2008年10月の日記

10月30日「無我に生きよう」 (2008.10.30[Thu])

共産主義も資本主義も、理想を追求していきますが、結局人間は煩悩があることによって自己中心的な社会を築いていってしまいます。資本主義は結果的に、地球環境の破壊によって、地球を深刻な状況下まで追い込んでいっています。地球という生命が深刻な状況下にある証拠に、ここでは世界で起きてる気候異常気象が、100年前の約50倍に増えています。
また、50年前には5万人だった日本の精神病者数が、今では230万人にまで急増しています。自殺者は,年間5万人を越えるとも言います。
資本主義は地球環境を破壊するだけでなく、その核にある果てしない競争原理のせいか、ともすればそこに生きる人間の精神を破壊する力まで持っているのです。この結果は、愛や真・善・美の世界から人間は遠のいてしまった、ということなのです。自分という存在を省みることがなくなってしまったということなのです。
今の日本で多くの人々が憧れる人生とは、お金持ちで、高い能力や学歴があって、社会的な成功を収め、健康と美貌にも恵まれて、衆望を集めている、そんな人生を世の中では『勝ち組』と言ってます。そうでない人を『負け組み』と分けてしまってる風潮が社会にはあるのです。
しかし、実際この世で『勝ち組』という人たちが、愛に満たされた人生を生きているかといえば、そうばっかりとも言えません。にもかかわらず、自称『負け組み』の人たちは、世の中についていけないと感じ、ともすれば自分は生きる価値がないとまで考えるようになります。
なぜそうなってしまうのか?それは、この世がすべてだと思いこんでるからです。眼に見えるものがすべてだと勘違いしているからです。感じるという心を失っていくからです。
よく私はみんなに『ちっぽけな自己実現はもうええじゃろう。より高い次元の自分を生きるために、低次元の自分を捨てて、仏さんの手足となって、より高次元の自己実現をしようで』と言います。
これは、自分一人の命を、世のため人のため、つまり、自分以外のもののために使い切った人になれということなのです。そのようにすればするほど、その使い切った命は、さらに大きな命となって、蘇ってくるのです。
偽善的じゃなく、本当に自分を捨てられる人がいたならば、それは仏さんに愛されている人です。より多くの人々のために生きる人、より多くの人々のために命を捨てれる人こそ、より多くの実りを得て、より多くの命を得て、仏さんから頂いた命を、十倍、百倍、千倍に生かすことができるのです。
自分を捨てて、無我的に生きる人生こそ、仏さんは一番願われていると感じています。

10月29日「仕事は忙しい人に頼め」 (2008.10.29[Wed])

唐突ですが、仕事ガ好きでない限り,人に喜ばれる仕事なんてできません。すべての仕事は自分が成長するためにやっていることだと考え、自ら進んで仕事に取り組めば、人はみるみる成長していきます。しかも喜んで取り組めば、さらに自己成長を遂げて人に喜ばれる仕事ができるようになります。
よく『仕事とプライベートをきちんとわけましょう』という人がいますが、あなたは本当に仕事とプライベートをきちんと分けられるのでしょうか?
もし、会社に自分の労働力を提供し、その対価として賃金をもらい、これが仕事という概念であり、それ以上の意味などないと言うのなら、仕事ほどつまらないものはありません。もしそうであるならば、仕事はなるべく早く片づけ、さっさと帰宅するのが一番です。ただこういう考え方では、誰もが仕事は義務であり、一日の大半を占める仕事の時間は全くどぶに捨てるようなものになります。
『仕事は忙しい人に頼め』。この言葉には深い意味があります。忙しい人ほど時間の使い方が上手だし、早いのです。それは、どんな仕事であろうと、全力投球してきた経験が、ノウハウとなって蓄積されていることにあります。
とにかくあれこれ迷って不平不満を並べるよりも、目の前にあることに全力投球することが、自分の時間を大切にすることですし、全力投球できるということは、仕事が好きだということです。
そして、仕事が好きで全力投球できるということは、自己成長を遂げていける人間であるということです。そういう人生を生きたいと思います。

10月28日「テレビからは本当の情報は得られない」 (2008.10.28[Tue])

今の日本国内で評価されるのは、テレビコメンテーターのような人です。彼らは、常に世論を刺激しない発言を心がけているようにも見えます。逆に言えば、そこにはオリジナリティがほとんど見受けられません。
また、現在のテレビの役割は、ドラマやスポーツやお笑いなどの、エンターテイメントに尽きます。報道番組や各種の情報番組さえ、一種のエンターテイメントとして見ていた方がいいようです。
実際、この会社の水洗いも、各種メディアやテレビで取材されて雑誌に掲載されたりテレビで放送されたりしますが、いまだ私たちが本当に発信したいことは一度も表現されていません。どうしても、水洗いの表面的な技術ばかりや、高額な洋服を水で洗う、高額なレザーアイテムを水で洗うことの驚きばかりが取り上げら、本質的な部分は置き去りにされていきます(専門雑誌の場合は仕方ありませんが)。
当然、水で洗うことによって『劣化』するのではなく、『蘇る』ことが技術的には一番重要なことですが、しかし、そういった水洗いは、人の生き方、考え方、熱い思いの『志』でしか生まれないのです。
たとえ、技術がいくら素晴らしくても、それを使いこなせる人の『志』がなくては、素晴らしい水洗いの技術も、相手の身になっていくサービスも決して生まれてはいきません。
素晴らしさとは、真・善・美・愛と共にあります。それは人、製品、技術、生き方、考え方、思い、方法など、さまざまな視点から語られるものだと感じています。
そういった、さまざまな視点からの本当のありのままの情報が発信されていく日を、楽しみにしています。

10月27日「もったいない」 (2008.10.27[Mon])

ノーベル平和賞を受賞したケニアのワンガリ・マータイさんが、「もったいない」という日本語に感銘を受け、「MOTTAINAI」」という言葉を環境保護の合言葉として世界に広めようと決意されました。
  今、国連などの場で、彼女は世界に発信しています。
実は100,年ほど前まで、日本は綿や麻を自給していました。ところが現在、それらは圧倒的に輸入に依存し、繊維自給率は35パーセントほどしかありません。国内での衣類生産高も年々減少し、今では年間、約30億着も輸入しているそうです。
糸の原料となる綿花や羊毛は、商業ベースに換算すると100パーセント輸入です。もちろん、化繊の石油は、100パーセント輸入。今、日本ではわずかに生糸が生産されているだけで、衣類の自給率は約1パーセントというのが現状です。しかも日本全体では、一年間で輸入している衣類品と同じぐらいの衣類を、捨てているのだそうです。
「MOTTAINAI」の実践はリサイクルなどいろいろあると思いますが、クリーニングもその一つです。特に水で洗うということは、最高の「MOTTAINAI」だと思います.。
私たちはその最高の「MOTTAINAI」を実践しているのだと思っています。

10月24日「人を見る目」 (2008.10.24[Fri])

