2009年2月の日記

2月28日「人生で成功できる人」 (2009.02.28[Sat])

昔から頭のいい人っていました。
小学校でも、中学校でも、高校でも大学でも。
ただ不思議とそういう人に限って、
人生に成功しない感が漂っています。
およそ頭が勝って、評論家みたいな一生で終わってしまってる、
そんな感じです。

人生に成功している人は、実は「頭のいい人」ではなくて、
「やる気の継続できる人」である場合が圧倒的です。
仏さんを信じられるとか、
プラス思考や自分を信じることができる能力とか、
いろんな言い方をしても、
結局は「やる気」「本気」が伝わってくる人たちです。

こういうことからも、
成功できる人というのは、
エネルギーのある人間であるってことが分かります。
エネルギーとは、
人生の目標バーを高く設定し、
それに向かってモチベーションを保ち続けられるってことです。

だから、
本来「やる気」のない人は、そんな「やる気」のない自分を受け入れて、
まさしく目の前に与えられた仕事を淡々とやっていくしかないのです。
そして文句を言ってはだめ。
やる気のない人に対して「やる気」を出せといっても、
それは意味がないのです。
頭の悪い人間に「頭がよくなれ」と、
号令しているようなもんですから。

つまり成功できる人というのは、
この世で与えられた、
自分の人生の価値をどれだけ疑いなく信じれる人かって、
ことだと思いますね。
そういう人は無宗教でも、実は仏さん、法則と共に生きてるってことですから。

2月27日「共振・共鳴」 (2009.02.27[Fri])

ポジティヴなほうに焦点を合わせていると、
ポジティヴな状況が自動的に現れてきます。

ネガティヴなほうに焦点を合わせていると、
どうしてもネガティヴなものと共振・共鳴
が起こります。

ポジティヴな世界も、
ネガティヴな世界も、
パラレルで並行して存在します。  

この世はどちらかの世界になるわけでなく、
それぞれ自分が焦点を合わせた世界が、
自分の周囲に出現してくるって感じです。

僕は、
さまざまなレベルの エネルギーの人たちと出会うに当たって、
「すべてのエネルギーは、
僕に何の影響も与えずにそのまま通過していきます」
というアファーメーションをしておきます。

日常や仕事でも、
このようなアファーメーションは凄く役立ちます。
とにかく、ネガティヴな情報は話題に出さない。
自分がポジティヴなところにいつも焦点を合わせていたら、
自動的にそういう方向に引っ張られるので、
何も心配はいりません。

とにかく、
「ナンマンダブツ」で、
仏さんに任せていけばポジティヴな方向に引っ張られていくから、
メチャ気持ちいいよね。

2月26日「伝える」 (2009.02.26[Thu])

人は言葉で自分の気持ちを伝えようとします。
しかし、自分の思いがなかなか伝わらない。
伝えられない・・。どうしてでしょうか?
「自分が」「私が」「分かってよ」「理解してよ」が勝ってると、
その人の自意識、
貪欲の煩悩エネルギーが伝わってくるので、
魂に何も伝わってこないというか、
聞いていてノイズだらけな波動は心地よくないのです。
昔から言葉のことを「言霊」と言ったりします。
この「言霊」とはその人の無我の思い、
煩悩が混ざらない純粋な良心からの思いを、
「言霊」と言ったわけです。

この「言霊」は「すー」と相手の魂に伝わっていきます。
頭にじゃなく、胸の奥底に響き届いていきます。
ただ、「私の気持ちを理解してよ」「説得しなきゃあ」「こうしなきゃあ」
「こうあるべきだ」「これは正しくてあれは間違ってる」なんて、
「私のエゴ」「私の都合」の場合も別の意味で伝わりますが、
それは不純物煩悩エネルギーが伝わっていくので、
決して快ではなく、
伝わっても不快しか残りません。
言葉は本来、話すためだけの道具ではないわけです。
自らの感じとっている純粋な想いを相手に伝えるための、
コミニュケーションツールなのです。
決して雑談ばかりの言葉、
自己満足の言葉、
批評や批判の言葉、
煩悩や業の発散ツールにならないように気をつけましょう。

2月25日「気づける人は変化できる」 (2009.02.25[Wed])

変われる人と、
変われない人の違いは、
「気づける」か「気づけない」か、
ただそれだけです。
この「気づき」がなければ、
話を聞いていても、
本を読んでいても、
知識が増えても、
人は決して変わりません。
この「ボスそら」を読んで、
感銘を受けても、
自分の生き方を変えようという気持ちがなければ、
何の意味もないし、この「ボスそら」なんて、
へのつっぱりにもなりません。
仕事にしても、人生にしても、
「失敗に気づき、修正するノウハウを身につける」人は、
変化していきます。
また、自分の心の癖に気づき、
その心の癖を修正していこうとする人は変化していきます。
僕なんか、失敗や心の癖だらけです。
ただ、「決してそこに居直らない」。
失敗や心の癖に気づいて、修正することを楽しみながら、
次に挑んできた結果が、今です。
どんな世の中が変化しても、
正しい思想や価値観は変わりません。
宇宙の法則は絶対に変わりません。
長い目で見ると、
必ずや自らの心の癖に居直って、
自己流で生きていく人は必ずパッとしなくなっていきます。
逆に、
どんくさくても、
失敗や悪しき癖に気づき、それを
修正するノウハウを身につけてきた人は必ず元気になっていきます。
決して今の自分に居直らない、
無意識に煩悩に「居直ってる」ことに気づけると次にいけますよ。

2月24日「やりがいのある仕事」 (2009.02.24[Tue])

よく「やりがいある仕事」といいますが、
やりがいとは職種そのものに、
最初から備わっているものではありません。
たとえば、
クリーニングだったら、
洗いをしたり、しみ抜きをしたり、プレスをしたり、
そんな仕事中ぜ〜んぶやりがいを感じてるかというと、
そうじゃない。
肩もこるし、疲れもでるし、失敗もするし、ときには、
嫌でたまらなくなることもあります。
つまり、クリーニングの作業自体に
やりがいを感じているのではないのです。
大勢のお客様のクリーニング品をきれいにすることに、
やりがいを感じている、
お客さんからの「ありがとう」をもらうために、
やりがいを感じているのです。

そういう意味で、
やりがいとは、
人の期待やニーズがあるときにはじめて生まれるものです。
そもそも期待というのは、
「きっときれいにしてくれるはずだ」という信頼があって、
初めて起きる感情です。
だから、実力をともなわない技術やサービス、
そして人には、
誰も期待などしません。

