「中道を生きる」8/30(火)
仏法は無我であるというお話を
「アホのすすめ」で祖父が語ってくれたわけですが、
続けて「仏法は中道でもある」ということで中道を生きるとは、
一体どうういことなのかを語ってくれるそうです。
まず、両極端を去るというのが中道の教えなのですが、
日々生きている自分たちには何がいったい「極端」なのか、
単純にはわかるものし゜ゃないということです。
仏教は「抜苦与楽」という教えです。「苦しみを抜いて楽を与える」ということですね。
つまり否定すべき「両極端」というのは、人間に苦しみをもたらす感情や観念や状況と
いうことです。そしてそれは心と肉体の在り方に関係しているわけです。
まず心の問題です。
苦しみを感じるときって、外側に向かって責めたてようとするきもちと、
内側に向かって自らを責める気持ち、これがまず「極端」として現われてきますよね。
外側に向かっていく場合は、自分自身の苦しみや不幸というものを
「あんたのせいでこうなった!!」みたいに、相手や周りの人のせいにしていくってこと。
憎しみ、怒り、嫉妬、羨望、猜疑心、愚痴、不平不満、・・・全部あんたが、あんたたちが
悪かったからこうなったんや!!と、常に攻撃の矢が放たれている状態、
これって「極端」です。
民主党、野田さんが選ばれましたね。
テレビ見てたらもはや批判されてました。「よくもまあムチャクチャ言いよるなぁ・・」って。
人を見ると悪人に見える。批判しないといられない。悪口を言わないといられない。
とにかく中傷や批判する。これは人じゃなく、環境や世相のせいにすることも、ある。
そうした批判の中には当然正当なものもある。それはそれで智慧が必要ですよ。
そして、この民主党政権、世相においても、経済が悪い、原発が悪い、いろんな
天変地異が起き、いよいよ東京直下型だとか、いろんな事態が事欠かさない昨今です。
そして、地震のために、津波のために、原発の放射性物質ために、長雨のために、
食糧不足のために、経済の悪化で業界がダメになってしまった・・・。
いろんなことがあって、もはや個人ではどうしょうもできない、ということもある。
だから「これが自分を苦しめている原因である」ということも現実的には山ほどあると思う。
ただね、その外部環境をとらえるとき、自分自身の力でなんとか・・・というものであるならば、
まだ努力の余地があるわけです。
まあ、ここではあまりそこは深入りしませんが、
自分としてできるってことは何なのかということをまずが考えることが、中道的発想で、
不平不満を数限りなくあげることよりも、より生産的な道であろうかと思うわけです。
もちろん、他や環境の責任もたくさんあるとおもいますが、自分の心の立ち位置です。
また一方、内側に向かって、自分を責めるということもあります。
これがなぜいけないかというと、結局、自分自身が仏の子であるということを信じない、
という結果に陥るからです。どんな状態でも仏からは無条件の愛を投げかけられている
存在であるということは事実なんです。
ただね、こういうことを忘れてしまうと、「結局自分はもうダメな人間なんだ」という自己卑下
をしたり、消極的で暗くなったり、常に他人の同情を引き、劣等感のとりことなって、
人間不信となり、人を避けて、不平不満や愚痴の中で、世捨て人となっていくわけで、
これは極端なわけです。
前者が、非常に外に向かって攻撃的なところに特徴があり、
後者は、その反対で、仏性を殺して自己否定、自己崩壊していくことに特徴がある。
勿論「両極端」です。
僕たちは、やはり基本的に心の中には「仏性」という尊いものを持っているわけです。
ただ「無我」でお話ししたように、生まれてこの方、他人の意見や社会環境、教育環境、
職業環境等に影響を受けて、考え方の基軸かせずれて、苦しみをつくっていく
存在になってしまってます。その苦しみのもとは、今までにさまざま学んだこと、
教えられたことからおこってくる、思いと行いの間違いなのです。
こういう左右、外内の両極端を沿ったとき、そこに「中道の境地」が表れてくるわけです。
