2008年8月の日記

8月30日「仏か鬼か」 (2008.08.30[Sat])

  今日はやさしさについて考えてよう。
  嫌なことを言わずに、あなたのしたいことをさせてくれる人の中に、「やさしさ」を見、いろいろ厳しく注意したり、檄を飛ばしてくれる人の中に「やさしさ」を見ようとはしてはいないんじゃあないかな。
  もっと単的に言うと、あなたのわがままを通してくれる人を、やさしい人と思い、あなたのことを案じて、厳しく注意してくれる人、意見してくれる人を、鬼と見ているのじゃないかい。
  本当の「やさしさ」とは、何かということになるんですが、「我」や「我がまま」を通してくれる人は、やさしい人ではなく、あなたを傍観(ぼうかん)してる人であって、厳しく注意してくれる人の方が、あなたを本当に案じてくれているやさしい人だと知っておいた方がいい。
  ただ、自分のものの見方やとらえ方を、どこまでも「私は間違いない」としている人は、どうしても周りの人が鬼に見えたり、あの人はおかしいってなるでしょう。
  念仏は、そういう「我」の見方が「仏の心」に遇って、「おまえの見方や考え方はおかしい」と、引っ繰り返されるということです。
  やさしいと思っていた人が、実はそうでなかったり、鬼みたいな人だと思っていた人が、実は物凄くやさしかったり・・。
  念仏を通して、自らの愚かさに気づけば気づくほど、本当のことが分かっていきます。
  「地獄を生きてないか」

8月29日「志の軸を持つ」 (2008.08.29[Fri])

  各ポケットやベントにしつけ縫いをほどこし、洗い終わったジャケットを裏返しにして人形に着させ、まず丹念に裏地をアイロンで伸ばします。
  それが終わったら、表にひっくり返して、裏の方から、ショルダーライン(肩)、バックシーム(背縫い線)、胴しぼり、ベント、そして表に移って、フラワーホール、ゴージライン、アームホール、ラペル、フロントダーツ、雨ぶた、フロントカットにアイロンを入れます。
  それからまた裏地にひっくり返して、第一人体に1分蒸かします。そして、表にひっくり返して85%で3分蒸して、乾燥ボックスへ。
  乾燥ボックスに3時間入れたら、また裏地から一回目と同じようにアイロンをかけ、表にひっくり返して一回目のアイロンかけと同じように行って、もう一度、今度は65%の勢いで3分間人体成形を行いながら、各部位にアイロンを入れます。
  ジャケット一着にかかる時間は10分。これでほぼジャケットが80%出来上がります。 すべての衣類には“いのち”が宿っています。持ち主の波動というか、魂というか、いのちというか、また、その衣類をデザインしたデザーイナーの、作り手の縫製工場の人たちの、ショップの人たちの、衣類の背景から、いろんな人たちのエネルギーを感じるのです。
  ただ、一着の衣類が復元され、本来の姿を取り戻していくためには、こっちも本気で彼や彼女たちと関わらないと、相手の気持ちやリクエストは分かりません。
  僕にとって、この10分間は、彼や彼女たちの“いのち”との本気のディスカッションであり、コミニュケーションが必要になってきます。
  すべての物には“いのち”が宿っていると、仏教はとらえていきます。まさしく、その“いのち”を感じながら、その“いのち”に問い聞きながら、その要望に精一杯応えていくのが僕たちの仕事なんだと、最近つくづく感じています。

8月28日「“いのち”と“いのち”の出遇い」 (2008.08.28[Thu])

