
二十年前、
長松寺の法座を終えた後は必ず、
私に一登園の石川洋先生より
人としての道を深くご教示いただいたことを
よく思い出す。
その一つが「決意と覚悟」の違いだ。
「決意」と「覚悟」は、よく似た言葉として使われる。
けれど、この二つはまったく別の次元にある。
決意とは、
「やろうと思う心」
「こうなりたいという意思」
頭と感情がつくるものだ。
一方、覚悟とは何か。
覚悟とは、
失うかもしれないものを、具体的に引き受けること
である。
時間、信用、お金、立場、安定、
時には人間関係や、これまでの自分自身。
覚悟には、必ず「代償」が伴う。
代償のない覚悟は、ただの決意にすぎない。
人は決意なら、いくらでも語れる。
しかし覚悟は、言葉では語れない。
なぜなら覚悟は、口に出した瞬間に軽くなるからだ。
覚悟は、
追い詰められた時に
逃げ道を失った時に
それでも一歩を出すかどうか、
その「足の動き」にだけ現れる。
だから、
覚悟は教えることができない。
説明して理解させることもできない。
人は痛みを通らなければ、
本当の意味では気づかない。
しかし、
すべての体験が人を育てるわけでもない。
同じ体験をしても、
人のせいにする人もいれば、
環境のせいにする人もいる。
覚悟に至る人は、
痛みを「自分の問題」として引き受けた人だけだ。
仏教でいう「覚」とは、
何かを知ることではない。
逃げずに観た、という事実そのものだ。
決意は、未来を語る。
覚悟は、現在を引き受ける。
だから覚悟のある人は、
大きなことを言わない。
むしろ静かになる。
静かな人ほど、
すでに腹が決まっている。
もし今、
「決意はあるのに、前に進めない」
そう感じているなら、
それは自分が弱いからではない。
まだ、失う準備が整っていないだけだ。
覚悟は、
準備ができた者のところに、
自然と訪れる。
いや、自身の良心が
「覚悟」を引き寄せると言っていい。
「覚悟」は無理に作るものではない。
ただ、逃げないこと。
それだけで十分だ。