2008年9月の日記

9月30日「真理を知り、真理を生きるということの意味」 (2008.09.30[Tue])

  さて、皆さんに問いたいのは、「自分は何のために生まれてきたのか」「死んだらどうなるのか」「この自分とは何者なのか」こういう大問題にはっきり答えられますか?
  こうした大問題は自分が生まれてから発生したのではなく、生まれる前から自己が抱えている大問題なのです。だから、自分が死んでしまえばそれで終わる問題でもありません。死んでもそういう自分の大問題は永遠に残るのです。死んだら自分は消えて無くなって、自分の問題もなくなるということは絶対にありえません。死ぬぐらいでこの大問題は解決しません。死んでも死に切れない大問題が人間にはあるのです。生きてるうちに、この大問題を解決できていると言うことが僕たちの生きる基礎になって、社会、仕事、家庭、人間関係の問題を安心して解決していけるわけです。そうでない場合、すべての問題解決は、結局は、その場しのぎなのです。

  宗教哲学者のシェラエルマッハーという人は、宗教と言うものは、人間と社会との関係ではなくて霊的宇宙との関係だと言いました。そしてその霊的宇宙との関係になれば、どれだけ社会の中で活躍して繁栄している人であっても、まったく無力になります。底では人間世界の中の相対的な価値観はまったく通用しませんし、意味がありません。
  どんなにお金があろうが、権力があろうが、そんなことはすべてこの世のことだけです。宇宙はそんなものをまったく認めません。霊的宇宙の前に出たら、誰もみんな右も左も分からない迷い子ですし、すべてが丸裸にされます。人間は本能的にそれを知ってるから不安なのです。
  そして、僕たち存在が持っている不安を根本的に解決するのが宗教であり、実はどんな平凡な人間でも歩める心理、親鸞さんがといた「他力の教え」なのです。

  哲学者のソクラテスは、「心理を知った人間には何も妨げが無い、さえぎるものは一つもない、最大の敵と思われる死すら、真理を知った人間を妨げることはできないのだ」言い切ってます。これは歎異抄の中にある「念仏者は無碍の一道なり」とまったく同じです。
  ソクラテスは生きてる間の自覚の大切さを言ってるわけで、死んだらどんな人でもみんな幸福な世界へ生まれるというような未来の期待を言ってるわけではないのです、生きてる間に真理に出会い、真理を生きていけなかった人間は、死んだところで何も変わらないのだと言っているのです。
  哲学者のプラトンも、真理を知らず、真理を生きなかった人は、仏教で言う「地獄、餓鬼、畜生のような六道輪廻の世界へ堕ちる」と似たことを言ってます。それに対して生前に真理を知り、真理を生きた人間には幸福な永遠がある事をはっきり述べています。
  だからこそ、人間は生きてる間に真理を知り、真理を生きる必要があるのですよ。

9月29日「人間そのものを取り戻す道」 (2008.09.29[Mon])

  仏さん任せるというお話を昨日はしました。なぜ仏さんに任せるしかないのか?それは、無限の世界から仏さんがこちらへ来ているからです。これ以外に表現のしようがありません。仏さんが僕たち一人ひとりに向かってこちらへ来るという「他力回向(たりきえこう)」 は、大宇宙の救いの構造そのものだからです。この大宇宙や世界は、そういう構造によって出来上がっています。実に不思議なことですが,親鸞さんはそのことを「仏意(ぶつい)量り難し」と、「人間の頭ではわからない」と、おっしゃる。
  一人ひとりの自己に向かって大いなるものが来て救おうとはたらきかけている、この大宇宙や世界はそのように仕組まれているようなものです。「信心」とは、そうした大宇宙の救いの構造というものを直感的に受け入れ、これに素直に従うことであって、自分の心の持ち方が変わり、良い人になったなどという主観的なことではまったくありません。この大宇宙、世界の救いの構造そのものに向かって自分の心をオープンにしていくということなのです。
   
  よく僕は会社の人たちに「念仏でてるか?」って聞きます。これは仏さんとあなたは交流してるか?繋がってるか?って聞いているのです。念仏とは「南無阿弥陀仏」です。この「南無阿弥陀仏」がそのまま大宇宙、世界の救いの構造なのです。大いなるものから僕たち一人ひとりに向かって来ている大宇宙、世界の救いの構造を「南無阿弥陀仏」というのです。
 この「南無阿弥陀仏」は人間の発明した言葉ではありません。マントラでもありません。人間の分別を超えたところの大宇宙の根源的な言葉であり、「おまえを必ず救う」という真実の言葉であって、実は「南無阿弥陀仏」という言葉そのものが仏さんそのものなのです。
  じゃあ、どうして、仏さんが言葉そのものになったのでしょうか。それは、人間の世界だけが言葉で通じ合う世界だからです。
  僕たちが日ごろ使っている言葉というのは、発しては消え、発しては消えていく、実に空しい言葉です。「南無阿弥陀仏」とは、そんな空しい言葉とはまったく別次元の言葉であり、仏さんそのものが言葉となったのです。

  無明の中を迷う僕たちを救うためには、仏さん自らが言葉となって人間を呼んで救うしかない、真実の言葉にならなくてならないと仏さんは思われたのです。僕たちに対する底知れない仏の慈しみと言うか、大悲そのものが「南無阿弥陀仏」なのです。
  僕たちは仏さんと何によってつながるかといえば、「南無阿弥陀仏」と言う大宇宙の根元言語、根源的な言葉によってつながっていくわけです。キリスト教の「ヨハネ伝」の初めに、「初めに言葉ありき。言葉は神なりき」とあります。この「言葉は神なりき」が、実は、「南無阿弥陀仏」なのですよ。
  だから僕たちの口から「南無阿弥陀仏」が自然と出てくるということは、仏さんと僕たちは時空を超えて対話をしていると言うことなのです。念仏を称え、仏さんと繋がっていく。仏さんと交流していく。仏さんという無我の薬を飲んでいく。どう考えても、凄い宇宙の仕組みですね。
 人間が人間そのものを取り戻せる道をあたえてくれているわけですから。

