2007年06月の日記

「大人は、ムッとした気分のまま、人には会わない」 2007.6.30[Sat]
会った時に、ムッとしていて、テンションがすごく低い人がいます。いつもは元気な人でも、たまたまテンションの低いことがあります。テンションの低い人と会うと、相手にまでテンションの低さが伝承します。
テンションが下がることがいけないのではありません。テンションは、上がる時も下がる時もあります。テンションが下がっている時に人に会わないことです。なぜならば、相手のテンションも下げて迷惑をかけてしまうからです。
テンションの低いままウロウロしている人もいます。

よく覚えておいて下さい。人間は生きていること自体がサービス業なのです。人と会う時に、テンションが低いと感じが悪いものです。ビュフェで、目の前で料理をつくってくれるところがあります。ある時、そこで暗い顔でつくっていた人がいました。タクシーでも、テンションの低い運転手さんの車に乗るのは辛いです。でも、いざ自分がテンションの低いときに、平気で人にあえる人がいるのです。そういう人は赤ちゃんです。

また「元気がないんだけど」とテンションの低いまま電話をする人もいます。電話でも、テンションは伝染します。メールだって、ブルーな気持ちのままメールをすると、そのブルーが相手に伝わります。これはコンピユーター・ウィルスよりたちが悪いです。

本人が自分のテンションが下がっていることに気づいていなかったり、自分のテンションの低さをだれかに上げてもらおうとして、人の足を引っ張ることもあります。
外部の人がこのNCに来るのでも、お付き合いで来たり、迷いながら参加する人はテンションが低いです。そうすると、「あの人、何ムッとしてんだろう」と不愉快を与えてしまいます。なかには、緊張し過ぎてテンションの下がっている人もいます。それは仕方ないんですが、まわりに迷惑をかける、よくない緊張です。

人と会うときは、服装ではなく、その人のテンションが重要なのです。テンションを必要以上に上げることはありません。普通のレベルをキープした状態を保つことができるのが大人なのです。

またお見舞いに行く時にテンションの低いまま行ってはいけません。お見舞いは少なくとも自分が元気な時に行きます。入院患者に疲れたテンションを持ち込むのはマイナス効果で、もってのほかたがらです。
爽やかな元気をあげなければいけないのに、疲れた状態でお見舞いに行き、愚痴さえこぼす人もいます。それでは、ウィルスを注射しに行っているようなものです。すべての出会いはお見舞いと同じです。
もうひとつお見舞いでしてはいけないのが、へんな同情です。へんな同情は元気がなくなるだけです。気の毒がってあげることが社会のマナーのような思い込みがありますが、そうじゃない。それは同情によって逆にエゴを増長させ罪をつくっているのです。
相手を元気にしてあげることこそ、大人のルールなのです。

☆テンションの低いまま、人に会わない。

「誘いのチャンスは逃してはいけない」 (2007.6.29[Fri])
赤ちゃんの間は、グループ分けが進んでいないので、誘われるチャンスが多いです。ただ大人の世界は、グループ分けができていて、同じレベルのグループでしか出会えません。レベルが細分化されているから、そこに「どうしようかな」という迷いがありません。

チャンスをつかめない人は、チャンスにめぐり合っても迷います。というか、チャンスの重大さがまったく分かっていないのです。
自分のレベルでは出会えない、自分よりも上のレベルの出会いのきっかけに気づけないのです。だから、自分の上のことなら、迷わずにつかまないと損なのです。チャンスをつかめない人は、「このきっかけを逃してはいけない」という、自分より上のレベルが理解できていないのです。

赤ちゃんは、一回誘われたら、今後もずっと誘われると思い込んでいるから迷ったり、「めんどうくさいから」と平気で断ったり、「また今度」と言います。
「今断ったら一生チャンスがなくなる」という覚悟があるから、「このチャンスは絶対つかまなければならない」と気合が入ります。
大人の判断に保留や、「また今度にします」というのはありません。

一回誘われて行ったけれども、二回目に呼んでもらえないのは、自分が空気をシラケさせないで、その場を楽しむ力量がついていなかったというだけのことです。これを一度でも経験した人は伸びていきます。
そこでムッとしてしまう人は、今までそういう経験をしていないのです。会社に入ったら一生クビにはならないと油断している人です。クビになることもあれば、会社が倒産することさえあります。

こういう人は、すぐ「傷ついた」と言います。「傷ついた」と言うのは、自分の過度の期待を押し付けすぎです。逆に、二回目に呼んでもらえることのありがたさに気づかないといけないのです。

大人の世界では、誘ってもらうことはスゴイことなのです。事前審査に通っているということです。または、「この人に紹介してあげよう」とチャンスを与えているということです。与えてもらってるチャンスの凄さが分からない人は、チャンスをつかめません。誘ってもらえることがスゴイことだと感じられる人は、そのチャンスを逃しません。

「チャンスがない」とか「出会いがない」と言ってるひとは、チャンスを軽く考えて、世の中にチャンスがたくさん転がっていると思い込んでいます。赤ちゃんの住む世界は狭いから、外部との接触もなければ、自分のベビーサークルで動いているだけです。
そこでは、優しく手を差し伸べてくれる両親の存在しかありません。だから、出会いのありがたみもチャンスのありがたみもわからないのです。ところが大人の世界は流動しています。家の中で動いているのと宇宙空間で動いているくらいの差があります。何かと接近遭遇するのはとても大変なことなのです。

☆また今度誘ってもらえるという甘えを捨てる。

「何かを教わる時は、敬意を払う」 (2007.6.28[Thu])
世の中に出たら、先輩や師匠からいろんなことを謙虚に教わることは大切です。赤ちゃんの間は、先生がちゃんと教えてくれます。これを教育といいます。この教育を受けるのは学生時代までです。
社会に出たら、人に教える権利はありません。だから社会では、「教育を受ける」のではなく「自ら学習する」になります。

師匠や先輩が一生懸命試行錯誤を繰り返し、お金も時間も労力も精神的なコストも全部注ぎ込んで得たことを、習う側は「教えて下さい」とか言います。赤ちゃんは「なぜ教えてくれないんだ」と平然と上司にため口をたたきます。教えてくれないと、「なんだよ、ケチ」とムッとします。こういう人は大人の心がまったく育ってません。赤ちゃんのままです。ですから、結局は上司も教えることを嫌がります。傲慢な態度に、こういう人にはかえって上司も周りも教えたくなくなるのです。結局そういう人はツキを自ら逃し、運を敵に回すので絶対に成功者にはなれません。
人は感謝と謙虚さを身につけなければ大人になったとは言えません。
学生の時代は教育ですから受ける義務があります。しかし社会に出たら学習ですから、自らが謙虚に学び続けなければいつまで経っても身につきませんし、成長はできません。これが大人のルールなのです。

教えてもらうときは、教えてもらう人に敬意を払うことです。先輩や師匠がそのコツを習得するために、どれだけエネルギーを割いてきたかを考えずにただ漠然と話を聞くと、大事なことを聞き逃したり、絶対に自分の血肉にはなりません。
テレビを見ていても、インタビュアーでもそういう人は結構います。相手に向かって「大事なことを三つ教えて下さい」とすぐに結論を聞きたがります。そうやって聞いてくる人は、たいてい「ふ〜ん」と聞き流しています。本当に大切な部分が感じ取れていないのです。
他人の長年の蓄積を理解できれば、自分自身も蓄積して魅力的な人になっていくものなのです。

最近、いろんな企業の不祥事がマスコミを賑わします。食肉偽装のミート社の社長主導の姿なんてバカ極まりない。でも僕はバカと思うより「もったいない」と思います。あの人はあそこまで会社を大きくするまで頑張ってきたのです。そういったことはそれなりに評価すべきなのです。ただ一番大切なことを間違えてしまったことは、これは社会的制裁を受けるしかない。大人の人生はすべて自己責任の原則ですから。

ただ、罪を犯した人でも、そこまでたどり着いた道程を感じ、敬意を払う気持ちを持つことが「大人のルール」であることを知っておいて下さい。
またこの「大人のルール」が身についてない人は、場の空気が読めませんから、決して初めての会や大切な会合には連れていくべきではありません。フレンドリーな関係になるために、「こういう部下でも」という曖昧な思い込みは相手からの評価を著しく下げますし、結果的に場の空気がしらけてしまいます。大人の世界で、そういう甘えは間違っています。

☆先輩や師匠が長年苦労して得たものを、簡単に教えてもらえると甘えない。教えてもらうときには謙虚さと敬意を払うという礼儀がいるのです。

「努力してない人ほど、文句や理屈が多い」 (2007.6.27[Wed])
「不公平だ」、「納得できない」、「理不尽だ」、「不平等だ」と、文句を言う人がいます。一方で、そういう文句を言わない人たちがいます。
言わない人たちを見ていると「ある」共通点があります。その共通点は努力していることです。
本来は、努力している人が努力の報われない時に、「納得いかない」、「不公平だ」と言うはずです。
でも。ちっとも努力してない人が、「不公平だ」と言うのは、メチャメチャおかしい。納得いかない、理不尽だと感じる人は、まだ努力が足らないのです。

仕事のグループを見ていても、二つのグループにはっきり別れます。
大人と赤ちゃんのグループに分かれるのと同じように、結果として、努力している人とちっとも努力していない人の二つのグループにはっきり分かれます。
中ぐらいの努力は存在しません。
よく「自分はそこそこの努力をしているつもりです」と言う人がいますが、そういう人は少しはやっているという気持ちで自分自身を怠惰にさせているのです。怠惰もエゴです。自分をごまかしているからです。
  努力している人は、そこそこの努力では止まりません。そこそこの努力を本気で始めたら、120lの努力になっていきます。努力は、し始めると、加速していくものだからです。

そこそこの努力だと自己分析するのは、謙遜でもなんでもありません。これからやろうとする気持ちがあるだけで、実際には努力はしてないのです。
また、努力と比例するのがお金です。みんなで集まって何かをやる時に、文句を言う人の共通点は、お金を出していない人です。
お金を出している人が文句を言うのなら、「まあね・・・」と聞けます。ところが、一円も払ってない人に限って一番文句を言います。リスクを背負ってない人ほど、文句を言うし、赤ちゃんなのです。

これは努力も、お金も、知恵も、労力も一緒ですね。
何かのリスクを背負ったり、コストをかけたりする人は文句を言わなくなります。赤ちゃんの扱いでコストをただにしてもらったり、リスクを背負わなくしてもらうことで、逆に文句を言いやすい状況が生まれてしまいます。文句を言うことがいけないのではなくて、その一つ手前のコストを自腹で出さなかったことが問題なのです。NCでは、出張旅費にしても、研修参加費にしても、制服代にしても、内容によっては3分の1は補助したとしても、あとはほとんど自腹です。僕は教育委員会時代から、コストを自腹で出さずに、結局は身についたものはないと知っているからです。