にもかかわらず、
技術力もサービス力も、
実力もない人が「やりがいがない」などという理由で、
会社をやめるとん、
今の仕事の環境をブ〜たれるなんてもっての他なのです。
要するにやりがいに職種や業種というのは
まったく関係ないということなのです。
そういう職業があるということは、
それを 期待している人がいる。
やりがいの感じにくい職種であっても、
期待している人がいれば、
そこにやりがいを自分で作り出すことができるのです。
やりがいはお客様から「ありがとう」の感謝をもらうために、
チャレンジャーと実践ジャーの人のみ生まれるのです。
(深い部分は、ブログ「阿保の進め!現代版説法」をお読み下さい。)

2月23日「愛のない人は自分濃度が濃いい」 (2009.02.23[Mon])

ビジネスの成功に絶対必要なものは、愛です。
人生をよりよくハッピーに生きるために必要なのも、愛です。
とにかく愛がないと稼げません。
そして、愛とは相手をよく見ることです。
愛とは相手の心の位置に立つことです。

ですから愛は自分濃度の濃いい人にはちょっと難しい。
自分濃度とは「私が」「わたしが」の自意識です。
この「私が」「わしが」の自意識は煩悩の親分の貪欲と言って、
たくみに手を変え品を変え自分を人より上位に立って、
優越感を持とうとしたり、相手にこびを売って自分を守ろうとしたり、
たくみに操っていきます。

ということは「私は」とか、
「わしが」という、
「これが私なのよ」と意見を主張する人ほど、
煩悩の奴隷になっています。
煩悩の奴隷になっているほど、
愛がなくなって同情などの情は強まっていきます。
情ははじめは喜ばれ後からは憎まれていきます。
情は煩悩なので同情すると相手より自分が上位に立って喜ぶし、
相手に情をかけると自分の煩悩を押し付けて、
相手をコントロールしようとします。
だから最終的には相手に憎まれるのです。

愛とは相手の立場に立って、
相手にとっての「あったらいいな、うれしいな、不安や不満は、
何なんだろう」と無意識のうちに一生懸命調べようとする心です。
これが分かると、
ビジネスの捉え方ややり方がまったく変わっていきます。
自分の経営資源を駆使して、相手のウォンツを満たそうとして、
相手が望む付加価値を与えていきます。
また人の生き方もこれと同じです。

愛することは気持ちのいいことです。
愛で仕事をしている人は、仕事の話が大好きです。
どう稼ぐか、どう相手の心を満たせるのか、
そんなことばかりを話すのが大好きです。
どう仕事をするのかと、
どう愛するのかについて語り合うのは同義だからです。
(深い部分は、ブログ「阿保の進め!現代版説法」をお読み下さい。)

2月21日「付加価値」 (2009.02.21[Sat])

「付加価値」という言葉、
ビジネス現場ではよく聞く言葉です。
この「付加価値」を一言で言えば、
「こんなのがあったらいい。あったら嬉しい。
私の不安や不満を解消してくれるよね。
こんなの私待ってたの」 と感じさせてくれる価値のことです。
この付加価値は「本当に相手の立場」に立たないと生まれません。
「仕事はお金のため、
生活のため、食いつなぐため」 という気持ちの人には付加価値は生まれません。

あなたに聞きたいのは、
「あなたの会社や組織の付加価値って何ですか?」
そしてもっと言えば「あなたの付加価値って何ですか?」
です。
もしあなたが人生を、仕事をもっと有意義なものにしたいのなら 、
「自分たちの持っている資源を、
仕事を通して世の中に対する付加価値に変えていく」 ということなのです。
たとえば、うちのクリーニングは「水洗い」です。
それも普通の衣類ではなく、
「高級衣類もレザーも洗える」付加価値があります。
それに加えて、ブランド品ばかりを扱ってきた経験と実績で、
他にできないディテールを甦らせるプレス仕上げができます。

さらに、
お客様からの発案で「その人のオリジナルマイボトル
(化学物質アレルギーの方専用のエコ洗剤)制」を、
行なうことにしました。
その人から預ったマイ洗剤で、その人の衣類は洗うということです。
特にアレルギーや敏感肌の方に対する「付加価値」は高いということです。
そして、
そういう「付加価値」の高い仕事の中で、
自分にしかできない「付加価値」を高めていくこと。
それがあなたの「付加価値」です。
ところであなたの会社や団体の「付加価値」は?
そして、あなたの「付加価値」は?

2月20日「仕事を通して何を与えたい?」 (2009.02.20[Thu])

毎日僕たちは仕事をしています。
仕事はそもそも一体何でしょうか?
食べていく、生活していくための労働なのでしょうか?
こういう考えだとしたら、
その人は仕事がストレスになっていくでしょう。
僕が考える仕事とは、
「顔も知らない世の中の誰かの人生に、
仕事を通して何らかの良い影響を与える行為」
と言えています。

ところで、
あなたは誰にどんな影響を与えているのでしょう?
また、どんな影響を与えたいですか?

仕事を通して社会から得られるというものは、
お金はもちろんのこと、
仕事をすることによって得られる充実感、
お客様の笑顔や感謝の言葉。
自分たちが開発した新技術が役に立つことで得られる満足感、
自分の可能性を試すことで得られる成長や進化や自信。
人間は仕事を通して大きく成長していきます。

だからこそ、
  自分のもつスキル、知識、智慧、見識、情熱、愛、創意工夫、そして新たなる創造、
  それら自分の資源を最大限に発揮できる仕事を目差しましょう。
  社会に何を与え、社会から何を得たいのかがはっきりしているほど、
  仕事にも充実感が生まれるし、
  やることははっきり見えてくるし、
  多少のことではへこたれずに、
  常にチャレンジャーでいることができるのです。

2月19日「夢をはっきり言語化する」 (2009.02.19[Thu])

はっきり「こうする」と言語化することと、
「こうしたい・・・」と話すとはまったく違います。
思いには三段活用があって、 まず漠然と「思う」。
イメージ的になんとなく「想う」。
具体的イメージで集中して「念う」。
実は「おもい」にも段階的にレベルがあるのです。
実は、
他人はあなたの本気や熱意や深い「念い」を感じたときに、
「伝わった・・・」と言ってくれるのです。

自分にとっての真実の夢や希望というものは、
本当の自分、つまり自分の本質的価値観に根付くものです。
あなたはどういう社会と関わっていきたいの?
そのために仕事をどう位置づけているの?
あなたは自分の人生において何を手に入れて、何を捨てていくの?
自分にとっての幸せの生き方・仕事・愛・スタイルってどんなもの?
こうした自分軸ともいえる自分の価値観を明確にしない限り、
つまり本当の自分に目覚めない限り、
自分にとっての真実の夢や希望に近づけないし、
「念い」の言語化もできないでしょう。

