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2013年 2月

vol. 3693
「親への恩を知る」  (2013/2/28 [Thu])
私たちは、目に見えない慈愛に感謝することを忘れがちです。

その最たるものが親の愛。

の自分があるのはあたり前、学校を卒業できたのも、

今を生きていられるのもあたり前。

それどころか、現状に不満ばかりを抱き、
日々をいきています。

親鸞聖人は、「花咲く人生とは『大いなる親の慈悲』を
感じることができること」と説かれています。

恩徳の教えに育てられて、
私たちは苦悩を乗り越えることができるのです。

今自分がここにいることを、喜びましょう。人生はそこからです。


川村妙慶著
「心の荷物をおろす108の知恵」より

vol. 3692
「どんな状況でも愛せますか」  (2013/2/27 [Wed])
この人は優しいから好きです。

この人の仕事に惚れました。

きっかけはそうであっても、それが長続きするとは限りません。

優しいはずの相手が急に冷たくなることもあるでしょう。

仕事をバリバリしていたはずの人が、
急に田舎で野菜作りをしたいと言い出すかもしれません。

 問題は、その人がどんな状態になっても、
欠点が見えてきても、「受け入れることができるか」なのでしょう。

「こんなはずではなかった」というセリフが出るのは、
輝いているところだけを理想とするからなのでしょう。

理想は、あるときには幻と消えていくことがあります。

言葉で「愛している」という愛が本物とは限りません。

胸に秘められた愛もあるのです。

いいことも悪いことも、表面も内面も、
素直に見ていける出会いを大切にしていきたいですね。


川村妙慶著
「心の荷物をおろす108の知恵」より


vol. 3691
「自分と素直に向きあって」  (2013/2/26 [Tue])
人生で一番大切なものとは何でしょう。

健康?
長生き?
それともお金?

健康はたいせつですが、
それだとからだの不自由な方は救われません。

長生きもたいせつでしょうが、
あと何ヵ月の命と宣告された人には寂しいこと。

お金もまたそう。

儲ければ儲けるほど、
いつかなくなることへの不安ばかりが生じるものです。

いま本当にたいせつなこと。

それは、あなたの本来そなわっている真の実力と素直に向きあい、
今あなたには何ができるのかを問うことなのです。


川村妙慶著
「心の荷物をおろす108の知恵」より

vol. 3690
「からだの不調はいのちのサイン」  (2013/2/25 [Mon])
からだの不調があってはじめて、
自分の過信にも気づくことができます。

いのちはだれのものでもないのです。

自分のことは自分が一番分かっているという思いを、
思い上がりと言います。

不調は、自分が無理しているところにサインを送ってくれるのです。


川村妙慶著
「心の荷物をおろす108の知恵」より

vol. 3689
「今」は永遠ではない  (2013/2/24 [Sun])
お釈迦さまは「諸行無常」という言葉をお示しくださいました。


諸行というのは、私たちの経験です。


今もっているものは、永遠にあるものではないのです。
すべてのものは移りすぎていくものです。


「これは私のものなんだ」と何がなんでも手放せないものは、
幻なるものを放さないに過ぎないのです。

 あるときには手放してみることも必要なのでしょう。


 そして、自分にとって何がたいせつなのかを、
立ち止まって考えたいものです。


心の荷物をおろす108の知恵」より
 

vol. 3688
「自分の在り方を見つめる」  (2013/2/23 [Sat])
 先日、本願寺札幌別院で、脚本家の倉本聰さんの講演会があり、
こんなことを話されていました。


よくお医者さんに「タバコはダメ、酒も控えろ」と言われるそうですが、
「これまでの僕の作品は、何百本ものタバコと、
ジャックダニエルが作ったようなもの」だと。


そして、「健康はもちろんたいせつですが、
健康になってどうしたいのか。
これがはっきりしない人生は寂しい」と。


私たちは長生きすればいいことがあるだろうと想像します。
しかし、自分の在り方を見つめることができてこそ、
長生きの意味があるのでしょう。


川村妙慶著
「心の荷物をおろす108の知恵」より

vol. 3687
「大地という「ぬくもり」にしっかり立ってください」  (2013/2/22 [Fri])
「浄土」はどこにあるのでしょう。
浄土とは「死後の世界」のことだと思いがちですが、