  最近テレビを見ていて、「家族の絆」をテーマにした番組が多いことに気づかされます。それは、まさしく、家族や人間同士の“いのち”の出会いが希薄になっていることを意味してのではないでしょうか。
  私たちが不幸になっているのは、“いのち”と“いのち”の間に、「私が」といった見えない垣根を作ってるからです。「私が」という垣根が、相手の“いのち”を受け入れない、認めようとしないからです。そんな「我の強い」の私たちを、“いのち”と“いのち”の出遇える垣根のない世界、それぞれのいいところを出し合って生きれる「浄土」という世界に生まれさせてやりたいという願いが、実は仏様の願いなのです。
  その願いが「帰ってこい」の呼び声となって、私に届いているのが、お念仏ですね。「いつまでそんな小さなこだわりの世界の中に居るのか、もっと広くて大きな世界に帰ってきなさい」と、仏様は私たちにいつも呼びかけて下さっています。
  「信心」とは、その仏様の声を聞きながら念仏と共に生きるということです。ですから、お念仏を称えて「救われる」というのは、その呼び声を聞きながら、「私が」という「我」を開いてもらって生きるということです。いくら、親子、夫婦といって一緒に暮らしていても他力の「信心」によって、“いのち”と“いのち”が結ばれていなかったら、お互いの“いのち”は本当は出会っていなかったということです。親子、夫婦の縁といってもこの世だけのことで、死ねば散り散りばらばらになってゆきます。
  現在、僕はご承知の通り広島から千葉に単身赴任しています。家族と離れた生活の中で、僕に元気を与えてくれるものが、中学二年の娘とのファクスでのやり取りです。
  つい最近のことですが、娘の所属する志和中ブラスバンド部は広島県代表に選ばれ、中国大会で銅賞を取りました。その日の娘のファクスが、ちょうど北京オリンピックも影響したのでしょうが、「金メダルではありませんでした・・」と大きな字がだんだん小さくなって、とても悔しい思いが伝わってきました。
  すぐに僕は、「銅メダルじゃったんだって。よく頑張ったなあ。結果がどうより、仏さんも、お父さんもおまえが好きなことを一生懸命頑張ってることがとても嬉しいよ。お父さんは今はクリーニングが好きじゃけど、輝香は何が好きかのう」と、ファックスを送りました。
  すると、「サンキュー。私は音楽が好き。いつも一緒にいてくれる仏様はもっと大好き」と書いたファクスが届きました。そのファクスを読みながら、娘も、いつも仏様の大きな“いのち”に励まされながら、彼女は彼女なりに今を一生懸命頑張って生きているのだと胸が熱くなりました。凡夫どうしが、他力の信心で結ばれたことによって、“いのち”と“いのち”が出会っていけるのです。娘とのファクスでのやり取りを通して、どんなに家族と離れ離れであったとしても、仏様の大きな“いのち”の世界を共に生きていけることが、人間に生まれた本当の幸せなんだということを、あらためて実感させてもらっています。
  ☆急に、実務やサービスの内容から仏法に変わりしたが、当番であるテレホン法話の内容を考えていたら、“いのち”の内容が浮かんできました。ということは、少し本質的な話に戻れってことですね。絶妙なタイミングです。

8月27日「理不尽なことを要求するのがお客さん」 (2008.08.27[Wed])

  僕は教育的な仕事ばかりやってきていましたから、サービス業界に入って、お客さんの理不尽さには目や耳を疑うものがありました。というか、お坊さんとか、教育者とか、空手の先生なんて人に本気で頭を下げてなんていませんから、このクリーニング業界に入った当分は、「なんでワシがあんたに下げなんといかんのんじゃ!」という思いの連続でした。
  そして、理不尽なお客さんとの電話対応や対応、また取引業者の傲慢さに何度もブチキレたこともありました。内心「それぐらい当然じゃん!あんな奴に頭を下げれるか」と考えていたからです。ただ、これでは商売は成り立ちません。
  以前、テレビでサーカーの中田英寿のドキュメンタリーをやっていたことがありました。その時ナレェーションは、「彼は一喜一憂しないのです。勝ってもガツポーズはしない。負けてもサラッとしている。中田が司令塔として他の選手より優れているのは、大きな流れの中で、自分のイメージしている目標と現状の差を常に客観的に見ているからです。つまり彼は志が高いのです」と言ってました。それを聞いてハッとするものがあり、その後、僕のお客さんに対する考え方は変わりました。
  サービスは志が高くなければできません。志とは、「自分が生まれ変わることによって、お客さんも生まれ変わる」ということです。そのためには目標と現状の差を常に客観的に見ていく視点が必要ですし、決して感情的、主観的になってはいけない、そう感じ取ったのです。
  サービスするということは、そのお客さんと、一生付き合うというくらいの「志」が必要だと思うのです。長期的に付き合ってもらえるかどうかというのは、そのお客さんが、何か言った時に、そのフィードバックが速いか遅いかによって決まります。お客さんは理不尽なことを頼んだ時、自分で頭の中で、なんとなくこれが理不尽かもしれないという感覚があるはずです。
  サービスマンがそれに付き合ってくれた後で、「自分は理不尽なことを言ったかもしれない。申し訳なかった」という気持ちが初めて芽生えるのです。ところが、理不尽なことを言ってる段階では、自分が理不尽なことを言ってるなんてサラサラ気づいてません。
  それに対して、「もう結構です!」とキッパリ切り捨ててしまうと、お客さんは自分が理不尽であることに永遠に気づきません。「ただこの店はサービスが悪い」、「なんだこいつは、嫌な奴だ」ということで終わります。不愉快だけが残って終わるのです。
  しかし、逆に理不尽なことに即座に対応してくれたことによって、初めて自分が理不尽なことを言っていたのだと理解出来るのです。お客さんの理不尽さを更正させるのは、ひたすらスピード対応するしか方法はない、そう気づいたのです。
  最近も結構、「理不尽やなあ〜」と思う事も起こります。ただその理不尽さに、精一杯スピード問題解決する。スピード対応することによって、その後のお客さんから、なんとなく「申し訳なかった」という波動が伝わってくるから不思議です。 a

8月26日「まず相手の感情を把握する」 (2008.08.26[Tue])