9月27日「仏に任せる生き方」 (2008.09.27[Sat])

  僕が常に皆さんにお伝えしているのは、仏教的な生き方でも、「自力」でなく「他力」的生き方です。「他力」と一言で言えば仏さんの大きな力に私の身も心も任せると言うことです。
  生きることも死ぬことも、仕事の流れも、儲かる儲からないもすべて仏さんに任せる。もうそれだけでいい。たとえ、どんな苦しみ、逆境の中であろうと、仏さんの仰せに任せる。弥陀の本願に任せる。自分の意識では分からない、心の一番深い底のところで大いなるものに任せること、それはまさしく利害損得や私利私欲や保守保身の自意識に翻弄されていくのではなく、心の奥底から起こってくる純粋な感覚に素直に従い感じて動くと言うことでもあるのです。これを仏に任せると言うわけです。けれども、一口に任せると言っても、この任せるということが、実に難しいのです。実は、世間では、煩悩に任せる、流されている人がほとんどなのです。

  任せるということを別の言葉で言えば、「疑い」が取り除かれるということでしょう。この疑いとは、煩悩が取り除かれるということです。この「疑い」は「人に対する疑い」と「仏さんに対する疑い」と二種類の疑いがあります。そしてこの二つの疑いは次元がまったく違うものです。
  さて「疑い」は煩悩ですが、「私はこう思う」と言う自分中心の見解も煩悩ですし「私のほうが正しい」と思う自惚れも「慢」という煩悩です。このような「疑い」は人間に染みついた煩悩で、どう頑張っても死ぬまで取り除くことはできません。どんな修行をしても、どんなに善人ぶってもです。
  ところが、そういう煩悩を持っていても、人間を信じるというのではなく、 仏さんの本願という人間でない力を信じることはできるのです。
  「凡夫というのは、無明煩悩われが身にみちて、欲もおほく、いかり、はらだち、ねたみ、ねたむこころのひまなくして、臨終の一念にいたるまでとどまらず、きえず、たえず」と親鸞さんは言ってます。

  親鸞さんがおっしゃるように、煩悩はひつこいのです。ただ、無意識にこういう煩悩に流される凡夫(ぼんぶ)であっても、自分という自我におおわれたちっぽけな固体を超えた、大いなるもののはたらき(縁や流れ)や、呼びかけを感じて行動していくことはできます。
  それが仏さんに任せるということだし、仏さんを信じるということなのです。その理由は、仏さんが僕たちの心の奥底に常にはたらき続けてくださっているからです。もともと無明煩悩しか持たないものを救おうとするのが仏さんです。そのために仏さん、如来は常に向こうから来てくれているのです。
  如という真実の世界から僕たちを何とか救おうとして来るのが、「如」から「来」ている「如来」、仏さんです。でも自力の人は、縁や流れ、また心の奥底から純粋に感じるということより、頭でクルクル考えて、不安や恐れから生まれた煩悩の指示に従った答えを生きようとします。
  そうじゃなく、流れや縁、煩悩のもっと奥底にある純粋な心に素直に従うということ、それが仏に「任せる」ということなのです。

9月26日「道徳的な生き方と仏教的な生き方の違い」 (2008.09.26[Fri])

  西田幾太郎と言う人は、道徳家が宗教に入る難しさは「ラクダが針の針孔(めど)を通るようなもの」だと言ってます。それは、物凄く困難であるということです。
  企業でも、何らかの指導者でも、倫理道徳を重んじます。ただ、こういう人たちに会って話せば話すほど、物凄く肩が凝るし、気が重くなって、疲れます。それは、知らず知らずに自分は何も悪いところがないと思ってしまい、「正しく」生きてるつもりになっていたりして、自力(自我力)で生きているからなのです。

  こういう人は、目に見えない大きな仏さんのはたらきに、まったく気づいていません。これは大宇宙に対して自分を尊大なものとして主張しているようなものなのです。
  どんな謙虚そうな人でも、この自力があるのです。他人に対して謙虚そうであっても、必ずしも目に見えないお陰様に気づきません。また、まったく関心がありません。他人に対しては、づけづけ厳しいことをいう人でも、社会的に成功できない人でも、目に見えないはたらきやご恩を感じて、気づいてる人もいます。こういう人を仏を信じると言うのですが、これは、仏教的な生き方が世間の道徳的な生き方、または道とは全く違うことを物語っています。

 ビジネスにうまく適合している人は、えてして仏さんを必要とはしません。「歎異抄」の中で「自力作善(じりきさぜん)の人」「善人」と親鸞さんが呼ぶところに人が、こういう人です。
  「自力作善のひとは、ひとへに他力(仏力)をたのむこころかけたるあひだ、弥陀の本願にあらず」ちっぽけな世間の中でしか通用しない善人的な自力は、普遍的な宇宙の法則の前では全く通用しないし、こういう人たちは仏さんをまったく必要としてないわけです。つまり「私が」「私は」という自意識の強さによって、いくら社会的に善人と見えても、本当の意味で謙虚さや感謝がないということです。
  「弥陀の本願にあらず」、それは仏さんを必要としない人々だと親鸞さんが言う通りです。

