「水のように生きるということ」

上善如水

上善如水

〖小さな小さな手の温もり〗

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先日、 長女の輝香から 「得度が終わったよ」と

京都から連絡があった。

 

今日との西本願寺西山別院での十日間の得度考査。

教義を学び、 声明を学び、 仏弟子としての 一歩を

踏み出す時間である。

 

私自身も四十五年前、

 同じ場所で得度を受けた。

今も真っ先に 思い出すのは、一日十時間以上の

正座のつらさと足の痛みだ。

 

当時は毎日サロンパススプレーを

足に何度も何度も振りかけては冷やし、

「早く終わってほしい」その思いばかりだった。

 

しかし今、 振り返ってみれば、

あの十日間は 人生の困難に向き合うための

小さな予行演習だったように思える。

 

輝香は、 中央仏教学院の通信で学び、

 結婚し、 出産を経て、

 時間をかけてこの日を迎えた。

 

その歩みから 伝わってくるのは、

 仏法は 「やらされるもの」ではなく、

「自ら引き受けていくもの」だという事実である。

 

ふと、 未熟児で生まれ、 保育器の中にいた輝香の、

小さな紅葉のような手を 握って涙した日のことを思い出した。

 

あの手が今、 仏弟子として帰敬式を受けている。

その事実に、 深い仏縁を感じずにはいられない。

 

仏教保育(まことの保育)が大切にしているのは、

この世を上手に生きることではない。

いつも「仏さまと 一緒に生きている」という深い安心感である。

 

阿弥陀さまの

母親のような大きなお慈悲の中で

お育てにあっているということを知ることで、

 人は自然と、 自分の命を肯定できるようになる。

 

あの 小さな手の温もりは、 今 胸の奥に残っている。

命は、 一人で 大きくなるのではない。

見えないはたらきと、 多くのご縁に支えられて、

育っていく。

 

そのことに、 改めて深く気づかされたひと時だった。

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