一時期「自分探し」であちこちに行く人が増えましたが、
本当の自分とは探すものじゃなく、見つめなおすものです。
見つめなおせば見つめなおすほど、
自分の至らなさも見えてきますし、
自分が与えられてきた愛の大きさも見えてきます。
そして、
エゴの奥底に隠れていた、
本当の自分が発見でき、
これからやっていく方向や内容が外からの縁で、
見えてくるというか、引っ張られていくようになります。
そしてその本当の自分の心、本質の声に従って行動していったとき、
はじめて「私はこれがやりたい人だ」と、
自らの「念い」の言語化が可能になります。
それは、
まったく後悔のない未来の自分につながる言語化です。
価値観の言語化。
それはあなたの本質の目覚めによってのみ、
可能になるのです。

2月18日「憧れと夢」 (2009.02.18[Wed])

こんな自分に生まれ変わりたい。
仕事のレベルをもっと上げたい。
こんなリーダーや経営者になりたい。
人はたくさんの立場や環境に憧れ、
手に入れたいと思います。
ただ、憧れを手に入れるためには、
物事を見る本質を身につけなければ、
ちょっと難しい。
どうしてか?

物事を見る本質とは、
その人の視点のことです。
つまり、
視点が変われば、
価値観が変わり、
価値観が変われば、
考え方が変わり、
考え方が変われば、
性格が変わり、
性格が変われば、
行動が変わり、
行動が変われば、
習慣が変わり、
習慣が変われば、
人生が変わり、
人生が変われば、
周りが変わる
からです。

テクニックやスキルばかり勉強しても、
それは習慣や行動の一部でしかありません。
川上にある視点を変えずに、
川下である行動や習慣を変えようとしても、
それは苦痛にしかならないのです。
現状の視点が、
憧れを手に入れてる人たちの視点に、
シフトチェンジしない限り、
憧れは絶対に手に入りません。

ただ憧れているだけでは何も変化していきません。
憧れを夢にまで進化させて、
初めて夢もかない、
憧れも手に入ります。
そのためには、
憧れの人たちの視点を学ぶこと。
そして知りえたことを、
ジッセンする努力を継続すること。
しっかりそこに照準を合わせること。
努力なくして、
夢や憧れに近づくことはできないのですよ。

2月17日「心配事は口にしない」 (2009.02.17[Tue])

いろんな性格の人がいますから、
一概にどうとかこうとかは言えません。
が、
心配を口にする。
不安を口にする。
愚痴を口にする。

怒りを口にする。
悪口を口にする。
というのは、
不幸の音叉に囲まれることになります。
こんなのは、百害あって一理なしです。
良いも悪いも共鳴共振ですから、
そんなことばかり口にしている人は、
心身が必ずマイナスの方向に向かってしまいます。

これとま逆が、
感謝を口にする。
嬉しいことを口にする。
楽しいことを口にする。
幸せなことを口にする。
相手の長所を口にする。
というのは、
幸せの音叉に囲まれることになります。
この幸せの振動の中にいたならば、
幸せの音叉の中でワクワクはどんどん広がっていきます。

自分が投げかけた結果として、
一番幸せを味あっていくのは自分です。
自分が不幸の音叉を投げかけるのか、
自分が幸せの音叉を投げかけるのか、
仕事も人生もこの積み重ねだって思います。

やっぱり仏さんと一緒じゃないと、
いつまでたっても不幸の音叉ってとまらないんじゃないかな。

2月16日「気を使うと、気が利く」 (2009.02.16[Mon])

「気を使う」と「気が利く」とは、
心の状態が全然違います。
「気を使う」というのは、
相手に自分をよく思わせようとして、
あれこれ行動すること。
基本にあるのは自分がかわいいです。
こういう人は、
相手のことが視野に入ってないので、
ポイントを外すし、
結局は相手のエネルギーを奪ってしまってるので、
はっきり言って共に疲れます。

一方、「気を利かせる」というのは、
相手が今、何を望んでるのか、
何が気に入らないのかを客観的に分析し、
相手の心が喜ぶように行動することです。
場の空気が読めるというのは、
「気が利く」ということですね。
「気が利く」人は相手にエネルギーを与えているので、
あまり疲れません。
自分のことばっかり考えてる、
「気を使う」人より、
相手のことをまず考える、
「気が利く人」になろうとすること。

仏さんがいつも自分と一緒だと思ってると、
「気が利く人」になっていくんですよ。

2月15日「運命と宿命」 (2009.02.15[Sun])

運命とか宿命という言葉って、
聞いたことってありますよね。
宿命とは、
国籍や、
性別や、
家族や、
生まれる前から決まっていて、
自分の力ではどうやっても変えられないものです。
出会いも宿命ですね。

「袖擦りあうも多少の縁」というぐらいですから、
縁のない人とは出会わないということです。
ただし、
その出会った人、
縁のあった人とどういう人間関係を築いていくのかは、
運命です。

良好な人間関係を築けるのか、
粗悪な人間関係になるのかは、
全部運命。
運命はあなた次第でどうにもなっていきます。
あなたの周りにいる人たちは、
全部宿命的に出会った人たちばかり。
そういう人をまず受け入れましょう。
そしてどうやったらいい人間関係を築けるのか、
考えていきましょう。
どうも会わないという人とは、
ちょっと距離を置きましょう。
無理することはありません。

ただ、
出会いという宿命を受け入れて、
そのすべての縁を大切にしていける人が、
仕事仲間に恵まれるし、
いい仕事をしていけるし、
いい人生を歩んでいける、
それだけははっきりしています。

嫌な人とは無理矢理つきあわなくてもいいけど、
決して悪口や批評批判はしてはいけない。
それよりも、
一人ひとりの良い部分を見る努力をして、
距離を置いてでも、
良い人間関係を築こうとすること。
そんな些細なことに思えることで、
ぐんと運命は良い方向に変わりだします。
そして、
結局は気持ちの良い人ばかりと、
出会っていけるようになります。
まずは宿命を受け入れること。
そこからなんです。

2月14日「良い人、悪い人がいるわけじゃない。 その人の良い所が出るか出ないかだけ 」 (2009.02.14[Sat])