  仏教的な生き方とは、「まさしく自分は善人ぶった正しさを主張する自力の人であった。なんと愚かであったのか」と気づき、目覚めるところから始まります。そこに気づき、仏教的な生き方を歩める人になったとき、表面的ではなく、根本的に、初めて自分が「生きてる」から「生かされてる」に転換されていきます。
  それを宗教的に「救われた(霊的に)」と言うのです。
  現在の自力の世の中にあって、一人でも仏教的な生き方に気づき、本質的に立ち戻ること。そうでないと、この世の人たちは地獄・餓鬼・畜生の三悪道を、当然のように生きていってしまう、そう感じています。

9月25日「仏教の目覚すもの」 (2008.09.25[Thu])

  仏教のめざすものとは、昨日お話ししたような、智慧、「気づき、目覚め」を、僕たち一人がどれだけ自分自身の中に育てていけるかということなのです。
 そして、僕たちが少しでもこの智慧「気づき、目覚め」を、もつようになるならば、それぞれが本当の意味で人間に成っていく、あるべく理想の人間に向かって、成長していくということを教えるわけです。
 つまり、僕たちが、そういう「気づき、目覚め」を持つということは、人間的、人格的に、自分自身の硬い殻を脱皮し続けていくことを意味しています。
 僕たちは普通、日々の中で、我執(がしゅう)の殻をつけて、好きだとか、嫌いだとか、味方だとか、敵だとか、儲かるとか、儲からないとか、いろんなかたちで他人を排除したり、あるいはまた、他人を自分の中に取り入れたりして、自己中心的、自分の都合を満たそうとして生きています。これは見事にです。
 しかし、そういう生き方、生きざま、ものの見方やとらえ方を、少しずつでも排除しながら、しかもまた、常に具体的な対象を「智慧」 によってとらえながら、その対象とひとつになってその対象を見る。
 そういう仏教的なものの見方を学ぶということは、実は、そうなっていない僕たちの現実の日々のあり方、自己中心的に自分を守り、自分を正当化して生きている自分自身の姿が、常に厳しく問われることでもあります。
 そういう意味で、仏教を学ぶということは、自己中心的な我執いっぱいの行き方が「反省」されそういう生き方を脱皮する、という意味があります。しかしまた、そのような古い殻を脱ぐということは、それと同時に新しい自己に生まれ変わっていく、成長していくということなんです。
 脱ぎながら、生まれ変わる、生まれ変わりながら、脱いでいく。この脱皮と新生、新生と脱皮を限りなく続けていくのが仏道なんです。それは、タテ軸とヨコ軸がクロスする地点に、どれだけ近く立ちうるかということですね。
 仏の教えを学び、それを目指して、懸命に一人ひとりが「水洗い」という方便を通して仕事の中で「脱皮、新生」を繰り返していく。法を学びながら、常に自分自身をとい続けて生きていく。これが仏教の目指す基本の目標です。
 仏教は、そういう自己中心的で我執にまみれた人間の現実の生きざまを問い、まことの人間の生き方を教え導いてくれるわけです。
 それが本当の自己成長を促していくわけですね。自己を問いながら、少しずつ育っていく、このことが仏教の基本の性格であって、僕たちはそういう道を歩んでいるということです。

9月24日「気づき、目覚め」 (2008.09.24[Wed])

  仏教は「気づき、目覚め」の教えです。それは智慧の教えでもあります。
 仏教では、生き物の生命、魚や鳥や、牛などの動物の肉や魚の生命を食べることやその卵を食べることは、恐ろしい殺生という罪を犯すことであるといいます。
 だから仏教徒は、それらを食べることを時々ひかえたり、心の中で「申し訳ない。ありがとう」と合掌して食べたりします。
 そのように、生き物の生命を奪うことを、大きな罪悪と教えるのは、その生き物の立場に立って、その生命と、自分の生命とを一つにして見るという「智慧の立場」、つまり「気づき、目覚め」の立場に立って、自分の生き方を振り返るところから生まれたわけです。
  生命あるものは、みんな「いのち」を宿しているわけです。これは、動物、植物、鉱物にいたるまで。そこには人間と同じ生命が宿っていると仏教ではとらえていくわけです。
  こういった考えは、科学的な西洋の考え方とはまったく反するものがあります。でも、このような仏教が教える智慧によるものの見方は、環境破壊が進行し地球の未来に危機が叫ばれるようになった今日、とても大切なことを教えているわけです。このような、独特の人間の知的な営みが、非常に 深い心の世界、つまり、霊性(スピリチュアリティ)の世界において成り立ったものが、智慧であり、「目覚め」ということです。
  昨日お話しした、自己の責任をタテ軸とし、普通の法則、ダルマの原理をヨコ軸として、そのクロスする地点に自分が立つということは、結論的にいうと、こういう智慧、気づき「めざめ」としてのものの見方を中心にして「深〜い」見方、とらえ方で生きるということです。その見方によって、僕たちは「ドライ」から「水洗い」に変わっていったというよりは、変わらざるを得なかったわけです。仏教を生きるものにとってこの流れは自然(じねん)と言っていいです。自然(じねん)とは、はからわずして起こって来る流れと言っていいでしょう。

9月23日「法灯明、自灯明」 (2008.09.23[Tue])

