「往生の後 再び現世に還って人々を救済する」
善行をする時は、思えば直ぐにしたほうが良いです。
悪事を思えば、自分の心からは直ぐに捨て去るようにしなさい。
そうでないと、人間の心とは、善行をしない時は
悪事を優先する癖があるものだから。(116番)
もしも悪事をしてしまったならば、それを繰り返さないことです。
悪事を捨て去りなさい。悪事を積み「重ねる」ことが、
本当の悪事だからです。(117番)
もし善行をしたならば、それを繰り返すことです。
更に善行をすることを心掛けるのです。
善行を積み重ねることが、本当の涅槃(ねはん:極楽)に既に居
ることなのです。(118番)
(原始仏典 ダンマパダ9章-116番・117番・118番)
この項を、ただの説教臭い話だと思ってはいけません。
ここには、人間の心の動き方と、それを制御する方法と、
悟りの本当の正体が開示されています。
118番には、究極の答えが述べられています。
私たちは、涅槃や、悟りの心境に「行く」、今の自分とは
違う心境に成る、何かが変わる、・・・・・という想像をしてし
まいます。でも、そうでは無いのです。
感謝で自然な善行を積み「重ねる」ことが出来れば、その今の
自分の心境こそが、それは既に浄土であり、涅槃に居り、悟り
の最(ing)中なのです。
悟りの最中にいる人は、自分が悟りの(ing)だということに気
づけない皮肉があります。
北斗の拳のケンシロウが「おまえはもう死んでいる!」と必ず
決めゼリフを言いますが、「おまえはもう悟りの中にある!」と
いうのが真相なのです。
悟りとは、多くの人が勘違いするするように、今からお寺に入っ
て修行しなくてもよいのです。「別人に変身!!」するのではない
のです。
自我は少しは薄まるでしょうが、心境がゴロッと変わるとか、
高次元にシフトするとか、生まれ変わるのではないのです。
今の自分がどんな自分で有っても、前記のような生活習慣を努力
することにより、今のままの自分自身を涅槃(浄土)に置くことが
可能なのが、人生には自身の努力を超えた力(自然・他力・仏力)が
働いているのです。
「戦場のメリークリスマス」ではありませんが、たとえ戦場の中
であっても、その中で、人の善意や愛情や善行があって、そこが
浄土と思えるような光り輝く瞬間が有り得るのが真実なのです。
昔の話ですが、私が社会教育主事で生涯学習の推進を行って
いた時、元小学校校長で戦時中は陸軍の将校であった上司の
○○市立公民館長K先生が、私にこういう話をして下さった
ことがありました。
「広島、長崎と原爆が投下され、日本はポツダム宣言で無条件降
伏を行った。その時、わしらは中国から船に乗って日本に向かっ
ていた。
日本軍は敗戦したので、もはや誰も軍の規律を守ろうとしなかっ
た。特に、嫌々駆り出された二等兵や下級の軍人たちは将校たち
から厳しく押さえつけられておったから、その不満が一気に爆発
し、暴徒と成って腹いせに将校たちを捕まえては袋叩きにして海
投げ落としていった。
わしもそうなるのたと腹を括った。しかし、暴徒の前に立ちはだ
かったのはわしの部隊の部下たちだった。その部下たちが大きな
声で、「わしらの上官のK将校殿に指一本でも触れたら、わしらが
黙ってはおらんぞ!!」
それはそれは鬼の形相で、日本に着くまでわしの部隊の部下たち
が一丸となって、必死にわしの命を守り抜いてくれた。
話は変わるが、戦場では将校たちには優先して毎日卵が与えられ
た。わしはその卵を自分が食するのではなく、寝入って弱ってい
る部下たち一人ひとりの枕元に、人には分からないように黙って
置いていった。
部下の一人が「将校殿!」と涙目でわしを見るから、「なんじゃあ?
わしは腹がいっぱいじゃけん」といつも笑っておった。
卵を見つけた部下たちは隠れて卵のカラに穴をあけては中身をす
すっては、よぽど嬉しかったんじゃろう、布団を抱えては声を押し
殺してすすり泣きしておったらしい。
その時の感謝の気持が、彼らにあそまでの行動を取らしていったの
だと思う。劣悪の戦場の中でわしが仏に見えていたのかもしれん。
残念だが他の将校たちは、待ち望んだ日本の地を踏む事はできなか
った。我祖国、待ち望んでいた日本の地を踏んだ時、わしは戦いの
中で有ってもまさに部下たちという諸仏の中で、慈しみという無量
光明の浄土の中で、わしは生かされておったのだと全身が歓喜で震
えた。
わしは念仏とともに子どものように人の目など気にせず大声で泣き
じゃくっておった。そして部下たちと生かされて生きている実感を
抱き合っては号泣と共に噛みしめておった・・・。
それからじゃ、頑固もんのこのわしが、仏さんに手を合わせるよう
になったのは。先に逝った戦友の為に国の復興に無私になって、こ
の命を捧げようと思ったのは。将校のわしは敗戦と共に死んだ。
それから、この美しい日本の国を再興していく子どもたちを育てる
ための教師としてのわしの第二の人生が始まったんじゃ・・。」
今の自分の環境が、こうならねば幸福に成れないと思える人がいる
かも知れません。しかし、そういう人はどんな環境になったとして
も自分の夢が叶うことはありまらん。絶対に。
既に在る、今の生活の中で「生かされていることに」気付くことが
究極の答えなのです。
今のままで、絶対的な幸福感に包まれることが誰でも可能なのです。
ただし、そうなれるためには、釈尊が仰ったように、その自分の生
活の中で奉仕的な自然な善行を淡々と「重ねる」という生活習慣こ
そが必須なのです。
今日もより良く生きる智慧を与えて頂いて有難うございます。
皆さんの仕合せを心より念じております。
【柔訳 釈尊の言葉第一巻】著:谷川太一より抜粋転載
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日本人の道徳心
「貯めないで貯める」
「貯めないで貯める」というのはパラドックス的な言い方である。
勤め人ならば、自分が勤めている会社を盛んにすることが
自分を発展させる第一の条件であるという確信を持って
徹底的に会社のために働くことが
「貯めないで貯める」ことにつながる。
そういう気持ちで働いているとそこに奉仕の感激が湧き、
信念の努力が積まれる。
そのようにして一年、二年と続けていると、
出世しない道理はない。
人が十年で進むところを五年で進む。
そして次は人が十年で進むところを二年で進む。
すると都合二十年で到達する棒給を七年で勝ち得ることができるわけである。
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今日の諺 「一宿一飯(いっしゅくいっぱん)」
【意味】
一晩泊めてもらい、
一度食事を食べさせてもらうこと。
ちょっとお世話になるという意味。
【由来】
江戸時代のばくち打ちが、
宿場を渡り歩くときに旅の途中で
泊めてもらうことを
「一宿一飯の恩義」といい、
一生大事にしなければいけない仁義(おきて)とされた。
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