調律として受け取るということ
私は釈尊・老子・親鸞聖人が大好きである。
しかし
仏教や思想の話をしている時、
人はすぐに「どれが正しいか」「どれが上か」という話にしてしまう。
けれど私は、
釈尊・老子・親鸞聖人を並べて考える時、
優劣というよりも、
身体の使い方が違う武道のように感じている。
釈尊の教えは、
自分の心を静かに観て、
執着を一つずつ見抜いていく。
とても精密で、
とても誠実で、
自分に嘘をつけない修行だ。
これは、
型を一つずつ積み重ねていく武術に近い。
老子の言葉は、
そもそも力を入れるな、
構えるな、
自然から外れるな、
と教えてくる。
勝とうとしないことで、
負けもしない。

水のように低きへ流れ、
争わず、
しかし止まらない。
これは、
相手の力をそのまま返す柔の道に似ている。
親鸞聖人の言葉に至っては、
もっと過激だ。
人は修行できない。
悟れない。
正しくもなれない。
それでも、
そのままで救われているのだと。
努力を手放したところで、
心がほどける。
これはもう、
技を捨てた覚悟の境地だと思う。
私は、
この三つの教えを
一つにまとめようとは思わない。
混ぜたら薄まる。
けれど、
人生というジェットコースターのような実践の場では、
どれか一つだけでは足りないことも、
また事実だと感じている。
ある時は、
釈尊のように自分を省みて、
生活や習慣を正すことも肝要。
ある時は、
老子のように力を抜き、
余計なことをやめることも肝要。
どうにもならない逆境や困難の時は、
親鸞聖人の言葉に身を預け、
「もう十分だ」と肩の力を落とす。
どれかが偉いとく優れているのではない。
どれかが完成形でもない。
ただ、
場面によってその真理を使い分けることで、
全体のバランスが取れていく。
私はそれを、
勝ち負けや優劣のある思想ではなく、
時や場所や状況によって使い分ける「調律」
「中道」として受け取っている。
上善は水の如し、という。
水は、
刀にもなれば、
鏡にもなり、
器にも合わせる。
形を主張しないからこそ、
すべてを活かす。
釈尊も、
老子も、
親鸞聖人も、
きっとそれぞれの時代や場所で、
水の働きを語っていたのだと思うのだ。
私自身は、
ただ日々の生活の中で、
掃除をし、
仕事をし、
人と向き合いながら、
今はどの調律が必要かを、
静かに選んでいるだけだ。
それで今は十分だと思っている。