じつはそうではありません。

また、浄土とは、天国のことではないのです。
「浄土」とは、いま生きている私たちの心の中にある安らぎです。

浄土の「浄」は、争うことを水で流してくれるという意味です。
また、浄土の「土」は、人間として育っていく「ぬくもり」のことを意味します。

他人と争い、「あの人に負けたくない」「バカにされたくない」と
人間関係で悩む人が多い世の中です。
 
 また、「きれる」「むかつく」「殺す」など、
さまざまな事件が多発する世の中でもあります。

 本当のぬくもりの中で育つことのできなかった人々の、
心の叫びなのでしょう。

 親鸞聖人は「世の中安穏なれ、
仏法広がれ」と命がけで伝えられました。

 私たちは「ぬくもり」という大地の上に立っています。
樹木も、土にしっかり根を生やしているから育ちます。

 浄土という大地に落ちつく。だから落ちつけるのです。
 大地がしっかり支えてくれるから、
寝ることも起きることもできるのです。

 そして、世間の風にも決して揺らぎません。
 だから、合掌して心を落ちつかせましょう。


 川村妙慶著
「心の荷物をおろす108の知恵」より


vol. 3686
「世間体に縛られていませんか?」  (2013/2/21 [Thu])
 人はみずから苦労をつくってしまうことがあります。
それは「世間体」から生まれるのです。

本当に愛する人と出会って結婚するのは素晴らしいことですが、
世間体のために結婚するようでは、
家族のつながりは持てません。

ブランド物にしか興味がない人は、ブランド物の歴史、
文化、材質にほれ込んで楽しむならいいのですが、
ただ持っているだけで安心という人もいます。

ブランド物をもつことで、世間についていけるという錯覚なのです。
大都会で仕事をしたいという人は、都会でなければ

自分の求める仕事がないのなら仕方ないことですが、
都会に住むことだけが目的だとしたら疑問です。

世間体は幻と消えていくもの。そこから解放されて、
ありのままの自分と付き合うことこそ大切です。


川村妙慶著
「心の荷物をおろす108の知恵」より

vol. 3685
「生きていることの意味」  (2013/2/20 [Wed])
お釈迦さは生まれたとき、天を指さし、そして地を指さして、
「天上天下唯我独尊」と声高らかに獅子吼したと言われています。

なんと傲慢な人であるかと思われるかもしれませんが、
それは誤解です。

「唯我独尊」とは、「私はさまざまな因縁によって、
だれよりもかけがえのない尊い命をもらって
この世に生まれてきた」という意味です。

「なんで私が生まれたの?」
「生きていても仕方がない!」
と言われる人がなんと多いことか……。

仏教では生まれることを「出生」と言います。
私たちが今ここに生を受け、生きていることは、
地球でたったひとつの尊い命に
目覚めていくという大きな意味があるのです。


川村妙慶著
「心の荷物をおろす108の知恵」より

vol. 3684
「自分の経験を「常識」と思っていませんか」  (2013/2/19 [Tue])
 私たちは「経験」をたよりに生きているところがあります。
 
 それをどうやって感じているのでしょう。
 
仏教では、「六識(ろくしき)」という見方があります。

「眼識(げんしき)」――何かが見えている
「耳識(にしき)」――聞こえている
「鼻識(びしき)」――匂っている
「舌識(ぜつしき)」――味わっている
「身識(しんしき)」――何かに触れている
そして最後に「意識(いしき)」があります。