  サービスには三段階のポイントがあります。
  相手の感情を理解する
  まずは今この人は、怒っているのか、笑っているのか、楽しんでいるのか、悲しんでいるのかという喜怒哀楽を理解することです。
  自分の感情をコントロールする
  人間は相対的な本能を持ってますから、相手が怒っていたら、それに対して、普通、人間はムッとします。「なんでこんな人に怒られなくちゃあいけないのか」とムッとしたら、それはもう 相手に流されてるってことで、感情は相手にコントロールされています。
  相手の感情をコントールする
  まず怒っている人に冷静になってもらうために、「なるほど、そうだっんですか」と大きく頷き話を聞いてあげることです。そして次第に、「わかりました。じゃあ、こうさせてはいただきませんか」と、相手が納得するスピート回答をして行動することです。

  とにかく、相手の感情を正しく把握するには、日々の訓練が必要です。そして相手の感情を五感を使って観察する力も必要です。とにかく相手の感情に流されずに、大らかな気持ちでスピード対応することですね。

8月25日「お客さんは誠意よりスピードを求めてる」 (2008.08.25[Mon])

  現在、君津工場は朝の六時より始業しています。
  これは、スピードがブランドになっていくからです。
  「何かあったらお客さんには誠意ある対応をしよう」と言いますが、この言葉にはウソがあります。「誠意があっても、遅い対応」ならお客さんは不満しか残りません。誠意より、とりあえずスピードが求められます。「誠意」と言っている人は、だいたい遅い人です。「誠意」という言葉でごまかしています。
  仏教では、「自利利他(じりりた)」と言ます。これは「自他共に喜ぶ、安心する、元気になる」です。また「抜苦与楽(ばっくよらく)」とも言います。これは相手の苦を抜いて、楽を与えるということです。
  これはまさに現代的に解釈すると、「誠意があって、早い対応」のことを言っているのです。「誠意があっても、遅い対応」ならお客さんはいりません。とりあえず、今すぐなんとかしてほしいのです。自分の苦を抜いて、楽を与えてもらいたいのです。そのことによって、自他共に喜びたいのです。
  お客さんが求めているものに対して応えてあげないと、満足は得られません。実は誠意を最もわかりやすい形にしたのがスピードです。
  マザー・テレサは「愛の反対は憎しみではない。無関心である」と言いました。関心があるから、愛があるから、スピードがあるのです。「スピードのない誠意」なんてあり得ません。
  おもてなしとか、誠意とか、愛とか言いますが、どんどんわけのわからない精神論や抽象論になって、あやふやな議論にいってしまいがちです。
  サービスはホスピタリティです。ホスピタリティとは本当の「安心」を与えることです。スピードのない誠意、レスポンスの遅いホスピタリティなんてあり得ません。
  まずお客さんに関心があって、感じたら即スピードで対応していくのが誠意なのです。

8月23日「クレームにムッとしなければ、半分は解決する」 (2008.08.23[Sat])

  クレームがこじれるのは、言われた人間がムッとしたり、ビビッたりするからです。このどちらでも、相手にその波動が伝わって、クレームはさらに大きくなります。
  クレームを言ったお客さんが見ている、電話を通して聞いているのは、その時の相手の反応なのです。
  顔色を変えたり、嫌な顔をされたり、テンションが落ちたり、傲慢になったり、もうこれでそのお客さんとこじれていきます。
  クレームを言われた時にムッとしないこと。これで問題は半分解決します。
  最初に考え込まないことです。理屈を言わないことです。その一瞬の差でその後が全く違います。
  時々、本店から「おまえ何言ってやがる。ふざけるなよ!」と怒鳴り声が聞こえてくることがあります。何故か、いつの場合も僕はその場の間近にいて、すぐにお客さんとの問題解決の番が回ってきます。
  人間が何かクレームを言い出してる時は、必ずクレームを言っている相手の表情を見ています。相手の返事を待っているのではなく、相手の表情を観察しています。そして次に、「そうでしたか。大変し訳ありませんでした。それは不愉快な思いをされましたよね。では、こうさせていただきますか。それでご了承いただけますか」という、はっきりした回答を求めてます。
  それがはっきりしなかったり、ムッとした顔をしたり、ビビッた顔をしたり、言い訳をしたりすれば、もう相手はブチキレます。

8月22日「スピード行動なくして問題解決なし」 (2008.08.22[Fri])

  問題解決は、まず「あっ、こうしたらいい」と気づくことです。
  ただ気づいても、動かなかったらまったく問題解決になりません。
  以前、ニューヨークに行った時、外国人のビジネスマンが言ってました。「日本人は冷たい、と。
 何故ならまったく動かないからだ」と。日本人は「危ない」と言って後、手が出ないと言うのです。転びそうになった女性がいたら、外国人は「危ない!」と言ってすぐに手を出して助けてくれますよね。ところが日本人は「危ない!」と口で言って見てるだけだと言ってました。
  これを言われて、その通りだと納得しました。
  あなた自身、自分を振り返ってみて下さい。言葉では「これはまずいですよね」と言っても、すぐに問題解決の行動を起こしているかどうか。口先の達者な人ほど、実践や行動しない人ばっかりだと思いませんか。
  問題解決は、言葉と同時に、体が動いていないと駄目です。これができない人は、いつまでたったても問題を引きずるし、逆に問題がこじれて大きく複雑になっていきます。
  まず、問題だと感じたら、すぐに「気づいて」「動く」、問題解決はこの繰り返ししかないのです。お客さんが何かクレームを言ってくると、一生懸命言い訳を言ってる人がいますが、お客さんは言い訳なんてどうでもいいのです。「気づいて」「動いて」「問題解決」してくれることを待っているのです。それ以外はブーなのです。