  広島で四日間お説教を通し、「基本に還る」と決めました。そして仏教、念仏をもう一度伝えていくことです。さて仏教の原理は、お釈迦さんが亡くなっていくとき、その最後に残した教えというものに、端的に教示されています。
  それが、「法灯明、自灯明」です。その内容を簡単にまとめると
 「おのおの、自ら(仏性)を灯火とし、自ら(仏性)をよりどころとせよ。他をよりどころ(世間の常識論)として放たない。この法(ダルマ)を灯火とし、法をよりどころとせよ。他の教え(エゴを幅長させる)をよりどころとしてはならない。」
  という言葉です。この言葉こそが、仏教の基本原理を明らかにしていると思います。
  ここで教えられているのは、まず人間一人ひとりが、自分自身、自分の(良心、本質、仏性)をよりどころとして生きよということです。僕たちの人生というものは、誰一人として自分の思い通りに生きてるわけではない。まったく自分の意思を超えて、与えられた生命として、この世に生まれてきました。自分の意思とは無関係に、いろんな問題を抱えながらこの世に生まれてきました。これが現実の僕たち一人ひとりのスタートです。
  そこには、当然、思いがけない出来事や「なんでえ〜」と見えるような苦悩も宿っています。だけどたとえどんな苦悩があって、矛盾があっても、ともかく、自分の人生は、自分が選び取った人生、自分が自己成長のために注文した人生だと、自己の全責任において、その人生を背負って立て、それが「法灯明、自灯明」の教えです。
  そして、もうひとつの法(ダルマ)、これは宇宙、人類、世界を貫く普通の法則のことです。この普通の法則をもうひとつの灯火、便りとして生きていけと、おっしゃるわけです。
  このことを、もう少し分かりやすくいうと、「自分の人生は自分で責任を担う」ということをタテ軸とします。
  そして、この宇宙を貫く普通のほうそくをヨコ軸とします。 そして、そのタテ軸とヨコ軸がクロスする地点、そういう地点に立って生きていきなさいというわけです。
  つまり、僕たち人間は、それぞれが、自我、エゴを宿しているので、いつも自分の都合のいいように判断をし、行動します。そこで、普通の法則が、その自分を貫くことによって、僕たちは、初めてまことの人間の道を生きることができるわけです。
  あらためて何故こんなことをお話しているかというと、この「すなお」はこのクロスする地点と、遠く離れた自分という存在を、そのクロスする地点につれもどす「普通の法則」を基点に伝えさせてもらっている、ということなのです。
  もう一度このことを理解したうえで、「すなお」を味わってみてください。

9月22日「快に身を委ねる」 (2008.09.22[Mon])

  人間は「快」にしか生きることができません。二つの選択肢がある時、あなたがやることはどちらかより「快」か?ということを選択することです。なぜなら、人は不快なことをすることができないからです。快とは、心地よいという感覚のことです。
  でも人は、「こんなこと好きこのんでやってるわけじゃない」と言います。こういう人は、この一言が言いたくてやってるのです。この一言に「快」を感じているのです。自分が何かの犠牲になることが「快」なのです。
  一般的に、多くの人は「快」を良いこととは思っていません。「欲望」「好きなこと」「わがまま」を「快」だと思い込んでいるからです。こういう人は、「快」を感じているにもかかわらず、「快」を肯定していないのです。しかしその瞬間、「不幸」と言う感覚が顔を出します。
  不幸というのは、「快」を肯定できないときに発生します。なぜならそこには満足がないからです。
  逆に「快」を肯定できている瞬間、どんな状況であろうが、あなたは不幸を感じることはありません。
  何故なら「快」を味わっている自分に矛盾がなく、あなたは満足しているからです。
  人はもともと、「快」しか選択できません。どんなに正しいか、カッコイイ理由をつけても、こじつけの理由にしか過ぎません。あなたはそれがどんなに表面的に嫌に思えることでも「快」だから選んだのです。
  このことを肯定することです。自分は「快」しか選べない事を肯定することです。そうすることで、矛盾を抱えたまま「ねばならない」と思う義務感から解放されることです。
  自分で自分を選択できるという幻想からも、解放されます
  そしてこの「快」の肯定とは、自分の「運命」を肯定することでもあるのです。

9月20日「他力で生きよう」 (2008.09.20[Sat])

  自分の力で生きるということを「自力」、もっと分かりやすく言うと「自分が頑張って生きているという“自我力”」と言い、自分以外の目に見えない縁の力で生きることを「他力」と言います。あなたはどっちで生きてるのでしょうか?
  「自分の力で生きてる」と答える人は多いはずです。でもね、自分の力で生きてる人など、このようには一人もいません。すべては縁の力、他力によって生かされています。自分の力で生きてると思っている人は、大変な錯覚をしています。その錯覚が自分の力で幸福にならそうとさせ、その結果、失敗します。
  なぜでしょうか。それは縁起の流れ、大きな流れとの間にに、摩擦を感じるようになるからです。漕いでも意味のないボートを漕ぐようなものです。漕いでも思い通りにいかなくて、自分は不幸だと感じるようになるのです。
  その逆に、自分は環境や、縁の力で生かされていると思える人は、幸せになります。
  自分は自分で幸せになることなど、できません。人は100l他にゆだねられています。このことを本当に理解できた時、世界はひっくり返ります。主人公は自分ではなく、自分以外のすべてだったからです。
  自分以外のすべてが自分を形成してくれているのです。外からの縁がないと、自分というものは存在できないのです。まるで無人島に住む、ロビンソンクルーソーのようにです。もう自力で生きるのはやめましょう。他力で生きれば楽になれます。他力で生きれば周りの景色もよく見えるようになります。そして自力でいた時には考えられなかった方向に船は動き出します。
  最近思うのは、幸福は自分が独自で行くところではなく、自分の周りが連れて行ってくれるところなのだ、と。

9月19日「メモを取らずにその時、その場、その瞬間の波動を感じる」 (2008.09.19[Fri])