例えば、主催者側とお客様がいる時、主催者側から文句が出ることはありません。「もっとこうすればよかった」という反省は出てきますが、不平不満はありません。お客様気分でいると、不平不満の出る側にまわってしまいます。世の中で起こることはパーティーと違い、会費は明文化されていません。でも、コストも参加費として、一人ひとりが払えばいいのです。その方が、身になるし、文句がでずに逆にプラスの改善案が生まれてくるからです。
☆文句を言う前に、本気で努力しなさい。自分でお金を払いなさい。

「大人のルール」 (2007.6.26[Tue])
大人は学生でも子どもでもありません。年齢的には社会人でも、意識や行動レベルで赤ちゃんのままの人がたくさんいますが、自身はそのことに全く気づけていません。
この日曜日に、お寺の方に年一度の恒例行事である(株)廣瀬の「供養塔参拝」がありました。お寺の境内には、廣瀬家先祖代々のお墓と、(株)廣瀬の従業員さんたの先祖に感謝を捧げる「供養塔」が建立されています。スタッフ全員でご法話(ほうわ)を聞き、その「供養塔」に参拝すると共に先祖に対して自分の現状を報告し、仕事や生活での自分を新たなスタートを切るというものです。

今年でこの恒例行事は11年目を迎えたのですが、みんな礼儀正しくなって気持ちいい。これも廣瀬社長やマネージャーの智子さんの教育や躾の賜物と思いますが、テキパキと境内の掃除をしたり、自分から挨拶にきたりと、スタッフの姿を見ながら随分「個々人が成長したなあ」と嬉しく感じていました。
礼節や人の道を重んじる会社は、このように人が自然と育っていきます。そして、今まで身についていなかった「大人のルール」を身につけていきます。
「大人のルール」とは、一言で言うと、「自分のオムツは自分で変えられる」ということです。赤ちゃんの間は、オムツが濡れたら泣いたりだだをこねたりするだけです。オムツが濡れているということも言えない。自分が不快であるということを「泣く」という表現や、だだをこねるという甘えや依存でアピールするしかないのです。

人間にははっきり言って。
@大人
A赤ちゃん
の二通りしかありません。というか、現実的にはそういう種類の人しかいません。

大人であっても、学生でもなく子どもでもなく、赤ちゃんという人です。
年齢的には社会人でも、意識や行動レベルで赤ちゃんのままの人がたくさんいます。こういう人たちは、人の道を知りませんし、学ぼうともしていません。
「経営者や上司が自分のことをわかってない」、「待遇が悪い」、「条件が悪い」、「自分がやりたいことじゃない」、「なぜこんなことを自分がやらなければならないのか」と泣いたりだだをこねたりする人がいます。

社会人になり外見は大人ぶっていても、ただ泣いたりだだをこねたりしている間は、オムツが濡れて泣く赤ちゃんのままなんです。だからはたから見ていると、物凄くカッコ悪い。そういう人は幼児性が強く理性や知性が未発達で社会性が育ってないし、自己コントロールができない。当然、リーダーにも人生の成功者にもなれませんし、ツキもなかなかきません。
大人のルールは、赤ちゃんから大人になるために、自分のぬれたオムツを自分で取り替えるために必要なものなのです。そういう大人のルールを廣瀬のスタッフたちは、コツコツコツコツ学んできたわけで、その姿が「気持ち良さ」「爽快さ」として僕の目に映ったんでしょうね。最近はNCからなかなか抜けられないのでとんとご無沙汰してますが、久々に「(株)廣瀬に研修に行ってもええなあ〜」という気にならせてくれました。

☆文句やだだをこねてるうちは、オムツを変えろと泣いてる赤ちゃんと同じだ。

「調子の悪いときに、イライラした顔を見せない」 (2007.6.25[Mon])
ツキを呼び込むためには一喜一憂しないこと。調子の悪いときに、イライラした顔をしないようにします。イライラを直すのも、止めるのも難しい。
イライラしないようにするには、どうしたらを考えます。

そのためには、調子のいい時にはしゃがなければいいんです。
調子のいい時は、誰もがはしゃぎます。すごくおしゃべりになります。でも、本人はまったく気がついていません。
壁を乗り越えた時に喜ぶのはいい。その喜びは十分味わっていいんです。

その喜びが次のモチベーションになって、また次に壁に当たった時に頑張れます。ところが、壁とは関係なしに、ただ調子がいい時にはしゃいでいる人がたくさんいます。
スポーツの試合でも、負けた時はあっという間にいなくなるのに、勝った時にはいつまでも残っている人がいます。こういう人は、負けた時にすごくイライラして、人に当たります。これは仕事でも同じです。

調子が悪いときにすごく不機嫌になるアップダウンの激しい人は、調子がいい時にはしゃぎすぎています。そのバランスに乗っているので、触れ幅が大きくなります。自分の精神状態がコントロールしきれていません。自分自身に振り回されています。

こういう触れ幅の広い、自分の精神状態をコントロールできない人は、まわりの人は付き合いにくいのです。それでは、ツキはやってきません。

調子がいいとはしゃぐのは、調子がよくてうれしいという気持ちを自分の理性で抑えられないのです。「こんなところで自分一人はしゃいでいたら、みっともない」と思えないのです。はしゃいだ結果、まわりの人にやさしくなるのならいいのですが、大抵の場合、横着になります。

これが謙虚さを忘れることにつながります。

アップダウンが激しい人は、人間関係が長く続きません。ある人とパートナーで一緒に仕事をしているとします。仕事がうまくいった時はいいのです。ところが、ちょっと雲行きが怪しくなってきた時に、アップダウンの激しい人は相手を責めるようになります。

うまくいっていた時を基準に考えているので、「あなたの調子が悪い」と言って責めます。自分のツキの悪さを相手のツキの悪さのせいにしてしまうのです。
そうやって、周りの人をツイてない人と決めつけます。ツイてる人にしがみつくことは、大切です。でも、ツイてない人を見た時に、「ツイていない」と相手を見下したり、ののしってはいけません。

☆調子のいい時には、はしゃがない。

「耳に痛いことを避けることでツキは逃げる」 2007.6.24[Sun]
アドバイスを求める時に、耳に心地よいことばかりを人はどうしても求めてしまいます。
耳に心地よいことは癒されますが、そればかり聞いていると、ツキは必ず逃げます。ツキは、心地よい形では入ってこないからです。

耳に痛いことをあえて受け入れることによって、ツキが来るのです。

でも、おおかたの人は耳に気持ちいいことを言ってくれることばかりを求めるので、そういう人ばかりが周りに集まってくるようになります。
あなたの成長に本当に必要な助言を与えてくれる人は、いなくなってしまいます。

ツキが逃げるということは、人が逃げるということです。

ツキは漠然とするものでも、抽象的なものでもありません。ツキは人です。ツキを呼び込めるということは、人を呼び込めるということです。だから、耳に痛いことを言ってくれる人から遠ざからないことです。

アドバイスをする時も、話す側は相手が耳に痛いことを聞く姿勢があるかどうかを感覚的に考えてます。
「これを言ってもこの人は聞かないだろう」と思うときは、言いません。耳にいたいことを聞く姿勢のない人は、その時点であきらかにチャンスを逃がしてしまいます。
その人は必ず、「なんであの時はっきり言ってくれなかったの」なんて言います。でも、言ったら、逆ギレするのです。

耳に痛いことを言われて、「ありがとうございます」という謙虚な姿勢になれるかどうかです。

現代社会は、耳に痛いことを言われる機会がどんどん少なくなってきています。
先生も言わない、親も言わない、上司も言いません。言うと逆ギレするからです。親や上司がグチグチ小言を言うのは、まだ幸せな状況です。

ほとんどの組織の中で、今、上司は小言も言ってくれなくなっています。小言を言うということは相手に関心があるということです。小言も言わないというのは優しいのではなく、相手に対して無関心なのです。こういった職場っていっぱいあります。

あなたが本当に幸せになりたいのなら、耳に痛いことを言ってくれる人に感謝こそすれ、追い払うようなことは絶対してはいけません。ツキもとっとと追い払われていくからです。
☆耳に痛いことこそ、謙虚に聞こう。

「一見無頼だけど、底に生真面目さがある」 2007.6.23[Sat]
よくツキというと、運頼りというメチャメチャ楽なイメージのほうが先立ちます。マジメに頑張っている人のイメージではありません。マジメに頑張ってるけど、結局はツキがないというイメージを持たれがちです。

ツキのいい人を見ると、一見無頼な人生を生きてるように見えます。だから回りからは「あの人はツキだけで生きている」「運だけで生きている」と見られがちです。でも、よく見てみると、ツキの来る人のベースは「生まじめ」です。

基本ベースが生マジメなのが「見えやすい人」と「見えにくい人」がいるだけのことです。一見無頼でメチャクチャな人生を送っているようでも、根本的には生マジメだから、そういう人にツキが来ます。

「ツキ」や「運」という言葉と「コツコツやっている」というのは相反するようなイメージがあります。しかしベースには生マジメさがあるのです。
こんなに生マジメだったら、運やツキを呼べないのではないかと心配になりますが、その心配はいりません。

僕の生活は、現在小学生の夏休みのような生活です。早起きから始まって、一日の時間割がきわめて正確で、早寝します。受験の時は、時間割をつくっていました。今はつくっていませんが、お寺にいたときよりは、はるかにお坊さん的に暮らしています。

仕事をしている時間の多少の差はあれ、毎日のリズムはどんな時でも習慣的になってしまっています。ツキを呼び込むためには、生活リズムが正しくないと難しいのです。自分はこんな四角四面のお役所のような仕事、生活の仕方をしているからツキが呼べないということではありません。

生真面目さや規則正しさが、実はツキを呼び込むのです。気の流れが滞らないからね。

☆生真面目さと、規則正しさを持とう。

「ゼロからやり直す力を持つ」 (2007.6.22[Fri])
僕自身振り返って、「50歳にもなってなんでこんなにも緊張することがあるんだろう」と思います。
それは。ゼロからのことばかりをやりすぎてるからです。

10代は、大学受験と空手部で緊張しまくりでした。

20代は教育行政という新しい社会に入って、一番下っ端から分からないことを学び上げて、新たな企画をどんどん形にしていきました。
と同時に、田舎の子どもたちに空手を教え、全国大会で入賞させるのにとても緊張しました。

34歳で教育行政を辞めて、企画会社の経営の世界に入りゼロからで緊張しっぱなしでした。教育行政の世界にいたら、それこそ中堅で、緊張しなくてすむところにいけたのに、また誰も実績を認めてくれないところから始めました。

38歳の時、父がなくなって会社をたたみ、住職や園長としてまたゼロからスタートを切りました。

48歳の時、やまっち(会長)が倒れて代表を引き受け、クリーニングに対してまたゼロからのスタートを切りました。

とにかく別の世界に行くとまた一から始まりますが、緊張を生み出します、これがないと、人間が傲慢になるのです。
今までの財産だけに頼っている人は、絶対にツキは来ないと思います。ゼロになる力、ゼロからもう一度やり直す力が、ツキを呼び込む力になっていくのです。それはチャレンジャーだから、ツキを呼び込めるわけです。