相手を正確に見抜く目をあなたは持っていますか?
それは、まず自分の思い込みや、欲を捨てること。「こうあってほしい」というフィルターを捨てることです。自分の願望が入ると、相手を見る目は確実に曇ります。
自分の願望や、先入観もなく、まっさらの目で相手を見ていくと、相手が言ってることが、真実か自我か、よくわかります。
次は相手の行動です。その人の言葉と行動が一致しているのか、どうか、それを見るだけで相手の誠意や人柄が伝わってきたり、こなかったりと、はっきり分かります。
そして、人を見抜く最大のポイントは、実は最初に会ったときに感じた第一印象にあります。最初に「ん?」と違和感を感じた場合、それはおおよそ当たっています。その後、どんなに付き合って印象が変わったと思っていても、結局は第一印象が確かです。
実は、最近この会社を訪れて来る人の質がはっきりと変わりました。以前は、社会的な地位や権威はあっても、何か胡散臭いと言うか、美辞麗句を並べても、なんとなく下心があるような人が集まってきていました。それは、やはりそういうオーラの人が会社の最前でビジネスをしていたからだと感じています。
ただ、現在はそういうオーラの人はこの会社にはいません。
今は、私が外部への情報を受発信していますので、ありのまんま、そのまんま、取り繕うこともなく、また飾ることなく実物大以上に見せるのでなく、実際の部分をオープンに見せているので、相手も、実に単純で裏表のない人たちばかりが集まってきます。      
自分の欲を捨てて、感覚を研ぎ澄まして、相手の行動を見ていくと、自分の心のスクリーンに、相手の真実が映し出されていきます。そこに映し出される姿が、純粋であればあるほど関係は良好のものとなっていきます。
駆け引きないオープンマインドの関係が、これからはどんどん大きく広がっていくような気がしています。

10月23日「自分を磨く」 (2008.10.23[Thu])

よく、「あの人は凄いオーラがある」という言葉を聞くことがあります。逆に「あの人はオーラがない」という言葉も聞きます。
オーラとは、「気」のことです。その人から出ている「気」がどういうものなのか、そのことを「オーラがある」とか「オーラがない」とか無意識に言うのでしょう。
じゃあ、どうしたら「オーラ」、「気」が充実するのか?
それは、自分を磨くしかないと思います。
精神力、仕事力、本気力、本番力、人間力、すべてを今より強くしていくために、学び、チャレンジし、頑張るしかないのです。
自分を磨いていると、オーラにパワーがみなぎります。気が高まっていきます。すると、そういう人には、なんとも言えないオーラを感じて、自然と一目置くようになります。
常に、今の自分をよりよく変えようと努力している人を、初め人は傍観しますが、やがて継続して頑張ってる姿に無意識で応援したくなります。
そして、何より大切なのは周囲に「気を配る」事です。気配りとは、エネルギーを配ることです。「私はあなたのことをちゃんと考えてますよ」と相手にわかるように、行動や態度で知らせることです。
たとえば相手が困っていたり、何かをしてほしいと願ってることを感じたら、「自分にできることはないでしょうか」と声をかけることです。自分に分かることなら、すぐに教えてあげる。そういう気配りをしていると、自分が困っていると相手は必ずあなたを助けてくれます。
また、オーラのある人は、礼儀正しいし、ルールやマナー、そして約束を守ります。相手の立場を考えて、相手の嫌がることを言ったり、したりしない。
常に頑張りながら、そういう生き生きとした生き方をしていると、オーラがある人、気の出ている人になっていくのですよ。

10月22日「感動するということ」 (2008.10.22[Wed])

最近、工場にいろんな人が訪れて来ます。そこで人々が口にする言葉が「すごい!」「感動した!」です。そういう人たちは、みんな利害損得を超えた、感じる心、熱い心を持っています。だから、本気の仕事が伝わっていくのでしょう。
人間は、真・善・美・愛でしか感動しません。どうして感動するかというと、自分の仏性がうずくからです。輝くからです。
テレビやドラマで、感動して涙が出るのは、そこには愛があるからです。愛は仏さんだからです。美しい景色を見て涙が溢れるのも、そこには美が宿っているからです。仏さんは美だからです。美しい音楽を聴いて涙するのもそうです。美の調和が仏さんだからです。
大調和が仏さんです。人間の心の奥底には仏さんの心と同じ仏性が宿っているから、そういうものにしか感動しないのです。
人間はときどきこの仏性を呼び起こさないと、どんどんそれが奥底に埋まっていって、とても味気ない人間になっていってしまいます。
この世の表面的な価値観に従って生きれば生きるほど、人は仏さんから離れ、地獄・餓鬼・畜生という三悪道をいつの間にか生きてしまいます。
恐ろしいことに、そのことに人は気づかずに、まさにいつの間にか流され生きてしまうのです。
人は感じる心を大切に磨いていかないと、感動とは程遠い世界を生きることになっていきます。

10月21日「仕事は評価されるためにやるんじゃない」 (2008.10.21[Tue])

いろんな人と話をしていると、よく「自信が無い」とか「自分を好きになれない」とか言います。
この「自信が無い」というのは、一見、謙虚そうに見えますが、実は傲慢なんです。人間は凡夫ですよ。みんな未熟です。未熟だからこそ、それを乗り越えて成長するために人間としてこの世に生まれ、この世で自分のオリジナルな人生を生きてるわけです。だから、自信がなくて当たり前。自分の未熟さがわかっていれば、ないからこそ頑張ろうとするわけです。
仕事をするうえで大切なのは、「自信がある」かないかというよりも、自分の持つ力をどれだけ出しつくせるかだと私は思っています。
自分の最大限の能力を提供して、対価をいただく、それが仕事です。「自信」があるとかないとかじゃなくて、ただひたすら、自分の出しつくせる能力で、どこまで相手に喜んでもらえるのか、そのことを考えたら実際仕事で手なんか抜けるわけがありません。
そういう意味では、仕事は恋愛感覚と似ているのかもしれません。自信があるとかないとかじゃなくて、いかに相手が喜んでくれる顔を見れるかが,それが一番幸せだと感じるからです。
多くの人は、人の評価を気にしますが、社会ではそういう考えは甘いと一笑に伏せられます。そういう考えの延長線にあるものは、幼児性だからです。
働くとは、人に尽くすこと。サービスをすること。その対価としてお金をいただくことです。人に評価されたり、ほめられようとして働くことではありません。自分の能力を最大限に引き出し、どこまでできるか、その挑戦の繰り返しです。
もし結果が出なくても、それは素直に受け入れるしかないし、また力をつけて、もう一度挑戦していくわけです。そんなことを繰り返していれば、「自信がない」とか「ストレスがたまる」なんてことは、論外なのです。
それは、「人に評価されること」「人から褒められること」という自意識を満たすことが目的である以上、すっきりした気分で、仕事に打ち込めるわけがないからです。そういう人は、まだまだ人の評価ばかりが気になったり、この仕事が向くとか向かないとか、理屈が多い。つまりまだまだ幼稚性が強くて、自立できていないのです。
仕事とは、自分自身の能力へのあくなき挑戦であり、その結果として、人が喜んでくれることが実に幸なことであるのです。
そのためにも、自分の自意識を満たす人生ではなく、何でも本気で取り組んで、自分の心の奥底にある仏性がうずき、感動できる人生を目指すことですね。

10月20日「誰と出会うかは宿命。どんな関係に育てるかは運命」 (2008.10.20[Mon])