 しかし、経験のなかにも、「自分の色づけ」があります。
人は自分の経験を「常識」とみてしまうからです。

 たとえば、ある人は、おぼれている人を救助しようとしたのに、
救助した本人がケガをしたとします。

救助のプロに言わせたら、
「救助の知識がないからケガするんや」と
思われてしまいがちです。

 そう思ってしまう人は、「経験」という色めがねによって、
せっかく救助しようとした人の気持ちが見えなくなるのです。

 「経験」という色めがねをはずして、
「これはどういうことなのだろう?」
と問うて行くことがたいせつなのです。


川村妙慶著
「心の荷物をおろす108の知恵」より

vol. 3683
「自分らしさを大切に」  (2013/2/18 [Mon])
人に見せる顔、自分にしか見せない顔というのがあります。

私だって、衣姿の顔と、
友人と話しているときの顔はまったく違うのでしょう。

いったいどれが「自分らしい顔」なのでしょうか。

立場上の顔もあれば、親やご主人、
奥さんに叱られている顔もあるでしょう。

認めてもらおうと必死になればなるほど、
顔もまた硬直してしまいます。

よく「強く見せている人」を見かけますが、
「ムリしているな」と感じることがあります。

強く見せている人に限って、何かあれば脆くて倒れやすいものです。

ムリして立派な自分を演じる必要はないのです。

私たちは「自分」なのであり、決して「だれか」にならなくていいのです。


川村妙慶著
「心の荷物をおろす108の知恵」より

vol. 3682
「自由がいいですか?」  (2013/2/17 [Sun])
私たちは、何かの行動や生活に束縛されると
「自由になりたい」と思うものです。

結婚したら「独身がよかった」と思い、
独身だと「結婚したい」と思う。

 でも、「何でも自由にしていいよ」と言われると、
それはそれで、とまどうものです。

私たちが求めている自由とは何でしょう。
わがままがとおる、
だれからも干渉されないということなのでしょうか。

 自由とは、「自分」を「由(よりどころ)」にすると書きます。

 理由という字があるように、
「そうなったいわれ」をしっかり見ていくことなのです。

決して自分よがりになるのではなく、
どんな状況に遭遇しても、まわりをしっかり見てゆく。

自由とは、自分の生き方が問われることなのです。


川村妙慶著
「心の荷物をおろす108の知恵」より

vol. 3681
「私たちは「身」ひとつで死んでゆくのです」  (2013/2/16 [Sat])
私の知人に、火葬場でお経をあげる機会の多い僧侶がいます。

どんな人も、生まれたままの「身」だけで死んでいく姿を見るそうです。

最後は、だれもが、親からいただいた「身」ひとつで死んでゆくのです。

服装や持ち物など、私たちは見かけで人を判断しがちです。

しかし、見せかけはだれにでもできるし、
ムリをすればだれにでも物は買えます。

服や持ち物が、自分を助けてくれるわけではありませんし、
ブランド物が人生の苦しみから私たちを救ってくれるわけではありません。

仏教では、「物」よりたいせつなことがあるということを教えてくれます。

物を頼りに生きるというのは、
寂しい自分をごまかしていることでもあるのです。

服装や持ち物を楽しみながらも、
しっかり大地に根を張った人になりたいものです。


川村妙慶著
「心の荷物をおろす108の知恵」より

vol. 3680
「合掌」の意味  (2013/2/15 [Fri])
 今の学校では、給食のとき合掌して「いただきます」と
言わないようにしようという傾向があるそうです。

 なんでも「いただきます」と合掌するのは宗教行為だからと。

 それを聞いて残念でなりませんでした。

 合掌は、人間が自然にもっている感謝の姿なのです。

 遠いご先祖から伝わり、素朴な信仰にに育てられた、
たいせつな行為なのです。

 親がそれを教えられないのだから、
子どもにも伝わるはずがありません。

 どうぞどうぞ、次の世代へと、
私たちが世界を超えて合掌の姿を伝えましょう。


 川村妙慶著
「心の荷物をおろす108の知恵」より

vol. 3679
「あなたは聞くことができていますか?」  (2013/2/14 [Thu])
人間は、大人になればなるほど、
「聞く」ことができなくなります。

年齢を重ねれば重なるほど、
今さらこんなことを聞くのは恥ずかしいと思うものです。

しかし、聞くことで、
人は自分が未完成であることに気づかされます。

どんなこともまず聞いてみましょう。

わからないことはまず聞く。

それが成長の第一歩です。

「聞くことは一瞬の恥、聞かないことは一生の恥」なのです。


川村妙慶著
「心の荷物をおろす108の知恵」より

vol. 3678
「心の視野を広く」  (2013/2/13 [Wed])
人生は、ものの見方、考え方で変わります。

たとえば休みが二日あるとします。

二日しかないと思うか、二日もあると思うかで、
過ごし方が変わってきます。

人間は「減っていくこと」ばかりに囚われがちですが、
今の状況から何が楽しめだろうと感じることがたいせつなのです。

ものの見方を、「見る」から、
視野を広げて「観る」という感覚が大事。

心の視野を広げましょう。



川村妙慶著
「心の荷物をおろす108の知恵」より

vol. 3677
「プロセス」を大事に  (2013/2/12 [Tue])
 日本には、「道」の精神というのがあります。

 華道、茶道、書道など、多くの道があります。

上達や結果だけがたいせつなのではありません。

それに向かって歩いていくプロセスが「道」なのです。

仏道もまた同じ。仏道は、人間らしく生きるための「道」。

さぐりながら、ぶつかりながら、
突き進んでいく過程が行く過程がたいせつなのです。

人生とは「プロセス」なのです。結果だけではありません。

失敗したことも、成功したことも、同じくらいの重みがあるのです。

近道ばかりの、かしこい生き方はしなくていいのです。


川村妙慶著
「心の荷物をおろす108の知恵」より

vol. 3676
「愚痴は人より出でて、人をほろぼす」  (2013/2/11 [Mon])
 「もっと若ければこんなこともできたのに」
「健康だったらこんなこともできるのに」
「金持ちだったらもっと余裕があるのに」
「独身ならもっと自由になれたのに」……。