人を客観的に見ていて思うのですが、
良い人、悪い人がいるわけじゃないです。
僕を含む人間は、
自分の良い部分が出やすい状態と、
出にくい状態があるだけの違いで、
基本的には人間一人ひとりはそんなに変わるもんじゃない。
そう思います。
通常、
僕たちは、
エゴ、都合、建前、プライド、情念、世間体といわれる、
様々なしがらみや固定観念にとらわれて生きてるわけですが、
本来、僕たちの心の一番深い中心には、
仏さんの心が宿っています。
その仏さんの心の声というのは、
直感とか、
閃きという形で常に僕たちに語りかけてきています。
直感や閃きというのは、
普段は外ばかりに意識が向いていて、
なかなか気づけないんですが、
個人のフィルター、
つまり偏見や思い込みなどを通さず、
無意識のうちにやってきます。
それが本当のあなたの本音です。
だけど、
聞けるときと聞けないときがあります。
今までの学校教育、
組織、企業、社会は、
この心の声を聞かなくてもやっていけるようになってますし、
その声を聞かなくても一生人は生活していけます。
ほとんどがそういう人たちばかりなのですが、
そういう人たちはみんな本音と建前、
エゴ、都合、プライド、情念、世間体などに縛られて、
それが常識だとすら勘違いして、
閉鎖的に生きてしまいます。
ただ、ただですねえ、
その心の声を聞かずに一生を生きてしまった場合は、
空しく人生が終わってしまうのです。
わがままの声と、
心の声とはまったく違います。
わがままの声はあなたを怠惰にさせて成長させませんが、
心の声はあなたを成長させてくれます。
とにかく、
良い悪いを判断せず、
戸惑ってもいいから、とにかく心の声に従って、
直感的に行動していきましょう。
そうすれば、
あなたの良いところがどんどん出てくるんですよ。

2月13日「ゲーテ曰く、人間の最大の罪は不機嫌である」 (2009.02.13[Fri])

あのドイツの文豪ゲーテがこんな言葉を残してます。  
「人間の最大の罪は、不機嫌である!」  
これは真理ですね。
深刻で不機嫌な人は、
その共鳴共振の波動で、
すべての人に深刻や不愉快を振りまいているってことに、
なかなか気づけません。ドツボにはまってます。
こっちには、ビンビンマイナスの波動が伝わってくるのに、
そういう人はそれが当たり前だって思い込んでしまってる。
もう、癖なんでしょうね、不安癖みたいな・・・・。

法則を知らないってことは、
なんとアホやなあ〜・・と、いつも思ってしまうのです。
何度も言ってますが、
あなたの深刻で不機嫌なその波動に引寄せられて、
グイグイ深刻で不機嫌な出来事が引寄せられていくのに・・・。
だから深刻で不機嫌な自分に「はっ」と気づいたら、
ちょっと気を変えましょうよ。
みょうに面白いことを考えて、
一人で「なにやってるん。アホみたい。何のメリットもないし!」
って笑ちゃいましょう。
笑うと、フッと肩の力が抜けて正気に戻れます。心もほぐれるしね。
   
ということは、深刻で不機嫌なときは、  
あきらかに「正気」じゃないってこと、「まともじゃない」ってことです。
「正気」じゃない状態で何をやってもうまくいはずありません。  
とにかくなんで不機嫌になるかというと、「思うとおりにならなくて困る」  
と思い込んで頑張ろうとしているからです。  
なんで深刻になるかというと「絶対にうまくいかない現実が待っているから」  
と思い込んで構えているからです。  
もっと仏さんに任せばいいんです。  
「困ったことはない。仏さんに任せて安心すればうまくいく」って、  
とっとと「お任せ」してしまえばいいのです。  
面白いですね。「こうならなくては困る」と思い込めば思い込むほど、
そうならない。  
「まっいいか。なるようになる」って任せれば任せるほど、
うまく事が運んでいく。  
まるでパラドックスですね。

ただ、ここで気づくことは、「執着するな。なるようになる」ってことです。
執着すればするほど、反作用が起きてくるってことです。
仏さんに任せる。
手放して、流れに身を任せていく。
これが深刻と不機嫌解消の一番の妙薬ってことですね。

2月12日「関係や出来事は共鳴共振する」 (2009.02.12[Thu])

会社での日々のテーマは「ポジティブ」です。
こんなことを書いてると、
小学校時代に音叉の実験をしたことを思い出します。
同じ大きさの音叉の棒が二本あって、
一本をポンとたたくとビ〜ンと唸るってやつ、
あれです。
あれは、叩いたほうの音叉が鳴ってるのではなくて、
実は並んでいるもう一つの音叉が唸ってるって知ってました?
これを「共鳴共振」といいます。
実は・・・・・、
              
人間関係、ツキ、運もこれとまったく一緒です。
仕事をしていても、
電話の応対をしていても、
ミィーティングをしていても、
食事をしいても、
ハッピーな人の周りにいると、
そばにいる人もそのハッピーの共鳴共振が伝わる。
そして出来事が何でもいい方向に流れていく。
これは見事です。

反対に自分がアンハッピーだと、
周りの人たちもアンハッピーになって、
出来事は悪い方向へ流されていきます。
すぐに深刻になる人は損です。
アンハッピーが共鳴共振してアンハッピーな
人や事象を引き寄せていきます。
だけど、
すぐに「こう考えればいいじゃん!」と、
ポジティブにハッピーになれる人は、
振動が常に上がってハッピーな出来事を引寄せます。

じゃあ、
ハッピーとアンハッピーとどちらのパワーが強いのかというと、
あきらかにハッピーです。
ハッピーな共鳴共振の方が圧倒的にパワーがある。
ハッピーを光にたとえれば、
闇より圧倒的に光で照らす力のほうがはるかにパワーがあります。

ですから、
目の前にアンハッピーな人がいたとしても、
その人に共鳴共振してアンハッピーになる必要なんてまるでありません。
そんなのアホみたいなものです。
それよりも、「あっ?!重っ、ヤバっ」って感じたら、
「もっと面白がろ!」って、
もっとハッピーのパワーをバージョンアップして、
闇を光で照らしまくっていく闇を光で包み込んでしまうこと。
そうすればハッピーパワーが周りに共鳴共振して、
その場や相手がハッピーになって、
ものすごく楽しいエネルギーの場と闇が光にひっくり返ってしまう、
とても気持ちよい場が生まれていきます。

これは「いつでも」「どこでも」「どんなとき」でも、ね。

2月11日「喜んで頼まれたことを引き受けましょう」 (2009.02.11[Wed])

自分の人生を振り返ってみて面白いことに気づきます。
人から何かを頼まれたことを素直に引き受けると、なにかとても自分の「いのち」が嬉しいことや、新たなチャンスが待っているということでした。

逆に頼まれても「いや〜〜〜。ちょっとお〜〜〜」と好き嫌いを感じて断ったら、何かパッとしないというか、あまり楽しいことが起こってきません。

そんなことを通して腑に落ちていったのは、とにかく仏さんは今の自分にとって必要なことしか与えないってことです。

だから人から何かを頼まれるということは、仏さんがその人を通して、「それを喜んでやってごらん。必ずあなたのいのちが楽しくなってくることが起こってくるよ。なにより、相手が喜んでくれるしね」というメッセージであるってことに気づきました。