仕事も人生も人で決まります。
社内の人たち、取引会社、お客さん、どんな仕事でも、かかわる人との関係でしだいで、よくも悪くも変わっていきます。
ただ、私たちは自分の心の中にある同じものと引き合います.そういう人と引き合うということです。意地の悪い人と引き合う人は、やはりそれと同じものを持っているし、明るい人は明るい人と引き合うし、すべての出会いは偶然めいた同波長の法則ゆえの必然です。 そして、出会った人を鏡として、どんなふうに成長していくのか、どのようにその縁を育てていくのかは、私たちの努力次第です。
仏教では、「慙愧無き者を畜生とす」と言って、自らを省みることができない人は、畜生道を生きる者であり、自らを内観したり、自らを律することのできる人間の道とはま逆の生き方であると考えます。
これは人間という動物の弱さ、優柔不断さ、我執の強さを言っているわけです。そういう人間の持つ自我の強さに気づけない人は、人間の道を生きていくことは極めて難しいと言っているわけです。
はじめは、いくら意気投合する人であっても、お付き合いするうちに、「これは・・・」と思う人は一杯います。そういう人たちの共通点は、自らを省みることができないという点にあります。
こういう人とのご縁は次第に遠のいていきますし、逆に、初めはそんなに付き合いのない人や組織であっても、自らを省みれる人たちとは、次第に関係が良好になっていきます。 人間は誰と出会うのかは宿命で決まっているように感じます。ただその縁をよく育てるためにも、自分を省みれる謙虚さや、自分をオープンにできる素直さが必要です。
どんな人間も凡夫です。実は自己中心で弱いのです。そんな凡夫同士が、お互いを認め合い、育み会うためには、相手の良さに目を向け、自らのいたらなさに気づける感性が必要なのです。
そういった者同士だからこそ、お互いに助け合いながら人の道を歩めると私は思っています。

10月18日「天職と適職」 (2008.10.18[Sat])

お金は生き金として使う中で、価値が生まれるものとお話しました。使い道もないのに、ただお金だけあっても、そのお金は全く価値のないものです。また、ストレスを解消するために使うのもです。
私の過去を振り返ってみて思うことは、靴、洋服を買いまくっていた時期というのは、ストレス発散のためだったとハッキリ思えます。ただその時期にはそのことにはなかなか自分は気づけません。だから四季折々に新作スーツやジャケットやパンツを買っては自己満足に浸る、そういうことばかりをやっていたように思えます。御蔭で洋服には詳しくなり、今の仕事にはとても役立っていますが、基本的に服好きとは言えども、出費がかさむ時は、心が満たされていない、心が乾いている時なのです。
ただ今は、洋服をあまり買いたいとは思えなくなりました。ジーパンとシャツとジャケットかブルゾンさえあれば事足ります。
外食だってそうです。イタリア料理も中華もお寿司もあまり食べたいと思わない。それよりも、自分なりに富分で野菜やお肉を買って、男料理で作った大雑把な夕食がなによりも美味しいのです。
これは、ストレスがなくなったからだと思います。デスクワークや指導ばかりの仕事内容から実際に現場に入り、一点一点の高級でオリジナルな洋服を、復元作品としてクリエイトしていく。
私にとってはクリーニングという仕事に始めて本気で熱中することによって、ストレスもなくなっていったのです。また、スタッフ達のものすごい素直な頑張ぶりを身近で体験することによって、この場への感じ方も取り組み方も随分変わっていきました。そして、日々現場で無心になって仕事で汗を流せる。仲間たち共に創造する喜び、変化する喜びを味わううちに、いつの間にか心が満たされている自分に気づいていきました。
ストレスがなくなり、心が満たされていくと、人間は不必要な物欲がなくなっていきます。本当に必要なものだけが見えてくるようになるのです。当然出費も減り、お金は生き金でしか使うことがなくなったと思えます。
で、思いました。私は本当は美大に行きたかった。実際は実家がお寺ですから、結局は坊さんの学校に行ったわけですが、本来は感性をもっと磨いていける芸術的な方向の仕事に進みたかったのかもしれません。
そういった本来の私の「いのち」が、素材を水で蘇らせ、整形プレスによって洋服のディテールを復元すると言うこの仕事によって、フィーリング的にピタッときたと言うか、蘇っていったのだと思います。
何より、周りにいる人たちが、仏さんの心、真理を生きようとしているのが私にとっては無茶苦茶気持ちよいのです。
人には天職、つまり仏さんから与えられた仕事ガあります。私にしてみれば、真理を伝えるお坊さんだと思います。そして適職とは、クリエイトしていけるこの仕事であったのかもしれません。そのバランスがピタッとはまったとき、人間はストレスからも、お金の呪縛からも開放される、自分を通してそう感じています。

10月17日「お金について道」 (2008.10.17[Fri])

11月14日〜15日にかけて、国税の監査を受けました。
10月中旬に経理の三沢さんが緊急入院し、どこに何の書類があるのか全く分からない状態での監査準備でしたので、よくもまあここまで短期間のうちに書類やら何やらを整えたものだと関心しています。
結果は若干の指摘指導はあったものの、概ね合格といったところでしょうか。ただ監査ノ準備をするにあたって、お金とは何かを改めて考えさせられました。そして、私たちはお金の話をなんとなく避ける傾向にあることにも気づかされました。
給料の話、税金や保険の話、食費やローンの話、職場でも、家族とでも、ごくたまにしかしないのがお金の話です。
日本人には清貧思考があるので、お金の話をするのは、何か罪悪感があるのでしょう。 だけど、お金自体は、いいものでも、悪いものでもないわけで、問題は、それをどういう心で扱うかで、全くお金というものの違いが出てくるわけです。
まず、お金を大切にするってどういうことなんでしょうか?
私はお金は有効に使ってこそ生きるもの、水のように流してこそ入ってくるものだと最近やっと分かりました。ただ目的もなく貯めて、残高を見て喜んでるのは、到底お金を大切にしているとは思えません。ましてや、自分で稼いだお金だからと言って、つい自分のためにだけに使うのもです。
ただ、こういう私も,人のことをとやかく言えるわけではありませんが、今思うのは、生き金を使うってことが大切だよなって。そうじゃないと、仏さんはどんなに悲しまれるかって。
私は結構今まで浪費癖があって、入ったら入っただけ衝動的に使っていました。ただ、お金に関するトラブルや、お金に関わる人の心の動きや行動の変わり方を体験することによって、お金に対する価値観が随分と変わりました。
そして、自分のために、あるいは人のために、生きて働くお金を使う。それが、本当の意味でお金を大切にすることだって心底分かってきたように思えます。
二日間の監査が終了し、国税の担当官に{3,年ごとにおいで下さい。待ってますから}と言ったら、びっくりされていましたが、もはや死に金を使うぐらいだったら、税金をしっかり納めた方が世のため人のためになります。そのためにも、定期的にチェックを受けた方がいい。今までは何とかごまかそうと思ってたかもしれませんが、今は本気でそう思います。
お金を生き金として使って流していけば、お金は必ず喜んで返ってきてくれます。これはクリーニングでも同じことです。誰でも、自分を大切にしてくれる人のそばに行きたいですよね。お金もクリーニングでも何でも、まったく同じなんじゃあないでしょうか。
そんなことを感じた二日間でした。

10月16日「心身一如」 (2008.1016[Wed])