  社員に対して基本的には「メモを取れ」と言いますが、僕はメモを取りません。「メモを取る」のは、「納期や発送場所や日時や連絡相手の電話番号などや締め切りなどの大切なことを忘れて、周りのお客様に迷惑をかける」からです。
  ただ、僕の役割は固定化されずに自由に創造進化させていくことですから、メモを取りません。メモを取ると自由自在の発想でなくなってしまうからです。
  今僕が伝えたいのは「納期や発想場所の日時や連絡相手の電話番号」のことではなく感じるためにはメモを取らない方がいいということを言いたいのです。
  例えば人の話を聞くときには、どんどんメモを取ったとします。メモと言うのは文字として固定化させることです。一度固定化させると、その概念をひっくり返すことが難しくなります。なぜなら、一度固定化させると再び自由自在になるのが難しくなるからです。脳の中に固まって、思い込みが起こってしまうからです。
  言い換えてみれば、メモを取ったりメモを見ると言う行為は、パソコンで言えば、ディスクを使うことになります。ディスクに蓄えられているのは、過去に関する情報です。過去にアクセスした時、やはり自由度は減ると思います。自由度が減れば、未来に対する情報はストップします。
  僕は常に自分の心の本質に問い聞くようにしているのですが、メモを取っていると、どうしてもその情報が先入観となって枠を作ってしまうのです。メモを取らなくて、時間や日時を間違えてしまうような事意外は、メモをとらずに感じて行動いくことが、自分の発想や行動を自由自在に導いてくれます。

8月18日「長所も欠点も0にする」 (2008.08.18[Thu])

  自分の得意分野を伸ばすと「ツク」というのが一般的な考えですし、また、その通りでもあります。ただ、僕がその強い思いに縛られていたら、今の僕はありません。
  起こってくる流れに逆らわず、ただ自身の運命に運ばれてきた。その結果が今です。その場合、「長所」も「短所」もありません。「与えられたこと」「目の前で必要なこと」をウダウダ言わずにただやる、それだけです。
  以前もお話しましたが、何故、そういう生き方が。大きな流れに身を任せる生き方が、幸せな生き方なのでしょうか。つまり長所に注目するということは、「個」に目が行くからです。「個」とは、「私が」「私の」「私だけの」という「自意識」です。この「個」は高校、大学あたりまででいいんじゃないかって、思います。それは、長所に意識を向けすぎると、人生の幅がどんどん狭くなっていくからです。
  「私の長所はこれだ。これを伸ばしていこう」と思った瞬間に、「私」という「個」に固定されます。執着してしまいます。固定され、執着すると、環境の変化に対応できなくなります。つまり感じて行動するということができなくなっていくのです。環境の変化に対応できなくなると、周りとのネットワークが切れていきます。
  実際、今のNCに残っている人や僕の周りにいる人は、客観的に見ていると、この「個」「私が」にとらわれてない人ばかりなのです。「これをやりんさい」「今度はこういうことをやるんじゃろ」と言っても、「わかりましたよく分かりませんが、仏さんがやれってことなんですよね」と言って、自分にとっては未知なる世界へ飛び込める人たちばかりです。結局、根が「素直」な人が大きな流れに乗れると言った感じです。
  「長所も欠点もなかったことにする」。そうすれば「個」と言う「自分」にしがみつくことがなくなっていくのです。元々、無ければ、気にする必要はないのだから、これ以上失うものはありません。
  そうなれば、心や行動は枠にはまらず、もっと自由になっていきます。

9月17日「ご縁に任せる」 (2008.09.17[Wed])

  TBSの「ガッチリマンデー」の放送以来、今まででは考えもしなかったような物をクリーニングで預かるようになりました。
  今まで圧倒的に多かったのが男性スーツです。ところが現在、女性用の洋服が実に多い。また、羽布団、ぬいぐるみ、ペルシャ絨毯など、「へえ〜」と思うものばかりが送られてきます。どうやらTVの中で、山田社長が「水でなんでも洗っちゃいます」という言葉の影響らしいです。あの番組は女性が多く見ているらしく、一気にクリーニングの幅が広がりました。
  また、唐突にあのTVを見られた某有名カーテンメーカーのからオファもあったり。そのお陰でカーテンクリーニングの面白い社長さんとご縁ができたりと、一週間前には、考えたこともないようなことが目の前に現れてきています。
  以前僕が生きていた世界は、常に目標を目指す自我力の世界でした。「好きなこと」や「掲げた目標」に向かってフルパワーで驀進していくものでした。成功を手に入れたりするための本には、そのようなノウハウが腐るほど綴られています。
  ただ「好きなこと」の落とし穴がそこにはありあます。「好きなこと」という視点には、自分、「私が」という自意識が強く入り込んでくるのです。そこには「自分から積極的になにかをしていきなさい。回りに流されては駄目」という意味も隠されています。これがかえって自由や幸せにブレーキをかけます。
  今現在僕が思うことは、自分というものくらい分からない存在はないということです。僕がクリーニングに情熱を傾けているなんて、以前の僕だったら考えられません。何故ならば「好きか?」と聞かれれば、「ウ〜ン・・」だったからです。でも流れによって現場に入り、今では本気で取り組むようになってしまっている事実があります。「これは大好きだ」なんて、自分の「大好き」も「大嫌い」もまったく当てにはなりません。何かにつけて、そう思い込んでいるとするならば、本当に幸せからは遠のいているように思えます。自己限定してしまうからです。ではどうすればいいのか?それは流れに任せる。周りに流されてみることです。言い方を換えれば、外側からの縁を大事に育てていくことです。昔の僕は、そんな生き方をすれば、自分がなくなってしまうと思い込んでいました。でも今は、本当の幸せとは、自分が無くなったとき訪れるのだと、ハッキリ分かりました。まず手始めは「好きなこと」から開放されることです。すると何か、気が楽になってきます。それは、新しい幸せの世界に入ったからなんです。

9月16日「考えてというよりも、感じて生きるということ」 (2008.09.16[Tue])