その楽しいことは、その後すぐに起こってくることもあるし、時間を置いて、もう忘れたことろにやってくる場合もあります。
また喜んでやってことは、相手から喜びが倍返しでかえってくることも分かりました。

ということは、僕たちは人から頼まれたことを喜んで引き受けて喜んで生涯を終えるというのが、仏さんの願いに生きるってことじゃないのかって思います。それを阻害してしまうのは自分のエゴなんじゃないかと。

とにかく頼まれたことを喜んでやれば人が喜んでくれるしね。
ひょっとしたら、それが僕たちの人生の目的かもしれませんね。

2月10日「すべてのものにいのちが宿ってる」 (2009.02.10[Tue])

  仏教ではすべての生きとしいけるもの、そして物にも「いのち」が宿っていると教えます。
  そう受け止めていくと、ここに入ってくる一点一点の衣類にしても、レザーにしても、仕事柄失敗やクレームを恐れるということではなく、自然と粗末に扱うことはできなくなります。
  これは衣類に限らず機械にしても、道具にしても、みんな大切に扱うようになっていきます。

  物を大切に扱える人は人の「いのち」も大切に扱えます。逆に物を粗末にする人は人の「いのち」も粗末にしていきます。これは自然とその人の心が表に出てしまう。

  だから僕はこの粗末に扱う。関心を持たない。ということに関しては、いつもスタッフたちに厳しく伝えます。

  目の前にあるのはただの汚れた衣類じゃない。一つの「いのち」や。その「いのち」を大切に扱えんということは、結局は自分の「いのち」すら大切に扱えないんや。だから大切に扱え。自分じゃ思うて大切に扱えよ、愛情を持って扱えよ、と何度も繰り返し伝えます。

  マザーテレサが言ってますよね。
  「愛の反対は憎しみではない。無関心である」と。
  その通りだと思います。
  誰に対しても関心を持つ。どんなものだって関心を持つ。とくに自分の身の回りのものたちに関心を持つ。

  そういった心配りができないと、何をするにしても動機がそうじゃないと、すべてに対して心無い態度を取ってしまうか、利害損得が発生する場合のみ大切に扱おうとしてしまう。そういう人は実は自分の「いのち」さえ大切に扱っていないのです。

  で、物を大切にできるためにも、まずは自分自身の「いのち」を大切に扱ってください。自分自身の「いのち」を大切に扱うとは、自分の良心に素直に生きていってくださいということです。自分をごまかざずに心の内なる良心の声に素直に従って生きて後悔なく生きていくこと。
  それが自分を大切にするということです。そうすれば人も物も大切に扱えます。

2月9日「相手に何を投げかけていくのか」 (2009.02.09[Sun])

  僕は年を取るに従って、求める人には「気づき」を与えることはあっても、通常では「正しさ」の押し付けは絶対にするまい思うようになっていきました。

  それぞれにはそれぞれの段階があってしかるべきだし、それぞれの世界を生き、それぞれの世界に還っていく。それを人はどうすることもできないわけで、それよりもこの自分がこの与えられた人生をどう心「豊かに」生きるか、ってことだけ。

 結果的にその豊かさが相手に伝染していけば「自他共にハッピー」ということなんじゃないかと。

  世の中には伝染しやすいもの、というのが三つあるそうです。
  一つ目があくび。
  二つ目が不機嫌や不安。
  三つ目が元気やワクワク。
  この中の自分はどれを選択して生きているのかってことなのです。

  自分が、回りの人たちに元気やワクワクの波動を出したり、大らかな温かさを投げかけていくと、それを感じている回りの人たちもだんだん笑顔になっていきます。結局、笑顔に囲まれた自分が気持ちいい、と僕は思います。

  厳しさを与えて全然楽しくない人は、結果として自分が一番辛い立場になっていきます。そして、いつも自分の家族も友人も職場の人も、みんなが心豊かに笑顔になっている状況に囲まれている人は、本人が一番得をしています。

  世のため、人のためにそうなりなさい、とガンバリ二ズムじゃなくて、この自分がどう生きていくのか、ということです。自分に厳しく、相手に優しくなろうというのは仏さんのような人格です。

  でも、僕たちはそんな高いところを目差さなくていい。まずは自分を省みることはあっても、基本的には自分に甘くなることで、他人に対して優しく接していったほうが、よっぽど自分が気持ちいいと思いますよ。

  とにかく人はいいから、自分はどう生きるのかをはっきり決めておくことなんです。その生き方に共感して寄ってくる場が、結局はこの場なんですから。それが一番自然です。

2月8日「素直で柔軟な心」 (2009.02.08[Sun])

  よく自称「素直な人」がやってしまう困ったことに、感じたことを伝えすぎるということがあります。そりゃあそうなんですが、やはりデリカシィーがいります。思いやりといっていい。
  そのことを受け取れる段階じゃない人に、感じたままのことをストレートに伝えるというのは、逆に相手を刀で切ってしまうみたいなものです。これで僕も結構失敗してきましたから。

  純粋になればなるほど、あるとき、まったく反対に、世の中が悪く見えたり、人の心が悪く見えたりします。また、その反射光として、自分自身の心がひじょうにすさんだり、悪くなったように思えたりもします。
  て゛も、そういう時って、以外に精神レベルが上がりつつあるときなんです。そういうときほど、相手に何かを伝うえるときは一呼吸置いて伝えた方がいい。それが相手に対する思いやりになるからです。

  純粋になればなるほど学ぶってことですね。智慧を学ぶ。智慧を身につけることによって、相手に合わせて、いろんな話ができたり、態度を変えてわかりやすく話したり、伝えることができるんです。
  要するに、いろんなことを学んでいくことによって、知をつけていくことによって、素直で柔軟な心って生まれてきます。
  お釈迦さんは、「対機説法の名人」でした。相手の精神レベルに応じてさまざまに法が説けるってことです。つまりお付き合いしながら、大切な気づきを自然と与えていける力を持っていたということです。

  素直な心を深めながら、どんどん智慧を身につけ、いろんな相手に対応できる力を身につけていく。そのためには貪欲に智慧を学ぶってことなんです。
  智慧がないと実は愛を生かすことができません。智慧とは人を生かす、育む力といっていいです。それがないと、ただのお人よしや、ストレートでデリカィーのない人って嫌われていきます。
 
  この「ボスそら」は皆さんに、心が自由になって「愛」と「智慧」を身につけてもらいたいために書き続けているようなものです。
  そのことによって、あなもハッピーになれるし、まわりもハッピーになれる。それって一番気持ちいいですからね。

2月7日「素直な心こそ心の中のダイヤモンド」 (2009.02.07[Sat])

  スタッフブログの中でポッキーが「あなたの心の中のダイヤモンド」という言葉を使ってましたが、これは仏教的に言うと仏性(ぶっしょう)、心理学的に言うと本質、そして道徳的に言えば良心、一般的に言えば素直な心ですね。
  この素直な心って大人になったら尚更大切です。