  白隠というお坊さんが、人間は思い癖によって病気になると言われ、次のように語っています。  
  目が悪いと言うのは、物を注意し深く見ないと言うこと。現実のものを注意深く見ないだけではなく人の心も見ないとか、物事の本質を見ようとしない。鼻の悪い人は、へそ曲がりでひがみっぽい。よく「鼻つまみ者」というが、すぐにメソメソしたり、クヨクヨしたりする人に鼻の悪い人は多い。
  耳が悪い人は、人の注意を受け入れない。吹き出物が出やすい人は不平不満の多い人。ガンや腫瘍の人は、ブツブツ文句を言う頑固者。食道や胃が悪い、消化器系の病気は不満を抱えた人。物事を何でも否定的にとらえて、未消化のまま抱えてしまう。現実を消化できない人は胃と腸が悪くなる。腰痛は踏ん張りが利かず、意思の弱い人。婦人の病は、母性が足りないので、母性を持てというあかし。皮膚の病は、アレルギーは自分の運命を受け入れず、素直な心にするために起こる。過喚起症候群になる人は束縛する人。すべてを窮屈に考えて締め付けているので、息苦しい。
  口ばかりで行動のない人は、臀部におできができ、こその重い人は痔と成り、人の悪口ばかりを言ってると喉を悪くし、口内炎ができる。
 すべての病気は自分で起こしていると知ること。
  どうでしょうか?皆さんは。
 白隠さんによると、このような病気は対処療法で一時的に治ったかにに見えても、その人の「思いぐせ」から脱出して、自分の「執着」 や、「我執」から解放されなければ何度でもパターンを変えて病気は来るとのことです。ということは、自分の病気は自分で起こしているということですね。そしてそれらの病気から解放されるためには「執着」や「我執」から解放されることです。やっぱりお念仏しかないですね。

10月15日「執着を捨てる」 (2008.10.15[Wed])

  この世にある苦難は、そのおおもとにあるものはシンプルに言うと「執着」です。病気、金銭問題は苦の一例でしかありません。
  たとえば病気が「苦」の思えるのは、元気に飛びまわっていたという「執着」です。「死にたくない」は、この世の執着。そして「お金」のことも、欲しいものを手に入れたいという執着ですね。
  よく「そこそこでいい」お金は「自分が食べていくだけでいい」と言いますが、これは偽善ですね。「私は執着があまりない」と言う人もそうです。  
 人間と言うものは弱いもので、剥いでも剥いでもまだこんな執着があるのかと驚くほど執着が強いのです。
 そういう意味では、執着が私たちの生活を苦しめているともいえます。執着がなければ自由だし、怖いものは一切なくなります。
  よく、「成仏」という言葉を使いますが、これは亡くなった人のことだけのことではない。病気の成仏、お金の成仏、人生におけるトラブルからの成仏、会社がつまらない、楽しい死後とではないなど、やはり生きていても成仏できていません。みんな生きたまま迷っているのです。そして死んでも迷う。
  私は執着が出るたびに「ナンマンダブツ」と称えます。自分のあさましい姿、愚かな姿を仏さんがハッキリ知らせて下さいます。執着を拭い去るのは大変です。しかし、執着に気づくことは可能です。執着は仏さんの心に出遭うことによって知らされていきます。執着に気づき、執着から解放されれば自由を得ることができます。
 執着を一つ一つ気づいて、本当の自由を得るために人間は生きているのだ、最近そう思うようになりました。  
 それは言葉を換えれば「執着を捨てる」ということでしょう。
 「苦」からの解放は「執着」に縛られない。
 「執着捨てる」ということです。
 そうなれるために、私たちは様々な経験と感動の積み重ねを体験しているのです。

10月14日「奇跡的」 (2008.10.14[Tue])

  何より「生きる」ということは、様々な苦難や困難を体験しながらも、「自分は仏の子である」「仏の子として利他的に生きる」ということを思い出す作業でもあると思うのです。目に見える世界だけにとらわれ、執着していると、本質的な感覚、感性がぼけていくのです。

 私は過去、多くの人たちの、人生の困難や苦難を脱出するための相談に乗ってきました。ただ、その人たちがその後、困難や苦難を乗り越えて、輝きある人生を生きているかというと言えば、決してそうではありません。
 その人たちが、その後この世的には幸福感に包まれた生活をしていても、まるで輝きのないボケた“いのち”や人生を生きてしまっています。それは自己愛、つまり自分個人や家族だけを可愛がる気持ちで生きているからです。守りに入ったということですね。そういう人と話をしていても、面白くも楽しくもありません。自己愛に凝り固まった人や、自分を守るために生きている人からは処世術的な話題はあっても、何も本質的なことが伝わってこないからです。

 逆に、当時は苦難や困難の中にあって、自らの生き方を本気で問い直し、膿を出し切り、一段上に上るためにもがき苦しんでいる時のその人の姿の方が、「仏の子としての“いのち”」を生きようとして努力していると清々しく見えたものです。
 それは、苦難や困難を契機に自己愛から自分の我執を捨てて、無償の愛に生きようとしていたからです。そういう時、その人の“いのち”は輝いています。「何もいらない。もうなるようになればいい」と、自分を守ることに執着がなくなってふっ切れているからです。

 さて、人生のトラブルや病気や事件・・・何らかの負の経験を経て、わだかまりや迷いなどを捨てたときに、その人の周りで「奇跡的」なようなものが起きるときがあります。病が癒えた、潰れかけていた会社が別の形で復活した、人生の再挑戦が出来たなどです。
 「奇跡的」と言うと、何か御利益的発想が生まれますが、そうではありません。そういった奇跡的と見えることも、つまり因果の道理から起こるのです。つまり、絶対絶命になったと忌避とは抜け切った気持になります。そして執着を捨てると、自身の波動が高くなって、その波動に共鳴した事柄が起こってくるのです。  

  小学校の時、よく音叉の実験をしました。片一方の棒を叩くと、片一方の棒が共鳴して「ビーン」と鳴り出す。あれは振動に共鳴して音がなるわけですが、実際にそういうことが我執や執着を捨てれば捨てるほど起こってくる。私は過去難度もそういう「奇跡的 」なことを体験してきましたので、改めて、「因果の道理とは何か」が実感できるのです。そして、奇跡的な事柄を目の当たりにしたとき、人間はそこで、目に見えるこの世だけでは説明のつかない、何か大きな力が働いていることを感じます。また何か大きな目に見えない働きに守られていることも感じます。

  だからと言って仏さんに対して急に妄信的になったりするのではなく、あらためて「自分が生きてる」のではなく「自分は生かされている」ということを実感できるのです。
  ただ、こういうことは、理論や理屈だけでは実感できません。いくら仏教書を読もうとも、教えをきいても実感できません。やはり実感や体験に勝るものはないのです。人生はこういう繰り返しを通して、仏さんという目に見えない存在を見いだしていけるのです。

10月13日「人生とは自分の心・技・体を鍛えるスポーツみたいなもの」 (2008.10.13[Mon])

  人はこの世にう生まれ、人それぞれ、さまざまな生き方の中で経験を得てこの世を去っていきます。
  その経験の中には喜び、悲しみ、苦しみがあります。苦しみでは、まず病気や事故が挙げられます。それから人間関係やお金のトラブル、究極の苦しみは「死」かもしれません。
  ただ、生まれてから死ぬまで、何事もなく平和に幸せに暮らして生きれたとしたら、人格の向上も、自己成長も全くないでしょうね。当然、問題意識を持って、仏法にも出遭うことはないでしょう。