 私たちは、できないこと、なれないことを追いかけて、
振り返ってばかりいます。だから愚痴が出るのです。

 こんな言葉があります。

「さびは鉄より出でて、鉄をくさらせ、
愚痴は人より出でて、人をほろぼす」

 今、置かれている状況を受け入れましょう。

 ありのままの自分を正直に見ていくことから始めましょう。


川村妙慶著
「心の荷物をおろす108の知恵」より

vol. 3675
「生きる準備ばかりしていませんか?」  (2013/2/10 [Sun])
 「私たちは生きることなく、ただ生きる準備ばかりしている」

このパスカルの言葉を知ったとき、
全身で身ぶるいをしたことをおぼえています。

私たちは生きてみないとわからないのに「生き方」の勉強をしたり、
「きっとこれはこうなるだろう」と想像ばかりして生きています。

 雨に濡れない方法ばかりを考えていないで、
そろそろずぶ濡れになる中で、自分と向き合ってみませんか?


川村妙慶著
「心の荷物をおろす108の知恵」より

vol. 3674
「バランスが大事」  (2013/2/09 [Sat])
 人間は外で仕事をしながら、
家では本来の自分にもどって一日を振り返ります。

 内ばかり、外ばかり、
どちらか一方だけに気持ちが向かいすぎると、
人は自分を追い詰めてしまいます。

 内と外――。

 両方あっての自分なのです。


川村妙慶著
心の荷物をおろす108の知恵」より

vol. 3673
「わかった」は「わからない」の入り口  (2013/2/08 [Fri])
 人は歳を重ねるごとに、「世の中こんなもの」と開き直り、
高をくくりがちです。

 あるいは、日常会話でも「私はすべてわかっているのに、
わからんのはあんたや」と、つい言いがちなもの。

 しかし、「すべてわかった」という態度では、人は成長しません。

 蓮如上人は「心得たと思うは心得ぬなり」と言われました。
「わかった」という思いは、じつは「わからない」という思いの入り口なのです。

 「世の中こんなもの」と決めつけるのではなく、
「本当にそうなのか」「なぜそうなのか」
「それはどういうことなのか」を問い続けてゆくこと。

 これが浄土真宗の教えです。あえて答えは出さなくていいのです。
答えが出たところで、成長もまた止まってしまうのですから。


川村妙慶著
「心の荷物をおろす108の知恵」より

vol. 3672
「大海のような深い人間になる」  (2013/2/08 [Fri])
 親鸞聖人は、「海」にたとえた教えの言葉を数多く残されています。

 たとえば、大海に石を投げたとします。海は怒りも騒ぎもしませんね。

 ところが、浅い水たまりに石を投げたらどうでしょう。

 石を受け入れる深さがないため、波立ち騒いでしまいます。

 私たちもまた、大きな海のような「深い人間」に育っていきたいものです。


 川村妙慶著
「心の荷物をおろす108の知恵」より

vol. 3671
「今」を生きてますか?  (2013/2/06 [Wed])
 あるお寺の住職からメールをいただきました。
とある冊子で、こんな言葉を見かけ、とても刺激を受けたそうです。

 「私が無駄に過ごした今日は、
昨日死んだ人が痛切に生きたいと思った一日である」

 一日一日、人それぞれの過ごし方、それぞれの人生があります。

 一日があっという間に過ぎるという人もいるでしょうし、
代わりばえのしない一日だったと思う方もいるでしょう。

 毎日を真剣に充実して生きている人もおられるでしょう。

 しかし、もっとも空しいと思える人生は、先のことや、
過去のことばかりにこだわって、
肝心な「今」を見ていない人生です。

 あせらなくていいのです。人と比べなくていいのです。

 いま与えられた自分なりの生き方を、大切に生きてください。

 「人は昨日にこだわり明日を夢見て今を忘れる」


 川村妙慶著
「心の荷物をおろす108の知恵」より

vol. 3670
「こだわりをなくせば新しいことがやってくる」  (2013/2/05 [Tue])
 毎朝、私は洗面器にいっぱい溜めた水で顔を洗います。
 そのとき、いつも思うのです。
「昨日のイヤなことを水で流し、今日の新しきことを迎えよう」と。

 先日、地方でも法話の帰りに、せっかくこの地まで来たのだから、
近くに住む知人の家によってみようと、
二人暮らしのご夫婦宅を訪ねました。

 「ようこそ、ようこそ」と迎えてくれ、
ご主人はお茶の用意をしている奥さんへ
「おい、そこにあるタバコを取ってくれんか!」と声をかけました。
すると奥さんは「自分で取り!」と強い口調です。

