒。仏様ありがとう」なんです。

自分一人で頑張ろうとするから、恐れが出てきます。いつも「いつも仏様と一緒。仏様ありがとう」、たったこのことで、全部変わってしまいます。自分のことを安心して許し、そのまま尊重できるようになっていきます。
そしたら、どんどん変わっていきます。

変わっていくら自分を愛せるのではありません。愛せば自然と変わっていくんです。

とにかく「はじめに言葉ありき」なんです。
世の中は、本当にシンプルにできています。笑ってしまうほど、すごくシンプルです。

それは言葉通りに、言葉に出した内容通りを牽引して、自分の人生を生きているからです。
 
なかなか人はそれに気づけません。
「いつも仏様と一緒。仏様ありがとう」この言葉を言えば言うほど、「安心」と「愛」の人間になっていくんです。

理屈をつけて落ち込んだり、考えたりする暇があったら「いつも仏様と一緒。仏様ありがとう」と言えばいいんです。

☆世の中は出した言葉通りになるシンプルな世界です。恐れや不安を抱く暇があれば「いつも仏様と一緒。仏様ありがとう」と安心の世界を生きましょう。
 

「はじめに言葉ありき」 (2007.4.3[Tue])
牽引の法則というのがあって、愛のある言葉をしゃべっていると、愛のある現象が引き寄せられてくるし、不平とか不満とか、つまらない言葉ばかりしゃべっていると、つまらない現象が引き寄せられてきます。
 
 だから「はじめに言葉ありき」なんです。その言葉によって後に起こる出来事が引き寄せられてくるわけですから。
 
 でも、そんなことを頭では理解していても、なかなか愛ある言葉が出ない人がいます。

 何故なんでしょうか?

 それは、その人の心の中に「強い恐れ」「不安」があるからなんです。
 「ツイてる」「嬉しい」「楽しい」「感謝してます」「幸せだ」「いいよね」「ありがとう」「すごいね」こういう言葉を言ってる時は愛なんです。
 ところが、
 「ツイてない」「不平不満」「愚痴」「泣き言」「文句」「心配事」「許せない」という内容の言葉を使っている人の全部は、「恐れ」と「不安」が出ている言葉なんです。

 じゃあ、どうして「恐れ」たり「不安」になったりするんでしょうか。
 それは、自分のことを愛してないからです。自分の事が嫌で、めちゃくちゃ自己評価が低いんです。自分のことを本当は嫌っているからなんです。
 じゃあ、どうして「自己評価」が低いんでしょうか。
それは、あなたが完全主義者だからです。自分の中にここまでやったら、できたら完璧という基準があって、いつもその基準の中で自分の完璧を求めてるからです。

 「恐れ」「不安」が強くて「自己評価」が低いと気づいた人。

 自分を愛して、自分を尊重しましょう。「自分って、よくやってるよ」と、思えばいいんです。「自分って能力もたいしたことないのに、よくこれだけ頑張ってるよな」と、思えばいいんです。
 
 「タメだ、ダメだ」とは絶対言ってはいけません。「自分はダメだ、ダメだ」と言ってると、本当にそうなってしまいます。牽引の法則が働くからです。
 
 「心配」とは、「恐れ」から出る言葉です。
 「尊敬」とか「感謝」というのは「愛」から出る言葉です。

 「愛」の癖をつけるためには、「恐れ」「不安」が出てきたら「仏様ありがとう」と言っちゃえばいい。一人じゃない。仏様と一緒だと分かったら、安心して「愛」になれるんです。
☆「恐れ」が出てきたら「仏様と一緒。だから安心」と言おう。

感謝で商品を生み、感謝で売れるようになる (2007.4.2[Mon])
商売とは感謝に極まるということを宇宙の法則が教えてくれます。

 「物作りの宇宙法則」というのがあって、周りの人たちすべてに感謝し、お任せして「ありがとう」を言っていることで、いいものができるようになりますし、さらに、その商品は確実に売れるようになっていきます。

 これからは、ただひたすらに感謝と喜びで商品を生み出し、扱っていくことです。

 「感謝だけで、営業努力なんてしないで売れるわけがない」と言う人が必ずいますが、根源的なことに気づく、宇宙の調和の法則を生きればいいということが分かってくると、営業努力は、本来いらなくなります。

