
謹賀新年 合掌の心
新しい年を迎えると、
私たちは自然と手を合わせます。
神社でも、お寺でも、家庭でも。
その動作はとても静謐で、美しい。
合掌には
「自分と相手を一つとして敬う」、
また、「願う前に、立ち止まる」という意味があります。
今年一年をどう生きるかを考える前に、
まず、ここまで生きてこられたことに
「ありがとうございます」と、感謝で手を合わせる。
思い通りにいかなかった日も、
迷い、乱れ、後悔した瞬間も、
それでも今日、ここに立っている自分がいる。
合掌とは、
反省でも、祈願でもなく、
この事実をそのまま受け取る感謝の姿勢です。
現代は、
「早く」「正しく」「上手に」生きることを
求められすぎています。
その中で心は、
気づかぬうちに先へ先へと引っ張られ、
今ここの私を離れていきます。
合掌は、
心を今ここに戻すための
いちばん小さな行為です。
今年一年、
何かを上手く足そうとしなくていい。
何かになろうとしなくていい。
乱れたら、息を吐いてもとに戻す。
焦ったら、立ち止まる。
分からなくなったら、
考える前に手を合わせて中心に戻る。
それだけで、
人は必ず道を外しきらずに済みます。
合掌の心とは、
「自分を整え、他や世界と争わない」
自他への感謝とねぎらいの生き方です。
静かに、
しかし確実に、
人生を深める力です。
本年が、
派手ではなくとも、
一分でも一秒でも穏やかに
調律の取れた一年になりますように。
謹賀新年
合掌
※人を育てているのは、環境ではありません。
自分自身の良心(仏性)に、どう向き合っているか、その態度です。
今日一日、自分の良心(仏性)に恥じないか。
その問いを胸に、静かに生きてまいりましょう。
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上善如水エッセイ
人生を「止めてくれなかった人」へ
昨日、
「長松寺」のXに寄せられたとても数多くの言葉の数々を、
一つひとつ、噛みしめるように読ませていただきました。
派手な言葉はありません。
けれど、どの言葉にも、
目頭を押さえながら綴られたであろう“重さ”がありました。
「ああ、この方は、ここまで生きてこられたのだな。」
「この方も、何度も乱れながら、今日を迎えられたのだな。」
「今年最後の日に、とても大切なことに気づかれたのだ。」
そう思うたびに、
胸の奥が、静かに熱くなりました。
昨年、
私たちの人生を支えてくれたのは、
目立つ成功でも、
劇的な出来事でもありません。
それは、人生を「前に進めてくれた人」よりも、
人生を「止めなかった人」でした。
黙って、そばにいてくれた人。
口うるさく、耳の痛いことを言ってくれた人。
何もしてくれなかったようで、離れなかった人。
時に反対し、時に厳しく、迎合しなかった人。
投稿者の言葉を読みながら、
その一人ひとりの背後に、
必ずそういう存在があったことを感じました。
人は、つい感謝を
「良くしてくれた人」に向けがちです。
けれど仏さまの教えは、
もっと静かなところを照らします。
自分が壊れ切る、その一歩手前で、
どこかに“歯止め”を残してくれた存在。
それこそが、
本当に有り難いご縁なのだと。
それは、
優しい言葉とは限りません。
沈黙であったり、
厳しさであったり、
時には、何もしてくれないことそのものであったりします。
水は、
無理に流れを変えません。
争わず、逆らわず、
それでも流れを止めない。
上善如水。
最も善い在り方とは、
正しくあろうと踏ん張ることではなく、
命の流れを、
静かに保ち続けることなのかもしれません。
そして、
投稿者の言葉を読み進める中で、
私自身も、はっきりと気づかされました。
もう一人、
人生を止めなかった人がいる。
それは、
何度乱れても、
何度情けなくなっても、
投げ出さず、今日まで生きてきた「自分自身」です。
立派ではなかった。
ただ、壊れ切ることだけは、
どこかで拒み続けていた。
それは、
自分の力というより、
仏縁に守られた凡夫の姿だったのだと思います。
だから今、
お仏壇の前で手を合わせるとき、
私はこう申し上げたい。
良くしてくれた人へ、だけではなく。
人生を止めなかった人へ。
止まらずに、今日まで生きてきた自分へ。
静かに、深く、
「ありがとうございました。」
合掌