長年培って、安定して確立した自分の世界の中にいるだけではツキはやってきません。チャレンジしていくことでツキを呼び込めるのです。ツキの来ない人は、自分の過去の業績に頼っています。
それより、

「自分は小学校の時からクラブ活動で培った人間関係ノウハウがあるから、これを今の仕事に生かそう」こう考えるのが、ツキを呼び込む発想です。そこにあなたの魅力が生まれるのです。

ゼロからやり直せるということは、いつも目の前の出来事に対してチャレンジする姿勢があるかどうかです。チャレンジしていく人はツキを必ず呼び込んでいけるのです。

☆ゼロからやり直し、新しいことにチャレンジする姿勢がツキを呼ぶ。

「一生懸命な人ほど、笑ってる」 (2007.6.21[Thu])
一生懸命やってる人は、ほのかな緊張感がある人です。ほのかな緊張感がある人は、場の空気が読める人です。場の空気が読めてほのかな緊張感のある人は、ツキを呼び込みます。そういう人は、絶妙なタイミングで笑いを提供できます。笑ってない人は、逆に緊張感のない人です。

笑える人は、リラックスしているイメージがあります。でも、リラックスしかしていない人は笑えません。別の言い方をすると、一生懸命することによって緊張します。一生懸命している人の方が笑っているのです。一生懸命行動しない人は、笑いもありません。

笑いは、緊張と緩和から起こります。

緊張がないところに緩和は存在しません。緊張は、「なんだろう」「何これ?」「どうしたらいいんだろう」と思うことです。「なんだろう」と追い詰められている状態から、実はこうだとわかって「なんだぁ」と思う瞬間に笑いは起こります。

よく「箸が転んでも笑う」というのは、箸が転んでもドキッとできるってことです。箸が転がって、カラカラッと音が鳴って「えっ」と思う瞬間は緊張状態だってことです。これが「箸が転んでもおかしい年ごろ」の真意です。何を見ても脅えたり、びっくりしたり、何にも一生懸命で感受性が豊かなという表現です。

「あの人はなにかニコニコしてる」と言われるのは、一生懸命な人です。一生懸命じゃないと、ニコニコもでないのです。仕事も人生もそうです。笑いがある人は一生懸命で、笑いのない人は一生懸命じゃあありません。常に緊張が先にあって、初めて笑いがあります。

お化け屋敷に入って出てくる人は笑ってます。ジェットコースターから降りてくる人も笑ってます。ところが、「怖いからやめておく」と下で待っている人は青い顔のまんまです。乗った人がそうだったらわかりますが、乗った人はみんな降りてきたら笑ってます。

笑えるのは気が強いからじゃない。極度の緊張を通り抜けたから笑えるんです。

一生懸命やっているような素振りをする人、まわりから一生懸命やっているように見られようとする人は、しかめっ面をしています。その人には、しかめっ面をとるための緊張感がありません。
勘違いしないで下さい。笑える人は緊張感があり、しかめっ面の人は緊張感がない。笑える人は一生懸命で、しかめっ面の人は一生懸命らしく見られるためにやっている。

緊張状態に追い込まれる人の方が、天真爛漫に笑えるものなんです。

☆仕事でも、人生でも、笑いのないところで笑う。

「行動すると不安にならない」 (2007.6.20[Wed])
「悩む」と「不安」になると思っていますが、「不安」は「悩み」とは逆です。悩んでない人が実は「不安」になります。
「悩んではいけない」と思って、悩みを中途半端におりると不安になります。

「何かになりたい。これをやりたい」→「なかなかなれない。なかなかできない」→「どうしたらなれるだろうか。どうしたらできるだろうか」→「チャレンジしたらだめだった」と悩んでいる人は、不安なんか感じてるヒマなんてないんです。

悩んでいないと、行動していないから頭の中にヒマが生まれます。だから、行動していない人ほど「不安」になります。

行動している人は、行動するたびに問題にぶつかって、その問題を本気で考えるから、「不安」を感じているヒマなんてないんです。
「不安」は漠然としたもんです。具体的な不安なんてありません。

「将来どうなるかわからない」と言う人は、行動していないから具体的な不安はありません。「今度の企画どうしよう」「明日、発表会があって眠れない」というのは、緊張であり、悩みですが、不安じゃない。

何も行動していない人は、「将来どうすればいいんだろう」とポワンとした状態で生きてます。これが不安です。

よく「不安だ、不安だ」と言う人がいますが、こういう人は安定した状態にいる人なんです。不安定な状態にいる人は、不安を感じません。
崖から落ちないでいられるか、どうしたら上がれるかを真剣に考えます。精神状態は緊張状態であっても不安ではありません。
ところが、じっとしている人は「これでいいのか」と不安を感じ始めます。

そういう人は、行動しない不安な仲間を必ず集めます。

そして不安グループは、「こいつも不安だし、あいつも不安だし、これでいいのか」「こいつの不安に比べれば自分の不安はまだましだ」と、仲間を増やして傷をなめ合うことで不安から逃れようとします。

それではどこまで行っても不安からは逃れられません。
感じたら、とっとと行動を移すこと。動くことです。

☆不安になったら、とにかく行動する。

「マナーをよくすると、ツキがくる」 (2007.6.19[Tue])
17日は父の日でした。僕は子安庵の二階で熱を出して寝込んでいましたが、下ではやまっち(会長)の子供さんたちが来て「父の日」のお祝いをしていました。なんとも微笑ましく、家族の絆の深さを感じさせてもらっていました。
それと同時にピ〜ンと来たのが、社長(会長の奥さん)の繊細なねまわし力です。子どもさんたちも、当然「父の日」を意識していたのかもわかりませんが、母親である彼女が事前に電話や「ねえ、あんたたち17日は何の日か覚えてる?」なんて声かけをしてねまわしをする。そして相手が喜ぶことのヒントを与えて行動に移させる。こういう場面を僕はいたるところで見ます。

例えば、社長は来社するお客さんたちにも、気配りのお土産を必ず用意したりします。その敏速な対応は、なかなか真似ができるものじゃない。お世話になった相手や出会った人にはすぐに礼状を書くし、お世話やお付き合いしている人たちには必ずお中元やお歳暮を送る。電話も入れる。当然相手は気持ちよく喜んでくれるはずです。一見当たり前のことのようですが、なかなかこれができないものなのです。そういうことは大切だと知っていても、行動には移さないわけですから。
 実は僕も大学時代、事あるたびに母親からねまわしの電話で、「あんた、この日覚えてる?」とか「◎◎さんにお祝い送っときんさいよ、世話になったんだから」とかで、「おっと、忘れとった」と、慌ててお祝いの電話をしたり、物なんかを買って送ったものです。
こういうことは決して見返りを期待してすることではない。ただ、相手の喜ぶことをやった見返りは必ず来ます。それをツキと呼んでもいい。ツキが来る人は、こういった細かな気配りや義理がたい人です。
ツキが来ない人は、頭でこういうことを認識していても行動しない人です。良い癖が身についていないと言っていい。

例えば、ラーメン屋さんに行った時に、自分の荷物を隣に置く人がいます。すいてればいいんですが、混んでても置きっ放しの人がいます。明らかにお客さんは立っていて、それをどければ座れるのにです。映画館でもそうです。本人は、下に荷物を置くと汚れるし、隣があいているほうが広く使えると思っているからです。
実はそれでツキを逃がしているのです。
父の日を祝う、母の日を祝う、敬老の日を祝う、その人の誕生日を祝う、お中元を送る、お歳暮を送る、礼状を送ったりお礼の電話をする、等々。大袈裟なことはしなくても、電話一本かけること。こんなのもぜ〜んぶ、心温まるマナーですね。
 マナーをよくすると、ツキが来ます。マナーが悪くてツキのいい人はいません。マナーと言うと道徳的なイメージがありますが、マナーは人のためにやることです。その連鎖反応としてのツキが来るのです。ツキは流れです。自分の取った人のための行動によって流れが変わるのです。そしてツキがやってくる。だからいくらこんなことを知っておいても、行動しない人は永遠に流れも変わらないし、ツキもやってきません。
成功する人はどんどん成功し、失敗する人はどんどん失敗します。ハッピーになる人はどんどんハッピーになるし、アンハッピーな人はどんどんアンハッピーになるという流れになります。「自分はツキがないなあ〜」と心当たりのある人。あなたは感じたら即行動してますか?
☆マナーをよくすると、ツキが来る。

「日々の人生は愛(本質)かエゴ(私が)かのテスト」 (2007.6.18[Mon])
僕は過去、何度も人の思いが現実を引き寄せ、現実を創り上げているとお話ししてきました。
ですから、日々のなにげない出来事は、常に自分の心は愛かエゴかを選択するテストのようなものなんです。
日々の出来事をぜ〜んぶプラスに受け入れることは結構難しい。だけど、そのすべての中にあなたが勇気を出して前に進むチャレンジャーであるか、なんとなくごまかして守ろうとするものであるかのテスト内容が組み込まれているわけです。

結局のところ、あなたの目の前に現れてくることはすべてあなたが創っているテスト問題なんだって知っておいて下さい。その瞬間瞬間、愛かエゴ(恐れや不安)を選択するかのテストなんです
ところで最近、生活の脈動が加速してきているって気づいてますか?