その境地は、非常に調和された自他ともに害さない自他ともに共存していこうという境地です。
その中道の中に現れてくる心性、心の性質とはにらかというと、
それは思いやり、謙虚さ、親切、優しさ、努力、感謝、信仰心、という愛と調和の心、
それが中道の心です。
そして日々生きているうちに、やはり心に錆がついてくるので、
毎日内観しては心の錆び落としをやっていく必要があります。
それでこそまた、自分を害さず人を害さない、自利利他の道を歩んでいけるのです。
念仏は、「なんまんだぶつ」仏の名前を呼ぶことによって素直な心を取り戻し、
仏の子としての自己に立ち戻ることで、煩悩の呪縛から離れることができるのです。
仏の子としての自分、ありのままの如実な自分自身の姿というものを
見つめてないところから、すべての我執、欲望、苦しみが生まれてくるわけで、
また、他人の意見や批評に翻弄されていくわけで、そして結局は
真実の自己を見失って、苦しみが生まれてくるわけです。
念仏申すとは、まさにそのような両極端から離れて
仏の子である仏性に戻って、涅槃寂静の穏やかな気持ちになっていくということです。
ということで、心の部分の「中道を生きる」の祖父のお話をお伝えしました。
なお、近年、終末予言や新しい次元世界への移行を主張する人が多いいが、
注意が必要なのは自分自身が、この現実世界で不遇だとか思い通りにならない
不満を持つがゆえに、この世界の終りや破滅を意識の深層で願っている場合が
あるそうです。
そのような部分があると破滅神示や現代社会への警告が多くなると。
すべてのカギは、この現実世界にあるわけで、
地獄から浄土までのすべての次元が、この現実世界一つに移行してくるとのことです。
つまり、要は、今のこの世界から逃避する不満な気持ち、自分の都合が満たされない気持ち
こそが、自分自身を破滅消滅させる物事へ引き寄せていくと。だから注意が必要なのだと。
逆に言えば、自分のいのち、良心に恥じない人は、この世が浄土にもなる
時節が到来するとのことです。
生かして頂いて ありがとう御在位ました。
「アホのすすめ」で祖父が語ってくれたわけですが、
続けて「仏法は中道でもある」ということで中道を生きるとは、
一体どうういことなのかを語ってくれるそうです。
まず、両極端を去るというのが中道の教えなのですが、
日々生きている自分たちには何がいったい「極端」なのか、
単純にはわかるものし゜ゃないということです。
仏教は「抜苦与楽」という教えです。「苦しみを抜いて楽を与える」ということですね。
つまり否定すべき「両極端」というのは、人間に苦しみをもたらす感情や観念や状況と
いうことです。そしてそれは心と肉体の在り方に関係しているわけです。
まず心の問題です。
苦しみを感じるときって、外側に向かって責めたてようとするきもちと、
内側に向かって自らを責める気持ち、これがまず「極端」として現われてきますよね。
外側に向かっていく場合は、自分自身の苦しみや不幸というものを
「あんたのせいでこうなった!!」みたいに、相手や周りの人のせいにしていくってこと。
憎しみ、怒り、嫉妬、羨望、猜疑心、愚痴、不平不満、・・・全部あんたが、あんたたちが
悪かったからこうなったんや!!と、常に攻撃の矢が放たれている状態、
これって「極端」です。
民主党、野田さんが選ばれましたね。
テレビ見てたらもはや批判されてました。「よくもまあムチャクチャ言いよるなぁ・・」って。
人を見ると悪人に見える。批判しないといられない。悪口を言わないといられない。
とにかく中傷や批判する。これは人じゃなく、環境や世相のせいにすることも、ある。
そうした批判の中には当然正当なものもある。それはそれで智慧が必要ですよ。
そして、この民主党政権、世相においても、経済が悪い、原発が悪い、いろんな
天変地異が起き、いよいよ東京直下型だとか、いろんな事態が事欠かさない昨今です。
そして、地震のために、津波のために、原発の放射性物質ために、長雨のために、
食糧不足のために、経済の悪化で業界がダメになってしまった・・・。
いろんなことがあって、もはや個人ではどうしょうもできない、ということもある。