  イエスキリストはマタイの福音書で「心清き人は神を見るであろう」「幼子のごとくでなければ天国には入れない」と言ってますが、これは「素直さ」「純粋さ」のことを言ってるわけです。
  それは、「この世のいろんな雑念、しがらみに染まらず、純粋な理想のようなものを持っている。あるいは、透明度の高いガラスのような心を持っている」ということだと思います。要するに、このガラスの透明度が低いと、エゴ中心ですから、神の声は聞こえないということでしょう。

  仏教の信心だってそうですね。信心とは無我になって仏さんの心に身を任せていくことですから、「純粋さ」「素直さ」という意味では同じことを言ってるわけです。
  ただ人間は、物心がついてくると、反抗期に入り、友達と一緒に悪いことを考えたり、いろんな体験を積むうちに心が次第に歪んできます。
  実社会に出てからは、それが、もっと激しくなります。狡猾な考え方をするようになったり、平気で人を騙せるになります。また逆に騙されて、警戒心を強く持つようにもなります。そして、本来の純粋な心を忘れていくわけです。

  もちろん、この世を生きるためには、処世術もいるでしょうし、法律もあれば経済もあるし、仕事上の専門知識もいります。そんなことをまったく学ばないで、幼子のような気持ちだけでいたら、この世では通用しないし、ちよっとお馬鹿さんです。この世の常識や道理、専門技能や知識は当然学ばなければいけない。
  ただ、そうしたものを学んでいくときに、それが自分の心を覆う鎧には絶対なってはいけない。鎧を身につけると共に「純粋な心」「素直な心」は影を潜めていくからです。

  心というものは、きれいなガラスの容器に入ったダイヤモンドみたいなものです。外側のガラスの器が曇ると、ダイヤモンドの光は放たなくなっていきます。
  人間が平等だというのは、「だれの心の中にも、仏さんからいただいてた美しいダイヤモンドがある」からです。ところが、ダイヤモンドがあっても、磨かなければダイヤモンドの回りが黒ずんで、まるで石炭か石にのように煤けて黒ずんだものになっていきます。
  それじゃあまずいのです。仏の声を感じることができないのです。仏の声が難しければ、直感や閃き、そして感じる心が失われていくのです。それはダイヤモンドが黒ずんで「素直な心」「純粋な心」が失われていってるということなのです。

  日々心を磨くって意味ってこういうことなんですよ。

2月6日「感謝の心、夢や希望を描く力は仏さんからの贈り物」 (2009.02.06[Fri])

  昨日のNCホームーページの「日々是笑日」で、ポッキーの子どもさんの元気な姿を紹介しました。ブログにも書いたのですが、一ヶ月前より顔の湿疹がすごくきれいになっていました。嬉しかったねえ、あのなんともいえないツルっとした顔を見たら。

  やっぱりポッキーの感謝のエネルギーが、嫁さんや、赤ちゃんとつながってるんですよね。だから彼に感謝の心や元気のエネルギーがあると、みんなハッピーになっていく。これはご両親も、周りの人たちみんなです。そこに彼は心底気づいてくれたわけです。

  感謝の心あって、始めて僕たちは人にやさしくなれます。感謝の心あって、初めて足ることを知ります。感謝の心あって、始めて自らの仕事や、少しでも人や社会のお役に立とうとやる気が湧いてくるものです。
  感謝の心というのは、小さく凝り固まってカチカチになってしまった自分の心を、パッと解き放つ最善の良薬だと思います。

  感謝の心で解き放たれるのは、不平不満の頑な心です。また、足ることを知らない欲望、執着の心です。また、孤独の心です。失望の心です。こうしたガチガチの心は、感謝の心を思い出し、感謝の心が起こってくることによって、すべて解き放たれていきます。
  それほど感謝の心って凄いものなんです。

  僕たちがすべきことは、まず、すでに与えられている数多くのものに対する感謝だと思います。
  与えられていることに気づき、生かされていることに気づき、感謝の思いがグッと湧いてきたならば、その透明な心で未来の希望を夢見ればいい。決して自分のエゴではなく、多くの人に喜びを与えているイメージを心に描けばいい。

  未来に夢や希望を描く力は、実は仏さんが僕たちに与えてくれた大きな贈り物の一つだと思います。夢や希望を描くということは素晴しいことですね。ついつい日々の仕事に流され忘れてしまいがちなことですが、たくさんの人や社会に喜びを与えていく夢や希望をイメージできる力こそ、まさしく、阿弥陀さんという仏が、浄土を創造したエネルギーと同じなのです。

  実は僕たち人間も阿弥陀さんと同じように、創造的エネルギーを根本的に与えられています。
  感謝の心は、その創造的なエネルギーをさらに発揮させてくれます。自分の仕事に創造的エネルギーの全力を発揮し、それを喜ぶ人がいてくれたのなら、人は自分でも考えられないぐらい生き生きとしたエネルギーを増していきます。
  感謝に勝る能力なしってことですね。

2月5日「努力を積み重ねて意思の力を鍛える」 (2009.02.05[Thu])

  意思の力が弱い、僕はつくつ゛く自分のことをそう思います。
  この意思の力というのは、筋肉みたいなもので急に強くなるものではないですね。にわかに発奮しても一週間も持ちません。

  て゛すから、一日だけのにわか発心ではなく、筋肉を鍛えるためには、やはりコツコツとトレーニングを繰り返し、力をつけていくしかありません。
  それの積み重ねによって、少々の困難や苦難にはへこたれないような、強い心が身についてきます。「毎日の訓練」しかないのです。

  それと、やはり仏さんの願いを聞いて、自分としてなせる「社会や、家族や、人のためになること」を少しずつでもやっていくことです。しっかり考えてみたら、やれることって結構あるんです。

  それと仏さんと共に生きてるって深く意識しておくことです。
  仏さんの力は偉大です。その光は無限です。それは、ちょうど、あの太陽が膨大なエネルギーを宇宙に発散しているようなものです。

  ただ、その太陽のエネルギーは、紙一枚でさえぎることができます。
  あなたが体験している困難や苦難もそれと同じです。
  しかし、それは、本来、太陽の光エネルギーに対抗するものではなく、一時期、光をさえぎっているようなものなのです。

  それはあなたの努力によって、自らの力で取り除くことができるのです。それも、仏さんと共に生きてるという自覚があればあるほど、仏さんのエネルギーは、あの太陽の光のように強力に働いてくれます。
  まず、しっかり決めて、仏さんと共に生きて努力をしていく。そこからですね。

2月4日「本当は明かりに満ちた世界に生きている」 (2009.02.04[Wed])