例えば、即座にやるべきことが急に増えたり、自分を維持するだけでも精一杯というような速度で物事に対処しなければならないぐらい、仕事にしても生活しても益々早く動き出していると実感しているかもしれません。そしてあなたが意識の焦点を合わせたことが、同様のスピードでプラスもマイナスも現実化してきているって気づいてますか。
外に現れてくる世界は、あなたの心の内側を映す鏡です。プラスもマイナスも。

加速のついた大きな流れは、一人ひとりの意識の転換を促しているし、加速して変化成長していくことを望んでいます。その加速のついた大きな流れに戸惑い、過去の価値観や自分の枠にとらわれる人にとっては、この変化の流れは物凄いストレスをともなうでしょうし、やがて踏ん張り切れなくなった意識も肉体もその流れのスピードに飲み込まれるように、ひっくり返されることになっていきます。
ですから、大勢の家族や個人や企業が、その大きな流れによって窮地に追い込まれるようなきわめて不愉快な思いをさせられます。もっと心を柔軟に大きな流れに乗って素直に生きていきなさいという働き、あなたの生活や価値観や信条を変えようと促す働きは、驚くべきペースでエスカレートしています。そしてその働きに戸惑い苦しむ人や組織や家族も数多く出てきています。
ただ、本人にとっては苦しく感じることでも、これらはすべて素晴らしい兆候だってことなんです。愛という本質に向かわせるための働きですから・・・。

これは、今もっとも必要な、正しい生き方への修正の働きであり、すべての人が直面し、気づき、実行していくための働きそのものであるからです。仏さんのね。すべてはエゴ(恐れや不安)から心の本質に向かわさんとする働きです。
そんな大きな流れが物凄いスピードで押し寄せていることを、仕事の現場で尚更感じ取っています。
☆物凄いスピードで人も会社も家族も変化を求められている。エゴ(恐れ、不安)から愛への変化を。

一言
●さて今週一週間も変化変化でとっとと前へ進んでいきましょう。●今日は木更津工場の石塚くんの誕生日です。何歳になったのかなあ〜。

「気持ちよい心構えを持つ」 2007.6.17[Sun]
昨日はニューズレター8月号のボスのそらごとを書きました。内容は「ロハスと共命鳥(ぐみょうちょう)」。この内容は8月号でまた読んでもらいたいのですが、簡単に言うと。近代資本主義は一面から見ると、有限な地球を掘り起こし、いじめて環境を悪くして、崩壊へとまっしぐらに進んできたわけです。

で、これからは世の中の仕組みを変えなければ、これ以上暴走することは許されない、そのためには正しい人間の生き方を知り、それに従って生きることです。
つまり第一は、

@人間は地球上の生命体すべての遺伝情報を持って、地球上のすべての生命体の運命に責任があるし、責任を持たなければいけません。
A人間は理性的存在であることです。だから、悪いと感じたことは止め、よいと感じたことはすぐに実践すること。つまり努力してエゴの方向には向かわないことです。
B人間は学習することによって頭をよくすることができます。それによって世のため人のために尽くす生き方ができるようになっていきます。

という三つの特性に沿って生きることが法則に従って生きるということなんです。

第二は、自然のルールに従うことです。自然の営みには、人間がいくら頑張ってもかないませんよね。今の世の中は自然のルールに逆らうことが多すぎます。

第三は、本物を目標にすることです。本物であるかどうかは、それが蘇生化するか、崩壊化するかではわかります。いまこそ僕たちは本物を識別する眼を養う必要があります。

第四は、考え方や価値観を変えることです。どんなことでも肯定、感謝、プラス発想するように考えることです。人間は本来仕事も人生も愉しむために生まれてきたのですから、この考え方に立つことが最も自然に合致し、もっとも正しく、本物の生き方であるように思えます。

こういった心構えを一人でも多くの人たちが持つことで、世の中の仕組みは変わっていくと思いますね。

☆法則に従った正しい価値観や生き方が求められてます。

一言
●またまた久々に風邪を引きました。ちょっと蒸し暑いなあ〜と思ってドライを入れてたらこの始末。本当にこういうのは駄目になりました。受け付けませんね、身体が。

「尊敬できる人を見つける」 2007.6.16[Sat]
よく「自分探しをしているんです」と言う人で、実際に動いている人はほとんどいません。親のパラサイトだったり引きこもりでも、その口実が「自分探し」というきれいな言葉になってしまっているんです。

本当に自分探しをしている人は、動いてます。

動いている人は「自分探しをしています」なんて言いません。
動いている過程において、結果として自分が何かが見つかるのです。

またこういう人は、尊敬する人を見つけないと伸びていけません。ただ、才能は尊敬の対象にはなりません。尊敬すべきは、その人の姿勢であり、心意気や人生観です。誰を尊敬するかで、自分の価値軸が、わかります。
自分探しをしている人は、自分の価値軸が揺れています。こういう人には「尊敬する人」がいません。というか、見つけられないのです。

尊敬するのはどういう人かというと、

@素直で志を持っていること。
A一生懸命であること。
B長く続けているものがあること。
Cサービス精神があること。
D感謝とプラス発想ができること。
Eスピードがあること。
F仕事量や勉強量があること。

尊敬する人について考えることは、人間関係について考えることです。と、同時に、自分自身を発見する観察でもあるのです。

自分に足らないものを考えると、必ず技術と才能という言葉が出てきます。ただこういう物は憧れにはなりますが、尊敬にはならない。

尊敬できる人というのは、魂に火をつけられる人です。火のついてない魂、火のついていない心では、何も生かせません。動けるためには、点火してくれる人を見つけること。自分の心に火をともしてくれる人をみつけることなのです。
火のついてない心にいくら技術を足しても生きません。熱く燃えた状態になることで、技術が実力より上回っていくのです。

魂に火がつけば、少々のデメリットやむずかしいハードルがあっても、乗り越えていけます。自分の心に火をつけてくれる人、そういう人が尊敬できる人なのです。

☆尊敬できる人は心に火をつけてくれる人。

「父親としてどう生きるのか?」 (2007.6.15[Fri])
昨日は娘との距離を縮めるためにはとにかく一緒にいる時間の長さがポイントなんだって、僕なりの気づきをお話ししました。これはどんな人間関係にもいえるってことを。
 ただそれは、単に娘の遊び仲間の一員に加わることじゃない。娘とすれ違いの生活を続けていたままでは、お父さんの存在感を示すことができないって分かっているからです。
 時間を共有すると言っても、ただ、娘と食事に行くとか、どこかに一緒に行くとかということじゃなく、僕が何を考えているか、家族や娘をどれだけ大切に思っているかを、時間を共有することによってさりげなく伝えていける。それが信頼関係を深めることにつながるって感じてるからなんです。
 最近テレビを見ていると「友達のようなお父さん」という子どもたちが多いのにビックリします。
一昔前までは父親と言えば堅物で仕事一筋の頑固者と相場は決まっていました。
 つまり、家族に惜しみなく愛情を注ぐけど、一本筋は通ってる、そんな父親が理想の父親であったように思います。だから、こういう父親を娘は友達感覚ではとても見られなかった。
 また僕は娘の話を聞きながら、また、若い人たちがいう「友達」とは、とても刹那的なような気がしてなりません。楽しく遊んで笑い合っているけど、その友達を心から信頼しているかといえば、はなはだ心もとないという感じがする。 
親友じゃなく、遊び仲間のような関係を「友達」と呼んでるようですね。どうもね。以前、「父親は友達みたい」と言ってる若い人に、「どうして友達みたい?」と聞くと、「結構、好き勝手にやらせてくれる」「うるさいことを言わない」「自由にさせてくれる」などの言葉がボンボン飛び出していました。僕は「はあ〜?」と呆れ顔でしたが‥・。 
 では好き勝手にやらせてくれなくなったら、うるさいことを言うようになったりしたら、「友達」じゃないってことになる。それは、面倒なことを棚に上げて、娘の気に入るような父親を演じてるってことで、それじゃあ本当の信頼関係なんて深まるわけがない。
 そうじゃなくて、僕は父親は娘に対して、少なくとも20歳になるまでは、後ろ盾になって守りながら人の道とは何かを教えていく必要があると思っています。これは息子にも。そして、わが家にはわが家のルールがあるということも、絶対に伝えていくことなんです。                
例えば朝、「おはよう」と言うのは小さな家庭のルールです。僕はそのルールが世の中のルールとつながっていて、家で守るルールは社会のルールなのだということを教えていくことが、特に父親の役割なんだって思っているのです。                  
                      
昔は地域ぐるみでそれを教えていたんだけど、今はそれが見事に崩壊していってしまった。していいことはどんどんやって、していけないことは絶対にやってはいけない。たとえば弱い人をいたわるとか、明るく譲り合う「おたがいさま」の気持ちを育てるとか、それを家庭で教えなくなったばっかりに、電車のアナウンスで車掌さんが仕事の一部としてみんなにお願いしてるなんて、おかしな世の中です。
子どもを含め、人がお年寄りに席を謙るなんてことは、本来「お願い」されてやるようなもんじゃない。やってあげたいと思い、やらなければならないと自発的に思ってごく自然に体が動くもんです。こんな心を忘れてしまうと、これは自由なんてものじゃなくて、「利己主義」「自己中」「エゴ」というもので、自由とは似て非なるもんですね。
 そんな僕の考えを、説教じみた頭ごなしの押し付けじゃなく、何げない娘との会話の中で、さらっとルールのポイントを伝えていく。そんなことが僕にとって娘との信頼関係を深めるコミュニケーションだって思っています。

「娘との距離は一緒にいる時間の長さによって縮まる」 (2007.6.14[Thu])
ほぼ単身赴任でいる僕が、今回は三日間、広島の自宅にいました。それにしても、仕事一筋できた僕にとっては、家族、とくに娘と時間を共有するなんてほとんどなかったわけで、久々のお休みというよりも、京都への出張のかみさんの留守をあずかり、母の世話もどきや、中一の娘と時間を共に過ごすというものでした。
 ところで、かみさんが京都へ行く前日、久々に家族で一緒に夕食をとったんですが、なんというか、娘との接し方がお互いうまく噛み合わない。娘もそうだし、こっちもそう。お互いなんとかコミニュケーションを取りたいのだけど、なぜか逆のことを言ってみたり、意識するあまり言葉がスベッてみたり・・・。
 久々でしたね、あんな不自然な僕は。とてもビジネスの場面で気難しい得意先の担当者にうまく対応出来る人と、同一人物とは思えないほどね。
 次の日、かみさんは京都に出発しました。日中は日頃できないこちらの仕事をバッバッと片付け、その夜、中学校から帰った娘と甥の淳一が作ってくれた夕食を共にしました。淳一とは本音を話し合い、コミュニケーションもスムーズに取れるのですが、やはりその時も、何かぎこちなかった。どうして娘にはあんなに不器用になるんでしょうか?
 ただ就寝前になって二人で二階に上がり、彼女の学校での話を「ふ〜ん、そうなんじゃ」と聞いているうちに、少しずつ彼女との距離が縮まっていく。内心、嬉しかった〜。

 そして二日目の朝、娘はなぜか「お腹が痛い」と言い出し、結局は内科のある病院に連れていきました。病院に行く車中、待合室での時間その後、僕の携帯を新しく買い替える買い物に付き合ったり、母のお見舞いに行ったり、昼食を共にしたり、こうして一緒にいる時間を少しずつ延ばしていくことが、娘との距離が少しずつ縮まっていくことを実感していました。
で、僕は思いましたね。とにかく何らかの人間関係は、ビジネスの社会も親子の間でもそう大きく変わるもんじゃない。信用とか信頼が基本になって、深い人間関係がつくられていく。そしてやっかいなことに信用とか信頼は、そのまま放っておくと少しずつ薄れてしまう。だから連絡を取り合わないと。
 ビジネスの社会では相手は見ず知らずの他人ですから、一生懸命相手を知ろうと努力し、自分のこともわかってもらおうと努めるもんです。
 ところが親子関係では、知っている気、分かり合っている気になって、努力を怠ってしまう。これが娘との距離を遠ざける原因になっているって感じました。
 そのためにはむき出しの本音で娘に迫っても距離は縮まらない。そうでなくて、同じ時間を共有しようと努力すること。改まった会話なんてなくていいから、何となく一緒にいるってこと。これがすべての始まりになるし、なにげなく共にいるだけで、自分のことを見守ってくれていると信じてくれるようになってくれる。
 「ああ、これも、潜在意識のシステム通りだなあ〜」と改めて「仕事、家族、お金、健康、人間関係、趣味、専門性、すべてにハッピーな意識を同じように向けないと潜在意識は現状維持メカニズムによって、すべてがうまくいかなくなる」。と、潜在意識のルールを思い出していました。
 三日目の千葉に行く朝、娘とは「メールのやり取りを」約束して、広島を後にしました。たった三日間でしたが、距離ができてしまった娘との関係を修復するために大切なことや、父親の役割を取り戻すってどういうことなのかが、なんとなく実感的につかめたような気がしました。あとほマメなメールだね。