 困難や苦難に出遭わなかったら、人格の向上も、自己成長もない。そんなことは人間であれば薄々分かっています。にもかかわらず、人はなぜ、棚ぼた式の幸せや、なんの不自由もない幸せもどきの暮らしばかりを望むものでしょうか。
 そういう気持ちは「恐れ」と「弱さ」から起こってくるのです。この「恐れ」と「弱さ」はどこから生まれるかというと、自分と言う存在(自分の自我)を頼りにしているからです。つまり自分自身といっても、常に右往左往する自身の自我を頼りにしているのですから、常に体験したこと以外は「不安」なのです。ですから、変化球のようなものに怖じけづいて、なんでも事なきを得ようとしたり、自分を守ろうとして内に閉じこもってしまいます。

 しかし、人間は誰でも成長したい、自分を少しでも高めたいと本質的に求めています。無意識に求めているけど、羅針盤がない、道しるべがない、そして自らの「安心」バックボーンがない。そのために本質的に求めているのも関わらず、「恐れ」と「弱さ」から逆の生き方を選択してしまうのです。

 私は、人生とはまさに次第に上のステージを目指すスポーツのようなものだと思っています。過去の自分を振り返って見ても、何かに一生懸命打ち込んで自身の“いのち”が「安定」していくと、「変化」できる必ず次のステージを目指せる場を求めていました。そして、自然とそうした場にたどり着いて、自分の“いのち”を鍛え、変化、進化、純化できることが何よりも喜びとしてきました。そういう自分の人生や、過去の偉人傑物たちの人生を見ていて分かることは、人間は自分自身の“いのち”や心を鍛えてより高い人間性を目指して生まれてきたんだということです。
 翻ってみれば、私たちは本当は艱難辛苦を味わって、自身の“いのち”を磨き、器を大きく育てるためにこの世に生まれてきているともいえると思います。  

 お釈迦さんは、「人生は苦である」と言われました。しかし、その実体は「苦とは自分の執着や我執よりうまれるもの。本当は苦なるものは無いのである」と言われています。
 自分の心・技・体を磨き成長していくスポーツは、「苦」とは言いません。私たちが一見「苦」ととらえていることは、実は自身の“いのち”が自己成長できるための切磋琢磨であり、その羅針盤や道しるべを示してくれるのが仏さんの教えであり、仏さんという大きな愛の存在がバックボーンであるからこそ、「安心」して、日々の変化球を楽しんで自分自身の“いのち”の力量を鍛えていける、そう思います。

10月11日「因果の道理」 (2008.10.11[Sat])

  仏教は因果の道理、つまり因・縁・結果の法則を説きます。
目の前に起こっている事は、必ず原因があって、原因を結ぶ縁があって、それが結果として現れる。この世はそうした、因・縁・果のよって成り立っているということです。
  これは、起こることには必ず原因があって、つまり、波長の法則が結びついて、結果として返ってくるということです。これは今世だけでなく、前の世から引き継いだものもあるでしょうし、今世だけでまいた種が育って帰ってくるものであったりと、時間的長短の違いはあっても、すべては因果の道理で成り立っているわけです。  
 つまり、人生はみんな平等だということなのです。

 ある意味、この因果の道理は、自分を映し出す鏡です。身に降りかかってくる事柄は、自分を映し出しているわけです。責任の主体は全部自分にあって、何一つ人のせいにはできません。たとえそれが自分自身になんの落ち度もなく起きたように見えることでも、そこにはヒューマニズムを超えた、何らかの必然性があるわけです。
  「仏さんに任せる」とは、そういった必然性を「ありがたい」と受け取り、その中から気づきと目覚めを得ていくことなのです。そして、今世で少しずつ自分の筋力を増強していけるように、仏さんが場面場面で適切なカリキュラムを組んでくれているのです。  
 
  よく「超えられない苦しみは来ない」と言いますが、実はその通りなのです。振り返ってみれば、自分の“いのち”の成長度合に応じた負荷しかやってきません。つまり筋肉が切断されてしまうような負荷が襲いかかることはあり得ない、そう思います。
  特に、“いのち”の進級時には、一言でいうと、絶体絶命だと思うようなことが迫り、起きてきます。そんな絶体絶命を通して、ある人は絶望の中ジタバタともがき苦しみ、すべての責任を人や環境に転化していったりします。まさに最悪のパターンです。

  しかし、ある人は我欲を捨て、仏に流れを任せ、今を全力で生き抜いていきます。いい意味で開き直って、一切の執着を絶ち、本当の自然体に戻っていきます。この時に“いのち”は飛躍的に成長し、キラキラと輝き始めるのです。
  また、その時、人は仏を見るのです。たとえば病気や事業に失敗などの窮地を脱した人がそれまでの生き方をガラッと変えて、「これは拾った命ですから」「余生だと思ってやっていますから」と社会貢献に尽力するようになることは少なくありません。それはやはり仏を見た人なのです。  
  仏を見るとは、いかに執着を捨てて、真実に生きることが尊いことなのかを、体験を持って悟った人、と言っていいでしょう。

10月10日「人間の“いのち”は感動の体験によって磨かれていく」 (2008.10.10[Fri])

  人間の“いのち”は感動がある限り、死ぬまで「青春」なのだと思います。「感動」とは、感じて動くこと、心が動くということです。  
  つまり日々の暮らしや仕事場というものは、感動を味わうために私たちに与えられた学びの場なのです。私たちは、仏法を学んでいるわけですが、何か問題が起きたとき、その都度動揺してしまうのか、それとも「こう来たか、よしっ!」と前向きに対処できるのか。学びを自身がほんとうに生きれるかどうか、“いのち”の成長度合いや柔軟性が常に問われているわけです。  

  人間は「独り生まれ、独り死に、独り去る、独り来る」とお釈迦さんが言われているように、独りで生まれ、独りでこの世を去って生きます。
  私は、この世を去った仏の世界、「浄土という無量光明なる永遠の世界へ還る」と受け止めています。この世は、永遠の世界へ還るまでの自己成長や器づくりの場であると。運命や人生はそのために仏さんから与えられた必要必然のプログラムだと。
  そのことを心底納得できれば、人生、怖いものはなくなります。普通、意味が分からない出来事や人生では、誰もが不安になって当たり前です。逆に言えば、人生の意味が分かればまったく怖いものはなくなるということです。

  仏法を知らない人たちに、「あなたの幸せって何?」と聞くと、大抵はまず物質的な返事が返ってきます。円満な家庭がある、お金に恵まれている、仕事がうまくいっているなどです。この世の価値観にどっぷり浸かっている人であれば、凄く物や人への執着が強いです。ちょっと、心を大切にするような人でも、「楽しく心豊かに暮らしたい」「人と仲良くしたい」など、レベルが違うだけで、「〜したい」という執着は変わりません。
  しかし、そのようなものは全く当てにならないことを思い知らされる時が来ます。冷たいことを言うようですが、どんなに愛する人がいても、どんなに幸せな家族があっても、一緒に死んでいく人は誰もいません。出会いがあれば必ず別れがあります。お金は所詮物質ですから、得ても失うこともあります。確実な幸せなんて有り得ないのです。