 奥さんのそばにタバコがあるのですが、取ろうとしません。
仕方なくご主人は、自分でタバコを取りにいきます。
ご主人は、「いつも私がたのんでも、
なかなかしてくれないのですよ」と、困り顔です。

 そっと奥さんに「どうされましたか?」とたずねてみると、
「この人は四十年前、私の妊娠中に何もしてくれなかったのです」
とおっしゃいました。笑うことのできない話ですね。

 いまだに四十年前のことを、おぼえておられるのにも
ビックリしますが、奥さんも奥さんなりに、
たくさん傷ついてきたのでしょう。

 それにしても、人間はどうしてここまで過去のことに
こだわってしまうのでしょうか。

 流したくないこともあるでしょう。

 しかし、流さないと新しい出会いもありません。
 
私も毎朝、顔を洗いながら、
「今日を新たに出なおします」と自分に言い聞かせています。



 川村妙慶著
「心の荷物をおろす108の知恵」より

vol. 3669
「どうしたら心が救われるか」  (2013/2/04 [Mon])
浄土真宗の教えはよく誤解されます。
世間で理解されている仏教とは少し違うからでしょう。

「阿弥陀さんは、そのままの私を救ってくださいます」といえば、
「じゃあ、どんなことをしても、罪を犯しても救ってくれるのやね」
と理解する方がいます。
これは単なる勝手気ままな受け取り方です。

 蓮如上人は、「我が心にまかせずして、心を責めよ。
仏法は、心のつまる物かと思えば信心に御なぐさみ候」と言われました。

 意味は、「コロコロ気分によって変わる自分の心にまかせると、
気分だけに流されてしまいますよ。

もっと心をひきしめ、心を決めてほしい、。
仏法はなんだか堅苦しいいものと思うかもしれないが、
阿弥陀さんのお心に触れると、慰められますよ」という言葉です。

 「どうしたら救われるのか」「阿弥陀さんは何をしてくれるのか」と
考えているうちは、何も変わりません。

 それは、「我」の視点でしかないからです。

「我が心にまかせずして」……
横着な「我」を中心にもってくるのではなく、
阿弥陀さんのお心に触れながら、
「我の心」をやわらかくしませんか。


川村妙慶著
「心の荷物をおろす108の知恵」より

vol. 3668
「自分にウソはつかない」  (2013/2/03 [Sun])
 私たちは「言い訳」という手段を使って何とか逃れようとします。

 本心を知られるのは恥ずかしいことなのでしょうか。

自分で自分にウソをついて、
外見だけをつくってしまうと自分が疲れますよ。


川村妙慶著
「心の荷物をおろす108の知恵」より


vol. 3667
「悩みのパターンを見なおす方法」  (2013/2/02 [Sat])
 私たちは「生きている実感」を欲しがるものです。
 
 血が騒ぐ、心が躍る、悔しい、悲しい。
 
 すべて生きているからです。
おもしろくない人生、と嘆くこともあるかもしれません。

 そんなときは、
子どものころに思い描いていた未来の自分の姿や、
過去の自分の行動を、ぜひ紙に書き出してみてください。

 過去を振り返るためにだけではなく、
悩みのパターンを見なおすためです。

 ある方向にばかり、目を向けがちな自分をひっくり返して、
本来の自分を取り戻すためです。

 川村妙慶著
「心の荷物をおろす108の知恵」より


vol. 3966
「ときには頭の休息を」  (2013/2/01 [Fri])
 最近私たちは、頭の使い方に関心があるようです。
「ボケたくない」「頭の回転をよくしたい」
「せめて子どもには頭のよい人間になってほしい」……。

 しかし、カルヴィンという人は「人間の頭は、
偶像をつくる工場」だと言っています。

 頭がよく働くと、今度は想像ばかりしてしまって、
自分で「悩みのストーリー」を作ってしまうというのです。

 想像はあるときには必要でしょう。

 しかし、想像が悩みを製造してしまい、
自分の心はまったく落ちつけません。

 仏教という教えは、頭で聞く教えではありません。
理解するものではないのです。

 頭ではなく、からだ全体で聞いていく教えです。
「あー! そうやった。これは私のことやった」と身がうなずいたとき、
仏さんのお言葉が、じわーっと毛穴から染みとおってくるのです。

 ときには頭をお休みさせ、体全体で聞いていきましょう。


川村妙慶著
「心の荷物をおろす108の知恵」より

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