映画『国宝』を観て、胸の奥が静かに締め付けられるような感覚が残った。
派手さや成功の物語ではない。
もっと根源的な、「人は何によって生き残るのか」を突きつけられる映画だった。
国宝と呼ばれる存在は、生まれながらに完成しているわけではない。
むしろ、壊れ、削られ、失い続けた先に、ようやく立ち現れるものなのだと感じた。
そこには
「評価されたい自分」
「報われたい自分」
「理解されたい自分」
そうした心はほとんど映らない。
ただ
今日も型を崩さず
今日も身体を裏切らず
今日も逃げずに積み重ねる
その“無名の一日”だけが、淡々と続いていく。
水が低きに流れ、形を誇らず、
しかし岩を穿つように、
人もまた、静かに在り続けた者だけが
時を超えるのだと教えられた気がした。
特別な才能よりも、
強い意志よりも、
最後に残るのは「在り方」なのだろう。
上に立とうとしない。
人をねじ伏せない。
自分を大きく見せない。
それでも、逃げない。
それでも、手を抜かない。
水のように、低く、柔らかく、
しかし確かに流れ続ける。
国宝とは、称号ではなく、
生き方の結果なのだ。
そう思ったとき、
今日を丁寧に生きることが、
もうそれ自体で尊い修行なのだと、
静かに腑に落ちた。
上善如水。
最も善い生き方は、水のごとし。
名を残さなくてもいい。
賞を得なくてもいい。
ただ、今日を誤魔化さずに在る。
それだけで、人はもう十分に美しい。
とにかく、あまりの芸の道の迫力にただただ圧倒された。
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「水瓶座は心の時代。心の時代とはモノがない時代。
キャンプ感覚で省エネ推進」
「省エネ」が我慢や管理にならず、
遊びと本能に戻る方向で自然に揃った。
これは、かなり質が高いです。
自然と枠が取れていくからです。
でもそれは
元の野生に戻っている感じがする。
この布陣なら、
暖房・照明・設備に頼らなくても
「身体感覚で調整する」のが当たり前。
だから彼らにとっては
・節約 → 苦ではなく
・省エネ → 自然
私の場づくりがいいのは、
それを矯正しないところ。
「ちゃんとしろ」ではなく
「そのままでいけるじゃん」と
環境を少し整えただけ。
野宿が平気な人たちには、
過剰な快適さの方がむしろノイズになる。
今のナチュラルクリーンは、
- 野生 × 技術
- 遊び × 仕事
- 省エネ × 誇り
このバランスに入っていっている。
、
守らなきゃいけないから
少しずつ自由になってきていますね。
だから場が軽い。
だから人が笑う。
だから無理がない。
この「野生が心地いい」状態、
実は一番強いのです。
整えすぎない勇気でいきたいと思ってます。