8月21日「問題解決は、即回答を出し続けること」 (2008.08.21[Thu])

  クリーニングという仕事は、問題解決の連続ばっかりです。
  ましてや、現在は第二の創業期です。スピード化、多能工化、シンプル化などを推進していく過程で、今までには考えられないようなクレームもバンバン来ます。
  問題解決とは、すぐ答えを出すことです。
  決して、お客さんに、「じゃあ、どうすればよろしいですか」と聞くことじゃあありません。すぐに、「こうさせていただきますが、よろしいでしょうか」と、お客さんにスピード対応することが、まず一番大切なことです。
  次は、とにかく答えをすぐに出し続けることです。もうこれしかありません。
  基本的にサービスをするということは、人を喜ばせたり、安心させたり、元気を与えることです。この人を喜ばせたり、安心させたり、元気を与えるサービスこそ、僕たちがやっていかなければならない仕事なのです。
  最近厳しいクレームがありました。
  その時、対応した彼が事情を説明しながら、「大変申し訳ございません」とお詫びをしたそうですが、その次の一言がひっかかりました。「じゃあ、どのようにすればいいのですか?」と聞いたことです。
  これで相手がブチキレました。これは、サービスマンは絶対に言ってはいけない言葉なのです。これでは問題解決ではなく、責任転換されたと相手は思ってしまうのです。
  何か不祥事やクレームがあって、僕たちが絶対やってはならないこと、思ってはならないことは、「しばらく様子を見ておこう」とか、「相手から答えを待ってみよう」とか、ぺンディングすることです。これは絶対にやってはいけません。
  すぐにやらなければならないのが、「じゃあ、こうさせていただきますが、よろしいでしょうか」というハッキリした提案や問題解決なのです。
  このことはよくよく覚えておいて下さい。絶対にペンディングすることではなく、すぐに相手が安心できる具体的な解決、具体的な提案をすること。
  誰だってクレームが嬉しい、楽しい、幸せという人はいません。ただ、クレームに弱い人、ビビる人は、さらに大きなクレームを生み出していきます。まずクレームに打たれ強くならないといけません。
  クレームを言われて、ビビッてはいけない。また、絶対あきらめてもいけない。逃げてもいけない。すぐに回答する。決して、あきらめない。そういう実践を繰り返す度に、腕は上がっていきます。

8月20日「人間関係は共感で選ぶ」 (2008.08.20[Wed])

  損得や利害関係で付き合うと必ず迷います。
  ところが、「志」という軸を一本通すと、素直に自分の気持ちに「共感できる」「共感できない」と聞くことができます。
  そうすると迷いがなくなります。それが「感じる」ということです。
  損得で決めようとすると、考えてしまいます。考えると、迷いまです。「感じる」で選ぶと、魂が「ウッ」とくるのか、「ウッ」とこないのかなので、迷いがありません。どちらが正しいかというのは、微妙に違います。
  正しいか間違っていかではなくて、どちらに共感できるかです。正しいか間違っているかというのは、考えているのです。
  正しいか間違っているかという基準は、世の中の価値観が変われば動きます。感じることは、自分の「志」に照らし合わせて選ぶことです。それが共感するということなのです。

8月19日「志を立てると必ず応援者が現れる」 (2008.08.19[Tue])

  お医者さんもいないような寒村で、新しい病気が発生しました。
  定期的に、やはり病が起こります。 小さな村ですから、薬もありません。
  病が出ると、村人は山へ薬草を取りに行くそうです。漢方薬のようなものをです。
  不思議なことに、新しい病の人が出ると、必ずその病に効く草花が生えてきます。
  以前は、そんな草花はなかったのにです。
  仏さんは、うまいこと物事を運んで下さいます。
  病のことだけではありません。
  「志」を立てた時に、必ずそれを助ける人がどこからか現れてきます。
  それは今までまったく知らなかった人です。
  九州福岡のEというデパートにNCの取次店ができます。
  そのお店の広さは15坪もあって、古いオーダーサロンをリニューアルして8月27日 にオープンします。
  今回、そのお店のマネージャーの男性と、サブマネージャーの女性が工房や東京のデ  パートEの方へ研修に来られました。
  その人たちとお話ししていて驚いたのは、二人共、お念仏者であったということです。 ですから、研修での合間のお話しは、仏さんの話ばかり。仏さんの話を通して、今後の 顧客サービスの在り方の話をする。仏さんが中心ですから、すぐに話がまとまります。 そして、「ご住職、Eまで是非仏法の布教に来て欲しい」と真剣におっしゃっていました。二人共、洋服に関してはプロです。そのお二人が、僕のことを「NCの代表」としてではなく、「NCという実践の場で仏法を伝導している住職」として見てくれているのが実に面白く、あらためて「仏さんって凄いなあ〜」と思いました。
  仏さんを中心につながっていく仲間だからこそ、福岡のデパートEでの事業展開は必ずうまくいくでしょう。 
  「志」を立てたときに、必ずそれを助ける人がどこからか現れつながっていきます。
  逆に、「志」を立てたときに、今まで利害関係や利害損得で付き合っていた人たちとは 自然と縁が遠のいていきます。
  これは実に不思議なことですが、その因果関係が物凄いスピードで起こってきているよ うに感じています。