  世の中の不幸のほとんどは自分中心の考えによっておきてるって、分かります?
  無明って言います。「もっと、もっと」はね。それが当たりだとしたら、この世は地獄です。
  たとえば、戦争の真っ只中では、この世が地獄に見えます。また、家族が病人だらけ、親戚も不幸の連続、そうだったら地獄に見えます。
  愚痴や不平も出る。また、「こうなったのは先祖が悪い」「世間が悪い」「政治が悪い」なんて言ったりもする。

  ただねえ、僕は「あんた、それはそれっぽいけど、あんた自身やってないことって山ほどあるんじゃないの」と言ってしまいます。つまり自分を振り返って、やれることをする、それが始まりだと思うからです。
  日々のニュースを見れば、ほとんどの人が、「明かりをくれ、明かりをくれ」って言ってます。そのことを「自我我欲」「自己保存欲」といいます。これはもうドロドロ状態です。
  でもね、他国のもっと苦しんでる人から見れば、ほんとうは、明かりに満ちた、とても明るい世界に生きてるのに、その明かりが見えてないってことです、実はね。

  結局「悩み」「苦しみ」の正体とは何かというと、選択さの豊富ですね。豊かな社会における悩みは、ほとんどそうなのです。幾つもの選択肢があって、これもあれも選べるので、最高の選択をしたいと欲張って、結局は「思う通りにならない」と悩んでるわけです。
  とにかく贅沢な悩みばかりなんです。現在のカザ地区ではないけど、他の国の深刻な状況をもっと知らなくてはなりません。

  「不況」と言ったって、日本は他国の人々の何十倍も豊かな生活を享受してます。それで、これが本当の不況なのかってことなんです。僕はまったくそうは思えません。メチャ恵まれてるじゃん。感謝しかないじゃん、なのです。
  また、「国が何もしてくれない」と言ってる人も多いですが、ほんとうにそうでしょうか?日本は医療にしても、福祉にしても、行政サービスにしても、最先端をいってるんです。 アメリカに行ってみて下さい。おちおち病気なんてなれません。すぐに何百万って請求がきます。ネパールに行ってみて下さい。まず医者がいません。

  人間の原点とは、自分がわがままを言ったり、贅沢をしたり、他人や国家の力に頼りすぎよと依存ばかりしていたり、そんな自己中心的で責任転換する自分の至らなさを振り返って、今なすべきことをなして、最大限未来に向かって努力していくってことでしょう。
  甘いだけの世の中に本当の喜びがある人生なんてありません。厳しさのなかにも喜びが尚更あるものなんです。なぜなら、「人間がこの世に生まれてくる」ということそのものが、さまざまな体験を通して、自分のエゴ的生き方の無力さを知ると共に、自分の本質的な「愛」や「智慧」や「感謝」の心を深く学んでいくことだからです。
  この世で苦労しているときは苦しんでるように見えても、「いのち」が磨かれてるし、大きく成長しようとしている人ほど、この世では大きな試練に出会うようになっているわけですから。

  とにかく、「足ることを知って、今に感謝し、最善の努力をする」ってことじゃあないでしょうか。

2月3日「あなたの目差している希望は?」 (2009.02.03[Tue])

  その人がどんな希望を胸に秘めて生きているのか?ということは、実は「その人が、一体どんな人なのにか?」ということを表してますし、どんな未来と運命を創造していくのかってことなんです。
  ただ、現代を見ると過剰のストレスを抱えて、「うつ」の症状が社会に蔓延しています。とくにこれからは経済的不況も相まって、「自信を喪失し、落ち込み、気が塞ぎ、恐れと不安で憂鬱」という人が後をたたないと思います。
  現在日本の自殺者は年間三万人以上います。そしてその予備軍は、自殺者の百倍もいると言われてます。

  で、うつ的傾向のある人たちに共通しているのは、「ほんとうに自分はダメな人間だ。自分はほんとうに無能だ」と、自分について、とにかくマイナスのことばっかり考えます。
  「あれもマイナス。振り返ってみると、昔からマイナス。原因は昔にもあった。あれも悪かった。これも悪かった。」と考えるし、「親の職業が悪かった」「兄弟に恵まれてなかった」「あの人と出会ってこんなことをされたて、こうなった」と考えてる人もいます。
  とにかく、「あれもダメこれもだめ」とすべてがマイナスに思い込んでしまうのです。

  うつ状態になって自分を責めている人は、傍目には、ある意味、気の毒なようにも見えますし、「この人はとても純粋なんだよな」という感じにも見えます。ほぼ自分の人生にもがき苦しむ小説状態です。
  そういうマイナスの状態であれば、「ダメな理由」はきりがないぐらい挙げられるでしょう。それを口に出せば愚痴ばかりということになります。

  ただ、自分自身をマイナスに見て責めさいなんでいる、その状態は仏さんから見たら、またそんなずぶ濡れ犬のような自己像は、自分を突き放して客観的にじっと見たとき、「これは違うよね」ということが分かるでしょう。

  実は、ないものねだりをしていたり、足らないところばかりを拡大して見ていたり、与えられているもの、すでに持っているものについては、まったく忘れてしまっていることが多いはずなんです。
  自分では客観的に見ているつもりでも、本当は、自分の現在の位置でしか見ていません。だから第三者に忠告やアドバイスももらっても、「そうはいっても、自分のこの気持ちは誰も分かるはずがない」とくるくると同じマイナスのところを回り続けます。
  いろんな人の悩みや苦しみを聞いてますと、失礼ですが、本当に面白いと思います。
  退屈であれば、退屈であることを苦しみ、忙しければ、忙しいことを苦しみ、昇進すれば、昇進したことを苦しみ、出世しないと、出世て゛きないことを苦しみ、お金があれば、また別の苦しみが生まれ、奥さんがいて苦しみ、いなくて苦しみ、子どもで苦しみ、子どもができなくて苦しむ。
  ほんとうにきりがないぐらい、苦しみがあります。

  では、どうしてこうなるのかってことなんです。
  結論を言いますよ。この目に見える世界だけの勝ち負け、生きがい、偉さ、幸福感、すべてその人の価値観が「幸福か、不幸か」「楽しみか、苦しみか」という相対的なものだからです。目に見えない仏の愛の世界があるって全然分かってないからです。だから相対的にすべてを比べて、ふんふんするんです。
  私たちは、早かれ遅かれ、その愛の世界へこの世を去って還っていくんです。本籍は向こうなんです。今は修学旅行の体験学習に来てるみたいなものなんです。それをまったく忘れてしまってるから、ふんふん言っては苦しむんです。