  ただ、一つだけある確実な幸せは、「浄土という仏の世界へ還って永遠の“いのち”を生きる」という安心があるということです。死の恐れがないということは、人生に怖いものがないということです。恐いものがなければ、計らってこの世を生きるということはないということです。周りの目や評価を気にする事はなく、自分の“いのち”の喜べる人生を、素直に感謝して生きていくことができます。これが最大の幸せです。
  それから、病気の真の意味を知れば、むやみに病気を恐れずに済みます。お金やさまざまな物質。それらも、何のためにあるのかを考えれば、失っても嘆くことはありません。
  だから、本当の幸せとは「恐いものがないこと」、「」失うことの恐れから脱することなのです。

10月9日「物差しを捨てるのが南無」 (2008.10.09[Thu])

  物事を自分の物差しで判断するのを「分別」と言います。その智慧を「分別知」と言います。私たちは生きていく中で、物事を良いとか悪いとか判断します。
  「今はいいけど、必ず悪いときもくるよ」とか、「悪いことの中にいいこともあるよ」などと解釈するのは、分別の智慧です。はからいです。この分別の智慧で物事を見ていくと、必ず行き詰まったり、おかしくなっていきます。仏教では、「分別するな、はからいを捨てよ」と教えます。この智慧を「無分別智」と言います。
  世間一般では反対ですよね。分別がはっきりしている人ほど、良いように思われますが、こういう人は「私が」で、必ずつまずいていきます。
  「南無阿弥陀仏」の「南無」とは、無分別智で物を見よ、ということです。無分別智で物を見るとは、「あるがままにものを見る。自分の主観や思い込みを入れない」ということです。これを「如実知見(にょじつちけん)」ともいいます。

  ただ、あるがままにものを見るには、大変な修練が必要です。なにせ、「私が」の主観だらけ、「私は」の思い込みだらけの人間の凡夫(ぼんぷ)の姿なんですから、心に一点の曇も無く、あるがままに見ることはできません。
  だから、親鸞さんは、「仏さんにおまかせするのだ」と言われました。それが物差しを捨てることになるのです。
  物差しとは「こうありたい」というはからいの心です。「こうするべきだ」いや、「そうしなければならない」。そんなはからいの心を、仏さんにお任せすることで、はっきり言った放棄してしまうのです。すべてを阿弥陀さまにお任せしますから、私は一切判断しません。阿弥陀クジというのが昔からありますよね。あれはまさしく阿弥陀さんにおまかせしていくことの象徴ですね。さらに、起こってくることは、
  「何事もありがたい」と受け止めるということでもあります。仏にお任せしたのだから、何があってもすべては仏さんのはからいです。だから、何事もありがたいのです。言ってみれば、究極の感謝思考であり、プラス思考になります。
 自分自身、過去の人生を振り返ってみても、実際、何が良いのか悪いのかさっぱり分かりません。その時は一生懸命自分で考え判断したり、選択したり、その結果、思った方向に行ったり、思った方向に行かなかったり、その後まったく違った展開がまっていたり。よくよく考えてみれば、物事には、本来、良い悪いの物差しがついてないのです。あるがままなのです。とにかく、いいとか悪いとかの物差しを捨てることが、「南無」ということなのです。

  もう何もかも、阿弥陀さまに任せてしまう。何があっても、「阿弥陀さまが与えてくれたんだから、ありがたい」といって受け止めればいいのです。それがどんなに腹が立つようなことや、嫌なことでも、阿弥陀さまが与えてくれたのだから、自分の心の中の何かに対しての「気づき」「目覚め」なのです。
  それは、あなたの傲慢さかもしれない。あなたの差別的な心かもしれない。あなたの変なプライドかもしれない。約束を守れない怠惰な心かもしれない。人に対する礼儀の無さかもしれない。そんな歪んだ心に「目覚めよ」「気づけよ」と阿弥陀さまは、いろんな事象を与えてくれてます。逆に「喜び」「感動」もです。与えられたものは、すべて阿弥陀さまがあなたの「幸せ」を願って起こしてくださる、はからいによるものです。だから「ありがたい」のです。

10月8日「南無とは」 (2008.10.08[Wed])

  悲しいことは、悲しい。辛いことは、辛い。悲しいのに悲しくないと、感情否定する必要はありません。悲しいことですから、悲しみを素直に悲しんでいいんです。悲しいことは悲しい、辛いことは辛い。
  そして、悲しいけど、ありがたい。辛いけども、ありがたい。生かされていることがありがたい。そうとらえるのが仏さんの教えです。

  「南無」とは、すべてをおまかせするということです。自分の「運命」をおまかせするということです。
  しかし、僕たちはまかせきれないで、「あのときはこうしておけばよかった。こうなったのはあのせいだ」と後悔したり、人や環境の責任に転換します。  

  お釈迦さんは、
  「過去を追わざれ。  
   未来を願わざれ。  
   およそ過ぎ去ったものは、すでに捨てられたのである。  
   また未来は未だ到達していない。   
   そして現在のことがらを、  
   各々の処においてよく観察し、   
   揺らぐことなく、また動ずることなく、   
   それを了知した人は、その環境を増大せしめよ。  
   ただ今日まさに為すべきことを熱心になせ。」  
   と、言われています。
  お釈迦さんは、過去を振り返るな、未来に対して思い煩うな。それよりも、今日一日を、そして今を大切に生きよ、と言われます。
  これは、未来の生活のために、将来に備えて、今を犠牲にするような生き方を選ぶよりも、今を大切にする人生観を確立することだ、それがあなたの運命を生き抜くことになるのだ、とおっしゃるのです。
  自身の運命を受け入れ、運命を生きるとはそういうことですね。

10月07日「阿弥陀仏とは宇宙の願い」 (2008.10.07[Tue])

  僕たちが存在する宇宙にはある願いがあります。その願いとはすべての“いのち”が幸せであって欲しいという「願い」です。
  その「願い」そのものを、人格化して名づけたときに、それを「ほとけさま」とか「阿弥陀仏」と呼ぶわけです。
  またこの大宇宙には、この「願い」を実現させるための大きなプログラムがあるのだと思います。そかし、すべての“いのち”を幸せにするのは、単純ではありません。それには、それには、物凄く膨大で複雑なプログラム、“いのち”がいろんな出来事をとおして、「真実」に気づき、目覚める“愛”の学習(救済)プログラムが必要です。

  例えば、病気で苦しんでいる人がいます。その人の病気を治したら幸せになれるかといったら、そうでもないのです。病気が治ったら、元気になっていろんな人の恩を忘れ、また傲慢な人に戻ってしまう。それなら病人の方が、いい場合のプログラムが働くのです。
  一見、理不尽と思えるようなプログラムだってあります。最愛の子どもをガンで亡くすとか、結婚を目の前にフィアンセが交通事故でなるとか、愛する家族が戦争で殺されていくとか・・。ただ、そういった悲しい目にあった人たちは、もがき苦しんだ末に、必ず“いのち”の尊さに気づき、今までの心境とはまったく違った新たな人生を歩みだします。
  とにかく、僕たち人間には、何がほんとうにいいことで、何が悪いことなのか、ほんとうのところはさっぱり分かりません。

