「只管打融と死」17/17(金)
死とは、終わりではなく、流れの転換点である。
命が個の形を離れ、全体の呼吸に還っていく瞬間。
その過程を、恐れではなく、透明な理解として感じ取るとき、
只管打融の本質が姿を現す。
只管打融――
それは「ただひたすらに融ける」ということ。
この“融”が、死の本質そのものだ。
体を動かし、息をし、祈り、働くことのすべてが、
すでに“融”の稽古になっている。
生きながらにして、
少しずつ“死”を練習しているようなものだ。
自我の輪郭を薄め、
流れに任せ、
抗うことをやめる。
すると、体の奥で静かに何かが溶け始める。
死は突然やってくるものではない。
人は毎瞬、少しずつ死んでいる。
古い細胞が死に、新しい細胞が生まれ、
昨日の思考は今日の呼吸に溶けていく。
只管打融とは、この日々の“微細な死”を受け入れる修行でもある。
そして最期の瞬間――
呼吸が静かに止まるとき、
それは破滅ではなく、完成。
いのちが完全に融けきり、
大河そのものとなる瞬間だ。
生きながら死を練習し、
死の中で生を完成させる。
これが只管打融の極みである。
Grace is not given; it is remembered.
死を意識すれば、生が沸き立つ。
知識としてあったことが今現実になりつつある。
本当に壮大な流れだと思います。
さあ、新たな修行の始まりです。
もはや祝福と言っていいのかもしれないし、
生きるアートですね。
生かしていただいて ありがとうございます
Humbled and grateful to be lived by the universe.
命が個の形を離れ、全体の呼吸に還っていく瞬間。
その過程を、恐れではなく、透明な理解として感じ取るとき、
只管打融の本質が姿を現す。
只管打融――
それは「ただひたすらに融ける」ということ。
この“融”が、死の本質そのものだ。
体を動かし、息をし、祈り、働くことのすべてが、
すでに“融”の稽古になっている。
生きながらにして、
少しずつ“死”を練習しているようなものだ。
自我の輪郭を薄め、
流れに任せ、
抗うことをやめる。
すると、体の奥で静かに何かが溶け始める。
死は突然やってくるものではない。
人は毎瞬、少しずつ死んでいる。
古い細胞が死に、新しい細胞が生まれ、
昨日の思考は今日の呼吸に溶けていく。
只管打融とは、この日々の“微細な死”を受け入れる修行でもある。
そして最期の瞬間――
呼吸が静かに止まるとき、
それは破滅ではなく、完成。
いのちが完全に融けきり、
大河そのものとなる瞬間だ。
生きながら死を練習し、
死の中で生を完成させる。
これが只管打融の極みである。
Grace is not given; it is remembered.
死を意識すれば、生が沸き立つ。
知識としてあったことが今現実になりつつある。
本当に壮大な流れだと思います。
さあ、新たな修行の始まりです。
もはや祝福と言っていいのかもしれないし、
生きるアートですね。
生かしていただいて ありがとうございます
Humbled and grateful to be lived by the universe.
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