「1日、2つのことをしよう」 (2007.6.13[Wed])
さてと、「がんこ本舗」もそうですが、もう一度基本的な職場の最低限の心得&ルール編
を伝えておきましょう。

日々成長する。変化する。そのためにはやはり日々のテーマが必要です。それでやはり流された一日では終わらないと、決めることです。そして「1日に2つのことだけできればいい」と目標を立ってみましょう。

ですから、今日からの「変化表」や「日報」の中に「@人のため」「A明日のため」の2つでいいから、この2つのことができているかどうか毎日考えてみましょう。そしてどの欄の中でもいいから、@Aを記入してみましょう。

一見いろんなことをやったように見えても、「自分のためのこと、今日のためのこと」しかしていなければ、前に進みません。

今日より明日、明日より明後日と、前へ進むことが大切です。

人のために何かをすると、明日のために何かをしようという余裕が生まれます。この余裕が大切ですね。余裕のある人は成功できるけど、余裕のない人は成功できません。

よく「人のために何かをやっているヒマなんてありません」「今日のことで手一杯で、明日のことなんかやってるヒマはありません」と言う人がいます。なかなか成功や成長や変化にむかえない人は、「やらなければならないこと」の優先順位が自分で決められないのです。
これでは、いつまでたっても本当に一番大事なことに手をつけられません。「今やらなければならないこと、自分のためにしかならないこと」ばかりをして、結局いつまでたっても成功できない。成長できない。変化できないのです。

成功、成長、変化するためには、そういう人のやり方や生き方を真似ることです。余裕のない頃から、余裕のある人のやり方をマネしていけばいいのです。

☆1日「@人のため」「A明日のため」2つのことをしよう。

「尊敬する人についていきたければ、走りながら考える」 (2007.6.12[Tue])
僕はその人がどれだけ陰ながら頑張ってるか、どうか一目で分かります。恵まれた出会いに対して、尊敬する人についていきたければ、ひたすら量で頑張るしかありません。追いつかなくていいのです。大切なのは、追いつこうとする姿勢です。

前を走っている人の背中がどんなに小さくしか見えなくても、あきらめないことです。マラソンでは、前に人がいないほどつらいものはない。でも、前に人が見えれば、「走ろう」という意識は続きます。それ以上、引き離されないように頑張るのです。

「凄い人」を見つけたら、その背中がどんなに小さな点になっても、見えなくならないようにすることです。気持ちで見ていくのです。ゴマのような点になっても、常に背中が見えている状態にしておこうと努力するのです。

「凄い人」の進むスピードは、半端ではありません。師匠のように速くなりたいのに、弟子の成長するスピードよりも師匠のほうがはるかに速いのです。師匠は絶対に追いつけません。大切なのは、師匠においてきぼりにされないように、ついていこうとする気持ちをなくさないことです。

背中がどんなに小さな点になっても、見失わないようにするのは、あなたのスピードをあげるしかないんです。足を止めて悩んだりウダウダ言ってる暇があるんだったら、スピードアップして量をこなすことです。

「これってどういう意味があるんですか」を考えていたら、もったいないのです。師匠が「これをやってみな」と言うことに対して、「それはどういう意味があるんですか」と言う人と、「はい、やります」と言う人とでは、すでに勝負がついてます。

人生もマラソンと同じです。マラソンでは、「それはどういう意味があるんですか」なんて立ち止まることはありません。走りながら考えればいい。まず理屈を言うより、走り続けていく。それが凄い人を追っていく人生なのです。

☆意味なんて後回しすることで、チャンスはつかめる。

「過去の自分はひどいほどいい」 (2007.6.11[Mon])
豊かで潤いのある人生を送れるかどうかは、経験欲があるかどうかで決まります。人をワクワクドキドキさせられるかどうかも、経験欲があるかどうかで決まります。経験欲のない人は、狭い範囲で生きて変化を嫌います。変化を嫌っていると、何故かテンションが低い。

人は人と比較して、勝手に滅入っていきます。比較するのが悪いんじゃない。比較する対象を間違ってるんです。すべての基準は、自分自身です。過去の自分と今の自分を比較することです。過去どれほどひどくても、今ワクワクして生きていけばいい。だから「今の自分と一年前の自分を比較すること。一年前に比べたら、成長しているってことが分かるはずです。
一年前に悩んでいたことに、今はビクビクしないはずです。5年前、10年前と比べて、成長していることが分かってくると、「今日はもっとよくしよう、明日はもっとよくしよう、来年はもっとよくしよう」という気持ちになります。

未来を生きていくのです。一年前と比べたら、今は余裕も生まれています。これが成長です。前は失敗して落ち込んでいても、「こんなこともあるし」とヘラヘラ笑って言えるようになります。

過去の自分は、ひどければひどいほどいい。そこから頑張ればいい。他人や過去のように、変えられないことを変えようとするから、つらくなります。

自分のエネルギーは、自分や未来を変えることにそそぎましょう。エネルギーの使い方がラクになると、落ち込むこともなくなっていきます。

人には、「人とつながりたい」という欲求があります。人は、お金や利害損得で本当につながることはありません。お金や利害損得でつながっている人は、お金や利害損得がなくなれば自然といなくなります。

人は、「こういうことをやりたいよね」という志・夢でつながります。

ただ、夢はなかなか実現しません。だから、いいのです。夢があるから、永遠につながっていける。人と人とは未来の夢でつながっていくことです。決して過去でつながってはいけない。「こんなことをやろう、あんなことをやる仲間に入りたい」があれば、本当は実績も実力もいらないのです。何かで役に立てるからです。それが「人とつながっていく」ということです。

今は、過去と未来との半分ずつでできます。今の中には過去も未来も、両方あります。「今、何をやっているか」が、未来につながります。今日やっていることが明日につながります。これが「今」という観点です。だから未来を夢見て、今を精一杯生きるのです。ワクワクドキドキは、そんな中から起こってくるのです。

「これをサボルと、あれもサボル」 2007.6.10[Sun]
経営者やリーダーとして最も大切なことは、社員やスタッフをワクワクドキドキさせることです。社員やスタッフをマンネリにさせないためには、自分もマンネリにならないことです。経営者やリーダーが、まずドキドキワクワクすることです。

ドキドキワクワクしていると仕事が面白くなるからです。仕事にワクワクできるかどうかは、自分の取り組み方次第です。
多くの人は、仕事はワクワクするもんじゃないと思い込んでいます。「仕事」という言葉には、「家庭・生活・給料のため」という考え方が先に立ちます。義務感です。

ただ「仕事」を「人生」に置き換えると、「明日の朝から人生を生きないといけない」ということはなくなって、明日の人生もきちんと生きられます。
「まだ残業で仕事しないといけない」と言うときの「仕事」を「人生」に置き換えると、「まだ人生が終わらない」になります。

人生は、「よし、終わった」と言って終わらせるものではない。あなたがやることは、仕事ではなくて、人生です。だから「仕事をサボル」ということは「人生をサボル」ということなのです。それよりも、今を直感に従って生きることです。

直感に従って体が動く人は、人生を生きてます。「もっと人生を生きよう」という気持ちがあります。意欲を持ってます。無欲ではなく、意欲です。

人間を動かすものは、希望、勇気、愛です。これが意欲です。
この欲は、物欲や、金銭欲とは違います。お金儲けをしたい、いい家に住みたい、いい車に乗りたい、いいバッグがほしい、いい洋服を着たい、いいホテルに泊まりたい、いいレストランに行って美味しいものを食べたい・・・、これらはすべて物欲です。

ところが、欲の内容は微妙に変わっていきます。最初は物欲、金銭欲、出世欲、名誉欲で動きます。そこから、そこに止まる人。そこから上のステップの欲に進む人。この二通りの人に別れます。

仕事をしてお金儲けをしたい、できれば自分の会社を大きくしたい、会社の中で出世したいというのも、すべて欲です。欲からすべては始まります。欲を否定することではない。人間は、ともすれば、欲を否定します。「お金持ちになりたい」と言うと、「へえ〜、株でもやったら」って白い目で見られます。でも、正直に「お金がほしい」という欲を認めることが大切です。

ただ、ずっと物欲、金銭欲を追い求めた人が、途中から別の欲に変わっていくことがあります。それは経験欲という意欲です。
金銭欲や物欲で止まる人は、お金を溜めたり物を所有することを満足としますが、だんだん物足りなく感じます。それが新しいことにトライする経験欲、体験欲に変われば、その人の成長と自己評価になっていくのです。

☆物欲、金銭欲より経験、体験欲を持とう。

「安定の中にワクワクはない」 2007.6.9[Sat]
安定の中にワクワクドキドキはありません。同じ仕事ばかりしていると、燃えなくなります。仕事を覚えるまでは、ドキドキ・ハラハラします。それが慣れてくると、仕事のパターンが身につきます。これが「仕事ができるようになる」ということです。
そのかわり、ワクワクドキドキはなくなります。

NCの仕事はクリーニングです。それも水で洗うというリスクをいつも背負っています。今もスカーフを水で洗ったらプリーツが取れてしまったと話がきました。このように製品によっては「水で洗ってはいけない」ものもあります。このことを見極めるには適度の緊張感と、経験や判断力がいります。目の前に表れてくる製品がいつも違うのですから、仕事に慣れるどころか、常に緊張感がつきまといます。
だから僕はクリーニングっていつもワクワクドキドキして凄く面白いと思えるのです。

同じ仕事をしているからマンネリになるのではありません。同じやり方をしているから、マンネリになるのです。NCの仕事は同じやり方は通用しません。常に創意工夫して変化させないとクリーニングは失敗ばかりしています。常に変化しなくてはならないというリスクを背負っているから仕事がワクワクドキドキで、マンネリにはなりません。
だから、同じ仕事でも、違うやり方をしたら、マンネリにはならないのです。

恋愛でも、同じ相手といたらマンネリになるということではありません。同じ相手に対して、昨日とは違う愛し方、愛情の注ぎ方、愛情表現の仕方にチャレンジすることで、マンネリは避けられます。同じやり方ばかりだから飽きてくるのです。
昨日とは違うやり方にトライすることが、とにかくマンネリにならないコツです。

