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「合掌礼拝のある生活」2/25(月)
保育園では朝の八時半から
ホールのお仏壇に「合掌礼拝」して
日々のお勤めを行っています。


この「合掌礼拝」するということは人間にとって
実に大切な行為ですが、戦後「大家族」から「核家族」に
変わり、「大家族」のときは、主に母屋といわれる建物に
お仏壇があって、日常的に乳幼児を含めた家族全員が
合掌礼拝する場所がありました。


ところが分家が増えて核家族になって多くの家庭には
お仏壇が安置されなくなってしまいました。
その大きな理由は、本家ではないので、亡くなった先祖
がいない家庭にはお仏壇が必要ない、つまり実家に
あればいいという考え方、別の言い方をすれば、
お仏壇は亡くなった人がおられる場所という理解が
一般化したためです。


お仏壇って先祖を祭るためにあるのではありません。
浄土真宗のご本尊は、阿弥陀様、南無阿弥陀仏のお名号が
安置されています。


浄土真宗の教えでは、信心を得て、亡くなった人は
お浄土に生まれ、阿弥陀様と同じ仏様になられたという教えです。
その浄土の世界を表しているのがお仏壇です。


つまりご本尊は、亡くなった人が往き生れられた浄土を偲ぶ場であり、
亡くなった人が止まっておられる場所ではないのです。
これはお墓もそうですね。


浄土真宗を拠り所とした生き方をする人は、
阿弥陀様がご本尊として安置されたお仏壇へ
お参りします。亡くなった方がおられなくても
単身であってもお仏壇は自分の生活の中心として
必要なものです。


昔から、お仏壇のある部屋は「仏間」と呼ばれ、
一間仏壇のような大きな仏壇が多かったのて゜すが、
核家族が増えるにつれて住宅事情も変化して、
旧来の仏間はあまり見られなくなりました。


また、それ以上に深刻な問題は、
本家も分家も子どもたちが外に出て働いて家庭を設け、
家に戻ってこないという現実です。
戻ってこないということは必然的にその
家は絶えていくと同時に仏壇も同じ運命を
たどるということなのです。


それぞれの家庭のご事情があるので、
なんともいうことはできませんが、
実家を出て行った子どもさんたちの家庭の住居のどこかに
場所をくってはお仏壇を安置したいものですね。


なぜならばお仏壇に合掌礼拝するということは、
「自分を見つめ、他人への思いを巡らす」
あるいは「生かされていることへの感謝の気持ち」を
表現する行為だからなのです。


つまり「合掌礼拝がない」ということは、
自己中心的になり他人への思いが至らず
感謝の気持ちが薄れる、ということになり、
いろんな不調和な問題を引き起こす一つの要因に
なっているのではないかということなのです。


合掌礼拝とは仏様の前で必ず頭を下げる、
「頭をたれる」ということです。


仏様に対して頭を下げて合掌礼拝するわけですが、
その下げた頭はおよそ仏様の足または蓮台につける
ということを意味しています。


これらは、インド古来の礼法に基づいているもので、
人間の最も大切な頭を、最も汚れている足につけるという
行為です。


人間同士ではこんな挨拶はしません。汚れている足に、
最も大切な頭をつけるというのは、最高の敬意を示すものですが、
言葉を換えていうと、人間と仏様とはレベルが違うということを
意味しています。


人間とは違う大いなるものに、文字通り「頭をたれる」
行為が合掌礼拝なのです。つまり、仏や仏の世界とは、
人間のレベルを超えた大いなる存在であることを表して
いるのです。


人間は自己中心的で、愚かな心や行いによって争いがおこり、
そのための悲しみや苦しみが人々の心を埋め尽くすとき、
愚かな人間を超えた仏や仏の世界に「頭をたれ」、真実で
清らかな慈愛あふれる仏の心を求めていきました。
それは愚かな人間のありさまを見つめ直すことでもありました。


現代において「合掌礼拝が消える家庭」が
増えつつあるということは、人々は大いなるものに合掌して、
「頭をたれ」、自らのありさまを見つめ直すことに
意義を感じなくなってしまうと、人間は自己中心的な
生き方や考え方が当たり前となっていきますので、
自分自身を見つめ直すことなく
自身の「エゴ」に対する自己抑止がきかなくなっていくのです。


「エゴ」から「感謝」へが念仏の生活です。
いつでもどこでもこのエゴの強い私を
エゴから解放させて救ってやりたい、
いのちの安楽を与えたやりたいと願っていらっしやる、
いつもそちらの正しい方向に導くために働いて下さっているのが
仏様です。


お仏壇に対して合掌礼拝のある生活、
念仏中心の生活とは、日々の生活において、
「どんなことがあってもおまえを見捨てることはない」
という「南無阿弥陀仏」を一番確かなものとし、
よりどころとしての中心が定まった軸のぶれない生活です。


そしてその阿弥陀様に生かされ、守られ、導かれている
ことを心より感謝する生活こそが、
僕たちが目指す生活であるといえるのです。
まことの保育も、土曜学校や、空手教室もそういった
謙虚であたたかな感謝ある生活を生きたいと願っています。



生かして頂いて ありがとうございます。

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08:25, Monday, Feb 25, 2013 ¦ 固定リンク ¦ コメント(0) ¦ コメントを書く ¦ トラックバック(0) ¦ 携帯

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