「子供は親を選んで生まれてくる」10/28(日)
今日の朝は副住職で甥の潤聖に、
人間の「本当の願い(本日のアホのすすめ参照)」に
ついて話しながら、仕事や仕事の人間関係で四苦八苦
している次男の充法や甥の俊夫に対するアドバイスを
なんとなく伝えておきました。
それは親子、家族というのは
一つの目的性を持ったチームだからです。
僕の子どもは男が二人に女が一人の三人ですが、
縁あって姉の子の長男と三男の男二人はまるでうちの
子と同じ兄弟のように育ちましたから、
彼らのいのちも中田家の仏の心をいただくチームメイトなのです。
産婦人科医の池川明先生の
「子供は親を選んで生まれてくる」(日本教文社)では
母親のお腹にいる赤ちゃんは意識を持ち、親や周りの声を
聞いていたり、自分が親や環境を選び、どんな人生計画を
持ってこの世に生まれてくるのか、そういった内容が
詳細に子どもの記憶をたどって書かれています。
さて、子どもが生まれてきて、
一番最初にする仕事が、息を吐くことです。
赤ちゃんはお母さんのお腹の中では羊水の中にいるので、
肺では呼吸はしていません。
この世に生まれ出て、初めて肺に空気が入り、
産声を上げることで、肺による呼吸が始まります。
そのとき、あげる産声は、息を吐き出すときに出る声のこと。
赤ちゃんがこの世に生まれてきて、一番最初にする仕事は、
息を吐くことなのです。
一方、人が亡くなることを「息を引き取る」と言います。
実際、臨終に際して、人は息を吸って亡くなりますよね。
人として最後の仕事は、息を吸うことなのです。
つまり、僕たちの人生は息を吐いて始まり、
そして息を吸って終わるのです。
「息」とは、まさしく「生きるけことそのものです。
「息」をしていること、イコール「生きている」ことの証だと
言ってもいいです。
「息」とは「行来」。「行ってくるもの」ということが、
「息」という言葉の語源につながってるんだそうです。
「すべてのエネルギーは出すのが先」。
「出したものが受け取るもの」が、宇宙法則の一つです。
つまり与えたものが受け取るものということです。
だからその法則に従えば「息」も「出す」のが先で、
「入れる」のが後になるのだそうです。
つまり「生きる」ことをこの世主体に考えるから
おかしくなるのです。
あの世を主体にして考えれば、肉体を持って
生まれるということは、あの世からこの世に「行く」ことですし、
寿命が来て肉体を脱ぐということは、この世からあの世に
帰って「来る」ことなのでしょう。
ということは、僕たちは個々人のテーマを持って、
この世に「行って来て」いるのです。
それが「生きる」ということなのです。僕たちの主体、
ホームはあくまで「あの世」の方であり、この世はビジターであり、
まさにアウェイなのかもしれません。
ということは、子どもは「あの世」というホームから、
親のもとのチームを訪ねて、「この世」に生まれて来た
チームメイトなのです。
なぜチームメイトや親というリーダーが必要かというと、
この世はアウェイだから、サポートされないと生きる方向を
間違ってしまったりするからです。
「通りゃんせ」
通りゃんせ 通りゃんせ
ここはどこの 細道じゃ
天神さまの 細道じゃ
ちょっと通して 下しゃんせ
御用のないもの 通しゃせぬ
この子の七つの お祝いに
お札を納めに 参ります
行きはよいよい 帰りはこわい
こわいながらも
通りゃんせ 通りゃんせ
作詞 不詳 本居長世 編曲
「行きはよいよい 帰りはこわい」とは、
まさに「この世」に生まれてくるのはワクワクしていいけども、
「あの世」のホームにストレート帰るのは「帰りはこわい」、
本当に難しいのだと思います。
だから家族という同じチームのサポートが必要なのでしょう。
いずれ、僕も子供たちも「あの世」のホームに帰ります。
そのときまで「この世」というビジターの世界を、
一緒に楽しんだり、学びあったり、サポートしあうためのチームとして、
親子や家族という関係を選んでいるわけです。
お釈迦様は「対面同席五百生」と言って、
「今生で席を同じくして対面できるように相手はすでに過去世で
五百回も一緒に生きて来た、非常に縁の濃いい相手なんだ」
という意味です。
この「対面同席五百生」の中でも、ひときわ濃い関係が、
「親子関係」であることは間違いありません。
特に母親と子供の関係はは、
自分のお腹の中に別の人格を宿すことになるわけですから、
肉体的にみても、これ以上濃いい関係は在り得ないのです。
そして子育てとは、親、特に母親は仏様の役割を味わい
ながら、慈悲や愛の心を学んで行ってるわけです。
さしずめ父親は智慧と言っていいかもしれません。
親として未熟な自分を知ることも、また親として仏様の
領域を体験できることも、その両方が子育てにおける
「仏様からの恩恵」であり、母性を発露させる
ための仏様からのプレゼントであるのです。
子育てや家族ってそういうことなんです。
生かして頂いて ありがとう御座位ます。