とにかく新しいことにトライしている人は、生き生きして魅力的です。企画を聞いても斬新で面白くワクワクします。過去のデーターに縛られてないからです。変化のエネルギーを感じれるからです。

例えば、奥さんが習い事をし始めると、家庭内でのエッチが増えるとある本に書かれていました。奥さんが習い事や仕事で出かけると、変化や刺激があって生き生きし始めます。ダンナは、「こいつ、ひょっとしたら浮気をしてるのかもしれない」と心配になります。当然、オスの本能が目覚めるからです。今まで完全に確保できていたと思っていたものが、確保ではなかったと気づいて、頑張り始めます。奥さんは、頑張り始めたオスに魅力を感じます。いい循環と刺激の連鎖が起こるのです。

習い事や仕事でできるようになるかならないかということは、関係ありません。日々の刺激や変化によって、ふだんの生活が生き生きします。自分がワクワクドキドキし始めるのです。 大切なのは、ほんの少しのことでドキドキできることです。変化や刺激のない人は、すべてのことにドキドキしなくなってしまいます。ドキドキセンサーが壊れて、さびていくからです。
何も変化しないと、マンネリがやってきます。

☆日々変化してないとドキドキセンサーがさびる。

「行動の制限を取り払ってくれる人が師匠」 (2007.6.8[Fri])
目の前にいる人に全力投球すること。それが一期一会です。目の前にいる人に全力投球しないで、別のことを考えていたら支離滅裂です。ボールをゴールに蹴らずに、横に飛ばすのと同じです。

目の前の人に全力投球していく人が師匠です。自分に正直に生きてる純粋な人です。自分よりかたい人、真面目な人に師匠の基準を持っていくと、「こんなことをしたらいけない」ということばかりが気になって、常識の幅が狭くなっていきます。そうすると面白くもなんともない人になってしまいます。

自分と比べてできるだけ極端な人を師匠として頭に浮かべることで、「あの人に比べれば自分なんてまだ半分も行動できてない」と考えられます。価値観や行動の枠を取り払ってくれるのが師匠です。

はっきり言って、真面目な人、堅い人は師匠にはなれません。制限を与える人を師匠にすると、行動が制約されて変化できません。行動半径を広げられる人を基準に持ちましょう。

グチ、悪口、ウワサ話が好きな人は、行動範囲が狭いので新しいネタを仕入れていません。「こんなことがあった」という新しく仕入れたネタが自分の中にある人は、人をドキドキさせます。行動範囲が狭まると、ネタがなくなって、グチ、悪口、ウワサ話しか話題がなくなるんです。
ネタはないのに、だれかとコミュニケーションをとりたい気持ちばかりが残って何か話そうとすると、ますますグチ、悪口、ウワサ話だけになります。いつも同じ話をする人は、まるで変化していないのです。また昔の自慢話ばかりする人もそうです。

女性は未来に生きようとする人が多いですが、男性は過去にすがりがちです。仕事をしていても、過去の価値観に縛られている人は変化を恐れている人です。潜在意識の現状維持メカニズムにつかまっている人です。マトリクスでネオが地球を操るコンピューターたちに向かって言った言葉は「おまえたちは変化を恐れている」です。

新しいことに気づいたり、目覚めたり、また行動していないと、自分だけでなくまわりにいる人も、結局はつまらなくなってしまいます。
人間には、ドキドキワクワクしたい欲求があります。誰かをドキドキワクワクしたい欲求もあります。ドキドキワクワクしたい欲求とドキドキワクワクさせたい欲求があれば、人はマンネリになることはありません。

人にとって一番マズイのがマンネリです。これは夫婦間、人と仕事、友人関係、恋人同士、すべての関係の中でマズイのです。そして、そのマズイ、マンネリに気づかせてくれる人が、いつもドキドキワクワク成長しながら枠を取っ払っていく人、そういう人を師匠に持つことが自分の人生の宝なのです。

☆人にとって一番恐いのがマンネリです。こういう人はいつも同じことか、グチ、悪口、ウワサ話しかしません。変化がないからです。ワクワクドキドキ生きてる人を師匠に持って自分もワクワクドキドキの変化をしていきましょう。自分も魅力的になっていけるからです。

「やりたいことをやり、やりたくないことはやらない」 (2007.6.7[Thu])
僕には幸せの定義があります。それは「やりたいことをやって責任主体で生き抜く」ということです。そういう人生が一番幸せなんだと感じます。
何が幸せって「ほらっ」て見せられるものでもないし、人が勝手に判断するものでもない。世間の人の評価なんてまったく当てにならないし、自分自身の幸せは人には決められないしね。
それを安易に第三者が「あの人は不幸だ」「かわいそうだ」と言うのは傲慢です。また世の中には「あなたかわいそうね」と言われて喜ぶバカもいます。エゴから生まれるのは依存心しかないです。責任主体の生き方から生まれるのは本質的な生き方です。そういう生き方ができるのは自立心が育ってるからですね。

人は自立心を持つと謙虚になります。すると、自分の身は自分で守ることもできるし、「自分はたいしたもんじゃない」と傲慢な部分も分かってますから、人に対して尊大な態度をとらなくなるんです。自立心のある人はね。
たとえば、いい人面して、本当はその人のためにならないのに、お金を貸したり、取ってつけたように親切にしようということも起こりません。それも自分自身の傲慢だと知ってるからです。はっきり言って、普通の生活をしている人の場合は、援助してやるより、つきはなした方が大きな愛の世界につながるほうが多いんです。
人は満たされないからこそ想像力が湧くし、人生はかなわないものだと思うからこそ、限りある生を充実させようと楽しく努力できるんです。

じゃあ、幸せを阻害するものは何があるのかってことなんですが、はっきり言ってそれは「執着」ですね。これは失恋でもそうです。別れはしんどいですが、苦難ではなく、未来のための学びなんです。にもかかわらず、こだわり続けることがどれほどみっともないことか。そんなことがはっきりすれば、必ず立ち直って強く生きていけます。
まただれかを憎いということは、依存心の強さから起こるんです。「あの人がこうしてくれると思っていたのに」「私がこうなったのはあの人のせいだ」「あの人がこういったからこうなったんだ」と責任を押し付けているから憎いわけです。「このおかげでこうなれた」と感謝こそ起こっても、他に責任を転換することはまさに地獄の餓鬼の世界を生きてるってことなんです。
あるいは、「こんな人は」と誰かを見下すことも執着です。百歩譲って本当にその人がそうであったとしても、そのくだらない人に心を奪われている自分も、実にくだらない人であるのです。

やはり執着が一番わかりやすいのは、お金ですね。お金になると人は過分な執着を持ちます。よく遺産や財産分与の問題で執着の醜い争いがおきますが、そもそも自分がつくってもいないお金や土地をアテにするなんて方がおかしい。
もともとお金にはいろんなエネルギーがつきまとってます。ヤバイお金には本当にヤバイカルマがついてます。そういうヤバイエネルギーが来ると、お金で解決できない問題が起きたり、ときには大病になったりもします。だからバブル期に成り上がってお金持ちになった人は、今になって全部失ってしまったというケースがあまりにも多い。宝クジもそうだし、ギャンブルで大金を得た人もそう。不労所得を得たところで、結局あぶく銭は絶対に失うし、失う以上の負のエネルギーが来ます。まあ、分相応が一番です。自分の働きで得たお金こそが確実なお金ですもんね。
だからできるだけ執着から離れるために、内観しなさいって言ってるわけです。客観的な目やハッキリ言ってくれる人を持たない限り、執着という魔に牛耳られて地獄に堕ちてしまいます。
☆執着を捨てていくためには客観性を養うことと「おかしい」とはっきり言ってくれる人を持つこと。

「人生は自己責任。どんな人生でも他者責任なんて一切ない」 (2007.6.6[Wed])
世の中にはとんとん拍子でうまく流れに乗れる人もいれば、「今まで私は人に騙されてばかりだ」と嘆く人もいます。とにかくいろんな人がいますよね。ただね、人生を決めてあらゆる出来事を引っ張ってきているのは、あなが自分の本質で生きているのか、それともエゴで生きてるのかによって決まるんです。

だから人生はすべて自己責任です。責任はすべて自分持ちということです。人と人が情で絡み合って執着していくのは依存心が強いからです。こういった自分を見失った代償は、必ず支払うようになります。ただ、そういうことも、その人にとっては学びなんですけど、同じ失敗を人は繰り返してしまいますね。

未来を創るということは、過去を見つめることが大切です。これは過去に執着するということでなく、自分は何につまずきやすいのか。あの時の失敗は何が原因なのか。そんなふうに過去を読み解くことは、実は自分の悪しき傾向性や癖を知ることになるからです。だから過去をしっかり見直すって大切なんです。同じ失敗を繰り返さないためにも。

昔のことですが、三重県のある内観道場に行って二週間の内観をしたことがあるのですが、書き出していくと、おもしろいほど一貫したテーマがそこにはありました。
たとえばこういうケースには依存心がでてきて現象を不調和化させるとか、自意識が引き金で打算や見栄にはまるとか、いずれにしても、自分の人生をマイナスに導くエゴのツボです。特にいつも意識しなくてはいけないのが「動機」ですね。同じビジネスを展開していくのでも、これは、なんでもかんでもそうなんですが、それが「エゴ」か「本質」かで流れは全然変わってきます。
僕はこういったらなんですが、エゴでスタートすることはないです。常に尺度が「儲かるか儲からないか」じゃなく、「気持ちいいか気持ち良くないか」「自分の“いのち”が喜ぶか喜ばないか」ですから、本質ってはっきりしています。こういう波動は宇宙の調和の法則に乗ってますから、不思議とどんどんいろんな楽しい事象が引っ張られてきます。
でも、「同じことをやってるのに、この人は違うよね」と感じてしまう人の回りには、あまり楽しいと思える出来事や調和されたことが起こりません。それは動機が「不純」であったり、「自分のはからい」があったりするからなんです。そういうエゴの動機は絶対同じような不純で、逆に相手からはからわれる現実が引き寄せられていきます。だけど同じことを繰り返してるって気づけない。自己分析がまったくできなく幼児性や感情の起伏が強いんです、こういう人は。つまり客観性が乏しいってこと。

で、こういう人の特徴はまず内観しない。朝起きて、あわただしく仕事をして、帰宅したらメールチェックをして、コトッと寝る。考えているのはいつも、はからうこと。うまくやってやろうということ。こういう人は自分の心を客観的に見ることができてなく、いつの間にかエゴに流されてるわけです。
とにかく僕は未来を創るためには内観をすすめます。過去と現在に関しては、「自分のテーマや悪しき癖」を知る以上の追求はだめ。あれこれ後悔したって何も生まれないからです。それよりも「悪しき癖や失敗パターン」をしっかり認識した上で、未来に向かって「相手」も「自分も」「多くの人達も」喜び楽しい本質で生きれるワクワクしたことをイメージしていく。何度も何度もこういった内観を一日30分でも繰り返す度に、自分の潜在意識は「私はそこに向かうんだ」と行動するようになっていきます。するとバンバン楽しいことが引き寄せられてくるんですよ、自分の潜在意識によって。