 努力し、頑張るけど、感謝しない人は、世の中に一杯います。どんなに優秀な人でも、他の人からの支援があって初めて生きていけるのですから、一つの試みとして、努力しなくてもいいから、頑張らなくてもいいから、周りの人に感謝してみる方法を勧めます。

 例えば、クリーニング品を洗って仕上げるのに、もし、僕がいつもイライラカッカしていて、本部もエ場内スタッフもフロントも、悪口や罵詈雑言が飛び交っていたとします。

 そういう状態であれば、まずクレームはバンバン上がってくるし、やがてお客さんは「もういい」って去っていきます。
逆に、僕がいつもフワ〜と軽くて、本部もエ場内スタッフもフロントもみんなが、ニコニコと楽しく、感謝に満ちて、「ありがとう」の言葉を交換しているのなら、ものすご〜くお客さんに喜ばれるクリーニング品がお届けできるでしょう。
 
 どのような心の状態の人たちによって、どのようにクリーニング品が扱われているか、が重要になってきます。
 
 もしクリーニング品が自分のところではクレームが多いと言う事実があったなら、思い出して下さい。
 
 そのクリーニング品は「ありがとう」になっていますか。
 「ありがとう」の思いがないところでは、これからは、多分どんなものでも売れにくいでしょう。
 
 商品が「売れる・売れない」というのは、どうもそういうところに大きな要素があるのです。

 大いなる宇宙とつながるためには「感謝の心」「喜びの心」「創意工夫の心」があれば、今までの苦労や営業努力は要らなくなる、そう感じています。

☆自分を好きになるためには「自己満足50l」「奉仕の心50l」で一銭にもならないことをやっていく。

「自分で自分を好きになる」 2007.4.1[Sun]
何度も自己評価を高めましょう、なんてことをお話しします。そのために自分のことを好きになることなんですよ、ともお話しします。

すると必ず「どうしたら自分で自分を好きになるんでしょうか」と開かれます。
実はそこにこそ、日常生活の中の空しさと縁を切る方法があるのです。
 
結論的には、人から見たら馬鹿なことをたくさんすること。「馬鹿なこと」というのは、金銭的、経済的に全く、あるいはほとんど、プラスにならないこと、です。
 
たとえば、会社に三十分早く行く。そのときに自分のお金でお花を買って行って飾る。

人の机でなくていいから、自分のために自分のお金で机に花を飾ります。
 
あるいは、廊下に落ちてる紙くずを、歩くついでに拾い、近くのくずかごまで行って捨てる。トイレ掃除も当番だからやるのではなく、必ず自分が使用したらやる。
 
まあ何でもいいのですが、「一銭にもならないことをどれだけするか、できるか」が、自分で自分を好きになれるポイントなんです。
  馬鹿なこと、一銭にもならないこと、誰からも評価されないことを一生懸命やってみて下さい。そういう馬鹿なことをしている自分が、いつの間にかとてもかわいらしく、いとおしく、思えてきます。すると自分で自分を好きになってきます。「馬鹿みたい」と思いながら、でも心に温かいものを感じます。

僕は毎年大晦日になると一年を振り返ります。そして自分で自分に「この一年よくやったね」と言えるかどうか、まず考えます。幸いにして毎年、自分で自分を褒めることができます。一銭にもならないことを本当に馬鹿みたいにたくさんやっていますから、おまえはよ〜やった」と褒めてやるのです。
 
ただここで伝えておきたいのは、一銭にもならないことや馬鹿なことをするのはいいのですが、「自己満足」の気持ちも50lは必要です。自己犠牲してまで「人のために尽くす」のはすすめません。
 
「人のために尽くす」「人に喜んでもらう」50l、「それで自分も楽しく嬉しい」50lというのが、最も健康的で、長続きする「自分を好きになる方法」です。

そんなことを繰り返してやっていると、「人のために」しているのではなく、自分が嬉しいから、自分が楽しいから、自分が気持ち良いからやってると、思えるようになっていきます。

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