8月18日「役割に気づくと、迷わない。迷えない」 (2008.08.18[Mon])

  すべての人には、何かの「役割」があります。
  その「役割」を果たすために、この世に生まれてきたのです。
  「役割」のない人は、いません。
  自分の「役割」は、今いるその場にあります。
  会社・家庭、それぞれに「役割」があります。
  僕はNCの代表という「役割」があります。またお寺の住職、保育園の園長としての「役割」があります。そして中田家の家長として大黒柱の「役割」があります。
  僕はこのNCという場での「役割」に気づいたお陰で、お寺の住職、保育園の園長、中田家の大黒柱としての「役割」を自覚できました。逆輸入みたいにです。
  その「役割」が自覚できた時から、それぞれの「役割」を一生懸命やろうと思えました。迷うことがなくなるのです。
  とにかく僕の「役割」とは扇の要です。組織の中心として、精神的なエネルギーを送り続け、気づきと目覚めを与えながら仏さんの方向に導き続けること。つまり導師としての「役割」です。
  ただ、「私にどういう才能があるのでしょうか?」「何が向いてるんでしょうか?」「何をすると楽しいんでしょうか?うまくいくんでしょうか?」と、いつも自分探しをしている人は迷っています。
  「才能」ではなく、「役割」が大切なのです。自分には一体どういう「役割」があるかと気づくと、見方が変わり、考え方が変わります。中心が定まり、向かうべき方向がハッキリ決まるのです。すると、すべての「役割」が逆にはっきりします。
  あなたにはあなたの「役割」があります。それ以上でもなく、それ以下でもない「役割」があります。それ以上のことを願うと、必ず不調和になります。またそれ以下のことを思っても、必ず不調和になっていきます。「役割」とは、その人が生まれて来る前から定めてきた「志」を生きるということです。その証拠は、その「役割」を生きるときに自身の「いのち」がワクワクドキドキします。とても嬉しいのです。
  中心が定まって「役割」が明確になると、迷いからの世界から脱して、浄土に向かってワクワクしながら、新たな「生まれ変わり」に本気になっていけるのです。

8月16日「志に人は集まる」 (2008.08.16[Sat])

  人間の出会いには、二通りあります。
  一つは、成功してお金持ちになって偉くなると、その人のまわりに人が集まって、いろんな儲け話の情報も集まってきます。
  「あの人のところに行けば何か得なことがある」とか「お金を貸してくれる」ということで、人が集まります。
  ただそういう人たちは、別の人が成功したら、そちらに流れます。あっという間にです。 もう一つは、その人の「志」に心酔して、「先生になって下さい」「自分の魂を磨きたい」と集まってきます。
  僕の過去を振り返ってみると、その時代の度々にいろんな人たちが集まってきました。そういった人たちの中でも、現在のNCの中心になってくれているのは、およそ昔から「志」で出会ってきた人たちばかりです。まさに損得ではなく、理屈や論理でなく、「感じて」ついてきてくれた人たちです。
  「この人と知り合いになって、私はどんなメリットがあるの?」となんとなく思っていた人は、自然と僕の側から消えていきました。およそ本気の「志」で出会っていなかったのでしょう。
  「志」で出会った人は、一生の財産になります。
  「志」がどんなに高くても、金銭的には豊かにならないこともあります。長者番付にも載らないし、豪邸にも住めないし、有名にもならないし、逆に、苦難や困難やチャレンジすることばかりに立ち向かっていくことばかりかもしれません。
  財産には、
    目に見える財産
    目に見えない財産 の二通りがあります。
  目に見える財産は、失うこともあります。それを守ろうとすると、しんどいです。また、不安と恐れが出てきまなす。ところが、目に見えない財産は、どこまでいっても奪われません。これが、志の仲間、先生です。
  「志」という軸があると、初めて本当の“いのち”と“いのち”の出会い、本気の“いのち”と“いのち”の出会いが生まれる、そう感じてます。

8月12日「志がパワーになる」 (2008.08.12[Tue])