人間の「本当の願い(本日のアホのすすめ参照)」に
ついて話しながら、仕事や仕事の人間関係で四苦八苦
している次男の充法や甥の俊夫に対するアドバイスを
なんとなく伝えておきました。
それは親子、家族というのは
一つの目的性を持ったチームだからです。
僕の子どもは男が二人に女が一人の三人ですが、
縁あって姉の子の長男と三男の男二人はまるでうちの
子と同じ兄弟のように育ちましたから、
彼らのいのちも中田家の仏の心をいただくチームメイトなのです。
産婦人科医の池川明先生の
「子供は親を選んで生まれてくる」(日本教文社)では
母親のお腹にいる赤ちゃんは意識を持ち、親や周りの声を
聞いていたり、自分が親や環境を選び、どんな人生計画を
持ってこの世に生まれてくるのか、そういった内容が
詳細に子どもの記憶をたどって書かれています。
さて、子どもが生まれてきて、
一番最初にする仕事が、息を吐くことです。
赤ちゃんはお母さんのお腹の中では羊水の中にいるので、
肺では呼吸はしていません。
この世に生まれ出て、初めて肺に空気が入り、
産声を上げることで、肺による呼吸が始まります。
そのとき、あげる産声は、息を吐き出すときに出る声のこと。
赤ちゃんがこの世に生まれてきて、一番最初にする仕事は、
息を吐くことなのです。
一方、人が亡くなることを「息を引き取る」と言います。
実際、臨終に際して、人は息を吸って亡くなりますよね。
人として最後の仕事は、息を吸うことなのです。
つまり、僕たちの人生は息を吐いて始まり、
そして息を吸って終わるのです。
「息」とは、まさしく「生きるけことそのものです。
「息」をしていること、イコール「生きている」ことの証だと
言ってもいいです。
「息」とは「行来」。「行ってくるもの」ということが、
「息」という言葉の語源につながってるんだそうです。
「すべてのエネルギーは出すのが先」。
「出したものが受け取るもの」が、宇宙法則の一つです。
つまり与えたものが受け取るものということです。
だからその法則に従えば「息」も「出す」のが先で、
「入れる」のが後になるのだそうです。
つまり「生きる」ことをこの世主体に考えるから
おかしくなるのです。
あの世を主体にして考えれば、肉体を持って
生まれるということは、あの世からこの世に「行く」ことですし、
寿命が来て肉体を脱ぐということは、この世からあの世に
帰って「来る」ことなのでしょう。
ということは、僕たちは個々人のテーマを持って、
この世に「行って来て」いるのです。
それが「生きる」ということなのです。僕たちの主体、
ホームはあくまで「あの世」の方であり、この世はビジターであり、
まさにアウェイなのかもしれません。
ということは、子どもは「あの世」というホームから、
親のもとのチームを訪ねて、「この世」に生まれて来た
チームメイトなのです。
なぜチームメイトや親というリーダーが必要かというと、
この世はアウェイだから、サポートされないと生きる方向を
間違ってしまったりするからです。
「通りゃんせ」
通りゃんせ 通りゃんせ
ここはどこの 細道じゃ
天神さまの 細道じゃ
ちょっと通して 下しゃんせ
御用のないもの 通しゃせぬ
この子の七つの お祝いに
お札を納めに 参ります
行きはよいよい 帰りはこわい
こわいながらも
通りゃんせ 通りゃんせ
作詞 不詳 本居長世 編曲
「行きはよいよい 帰りはこわい」とは、
まさに「この世」に生まれてくるのはワクワクしていいけども、
「あの世」のホームにストレート帰るのは「帰りはこわい」、
本当に難しいのだと思います。
だから家族という同じチームのサポートが必要なのでしょう。
いずれ、僕も子供たちも「あの世」のホームに帰ります。
そのときまで「この世」というビジターの世界を、
一緒に楽しんだり、学びあったり、サポートしあうためのチームとして、
親子や家族という関係を選んでいるわけです。
お釈迦様は「対面同席五百生」と言って、
「今生で席を同じくして対面できるように相手はすでに過去世で
五百回も一緒に生きて来た、非常に縁の濃いい相手なんだ」
という意味です。
この「対面同席五百生」の中でも、ひときわ濃い関係が、
「親子関係」であることは間違いありません。
特に母親と子供の関係はは、
自分のお腹の中に別の人格を宿すことになるわけですから、
肉体的にみても、これ以上濃いい関係は在り得ないのです。
そして子育てとは、親、特に母親は仏様の役割を味わい
ながら、慈悲や愛の心を学んで行ってるわけです。
さしずめ父親は智慧と言っていいかもしれません。
親として未熟な自分を知ることも、また親として仏様の
領域を体験できることも、その両方が子育てにおける
「仏様からの恩恵」であり、母性を発露させる
ための仏様からのプレゼントであるのです。
子育てや家族ってそういうことなんです。
生かして頂いて ありがとう御座位ます。

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