  過去の自分を振り返ってみれば、自己実現の名人でした。目標設定をして、その目標に向かって必要な努力や精進をして、目標を達成する。そのことに関して、実に明確な目標実現を勝ち取っていました。つまり思うとおり生きていたということです。
  これはたとえてみれば、激流をカヌーに乗って自力で鯉で下流に下り、目標地点まで到達すると言った感じでしょうか。ただ目標地点に到達したときには、一時的な喜びはあったとしても、今考えれば心身共にボロボロであったような気がします。こういう時は、いつも考えて行動していました。
  そして、ある一定の時期から、ことごとくこの目標実現が狂ってくるようになりました。つまり思う通りにならなくなったのです。それでも、過去の栄光にしがみついては、何度も願望実現を試みようとしましたが、やはり駄目でした。
  そこで気づいたのは、僕は自分の能力や力しか信じてなかったということです。
  そして、あらためて自分の思い込んでいた自分の能力や力が当てにならないことに気づき始めました。それからです。考えることを止めて、感じて行動するようになったのは。それはたとえてみれば、激流をカヌーに乗って自力で下流に下るのを止めて、タイヤ乗ったまま流れに身を任せてしまうっといった感じです。
  目の前には迫り来る激流や岩が何度も現れてきます。カヌーを漕いでなんとか危険な場面を乗りきろうとすると、ことごとく岩にぶつかったり、壊れたりしてリタイヤしていく人が実に多いのです。これは「私が」 という自意識によって、「なんとかしてやろう」と頑張るホドそうなります。結局カヌーはただ流れに逆らっている状態では結局は大破し、「不幸」な状態です。それに対して、流れに身を任せてタイヤに乗った人は、適切な流れに乗って早く下流に流されていきます。つまり運命を認めてその流れに乗ると、物事はスムーズに進展していくのです。
  これは運命の法則をよく表していると思います。
  僕たちの人生も、コントロール可能なカヌーではなく、水の流れ(運命)に身を任せるしかないタイヤなのだと思います。まずこのことをよくよく認識して運命に逆らうのを諦める、ジタバタするのを諦めることです。
  逆説的なようですが、自分の運命の受け入れ、自分の運命を信じたほうが、運命が自分を自由に導いてくれる、そう感じています。

9月15日「自分の運命を信じる」 (2008.09.15[Mon])

  運命とは命を運ぶと書きますよね。
  ジェットコースターに乗った時、力一杯目の前の手すりを握り締め、体全体で踏ん張ると、物凄く恐いです。ところが、「楽しんでしまう」と、両手を挙げて乗ったほうが恐くありません。なぜなら全身の力が抜けるので、ジェットコースターという外側の変化に、体が対応できるからです。つまり体が周囲と一緒になって動けるわけです。
  ところでジェットコースターは前が見えます。しかし私たちは未来を見ることができません。なので次の瞬間何が起こるのか、分かりません。ということはジェットコースターに目隠しをして乗っているようなものです。その時、両手を離せるかどうかが問題になります。
  大抵の人は手すりにがっしりとつかまるはずです。これで幸せを追うのが普通の状態なのです。自分を固め、何が起こっても困らないように、色々と策を練ったり、計らったりして安定を確保しようとします。 
  ただ、このような心の状態では“自力いっぱい”ですから、自分の運命を信じることにはなりません。言い換えてみるならば、仏さんの大きな計らい(縁起)を信じてないのです。 だから本当の幸せを感じることはできません。常に未来の心配ばかりしているからです。
  本当の幸せというのは、目隠しの状態で両手を離すことです。するとあなたは周りと一緒になってただ動いていくだけです。そうすれば自然と与えられていきます。必要なご縁が生まれてきます。思わぬ方向への話も舞い込んできます。それも今まで全く考えたことのないような話です。そして、その話が自分の運命を運んでいきます。そこで決して抵抗しないことです。大きな流れに身を任せる。それが仏さんの計らいなのですから。 
  どのような状態であろうとも、あなたが目の前の事実を受け入れ、身をゆだねてしまえば、あなたはあなたの運命という大きな流れに身を任せていくことになります。
  今まで感じたことのない世界との一体感、一見厳しき状態が目の前に起こってこようとも、それはまさしく“いのち”の躍動や進化を仏様が願って、大きな慈悲で計らってくださっているのですから。
  だからいつも「ありがとう仏様。“なんまんだぶつ”」なんです。

9月13日「浄土を目指せ」 (2008.09.13[Sat])

  人間は一体何の目的で、この地上に誕生したのでしょうか。それは、仏様の素晴らしい浄土の世界を認め、その理想的な浄土に向かい、浄土を生きるために、僕たちはこの地球上に誕生したのだと思っています。
  何故ならば、人間は他の動物とは違う特性がありますよね。仏様や先祖に生かされていることに感謝すること、周囲の人々を喜ばせること、自然や仏様の偉大な智慧や慈悲に感動すること、仏様の大きな愛の願いを聞きながら、素直に、謙虚に、感謝して、日々努力精進して生きれることです。
  このような人生を生きれば、まさしく浄土への道を歩む人生といっていいですから、よい遺伝子はオンになるはずです。
  最近僕は、クリーニングは単に洗濯をしているのではなく、衣類を新たに蘇らせる「アートである」と思えるようになりました。
  見積りにしても、カルテ作成にしても、洗いにしても、成形人体プレスにしても、しみ抜きにしても、プレスにしても、包装しての出荷にしても、その一つひとつは「アート」であり、「クリエイト」です。
  そして、「アート」「クリエイト」の先にあるものは「浄土」です。その浄土という素晴らしい世界に向かって、その道を歩んでる。難しく、途中で投げ出しそうになる仕事がくれば来るほど、「アート」や「クリエイト」の「楽しさ」「難しさ」、そして「喜び」を感じています。