  「志」が高ければ高いほど、貪欲に吸収しようとするし、それが謙虚になります。
  「志」がないと、横柄なものの言い方になって、謙虚さがありません。
  「志」がある人は、自分はまだまだだと思っているからです。
  高い夢に向かって、締め切りをつけて自分と戦おうとしているからです。そういう人は熱いです。これは自分の我を守るために熱いのではなく、「志」に向かおうとするハートが熱いのです。 「志」のない人、「志」が下がっている人は、変に「まあ、そういうこともあるかもしれないね」と分かったふり、悟ったふりをします。自分はもう上がりだと思っているのです。20歳ぐらいでも、そういう人がいます。
  「志」を上げておけば、常に「自分はまだだ」と分かったふりをせずに、謙虚に、熱く、学ぼうという気持ちになります。
  トップを走っている人は、どんどん「志」を上げていきます。はたから見ていると、もうたどり着いているのにと思えるのにです。
  人生のハードルを乗り越えたら、楽勝の人生があるのではない。もっと高いハードネしかないのでいす。ハードルを乗り越えようとするところに、人生の歓喜があります。
  苦難や逆境やチャレンジャーの道の中でしか、歓喜にはめぐり会えないのです。
  「志」を高く置いている間は、いつまでも若く、いつまでも青春です。年齢の問題なんかじゃありません。
  自分自身と「志」との関係性において、「年若くして朽ちたり」になるかどうか決まるのです。

8月11日「人間は志を持って生まれてきている。が、忘れて迷う」 (2008.08.11[Mon])

  すべての人は、「志」を持って生まれてきます。
  生まれる前に、「絶対にこんな人間になろう」「必ずこんな人生を歩もう」などと、固く決意して、生まれてきます。
  でも、この世に生まれくると、ちっぽけな願望実現に留まったり、「私が」という自我に翻弄されて、一番大切な「志」を忘れ、世俗的な目先の幸福感を求めるようになっていきます。つまり自分の煩悩を満たそうとする理想を求めるようになっていくのです。
  まあ、意識の段階的にはしょうがないかもしれない。ただ時代は、もはやそんな段階ではありません。もっと利他的というか、無私的というか、無我的というか、もっと高次なもののために無償の行動によって“いのち”の進化を求めているように思えます。
  世俗的な幸福感とは、健康で長生きをして、末長く家族仲良く暮らして、お金を儲けて、商売や会社を繁盛させるなんかです。これが理想です。これらを満たすために神仏を拝むのが新興宗教です。健康で長生きをして、末長く家族仲良く暮らして、お金を儲けて、商売や会社を繁盛させる世俗的な幸福感を求める心は本能的に誰だってあります。ただ、その本能的な心の正体を見極めないといけない。それは、我執です。自己中心的な心であり、その欲求、煩悩はキリがないのです。それらの理想が実現したとしても、実は心のドーナッツの輪っかの部分は満たされますが、ドーナッツの中心は決して埋まることがありません。何か「空しい」のです。
  何故空しいのか。煩悩を満たすことでは、心のドーナッツの真ん中は埋まらないのです。
  これに対して「志」とは、「生まれ変わる」ということです。自分の頑なな価値観や思い込みや物の見方やとらえ方、こういった枠を仕事や日常の中で学び、気づき、行動し、一つずつ取っ払っていくこと。そして自己成長していくこと。過去の自分からどんどん脱皮して、心が自由に広がっていくこと。
 それらの葛藤のプロセスの中で、実は自分を生かしめてくれている宇宙の愛、仏の慈悲、他力を感じ取っていきます。そのことによってしか、本当に心のドーナッツの真ん中は埋まっていかない。愛に満たされてはいかない。これは、体験者ですから、はっはり言い切れます。
 これは理屈や言葉ではなかなか説明できません。実際に「志」に向かって真剣に生きた人のみ味わえる、何とも言えない幸せ、満足感なのかもしれない。これが「志」です。
 その志の“いのち”を生きるためには、心の中心には仏という存在がどうしてもいるのです。何故ならば、人間は本当に弱い。褒められればすぐに自惚れ、けなされればすぐに落ち込み、常に人・物・金を比較対照してしまう相対的な価値観や人生を生きてしまう。「女心と秋の空」のように、本当に人間の心なんて全く当てになりません。だから、常に自分の心を省みれる、仏様という存在が絶対に人間には必要なのです。そうじゃないと、すぐにスライスしてオービーになってしまいます。
  とにかく世俗的な幸福感を求めると、競争せざるを得ません。なぜ競争するかというと、誰かと比べないと、不安になるからです。他人と競争していると、ひたすら疲れます。
  「志」という軸を持つと、他人とは競争する必要がなくなります。
  今、自分の目指すところを目指せばいいからです。
  「志」は、自然に伸びていくものではありません。ほおっておくと、どんどん短くなって、限りなくゼロに近づいて、やがてペチャンコになってしまいます。
  回りを見渡しても、こういう人があまりにも多いのです。
  「志」のある人は、すべての失敗と経験を蓄積して自身の心の年輪を刻み込んでいきます。継続すると蓄積し、蓄積したことは必ずあるところでスッと進化します。

8月9日「軸があると、原点に戻れる」 (2008.08.09[Sat])