☆とにかく日々30分でいいから内観の時間を持つようにしましょう

「自己犠牲と感謝」 (2007.6.5[Tue])
さてと、「ビジネススタイル」をお伝えした後は、まったくコロッと変わったお話しをします。今こんなことを感じてますから・・・。
で、唐突に母親の話に入りますが、「自己犠牲なくしてお母さんにはなれない」と僕は思っています。だけど「子供がいるから私は自由がない」「子育てしてるから自分の時間を持てない」という人がいますが、どうなんでしょうか、あまりにも自己中ぽいですよね。
基本的に女性は自分のお腹を痛めて子供を産み、時間と肉体を削って子育てをします。それは自己犠牲です。だけどその自己犠牲に反応して、子どもは親を大事にするんですね。自己犠牲を払わずに「親を大切にしろ」なんて、とんでもない理屈です。

昔、知覧の特攻基地や江田島兵学校で見た遺書には、必ずまず第一に「お母さん」と書かれてありました。戦争の時、兵士たちは死に際に、みんな「おかあさ〜ん」と叫んで死んでいったそうです。「お父さ〜ん」と言って死んだなんて未だ聞いたことはありません。
子どもにとって自己犠牲の上に自分を育ってくれたのは「母」であると認識できている。父ではないということを。
自己犠牲というマイナスがあるから敬愛というプラスが生まれる。因果の道理と同じで、自己犠牲という種を蒔いたから、親を思う子が育つわけですね。
親が外に働きに出ていても、子どものことに意識が向いていれば必ず子どもには伝わっていきます。母親が何のために働いているのかを、子どもは敏感に察知してます。その上、仕事から帰ってきたお母さんが洗濯も料理もやって、と身を粉にしていたら、そりゃあ子どもは誰よりもお母さんを愛するようになるでしょう。
まず母親とは「自己犠牲」の上に成り立っているということを覚えておいて下さい。

それと、うちの会長も脳内出血で倒れて障害を持っています。病気や障害を持った人を見て「かわいそうに」という人がいますが、そういう人って凄く傲慢だと思います。障害を持った人は、それだけの負荷をかけても耐えられる強い「いのち」なんです。それもその人の学びのカリキュラムなわけです。 何かにつけて「かわいそう」と言う人は、傲慢です。そういう人は逆に何かにつまずいたら、「私はかわいそう」と思う人です。なぜそういう心が起きるのかというと、常に人と優劣を決めているからです。
実際に本質的なことが分かってくれば、「かわいそうな人」はこの世にはいないってことがハッキリします。もしか「わいそうな人」がいるとするならば、それは、自分を受けいれられない人、自分に起こるすべての出来事を受け入れられない人です。大切なのは「受け入れる」ってこと。

また未来を変えられるかどうかのポイントはただ一つ。「感謝があるかどうか」ですね。あなたはマイナスな事とプラスの事を数えたらどっちが多くでてくるのか?プラスが多く出てくる人は感謝のある人ですね。そういう人は運を味方につけていける人です。常に前向きだし、気配りもできるしね。
嘆く人生は自分に起こることを受け入れられないから起こるんです。活かす人生は自分に起こることをプラスに受け入れて消化していきます。女性は特に子どもに影響を与えますから、是非とも「自己犠牲」と「感謝」とプラスに物事を考える価値観の人生を歩んでいってもらいたい、そう思ってます。

☆特に女性は母親になるために「自己犠牲」と「感謝」の人生を生きていきましょう。

「僕が考えるビジネススタイル(10)」 (2007.6.4[Mon])
僕たちのビジネススタイルは粗利が高いという特徴があります。値引きはよほどでない限りしません。価格競争にも参入しません。無意味な価格競争はないので、いきおい粗利はよくなります。またコミニュティのメンバーに「あなたにはこれ!」という売り方ができます。これは伝道しているわけですから、巷で売れている商品かどうかは関係ありません。自分と絆のあるものでさえあれば、巷では売れない商品を伝道して売ることはしばしばありますし、売りにくい時期に売ることもあります。その結果、粗利がよくなります。

さて4つのポイントがいか収益や粗利を得るためには有効であるかというお話しをしていますが、ちょっと整理しますと、@絆をつくるべき相手と絆をつくり→A自分の世界を表現し、→B伝道し、→Cそしてコミュニティを育めば、→Dお金は儲かるのか? 結論から言えば、儲かりません。これだけではね。これだけでは仕組みがありません。儲けるためには「テクニック」や「ツール」という仕組みがいります。
以前NCを真似して「ニューズレターを出し続けても全然売上が上がらない」とぼやいていた経営者がいました。ニューズレターは「お客さんとの絆をつくる部品」です。「明日の売上をすぐに上げるための部品」ではないのです。じゃあ、用がないのかというと、とんでもない。例えば、美容院なんて頻繁に行く場合は効果てきめんです。うちなんかのクリーニングなんかもそうです。少しずつ「水洗い」の気持ち良さと「ドライの実態」を書いてますから、お客さんには「何が気持ち良くて何が気持ち悪いのか」が分かってきた。ですから、インターネットあたりからは前年度対比で170lを超えてます。そしてその人たちにはニューズレターで、感性の絆であるコミュニティを形成していくわけです。ですから、ニュズレターも儲けを生み出す仕組みの一つであるわけです。
で、この仕組みとは何か?なのですが、それは「お客さんの気持ちを動かし、お客さんに行動してもらうための仕組み」です。

僕たちであれば、お客さんが何らかの情報や口コミでうちの水洗いを知り→お客さんの気持ちが水洗いに動き行動する→クリーニングを出す→NCにお金が入る→ニュズレターで絆をつくる→感性が共感してリピターとなってクリーニングを出す→NCにお金が入る。まあ、こういった一連の行動をして、はじめてキャッシュが生まれます。お客さんの「行動」のないところに、決して売上は生まれない。このように、こちらが期待する行動をお客さんにしてもらうためには、行動してもらうための仕組みをつくっていくわけです。
つまり「春のクリーニングフェア」などといっても、意味がありません。だって、相手が考えてることは、息子の反抗期のことであったり、今晩の晩ご飯の買い出しであったりなんです。そこでDM・チラシ・ネットなどの情報で「何を書いて」「どう伝えるのかが効果的なのか」を考えて、相手に働きかけなければなりません。次にその人がDMやチラシやネットに関係なく、たまたまお店を訪れたとします。ただ、「いらっゃいませえ〜」「あんりがとうございましたあ〜」では駄目。そこで一つの「働きかけ」、これが仕組みを構成する部品であるということです。
たとえば、「今年は猛暑が3カ月も続くみたいで、汗もビショビショ。白いワイシャツや、Tシャツなんて汗で黄ばんじゃって大変です。ところで、うちの水洗いではこの“海へ”という天然の洗濯剤を使ってるんですよ〜。無添加だから敏感肌でも大丈夫だし、重層と交ぜるとすっごく落ちるんですよ〜。とにかく体や自然にムチャ優しいというのがうちのコンセプトにぴったりなんで、うちでも扱うことにしたんですよ〜」なんて伝道したら、「へえ〜。じゃあこれ一つ使ってみるわ」ってな具合になるわけです。まあこれは仕組みというよりも、アナウンスといったものですが、それにしてもお客さんは行動する動機にはなったわけです。

つまりお客さんの行動を軸に考え、お客さんが行動する仕組みを考えようといった眼で見るようになると、ビジネスは全く違って見えてきます。お客さんを動機付けるためには、アイデアは一杯出てきます。ですからお客さんが行動する仕組みをつくらないと、僕たちのビジネススタイルとして、今まで伝えたことだけではキャッシュ化しません。
そのためにはお客さんの動きを考え、そう動いてくれるようにこちらから働きかけていくことが大切なのです。ですから、そういう動機づけの仕組みをつくって、お客さんに行動してもらって、僕たちの世界を買ってもらう。それが成功なのです。その成功とは「仕事を通じてよりよく生き、感謝と価値ある人生を刻む事である」そして「感謝と価値」、それは、「自分ができることを精一杯やることで、それが誰かの役に立ち喜びを生む」ということです。だからこそ、僕たちのビジネススタイルは面白いのです。そうでなければ、ほとんど義務や「売らんかな」だけでは、誰あろう自分たちのビジネスも人生もまったく面白くない、空虚なものになっていきます。儲けの仕組みを作るということは、「自分のできることを精一杯やることで、それが誰かの役に立ち喜びを生む」ためであるのです。
☆お金を生むためにはお客さんに行動してもらう仕組みづくりが必要。

「僕が考えるビジネススタイル(9)」 2007.6.3[Sun]
市場は伝道によって創造することができる。それが僕たちのビジネススタイルです。決して、マーケットニーズに対応していくだけではないわけです。

さて、今日は僕たちのビジネススタイルはコミュニティを育むものであるということをお伝えします。 そもそもコミニュテイって何?です。これは広辞苑から引くと「血縁的・地縁的あるいは感情的なつながりを基盤とする人間の共同生活の様式。共同ゆえの相互扶助と相互規制とがある。特定の目的を達成するために結成される組織と区別される」とあります。まあ要は、「つながっているグループ」のことです。
それは、@「感性が共有されている」こと。A「ゆるやかなつながりを持っている」こと。
B「伝道されている世界を自分たちの生活で楽しく実践している」こと。 この三つですね。

そして、誰がコミュニティのメンバーなのかというと、まずお客さんです。しかし正確には、ここでいうコミュニティはお客さんだけではなく、僕たちは絆で結ばれている人はすべてコミニュティメンバーです。そこらみんなでコミュニティを形成します。
つまり、コミュニティをもっと分かりやすく言えば、感性が共有されている人の集まりです。つまりどういうお店をいいと感じるのか、どういう商品をいいと感じるのか、さらにどういう会社をいいと感じるのか、ということが、コミュニティのメンバーは似ているのです。「いいお店よね、ここ」「いい商品ね、これ」「いい会社だよな、あそこ」そういう感覚です。感性が共有できているというのは、コミュニティの大きな特徴ですね。
では彼らの感性は、何にたいして共鳴しているのか。もう分かりますよね。それは送り手である僕たちが彼らに見せる「世界」です。
送り手が表現した世界に・・・それはお店、商品、商品構成、その他いろいろありますが、それに対して「いいよねえ〜」と共鳴する。そう感じる感性が共有できる。これがコミュニティの特徴です。そういう意味で、こうした性質を持つコミュニティでは、とりわけ「共感」がカギになります。あくまで「共感」であり「説得」ではありません。まあ共感の度合いも浅い、深いとさまざまですが、ほんのちょっとでも共感するところがあればコミニュティメンバーです。

