「全体に溶けること、流れに溶けること」10/13(月)
「只管打坐」とは、
静の極みに身を委ね、
自己の輪郭が消えていく行。
「只管打融」とは、
動の極みに身を溶かし、
世界そのものが自らを押し流す行。
この二つが重なったとき、
静も動もなく、
内も外もなく、
ただひとつの宇宙が息づく。
坐すことも、融けることも、
もはや区別のないところ。
そこに、“生かされている”という
永遠の呼吸がある。
生かしていただいて ありがとうございます
静の極みに身を委ね、
自己の輪郭が消えていく行。
「只管打融」とは、
動の極みに身を溶かし、
世界そのものが自らを押し流す行。
この二つが重なったとき、
静も動もなく、
内も外もなく、
ただひとつの宇宙が息づく。
坐すことも、融けることも、
もはや区別のないところ。
そこに、“生かされている”という
永遠の呼吸がある。
生かしていただいて ありがとうございます
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