  何かにトライすると、必ず失敗します。僕はこの年になっても、失敗だらけです。ただ、失敗はしなければならないものです。昔から「よく失敗しなさい」といわれました。
  ただ、「志」がある人の失敗と、「志」がない人の失敗は違います。「志」のない人は、失敗することで道を見失ってしまいます。これは「成功」においてもそうです。いったん道を間違えると、どんどん間違って、もとへ戻れなくなるのです。
  でも「志」という縦軸を持てば、間違った時に原点に戻れるのです。自分が何をやりたかったのかを、思い出すのです。そうすると、迷いがなくなります。
  魂の喜びを体験したかったら、「継続」が一つのキーワードです。「継続」できるのは、「志」があるからです。
  人は、いろいろ試しながら蛇行しています。それがずれていかないとすれば、それは「志」があるおかげです。
  理想と現実の中だけで歩いていくと、蛇行して、もとへ戻れなくなります。失敗したとしても、やってることすべてが無駄にならないのは、「志」があるからなのです。

8月8日「志の軸を持つ」 (2008.08.08[Fri])

  成功しても、魂が喜ばないというのは、「志」という軸がないからです。
  「理想」と「志」とは一見似ているようですが、全然違います。「理想」とは、結構、物や金や環境のことを言います。それに比べて「志」は、こういう人間でありたい、こういう姿勢を貫きたい、こういう心持ちでありたい、こういう心構えでいきたいという、より精神的なものです。 「理想」は、これぐらい成功したい、お金持ちになりたいという、物理的なことです。どんなに成功しても、魂の歓喜はやってきません。
  「志」の軸が、その人の本当の軸になります。軸をもっている人間は、ブレないので強いのです。

8月7日「コツコツ頑張った者だけが、たどり着ける世界がある」 (2008.08.07[Thu])

  人生でも、会社の企画や運営でも、誰かが横ヤリを入れてきて、いろいろなところから揺さぶられます。人生は、揺さぶられてばかりです。
  物事は、自分の描いていた予想通りには決して進みません。予想通りにいかなかった時に、「揺さぶられたら、戻そう」ではない。「仏さんに方向を任せる」とジタバタせずに、下駄を預けるのです。
  仏さんに任せて、結果の向こうを目指す人は、一喜一憂せずに、「ああ、そうなったのか」と、コツコツ淡々とできます。
  淡々としていると、その人は余裕が生まれます。
 コツコツ頑張っている人にしか、たどりつけない場所があるのです。コツコツ頑張る人は、結果の向こう側にある場所にたどり着けます。
  成功した人は、凄く器用な人だったのでしょうか。そうではありません。当たり前のことをコツコツ続けていったからです。ただ勘違いしないで下さい。当たり前のことをしていないと言っても、そのレベルがメチャメチャ高いのです。当たり前のレベルはそれぞれ違います。誰もが「当たり前」のことをコツコツ続けていると言っても、「当たり前」のレベルは一人ひとり全然違うのです。
  だから当たり前のレベルを上げるための、変化、進化、改善が日々必要なのです。それを続けることによって、少しずつ「当たり前」が上がっていくのです。
  こうやってコツコツ続けることは大変ではありません。急に、何か特殊なことをやろうとするから、疲れて続かないのです。

8月6日「続けることで物語が生まれる」 (2008.08.06[Wed])

  長く続けた時に、物語が生まれます。
  未来創造堂では、山田幸雄が水洗いの開発から完成までのプロセスが放送されました。ただやまっちは、あの当時の完成度は30%程度だったと言います。それは機械設備にしても、プレス技術にしても、繊維の特性を見分けての洗いの選択にしても、まだまだ発展途上であったと言います。
  あの当時が完成度が30%なら、現在は70%と言っていいです。一年前は50%。特にこの一年間の20%の成長は目を見張るものがあります。そして来年までには、なんとか90%まで待っていきたい。僕の意識の中には、現在の力の120%、200%が、多くの縁ある人たちとのコラボによって面白いように未知の潜在能力が吹き出せる、という根拠のない直感があります。 恋愛ドラマは、いろんなケンカ、すれ違い、行き違いがあって盛り上がります。最初からうまくいったら、「冬のソナタ」はできないし、後日談もありません。長い長い物語があるのです。自分の目の前の仕事について語る時、そこにきちんと物語りがあるかどうかです。
  アクシデントや失敗が起こったら、物語が生まれるチャンスです。この場も、アクシデントや失敗によって、急速に成長に向かいます。ヒビッという刺激を与えられることは、自分のぬるま湯的意識に、急に熱湯を注がれるようなもので、飛び上がって目が覚めます。
  いろんな大変なことを乗り越えて、ウロウロ迷いながらたどり着いた成功の方が、より魂は歓喜します。
  最短距離を通ってきた成功は、それほどの歓喜ではないのです。

8月5日「あらゆる仕事が立派な仕事」 (2008.08.05[Tue])