9月12日「先ず自分から認める」 (2008.09.12[Fri])

  自分がやってる仕事を人から認めてもらえれば、誰だって、嬉しくなって、どんどんやる気が出るように、僕たちは、周囲から認めてもらうと、誰でもやる気になってうれしくなってしまう。 
 それじゃあ、人から認めてもらうためにはどうすればいいのかというと、僕たちは周囲の人たち、自然の素晴らしさ、仏様や先祖の尊ぶこと、親のありがたさなどを、先ず自分が認めることなんです。
 自分が認めないで、人から認めてもらおうと思っても、それは無理ですよね。よい遺伝子をオンにする方法の一つに、自分以外の素晴らしさをまず認めることがあります。
 今から38億年前にすでに遺伝子があり、そこから生物が現れ、遺伝子の中に生物を生かす情報を組み込んだ、自然の知恵というか、大宇宙の“はたらき ”の凄さというか、まずそれを認め、感謝することだと思いますね。

9月11日「アホになる」 (2008.09.11[Thu])

 筑波大学名誉教授の村上博士が、「遺伝子と笑い」というお話の中で、「遺伝子は細胞の中にただ存在するだけでは活動しません。遺伝子は体の中で、スイッチをオンにしたり、オフにしたりしていますので、良い遺伝子のスイッチをオンにしていれば、健康で進化していく生活ができるようになります。それではどうすればスイッチをオンにできるのでしょうか。それは人間が持っている感情、つまり感動、感謝、笑い、そして夢を持って、いきいきと毎日を送ることです」と言われてますが、本質的に「そうだろうなあ」と思ってしまいます。
 「働く」だってそうですね。「労働的」意識だと、義務的で、疲れて、なんとなく流されてばかりですが、日本人が昔から「はたらく」、つまり「はたをらくにする」意識だと、周りの人たちを幸せにしようという意識を持って、それに邁進することですから、生き生きしていきます。
  そして博士は、遺伝子を働かせるには、アホになる事だと言われます。ここで言うアホとは、バカになるということじゃないですよ。理屈じゃなく、面白いことには無条件に反応して笑うということです。
  過去を引きずる人は、先ず笑いません。過ぎ去った過去の栄光をいつまでも引きずる人は自惚れが強いので、こんなくだらないことで笑ったら、自分のプライドが傷つくと思って、笑いません。
 すると遺伝子はオンにならず、病気になったり不幸になったりします。アホというのはすなわち、面白いことには無条件で笑う素直さをいうわけです。だから無邪気に笑えば笑うほど、その人のよい遺伝子はオンになって元気になっていくわけです。
 昔から言いますよね、「笑う門には福来る」と。

9月10日「本当の美しさ」 (2008.09.10[Wed])

  「美しい」という「美」という字は、外観を飾ることからあらわれる「うつくしき」を意味しています。女性が綺麗な洋服を着て、イヤリングやネックレスなどを身につけて、外観を美しくすることを表したのが、この「美」です。
  だけど、日本人は元来、「うつくしい」という日本語に、この「美」は用いてなかったんそうです。
  昔の書物では、「うつくしい」ということを表すのに、「徳」の字を当てはめてます。
  中国では、「徳」の高い人が最高に偉い人格であるということで、聖人といってますが、日本人は体の中に神仏の姿を持った人が、最も「うつくしい」と考えていましたので、このようなことから「うつくしい」という日本語に、「徳」という字を当てはめたのだそうです。
  この「うつくしさ」は内面からくる「うつくしさ」ですから、一生衰えることはないんです。
  外観の美しさは、年月が経てば失われてゆくものですが、内面の「うつくしさ」は肉体が失われるまで、失われることはありません。人間が結婚し、家庭を築き、仕事に仕えて、「うつくしい」人生を送るために、この世という目に見える物質世界に生まれてきたのだと思います。
  ただ、この世は現実的な欲望の誘惑も多く、表面的な「美しさ」のみを求めるようになってしまうのかもしれません。
 本当の「うつくしさ」とは、「徳」である。「なるほどなあ〜」と凄く納得できたのと共に、仏さんと一緒であることによって、改めて「潔く」「うつくしく」生きたいと思いました。

9月9日「問題解決は、即回答を出し続けること」 (2008.09.09[Tue])

  水というと、この水を飲んだら病気が治るとか、この水で顔を洗ったら、肌がきれいになるとかいろんな話しを聞きますが、これでは「水」はご利益信仰と同じですね。
  みんな結果ばかりを求めて、結果が現れなければやめてしまうからです。
  僕たちは水を飲まなければ生きてはいけないので、病気が治らなかったり、肌がきれいにならなかったら、水を飲むのをやめるという問題ではないですね。水の「原点」を人間がしらなければどんな素晴らしい水を飲んでも、何の役にも立たないでしょう。 
  素晴らしい水というものは、長い間飲み続けているといつの間にか体内が浄化されて健康になるのであって、健康になることを目的に飲んでいるのではないわけです。一見同じようですが、これは全く別のことです。
 これは信心の世界でもそうです。仏様を信ずるということの原点は、ご利益を求めることではないのです。本当の信仰というものは、仏様に日々生かされていることを感謝し、一生涯仏様の大いなる「他力」を信じて生きることであり、お恵み(ご利益)というのは、知らない間に後から与えられるものですね。
 僕たちの「水洗い」の成果も、自分たちの手を抜かない努力の結果、知らない間に後から与えられるものだって感じています。

9月8日「水の性質」 (2008.09.08[Mon])