  テレビドラマの「水戸黄門」では、「この印籠が目に入らぬか!」と言えば、悪人たちは「ははっ〜」とひれ伏し、それで万事解決します。だったら、初めから印籠を出せば、誰も悪いことをしてないのにと思ってしまいます。
  でもドラマですから、悪いことをやらせないことには、ドラマにならないわけです。そこで泣いたり、笑ったり、怒ったり、悲しんだり、感動する人がいないと、ドラマは成り立ちません。
  そういうのとは、まったく次元が違いますが、宇宙の中でも、泣くものも、笑うものもいるわけです。そうしないと、すべての“いのち”に気づきや目覚めを与えて、救済するというプログラムはうまくいきません。宇宙の学習(救済)プログラムでは、宇宙全体の幸せに向かってはからわれているからです。これは、人間だけのためではありません。生きとし生けるものの“いのち”の幸せを願っているわけで、仏の懐は実に深いのです。

  自然界を見ると、共に生きようとする共生の原理で成り立っていることが分かりますし。
  そのずべての“いのち”を生かしめている働きそのもの、その大きな宇宙の力うぃ、仏さまというわけです。ということは、人間を含むすべての“いのち”は、ほとけさまの心の中に生かされているのです。大きな大きな“愛”の中に生かされているのです。
  大きな愛の中に生かされているのですから、人間はその人相応のプログラムを経験したり配役を演じながら、大きな愛の中で、愛の尊さ、真実に生きる喜びを学んでいるのだと思います。
  それが分かれば、仏さまから与えてくれた、真実への「気づき」と「目覚め」のプログラムに従って生きようとすることです。それは自らの「運命」を信じ、受け入れることです。それは自らの「運命」を信じ、受け入れることなのです。すべては仏さまが私たち一人ひとりに与えてくれた、この世においての、“いのち”が“愛”を学び得る最高の学習(救済)プログラムなのです。

10月6日「仏法聴聞すること」 (2008.10.06[Mon])

  毎朝、朝礼では「仏法」のお話をします。
  すると、必ず何人かの人は胸の底から熱いものが込み上げてきて目頭が熱くなるといいます。
  人間は仏の心に、真実に触れると、自らの“いのち”が歓喜するのです。これは「そうしよう」といくら頑張って思うとしてもそうならない。つまり、義務感、責任感、正義感なんかの「感」がついたときには、絶対にそうなりません。
  「こうあるべきだ」「あああるべきだ」「こうしてやろう「ああしてやろう」といった、自力の思いは、結果的には何も生まれてこないと言うことなのです。

  歎異抄の中の、
  「弥陀の誓願不思議にたすけまいらせて、往生おばとぐるなりと信じて念仏もうさんとおもいたつこころのおこるとき」
  この「おもいたつこころのおこるとき」ですね。決して「おもいたつこころのおこるとき」ではありません。これでは自力のはからいです。
  仏さんの話を聞きながら、「自然と目頭が熱くなるとき」、この「おこるとき」が、実はすべてなのです。そういう人は、みんな仏さんを求めています。
  つまり、仏さんに救われるんだと信じて念仏しようという心が自然と起こってきたその瞬間、自然と熱いものがこみ上げてきた瞬間、自然と感謝のこころが湧き出して瞬間、すでにもう仏に救われているんだ、自分は仏さんと感応道交の世界を生きているのだという証なのです。
 この背後にあるものは、実は、頑張って「私が仏さんを信じるのではない」ということです。「仏さんを信じる」と言った心そのものが、仏さんの働きかけ(大宇宙、世界の構造) によって自然と起こったことなんだ、ということです。
 自分自身のはからいや、信じ込もうとする努力なんかで「信心」というものが生まれるのではなく、またそういう「自力」の「信心」で救われるわけでもありません。
 仏さんと人間、お互いの心がピタッときた時、その瞬間救われてゆく、自由、自立、解放の世界に向かって歩んでいけるのです。

 親鸞さんは、
 「仏さん自身が仏さんを信じるという心を私たちにおこしてくれるんだよ」
 そう言ってるのです。
 仏さんを求め、
 「仏さんにすべてをお任せすれば、仏さんが私を救ってくださるんだよ」
 と言うことなのです。

10月4日「弥陀(みだ。仏さん)の誓願不思議(せいがんふしぎ)」 (2008.10.04[Sat])

  仏さんの心が僕たち一人ひとりに訴えかけてくる、僕たちの心がそれに答える。それは同時に起こります。そのことはもう不思議としか言いようがありません。分かっている人は一々それを説明しようとは思いません。人間が説明できるようなことではないからです。
  親鸞さんはそこのところを「弥陀の誓願不思議」としか言いませんでした。どうしてそうなるかと言う説明は一切していません。

  ここで僕たちが考えなくてはならないことはただ一つ。大宇宙の永遠なるものの力が、はたらきが、この世界を調和あらしめ、この世界の一人ひとりの“いのち”ある存在を幸せにならしめるべく、常にすべての“いのち”にはたらきかけ、訴えかけていることを、ただ信じるより他はないということなのです。それを「ただ信心を要(よう)とすとしるべし」と言われます。
  これを信ずることがただ一つの善であると親鸞さんは言います。僕たちが思っているほかのあらゆる善はここから派生してくるものだからです。この訴えかけ、この願いに、このはたらきかけは、一見弱いように見えて実は圧倒的な力をもっています。だから、いかなる悪意もこれを妨げることはできないのです。

  この「弥陀の本願(ほんがん)」は、凡夫である出来の悪い僕たちを助ける願いなのです。そりゃあそうです。もし人間が善意と愛に満ちていたら、仏さんはこういう願を立てる必要なんてまったくないのですから。人間はそもそも自己中であり、自分の診をまもるためならどんな嘘もどんな悪態も犯してしまうほど、迷い深い存在であるからこそ、仏さんは願(がん)を立てられたのです。  

 仏さんと人間が一つになればなるほど、仏さんの大きな愛が身に染み、自分のどうしようもなさがはっきり見えてきます。しかし、人間というものは、自分の愚かさが見えれば見えるほど、また、居直ってその自分を肯定したくなるものです。仏さんと僕たちは土台違うものだと叫びたくなるものです。しかし、それは仏の本願に背を向けるものいであり、人間はどんな人であろうと「罪悪深重(ざいあくじんじゅう)」であるということが、はっきりと見えてくるのです。
  しかし、それほどに仏さんとのへだたりの大きい、どうしようもなさを抱えているからこそ、人間は、仏さんとぴったり一つになる可能性あるのです。ものすごく逆説的ですが、「救われない者だからこそ、仏さんに救われていく」のです。だからこそ、人間は“いのち”の親である仏さんの名前を呼ぶしかないのです。その名が「南無阿弥陀仏」なのです。
  人を救うのは、決して人ではありません「弥陀の誓願不思議」です。大宇宙の救済構造であり、仏さんの大きな力なのです。

10月3日「感応道交(かんのうどうこう)の世界」 (2008.10.03[Fri])