  世の中には、いろんな仕事がありますが、無駄な仕事なんてありません。本気になれば、あらゆる仕事が立派な仕事と考えられます。
  立派でない仕事、難しくない仕事、だれにでもできる仕事というのは、世の中には一つもありません。
  僕はお寺の住職でありながら、成り行きでNCの代表になりました。今までは、マスコミの人や取引先の人に会ったら「実はお寺の住職なんです・・」と言ったりしてました。しかし今はそんなことは全く言いません。
  「NCの代表です」と堂々と言います。 要は、魂に筋を通した。根っから本気でやってるからなのでしょう。
 「今やってる仕事は何か物足りないので、他のことをやりたい」と言う人は、ほかの仕事をやっても、やがて何か物足りなく感じます。
 それは仕事のやり方が間違っているからです。魂を磨くためにやってないのです。
 そういう人は、何かにつけて「何のために?」「これをやってどういうメリットがあるのでしょうか?」という発想になります。
 「生き甲斐がない」「やり甲斐が、なかなか見つからない」と言ってる人の発想がみんなこうです。
 「何のために?」の答えは、「魂を磨くため」です。「生まれ変わり」のためです。これに着きます。すべてのことは、自分の「魂を磨くため」「生まれ変わり」のためにやっているのです。そこに本気で向かえるこの場が「有り難い」と感じています。

8月4日「魂が参加している人は、愚痴・悪口・ウワサ話をしない」 (2008.08.04[Mon])

  僕は、このNCという職場は一人ひとりが「生まれ変わる」ための場であると思っています。「生まれ変わる」ということは、成長する、進化するということです。
  そのためには、自分の魂に対して筋を通すことが必要です。
  僕は、その人がやっていることや、思っていることが違っていたらはっきり叱ります。ただ、叱られるのが嫌な人は、叱られないように、しかられないようにやろうとします。だけど、トライしなければ、叱られることもありません。できそうなことしかやらないからです。そういう人は、自分で責任を取らないように傍観者になります。
  傍観は、やがて逃避になります。「私には関係ない」と、傍観者はやがて逃避者になっていきます。「私は、成長とか生まれ変わりとかはもういいです。このままでいいんです」と思ってる人は、実に危険です。傍観者になると責任を取らなくてもいいし、トライすることもなく、今まで通りの自分の生き方でいいのでとても楽チンです。
 だけど、「生まれ変わる」ということは、まずありません。そういう人を見ると、内心僕は「あ〜、今世はこれで終わりかあ・・」と残念に思います。「安定」を求めて、傍観者のまま下り坂に入っていくと、どんどん魂が貧しくなっていくからです。
  そうではなくて、あらゆることで魂の参加者になることです。チャレンジャーになることなのです。その時初めて、魂の振動数が上がり、行動につながるのです。
  傍観者や逃避者は、必ず人が集まったり、仕事に対する変化についても愚痴・悪口・ウワサ話を無意識にしていきます。
  だけど、魂が積極的に参加している人になると、愚痴・悪口・ウワサ話は決してしなくなります。グチ・悪口・ウワサ話をする人は、必ず傍観者であり逃避者です。
  自分が本気で関わったり、やってることに、愚痴・悪口・ウワサ話をする人はいません。
  魂が変化や進化に参加すると、否定的な意見は出なくなってしまうのです。
  あなたはこの場で何度「生まれ変わる」ことができるのでしょうか。そのためには、傍観者になることなく、前向きに参加していくことです。

8月2日「遅い人、遅れる人は基準にしない」 (2008.08.02[Sat])

  行動は五分前が基本です。仕事にしても、集合にしても、定刻の五分前から準備に入ってスタートを切る人が、仕事のできる人です。
  よく「集合」と言って、遅れる人がいます。遅れる人、遅い人を待つ必要はありません。走って速く集まった人の熱意にこたえるのが、基準です。これが魂の振動数を上げる基準です。
  とにかく、なんでもかんでも、遅い人を基準にしては全員のテンションが落ちるばかりです。ですから、とにかく速い人を基準として、すべては決めて進めていくこと、魂の振動数を上げ続ける、とにかくスピード。速い集合。速い取り組み。速いレスポンス。すべてはスピード対応であるということを忘れないで下さい。

8月1日「言葉より速く動く人が成功する」 (2008.08.01[Fri])

  言葉と行動がある時は、必ず行動を先にします。、ところが、ほとんどの人が言葉を先にして行動を後にします。
  宅配便を送る時に、
  「送ります」と連絡してから宅配便の準備をしようとする人
  宅配便の準備をしてから「送りました」と連絡する人
  という二通りの人がいます。
  よく覚えておいて下さい。行動を先にして言葉を後にするという形で、ちょうどいいんです。言葉を先にして行動を後ろに持っていくと、言葉と行動の時差がどんどん大きくなっていきます。 時間を生み出すことは、結果として、自分自身の人生の中で、何を楽しいと感じ、何を大切にし、何を愛していくかということにつながります、究極は、愛する人に時間をプレゼントするために時間を生み出せるデリカシーのある人は、すぐに行動できる人なのです。


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