  地球上に生まれたすべての生物は、水なくして生きていけません。生命科学者のライアン・ワトソン氏は、水の分子は誰でも知っているように、H2Oという科学式で現されます単純な分子ですが、誰も単一の水の分子を見たものはいない言ってます。
  それはつまり、水の一つ一つの分子構造は、絶対に変わることはないが、周囲の環境によって、水素と酸素の間に複雑な組み合わせがつくられ、それが幾重にも連鎖して、分子の構造が変わっていくので、水は環境に変化に合わせ、常に性質を変えているというのです。
  僕たちは「水」を使ってクリーニングしています。この場の環境、波動が素晴らしいものになればなる程、水は性質を変えて素晴らしい「洗い」を実現させてくれるはずです。

9月6日「道」 (2008.09.06[Sat])

  日本人はすべて仏教の美を求めている民族だと思うことがあります。
  それが一番よくあらわれているのは「道」という考え方です。剣道、柔道、弓道、空手道、茶道、華道などです。
  そして「仏道」。
  自他共に認め合い、すべてのものと一体となろう。それが「道」という考え方です。 それは、例えば自然と一緒に過ごそうというのではなくて、自然と一つになろうということです。
  日本人の行動の根底には、共生という生き方があるように思えます。「水洗い」だってそうです。そのシンプルな極限から、美があらわれ、道があらわれるのだと思ってます。

9月5日「美しさ」 (2008.09.05[Fri])

  仏教の美というのはシンプル原点、極限の美だと思うことがよくあります。例えばきれいな夜の空を見れば、そこに星がキラキラと輝いている。誰が見ても美しいと感じます。 
 そこには何もない。飾りもない。真っ暗の中にただ星が輝いている。そこにシンプルの美というのがあると思うのです。
  仏教の美というものはそんなものだと思っています。
  僕たちもクリーニングを通してそんなシンプルの原点、極限の美を表現できたらいいなあ。そう感じながら日々衣類と向き合っています。

9月4日「はたらく」 (2008.09.04[Thu])

  人間には動物と違った、たくさんの特徴がありますが、その一つに自分ことではなく、他者の幸せのために生きるということがあります。
  自分の欲か自己実現だけのために生きる動物はたくさんいますが、他者の幸せのために生きるというのは、人間だけができることです。
 「はたらく」という言葉があります。外人の考え方では、「労働」ということになりますが、日本人は「労働」という考え方をしていきませんでした。働くというのは、「はた」つまり周囲の人たちを「らく」、つまり楽にする。周りの人々を「幸せ」にするということが、日本人の「はたらく」ということでした。 
 自分のことよりも、先ず周りの幸せを考える。こういった日本人の原点に戻るために「はたらく」ことを与えられているんだって思います。

9月3日「本当の強さ」 (2008.09.03[wed])

  本当の強さのある人は、「忍耐」のある人、僕はそう思っています。特に男性より、が女性のほうこの忍耐はあります。やはり子どもを生み、“いのち”を伝えていく役割があるからでしょうか。
  また、女性といっても、昔の女性からこの忍耐は強く感じるものがあります。僕のおばあちゃんを見ていてそう思えるものがたくさんありました。
  女性の強さというものは、男女同権だからといって男子の前にでしゃばるというものではなく、一歩引いて「忍耐」している姿が、僕が感じていた女性の強さというものです。
  また男性もそうですね。昔、空手の先生が、僕にこういったことがありました。「強さ」というのは技ではない。心だ。そのためには、テクニックばかりを求めても無理だ。雑巾がけとか、掃除とか、そういった人間の基本をしっかりしないと忍耐はつかないと。その言葉を思い出しながら、いま「忍耐」を学ばせてもらっています。

9月1日「人間は志を持って生まれてきている。が、忘れて迷う」 (2008.09.1[Mon])

  地獄には鬼と亡者がいます。
  他の人の欠点を、目を皿にして探し出し、責め続けているのが、鬼なんですが、鬼はそんな行為で、他を苦しめると同時に、自らも苦しんでます。
  仏さんの心に出遇う、仏の光に照らされると、あなたの生き方やあり方がありのまま見えてきます。自分の言動や、自分の我執の強さに気づき、「もういいや」と、その言動が止まるとき、あなたの心にやすらぎが訪れ、苦悩が消えていくんです。
  亡者とは、責任から逃れて他に責任を転換していって、結局は自分が苦しみます。仏の光に遇うと、その自分の「またやっとる。情けない・・」という愚かさを受け入れ、責任を担おうと腹が決まります。そうすると逃げ回っていた苦悩が、嘘のように消えていきます。
  餓鬼とは、表面的にはキレイ事を言っても、内実は楽をして何かを得ようと貪り続けている様子の人を言います。これも仏の光に照らされて、貪りの心があきらかになって、その間違いに気づかされ、貪りの心が止まるとき、やすらぎを得て苦悩が消えていきます。 畜生とは、自らを省みる心を失い、常に自分を「是(よし)」として、自他の「いのち」を傷つけあっています。
  仏の光に照らされて、自らの「非(ひ)」が、少しでも見えれば、互いに争いあうような愚かな心は、薄らいで消えていきます。
  念仏するということは、この「地獄、餓鬼、畜生」という三悪道(さんまくどう)の世界から解放される、脱出するということです。三悪道(さんまくどう)の世界の無意識に住んでるということは、つまり自分を見失っているわけですね、日常的に僕たちは。これは自分の悪い癖や習慣に振り回されていると言ってもいい。
  自分を見失うことによって、すべての「とらわれ」「こだわり」「かたより」といった「我執」が起こってきます。この自分を見失うということは、結局、光を見失ってるということです。
  光を見失うから自分が見えなくなる。光とは、仏さんの心であり、念仏ですね。念仏によって、光によって、真実のありののままによって、自分の我執、自分が三悪道(さんまくどう)の世界の一員であったことに気づく、これが「救い」です。そうすると心がオープンに広がっていきます。


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