  そうじゃないんだけどね。一人ひとりは、みんな仏の子で、本籍にいらっしゃる本当の親の目に見えない仏さんから誰よりもあなたは愛されてるし、「おまえのことを見放したり、捨てたりしない。絶対に守る、導く、救う」って絶対的な愛の世界から守って下さってるんだけどね。
  「ナンマンダブツ」って仏さんの「心配するな。おまえと一緒だよ。安心して私に任せなさい。」って、仏さんからの呼びかけに、「ありがとう」って応えてごらん。何度も何度も・・・・。仏さんからの大きな愛の心が伝わってきますから。すると何かが変わり始める、何かがね・・・。

2月2日「仕事は自己成長のための手段でありプロセス」 (2009.02.02[Mon])

  今日は僕の仕事に対する価値観をお話します。
  天職、仕事とは天に仕る事、まさしく仕事とはその手段やプロセスを通じて自身が自己成長していくと共に相手に「喜び」を与えていくことです。まあ、そのトレーニングを日々繰り返していると言っていいです。

  この「喜び」という言葉の中には、「希望」「元気」「叡智」「勇気」「豊かさ」「感性」「煌き」「信頼」「気づき」「目覚め」「共感」「安らぎ」「安心」「潤い」「正しさ」などといったプラスの宝が山ほど散りばめられているわけです。

  この「喜び」を与えるためには、共通の目的を持った人たちの集まりでないとなかなか難しいですね。また一つの組織自体が「喜び、つまり愛を中心としたコミニュティー」でないとね。
  そうじゃないと、個々のエゴがぶつかり合いとなって、とても心豊かなお互いの「気づき」「目覚め」を喜べる精神的な連帯は期待できないでしょう。

  NCの場合は「仏さんを中心としたコミニュティー」というのがはっきりしていますから、人数的には少数であっても、日々の仕事が報恩感謝行ですから、喜びと本質的なワクワクで過去スタッフが今の3倍もいたとき以上に、また、通常の会社よりも何倍も働いていると思いますよ。 
  心が疲れないって、それほどエネルギーが出てくるものですし、責任や自主性やワクワクが出てくるものなんです。

  人間は存在しているだけで素晴しい価値があります。
  その素晴しさに気づき、その素晴しさを日常生活や仕事によって溢れさせていくとき、自分のいのちそのもが甦っていきます。
  いのちというのは愛そのものの溢れですね。愛を溢れさせて他の人とつながる、そしてつながってエネルギーを流し続けること、それが人間の一番の喜びです。

  僕たち理屈ではなく一番嬉しく感じるのは、誰かの役に立っているという感覚です。小さなことで人の役にたつということが人間の一番の幸せです。
  そのためにはまず自分を好きになることなんです。「幸せになっていいんだよ」って自分に許可を出してあげることなんです。「あんたはよくやってるよ」って、自分自身を認めてやることなんです。
  自分を大切にすることを学んだ人は、周りで苦しんでる人にエネルギーを与えていけるようになっていきます。
  それが仕事だね。結局、自己成長とは愛を学ぶプロセスだってことが分次第に分かってきますよ。

2月1日「エネルギーのワクワク高まる環境」 (2009.02.01[Sun])

  僕は職場を三回変わっています。
  その都度、僕は「自分を変化させていきたい」「意識をシフトしていきたい」と強く思っていました。と、同時に「自分の人生の師」も強く求めていきました。
  そして、生意気に聞こえるかもしれませんが、その「環境」や「師匠」が自分にとって「もう、卒業なんだろうなあ」と感じたとったとき、そこを決意して辞め、また師と仰ぐ人とも離れ、次の「成長できる環境」や「人生の師」を貪欲に求めていきました。

  で、いろいろなものを求めましたが、最終的に自分なりに出た結論は、「僕の本質が求める環境」も「全託できる師匠」はどこにもいない、ということでした。
  ならば、自分が求める「理想の環境」を創っちゃおう。そして、仏さんの教えを学び実践しながら、自分が師匠というか、人をサポートできるに人間になってしまおう、と決意したわけです。
  すると引寄せの法則で自然とNCとつながり、僕自身の本質が納得できる、理想的な環境をNCという会社で楽しく、そして本気で創り上げていってるというのが、現在の僕の在り方です。

  Sさんのお手紙を読んでいて感じたのは、純粋であればあるほど「理想の環境」を求めるし、「本質的ないのちの喜びを味わいたい」と強く求めてるだろうなあ、でした。
  仕事の場で、従業員の立場はたいへん難しいものです。会社や職場、社長や上司の性質などが、「外発的動機づけ」や「外発的報酬」といったエゴ中心が当たり前となっている「環境」では、自身の本質や気が充実することはなかなか難しい。
  もう地球の文化自体が大きく転換し生まれ変わろうとする時期なんだし、「もういいんじゃない」「とっとと次の本質が喜ぶ環境を本気で求めたら」って感じます。
  なぜならば、心が不調和になることはあっても、進化することはないからです。体が疲れることはいいけど、心が疲れるのってたまりませんからね。まあ、現在社会のエゴ中心な生き方や環境が好きな人は別として・・・。

  それと家庭でもそうですね。「愛」と「愛情」とはまったく別次元のものなんだけどね。愛は「自由」「自立」「開放」を促し、「愛情」は人間関係の導入まではいいんだけど、結果的には情が執着となって、相手に対する「束縛」「独占欲」「私物化」を増幅させて演歌のドロドロ世界を創っていきますしね。
  それが普通の親子関係や、家族の在り方、組織の在り方であると思い込んでるおかしな人たちがあまりにも多いですね。「無意識なおせっかい屋さんたち」「人の自立や元気なエネルギーを奪う行為」の何物でもないのにね。
  本来、この宇宙の中には何が良くて何が悪いのかなんてありません。すべてはよくなるための「気づき」「目覚め」のために、自分にとって必要・必然・ベストなことが起こってくる、ただそれだけなんですけど、この「無意識なおせっかい屋さんたち」には、この真理がどうしても理解できないのです。つまり「おせっかい(人を退化させる)」と「愛(人が成長する)」の違いがまったく分からないのです。

  このコーナーで何度も出てきますが、蓮如上人という人が「信心のない人とはかかわるな。付き合うな」とおっしゃったのは、まさしくそういうことを言ってるわけで、エネルギーの歪やダウンやロスをする「環境」からいち早く勇気を出して脱出し、次なるエネルギーが調和し、シフトし、充実できる「環境」を求めたらいいんですよ。
  勇気を出して「決意して行動」する、それをとにかく思考を働かさせず、直感的に繰り返す。それが宇宙創造のビッグバンと同じ原理なんだけど、引寄せの法則通り、あなたの求めるエネルギーの「環境」へ必ず法則通り引寄せられていきますから。
  ちなみに、それを仏さんに導かれるって言ってるわけなんですけどね。


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