そして次は「ゆるやかなつながりを持っている」ということが、とりわけこれからのコミュニティの特徴です。つながりを強制的なものではなく、出入り自由という感じです。入るのも簡単、出て行くのも簡単です。何によってつながっているかというと、「感性」です。そして「伝道されている世界を自分たちの生活で楽しく実践している」(顧客の囲い込み発想とは全く違う)ということが大切です。実践というと何か重く受け取られがちですが、水洗いして、洗剤に気をつけて、地球をできるだけ汚さないといった感性が共有できてる、つまり、仲が良いだけではなくて、共感する感性の世界を生きてると言った方がいい。この重用点を逆から言えば、だからこそ、世界を表現する必要があるわけです。僕たちが世界を表現し、伝道していなければ、何を実践するかという「軸」がない。何を実践していけばいいのかがないコミニュティは弱いのです。

ここで「顧客の囲い込みのためにコミュニティを作るんでしょ」という人には、「まだそんなこと言ってるの」と言いたい。顧客の囲い込みとはよく聞く言葉です。ポイント制やマイレージなど。なぜ囲い込むか?囲い込まないとライバルの会社にお客を取られるからです。そこで、「ポイントが貯まると経済的に得をする」という、経済合理性でお客さんを囲い込もうとするのですが、僕の考えてるビジネスではあまり興味を持ちません。それは、実際のところ、お客さんは幾つかの会社のポイントカードを何枚も持っていますが、実はどこへも囲い込まれていません。経済的合理性だけで、会社が勝手に都合判断しているだけです。コミュニティは、ファンクラブみたいで全然タイプが違って、顧客を囲い込む必要なんてありません。経済的に合理性もありません。感性的に合理性があるのです。つまり、いいものはいいという感じ、コミュニティは、感性を共有できる仲間たちがいて、ゆるやかにつながりながら、みんながいいねと思えるスタイルを伝え、それに共感して実践する。そして、いたいからいる、それがとても大切なことなのです。
もう一度申します。僕たちのビジネススタイルには顧客の囲い込みなる発想はない。そこにはゆるやかな感性のつながりのコミュニティがある、そういうことなのです。
☆感性を共有できるゆるやかなつながりのコミュニティを広げていくのが僕たちの世界を売ることです。

「僕が考えるビジネススタイル(8)」 2007.6.2[Sat]
僕たちの世界を見せて売る。やりますよ〜、どんどん。社長なんてこういったやり方がメチャクチャ好きだから、合ってます。

さて、すべてのビジネスには始まりがあります。そしてビジネスとは「何故それを始めたのか」を伝えることでもあります。宗教には伝道という言葉がありますが、決してこれは宗教に限ったわけではありません。ビジネスも本来は伝道なのです。それは「道が伝わる」ということです。
「今の世の中にないもの(あるいはあまり知られていないこと)を伝えることで、それをいいと重い、習慣に取り入れる人が増えていく」ということです。そういうことから言えば「NCの水洗い」なんざ、まだ始まったばっかりです。ここで熊谷さんあたりが登場してきて、今後様々なスキルを使った「伝道」をスタートしていけるわけです。効率的に伝道していくためにね。

現在当たり前と思われている商品には「始まり」があります。
携帯電話、ウォッシュレット、化粧品、なんでもかんでもそうです。常に「何、それ・・?」から始まるわけです。
さて、ここで、巷に言われる「マーケットニーズ」なるものをちょっと考えてみましょう。「マーケットがどういうニーズを持っているかリサーチしましょう」というのは、効率重視のビジネスモデルにとっては非常に重要なことです。何故ならば効率を上げないといけないから。
沢山の今一番人がほしいと思っているものは何かを捜し当てて、誰よりも早く並べて売る、ということが大事です。そうしないと、効率はまず上がりません。ですから、お付き合いしているどこの取組会社もその位置で「水洗い」をとらえています。今のマーケットニーズは・・・というパターンで、です。
常にお客さんが今欲しいと分かっているモノは何か?お客さん自身が欲しいと気づいているものは何か?できるだけ早く察知して、みんなが買ってしまう、できればライバル店が売り出す前に売る。そうすると効率はいい。また、製品も時々品切れがあるので、はやく自分のところに確保して売れば、それだけ売上になる。だから一生懸命やります。そういう時には「POSデーター」というものが凄く大事で、売れ筋、死に筋の商品データーが出てきます。それを管理することは、効率の観点からはいいことばかりです。なぜならば、どんな商品が一番動いているかが一目瞭然だからです。ただ僕の考えるビジネススタイルからは、「売れ筋」「死に筋」を決めつけることは、合わないところもあります。
それは、今の世の中で、すでに沢山の人が欲しい・必要だと思っているものは何かということだけを、商品データー、しかもこれは売れた結果にしかすぎないものの動きを見ているわけですから。それでは、「自分たちがどういうものを社会に広めていきたいのか」という発想がまるでありません。

たとえば、日本全国に化粧品が広まったルーツは、「化粧品買いませんか!」「化粧品セールやってますよ〜」「今なら全商品5割引きです!」といったわけではない。そもそも使ってないんだから駄目。 ではどうしたのかというと、近所の人脈のありそうな奥様をつかまえて店に引き込み、お茶を飲みながら、化粧品でマッサージをする。そうするとお肌がツルツルになりました。
「これって一体何?」「化粧水といって毎晩つけるとお肌がツルツルになるんですよ〜」とかいう話になります。伝道しているわけです。そうすると、それを使って良いと思った人たちが、また友達に伝えます。これが、「世界」が伝道されていくプロセスです。

また、かのアップル・コンピューターが初めてマッキントッシュというパーソナル・コンピューターを世に送りだしたときのこと。社内に「マッキントッシュ」というマシンを売るのではなく、マッキントッシュ・ドリーム、つまり「あなたはマッキントッシュを使うようになるとどんなステキな毎日になるのか」ということを、世界中に伝道して回った部隊があったそうです。そしてマッキントッシュはドバ〜と広がった。
そういう意味で、ビジネスには二面性があることを知っておかなければなりません。一つが、マーケットニーズに対応する、もう一つが「絆のある商品を伝道していくこと」なのです。市場は創ることができます。そして僕たちは伝道して市場を創造する時期に入ったと確信しています。こうして世界を切り開いた者は、アップルがそうであるように、この世界のブランドに確実になっていけます。
☆僕たちのビジネススタイルは伝道していくことにつきます。

「僕が考えるビジネススタイル(7)」 (2007.6.1[Fri])
昨日は僕たちのビジネススタイルは「お客さんとの絆」「一緒に働く仲間との絆」「商品との絆」という「絆」を大切にしていくとお話ししました。
さて、二番目は「自分たちの世界を見せて売る」です。こういうことです。まずイメージしてみて下さい。自分と絆のある「売りたいもの」を、ズラ〜っと自分の目の前に並べる・・・、それが「世界」です。

この9月にNCの直営である「リファインド」が、ちはら台ショッピングモール内にオープンします。まさにそのショップは僕たちの「世界」を売る場です。
そんな事を考えていると、縁あって「がんこ本舗」の“きむちん”がNCを訪ねて来ました。きむちんは卓越した発明家で、タンカーの事故処理研究から生まれた生分解する洗剤「海へ」とか、食器用洗剤「森と・・」とか、まあいろんな自然派洗剤やフレグランスを発明商品化し、また、心をほぐす楽器「手作りカリンバ」なんかを売っている会社です。
 僕が特に気に入ったのが、洗剤の「海へ」。実際にこの洗剤を少量入れて高額スーツを洗ってみましたが、仕上がり(特に張りや艶)がいいね。界面活性剤が従来の洗剤の30分の1と、環境にもいいし、ヤシ油脂防酸アネカノードアミドが繊維の発色を蘇らせるのか、とにかくよかったですよ。
で、早々、リファインドでは“きむちん”のところのヘルシーグッズを置くことにしました。また“きむちん”のところでも、NCのクリーニングや自社のヘルシーグッズを整えたアンテナショップを湘南でオープンする方向で行動していくみたいな当人のお話でした。

まだ「世界」を見せていくことの導入に入ったみたいなものですが、こういうことなんです。決してクリーニング屋さんだからといって、それに関係する商品しか取り扱おうとしないということではない。たとえば、CD、食器、家具、女性や男性の洋服、バッグ、靴、照明器具、ヘルシーグッズ、自分がお客さんのことをイメージして「これっていいね。これって提供したいよね」という感性をくすぐるものを並べて売れるショップが、自分たちの世界を見せて売るってことなんです。
京都のビレッジバヴァンガードを見ていて、そんなことに僕は気づかされました。このショップは名古屋発のユニークな書店で、いま全国の都市にもある上場企業です。本来は書店なのでしょうが、なぜか並んでいる商品は本の他に、雑貨、スナック菓子、ギター、自転車、ビリヤード台から「ギャラクシードリンク宇宙味」という謎の飲み物まで、実に多彩なものがあります。一体、何屋さんなのか?ただ、このショップでは一つ一つの商品にポップがついていて、「何故この商品を売りたいのか」というスタッフの“うんちく”が綴られている。こういうことなんです。彼らの世界を見せてお客さんに売ってるわけです。ただここで勘違いしてはいけないのは、決して自分の好きなものばかりを集めて売るということではない。

ここでのキーワード、つまり「売ってるものとの絆」とは「自分が相手にとって本当にいい、役に立つと思っているもの」を選択し、見せて売るということです。
また「今売れ筋のものを業者さんにセットしてもらって並べて売る」ということでもありません。ここには商品との絆がまったくないからです。
自分と絆のある商品を表現してお客さんに売る。これが自分の世界を売るということです。これは楽しい。するとどういうことが起こるか。そこに来るお客さんは自分たちが表現した世界を見るわけです。いいなあと感じる人もいれば、まったく感じない人もいる。まあ、当たり前のことです。自分たちが表現した世界を気に入ってくれるかどうかは、お客さんの感性の問題ですが、自分たちの世界をできるだけわかりやすく表現すればするほど、それが「世界を表現している」ということを、お客さんは感じます。 ここで一番大切なポイントは、ビジネスとは「お客さんにより新しい世界を教える行動である」ということです。自分なりに絆のあるものを集め、編集し、その素晴らしさを、そのことをまだ知らないであろうお客さんに教えてあげることが、誰あろうお客さんにとっては一番嬉しいことなのです。
というか、本来ビジネスとは、自分がお客さんにとって素晴らしい、これはいい、役に立つなどと思うものを、それが相手が欲しているかどうかに関わらず、教え、伝えていくことから始まるのです。化粧品を使わなかった日本人が、化粧品を使うことの素晴らしさを教えられて、「これっていいよねえ〜」と、全国にドバッ〜と広がったみたいなもんです。ウォッシュレットだってそうです。つまり、ニーズ、ウォンツは育てるもの。お客さんにその意味を伝え、育て、火をつけるのがビジネスだからです。
☆自分たちの感性の新しい世界を見せてお客さんに売っていくのが僕たちのビジネススタイル。

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