  永遠なる大きな“いのち”、仏さんに生かされていることが直感的に分かる人は、自分の力で分かるのではありません。分からせてもらっています。歎異抄の「弥陀(みだ)誓願不思議(せいがんふしぎ)に助けられまいらせる」ということは、そういうことです。
  大宇宙の救いの構造が、「幸せにしたい」「大きな世界を生き、その大きな愛の世界へ還らせてやりたい」とはたらきかけてくれています。
  「仏さんより信心をたまわる」ということは、仏さんからの“いのち”の促しと、人間の心の動きがピタッと一つになることを言います。
  人間の心だけが動いても駄目。そこに永遠になる仏さんからの促しが働きかけてこなければ、発菩提心(ほつぼだいしん。仏を強く求める心)することもありません。したがって、自分の“いのち”が仏さんの“いのち”の中にすっぽりと包まれていることは分かりません。

  また、仏さんからの促しさえ働いてくれば人は必ず発菩提心するかというと、そうではありません。やはりそこには、人間の側から仏を求め、営むということがなければ感応道交することはありません。
  そのところを親鸞さんは「念仏もうさんとおもひたつこころのおこるとき」と言ってます。この「念仏もうさんとおもひたつこころのおこるとき」というところを「永遠なる仏さんを求めて」と言いかえてもいいです。そういう仏さんを求める心がなくては、仏さんと交わることはできません。
  ただ、そういった気持ちも実は仏さんが起こして下さるのですが・・・。

  だから、仏さんを求める気持の起きる人は、実の幸せな人間と言っていいです。起きない人は、どんなにしても不思議なくらい起きません。
  ただ、そういう心が起きない人こそ、努めて仏法を聞くことをお進めします。それを「問法(もんぽう)」というのですが、法を聞き続けることによって、人間の眼が自然とあいていくからです。
  すると以前では、「仏さんのお話があるよ」と聞いても、「まあ、いいわ・・・」と言っていた人が、なんとなく「いってみようか」という気を起こったりします。それが不思議なのです。それが、仏さんからの呼びかけに心が官能道交していると言うことなのです。

  「念仏もうさんとおもいたつこころのおこるとき」まさしく、仏と自分は感応道交する気持ち良い大きなひらかれた世界を生きているのです。

10月2日「人間の生き方には二つの生き方がある」 (2008.10.02[Thu])

  人間の生き方には二種類あって、自分が自分の力で生きてるのだと思っている人(世間の大多数)と、永遠なるものを見つめ、目に見えない永遠なるものに生かされているのだという人とはっきり分かれてしまっています。
  永遠なるものに生かされているということは、僕たちが仏さんの大きな“いのち”の中に生かされているということです。

  それを「摂取不捨(せっしゅふしゃ)」と言います。

  おさめとって捨てない。本当はどんな人でも、仏さんの大きな“いのち”の中に誰もがすっぽりつつまれているのです。
  こちらが「そうじゃない」といくら否定しても、反抗しても、反発しても、「仏ほっとけ」と仏を忘れていても、やはり僕たちは大きな大宇宙の“ほとけ”の中にあります。
  でないと、僕たちはこの世で息をしたり、水を飲んだり、存在することすらできません。 すべての森羅万象の“いのち”を生かしめている働きそのものが仏さんなんですから。これは当然人間の“いのち”もです。

  僕たちは自分勝手に、自由に自分の力で生きているわけでも、生まれてきたわけではありません。どんな人間でも、父母を縁として、たくさんの先祖の縁で生まれてきました。
  網の目のように張り巡らされている因縁の一つが違っていたら、あなたの“いのち”はこの世に生まれてくることはありませんでした。
  また精子と卵子が結合するのは、500億分の一の確立です。ということは、あなたがこの世に生まれてこられたこと自体が物凄い奇跡そのものなのです。
  そういった因縁の不思議な連鎖の結果、人間はそれざれの“いのち”を持ってこの世に生まれてこれたというか、生まれてくることを許されたのです。実に不思議なことですが、にんげんの“いのち”が生まれてくる時、そこには目に見えない大きな力が働いてるわけです。 大きな慈悲の力が働いているわけです。

  人間はこの世を生きていても、何か大きな不思議な力が働いているようだと、少しでも感じる人と、一切感じない人に、これまたはっきり分かれます。少しでも感じてる人は、何かの時に、「やはりそうだったんだ」と、何かに目覚め、気づき、激しく感動します。そういう人が、やがて永遠なるものを見つめて歩きだします。そして永遠なる大きな“いのち”に生かされていると言うことがわかってきます。
  ただ、死ぬまで分からない人にはこの真実はまったく分かりません。ただ、分からない人は、永遠の“いのち”が分からなくたってこの世を生きることは、どうってことはありません。ただ、そういう人は、自分という「私が」を信じ、目に見える物ばかりを信じて生きていますから、この世を去る時は大変なのです。そういった物はすべて手放していくわけですから。

10月1日「信心とは自分のエゴの外に出ると言うこと」 (2008.10.1[Wed])

  「南無阿弥陀仏」を称えると言うことは、自分の中に握り締めているこの“いのち”を、仏さんの大きな大きな“いのち”の中に解放せよ、小さな自分の固体を突破せよと、大きな“いのち”が教えてくれるわけです。
  「信心」とは、この小さな自分の固体を突破する仕方です。仏さんを信じる人は、自分のエゴと言うものの外に出るのです。それが、仏さんを信じたと言うことです。自分のエゴにつかまって、エゴがエゴと相談しているうちは、仏さんなんてまったく信じていません。それは自分のエゴを信じているだけです。
  どれだけその人が、宗教心があるとか、信心とか、精神的に素晴らしいことを言っても、それはみんな嘘で、実は自分のエゴというものの中にしか居座ってしかいません。自分のエゴの外に出ると言うことは、このちっぽけな固体の自分の“いのち”が本来のありのままの姿を現してきます。

  お金、地位、名誉、学問、才能、家族などを信じている人は、仏さんを信じてないと思います。「信心」とは、世間のことも信じるが、仏さんも信じるというような曖昧なことではありません。
  仏さんを信じているつもりと、本当に信じていることとは似て非なるものなのです。「信心の定まるとき往生は定まるなり」と親鸞さんはおっしゃっています。今ここのこの私が、すでに仏さんの大きな“いのち”の中に摂取(せっしゅ)されて生かされている。そう味わっている人は、「信心の人はその心すでに常に浄土に居す」と善導という中国のお坊さんが言われたように、心は常に浄土に入るのです。いわば、浄土の国籍に入ったというのが「信心」です。
  考えてみると人間はこの一生で、真実の出遭わなければ、いくら表面的に楽しい、明るいといっても、空しい時間の連続しか無いのですし、死ぬ時はお先真っ暗です。そういう人生を「無量寿経(むりょうじゅきょう)」は、「空過」と言いました。

  欲望追求の人生はどれだけ長くても、つまりは0×無限大×0です。これは有名なパスカルの計算です。パスカルは神を信じるか、この世の幸福を信じるかは人間存在そのもの賭けだと言いました。欲望の人生と言うゼロのものに無限大を掛けても合計0のままだと言いました。しかし信仰とは神という無限大のものに人生の年数を掛けることだと言っています。そういう意味で「信心」の生は、「無量寿経」で言う「勝過」の人生です。「本願力にあいぬれば、むなしくすぎるひとぞなき 功徳の宝海みちみちて 煩悩の濁水へだてなし」と言われる通りです。
  とにかく僕たちは小さな「私が」という固体を突破しなければなりません、仏さんを信じる人はみな、小さな固体の殻を破って本当の“いのち”そのものに成ることができるのだ、それが「仏の本願」であると親鸞さんは教えて下さっています。


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