だから「これが自分を苦しめている原因である」ということも現実的には山ほどあると思う。
ただね、その外部環境をとらえるとき、自分自身の力でなんとか・・・というものであるならば、
まだ努力の余地があるわけです。
まあ、ここではあまりそこは深入りしませんが、
自分としてできるってことは何なのかということをまずが考えることが、中道的発想で、
不平不満を数限りなくあげることよりも、より生産的な道であろうかと思うわけです。
もちろん、他や環境の責任もたくさんあるとおもいますが、自分の心の立ち位置です。
また一方、内側に向かって、自分を責めるということもあります。
これがなぜいけないかというと、結局、自分自身が仏の子であるということを信じない、
という結果に陥るからです。どんな状態でも仏からは無条件の愛を投げかけられている
存在であるということは事実なんです。
ただね、こういうことを忘れてしまうと、「結局自分はもうダメな人間なんだ」という自己卑下
をしたり、消極的で暗くなったり、常に他人の同情を引き、劣等感のとりことなって、
人間不信となり、人を避けて、不平不満や愚痴の中で、世捨て人となっていくわけで、
これは極端なわけです。
前者が、非常に外に向かって攻撃的なところに特徴があり、
後者は、その反対で、仏性を殺して自己否定、自己崩壊していくことに特徴がある。
勿論「両極端」です。
僕たちは、やはり基本的に心の中には「仏性」という尊いものを持っているわけです。
ただ「無我」でお話ししたように、生まれてこの方、他人の意見や社会環境、教育環境、
職業環境等に影響を受けて、考え方の基軸かせずれて、苦しみをつくっていく
存在になってしまってます。その苦しみのもとは、今までにさまざま学んだこと、
教えられたことからおこってくる、思いと行いの間違いなのです。
こういう左右、外内の両極端を沿ったとき、そこに「中道の境地」が表れてくるわけです。
その境地は、非常に調和された自他ともに害さない自他ともに共存していこうという境地です。
その中道の中に現れてくる心性、心の性質とはにらかというと、
それは思いやり、謙虚さ、親切、優しさ、努力、感謝、信仰心、という愛と調和の心、
それが中道の心です。
そして日々生きているうちに、やはり心に錆がついてくるので、
毎日内観しては心の錆び落としをやっていく必要があります。
それでこそまた、自分を害さず人を害さない、自利利他の道を歩んでいけるのです。
念仏は、「なんまんだぶつ」仏の名前を呼ぶことによって素直な心を取り戻し、
仏の子としての自己に立ち戻ることで、煩悩の呪縛から離れることができるのです。
仏の子としての自分、ありのままの如実な自分自身の姿というものを
見つめてないところから、すべての我執、欲望、苦しみが生まれてくるわけで、
また、他人の意見や批評に翻弄されていくわけで、そして結局は
真実の自己を見失って、苦しみが生まれてくるわけです。
念仏申すとは、まさにそのような両極端から離れて
仏の子である仏性に戻って、涅槃寂静の穏やかな気持ちになっていくということです。
ということで、心の部分の「中道を生きる」の祖父のお話をお伝えしました。
なお、近年、終末予言や新しい次元世界への移行を主張する人が多いいが、
注意が必要なのは自分自身が、この現実世界で不遇だとか思い通りにならない
不満を持つがゆえに、この世界の終りや破滅を意識の深層で願っている場合が
あるそうです。
そのような部分があると破滅神示や現代社会への警告が多くなると。
すべてのカギは、この現実世界にあるわけで、
地獄から浄土までのすべての次元が、この現実世界一つに移行してくるとのことです。
つまり、要は、今のこの世界から逃避する不満な気持ち、自分の都合が満たされない気持ち
こそが、自分自身を破滅消滅させる物事へ引き寄せていくと。だから注意が必要なのだと。
逆に言えば、自分のいのち、良心に恥じない人は、この世が浄土にもなる
時節が到来するとのことです。
生かして頂いて ありがとう御在位ました。
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