「ゼロに戻るということ」2/16(月)
最近、ふと腑に落ちたことがあります。
それは、自我があること自体が、実はとてもありがたいということ。
一般的には、自我は手放すもの、厄介なもの、苦しみの原因のようにも語られます。
たしかに、自我に飲み込まれているときは視野が狭くなり、仕事でも、人間関係でも重たくなる。
でも、自我があるからこそ、問いが生まれる。
自我が反応するからこそ、
「これは本当か?」
「中心はどこか?」
と胸に問える。
つまり自我は、敵ではなく、
観るために与えられた素材なのだと思いました。
自我を消すのではなく、
良心とともに包み込んでいく。
その姿勢でいると、最後はいつも同じところに戻っていきます。
生かしていただいて、ありがとうございます。
この感覚に自然と帰着する。
さらに面白いのは、問い続けていくと、
だんだん「何もない」感覚に行き着くことです。
評価も、肩書も、勝ち負けも、物語も、
いったん全部そぎ落ちていく。
まるで、水洗いしたあとの衣類をプレスする前の、
あの静かな状態のように。
作務でも同じで、
「うまくやろう」が抜けたときほど、
手が自然に動く。
何もない。
でも、そこで終わりじゃない。
何もないところから、また生まれてくる。
無理に作らなくても、
自然に湧いてくる動きがある。
自然に出てくる言葉がある。
自然に次の一手が見えてくる。
空はゼロではなく、
固定できない豊かさ。
だから今日も、
問いを持ちながら、
手を動かし、
感じ、
整え、
またゼロに戻る。
結局いつも、ここに戻る。
生かしていただいて ありがとうございます。
自我があるから、
感謝に気付ける。
なんとも、もどかしくも、
ありがたいものを与えていただいている。
では――
自我が薄まったらどうなるのか。
もしかしたら、
「感謝する」のではなく、
感謝している状態そのものになるのかもしれない。
そう思うと、もう、
ため息が出て、笑うしかない。
感謝は、
初めからそこに在ったのかもしれない。
なんともなぁ。
人生とは、
感謝に戻る旅やったんかい!
生かしていただいて ありがとうございます
次は、
感謝体そのものとしての行動の探究ですね。
それは、自我があること自体が、実はとてもありがたいということ。
一般的には、自我は手放すもの、厄介なもの、苦しみの原因のようにも語られます。
たしかに、自我に飲み込まれているときは視野が狭くなり、仕事でも、人間関係でも重たくなる。
でも、自我があるからこそ、問いが生まれる。
自我が反応するからこそ、
「これは本当か?」
「中心はどこか?」
と胸に問える。
つまり自我は、敵ではなく、
観るために与えられた素材なのだと思いました。
自我を消すのではなく、
良心とともに包み込んでいく。
その姿勢でいると、最後はいつも同じところに戻っていきます。
生かしていただいて、ありがとうございます。
この感覚に自然と帰着する。
さらに面白いのは、問い続けていくと、
だんだん「何もない」感覚に行き着くことです。
評価も、肩書も、勝ち負けも、物語も、
いったん全部そぎ落ちていく。
まるで、水洗いしたあとの衣類をプレスする前の、
あの静かな状態のように。
作務でも同じで、
「うまくやろう」が抜けたときほど、
手が自然に動く。
何もない。
でも、そこで終わりじゃない。
何もないところから、また生まれてくる。
無理に作らなくても、
自然に湧いてくる動きがある。
自然に出てくる言葉がある。
自然に次の一手が見えてくる。
空はゼロではなく、
固定できない豊かさ。
だから今日も、
問いを持ちながら、
手を動かし、
感じ、
整え、
またゼロに戻る。
結局いつも、ここに戻る。
生かしていただいて ありがとうございます。
自我があるから、
感謝に気付ける。
なんとも、もどかしくも、
ありがたいものを与えていただいている。
では――
自我が薄まったらどうなるのか。
もしかしたら、
「感謝する」のではなく、
感謝している状態そのものになるのかもしれない。
そう思うと、もう、
ため息が出て、笑うしかない。
感謝は、
初めからそこに在ったのかもしれない。
なんともなぁ。
人生とは、
感謝に戻る旅やったんかい!
生かしていただいて ありがとうございます
次は、
感謝体そのものとしての行動の探究ですね。
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