
「自ら悪をなさず、自ら善を行え。自らの心を清めよ」
悪い遊びや物事(不倫、薬物、バクチ、・・・などなど)
ばかりに執着して、それを教えに来る
知人からはきっぱりと離れて絶縁しなさい。
また、色々な迷信(邪教、御蔭信仰、験担ぎのシキタリ、・・・・など)
を信じて、勧誘や強要をして来る人。
更には、色々なものに目移りばかりして、
真面目に働く努力をせずに近道ばかり探す人。
こういう人と交友してはいけません。
どんな交わり、集団の中に自分が居ましても、
自分一人で歩く覚悟を持ちなさい。
まるで1本角(ツノ)が立つサイのように一人で歩みなさい。
(原始仏典 スッタニパータ 第1章3節-No.57)
人の世には、誘惑や近道、
派手な言葉があふれています。
SNSを開けば、誰かが成功の秘訣を語り、
簡単に幸せになれるような広告が並びます。
しかし、
そこに真実はほとんどありません。
光のように見えるものほど、
時に人を闇へと誘うのです。
たとえば、不倫、薬物、ギャンブル、
安易な金儲け。
それらは一瞬、
心を満たすように見えますが、
実際には、心の奥に空洞を作り、
信頼や健康、家族の絆、
そして「自分を信じる力」までも奪っていきます。
また、色々な迷信、
中道を欠いた己のみが正しいとする偏った信仰
(邪教、御蔭信仰、験担ぎのシキタリ、・など)
を信じて、勧誘や強要をして来る人。
更には、色々なものに目移りばかりして、
真面目に働く努力をせずに近道ばかりを探す人。
こういう人と交友してはいけません。
「ご利益がある」という言葉にも
人は心を奪われがちです。
しかし、
仏の教えは外なるものに依存することではなく、
「自分の中にある正しい心(仏性)を磨くこと」です。
どんなに高価なお守りや念珠を持っていても、
どんなに素晴らしい説法を聞いても、
自分の心が欲や怒りに曇っていれば、
仕合せは絶対訪れません。
仏は私たちにこう語ります。
「自ら悪をなさず、自ら善を行え。自らの心を清めよ。」
真面目に働くということは、
誰かに褒められるためではなく、
この世界の一部として誠実に生きることです。
仕事が地味でも、報われなく見えても、
その一つひとつの行いが、
確かに未来への善い因(いん)を積み上げています。
「人の見ていないところでも正直であろう」
その積み重ねこそが、次の人生や次の世を照らす眩い光と
なります。
時に、周りが皆、
違う方向に歩いているように見えるかもしれません。
不正や力のある人たちの権力が通り、
嘘が得をするように感じることもあるでしょう。
しかし、そんな時こそ
「一本角のサイのようにただ独り歩む」のです。
群れや傲慢で謙虚さの無い組織の論理に流されず、
自分の信じる正しさを歩む。
孤独に見えても、その道の上には、
同じ志を持つ法友が、仏の光と共に
しっかりと「今、ここ、私」を生きている姿があります。
この事実は自身にとって
とても大きな力や励みとなって
おぼつかない人生であっても人知れず
後押ししてくれているのです。
悪い因果とは、
「悪しき習慣や因習」「怠け心」「ごまかし」
「利害損得や欲に溺れる」心の積み重ねです。
善い因果とは、
「真理を生きる勇気と希望」「自助努力」「誠実」
「感謝」「思いやり」の積み重ねです。
私たちはいつでも、
そのどちらを選ぶかの分かれ道に立っています。
そして一瞬一瞬どちらかを選択しています。
どうか、今日という一日を、
自分の手で、誠実に耕してください。
内在する仏と共に歩もうとする勇気ある人生が
その一歩一歩が、あなたを確かな仕合せへと導いてくれます。
「まっすぐに、静かに、一本角のサイのようにただ独り歩め。」
釈尊の発言とは、
とにかく再び悪い因果を作らず悪い転生をしない為の、
超実践論なのです。
ただの表面的な道徳観ではまったく無く、
浄土への直球の最短論であることを
感謝と共によくよく自覚しておきましょう。
今日もより良く生きる智慧を与えて頂いて有難うございます。
皆さんの仕合せを心より念じております。
参考文献【柔訳 釈尊の教え 第一巻】著:谷川太一
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・