「限界を設定する」 2/27(木)
知人のAさんが、
息子のことを話してくれたことがあります。
Aさんと、当時中学生だった息子は、
比較的仲のいい親子だったそうです。
ある日警察から、息子を万引きの疑いで
預かっていると連絡がありました。
あわてて迎えに行くと、
何人もいる少年の中に息子はいたそうです。
あまりのショックに、彼は悔しくて泣きながら、
息子に飛びかかって殴りつけてしまいました。
息子を殴ったのは、それが初めてだったそうです。
あとから、自分の手があんなに痛かったのだから、
息子はもっと痛かっただろうと思ったほどでした。
息子は生まれてはじめて父親に殴られました。
あまりの勢いに、おまわりさんが
「まあまあ、お父さん落ち着いて」と
割って入ってくれたそうです。
でも彼は気がすみません。
次に彼は、警官のいるその場に土下座をして、
息子の不始末を詫びたそうです。
思わず泣けてきた、彼はそう言いました。
聞き取りの結果、彼の息子はいやとは言えずに、
グループについて行ったことがわかりました。
彼自身は盗みを働いてはいなかったのです。
でもAさんは言います。
そんな奴らに「やめよう」と
言わなかった息子が情けないと。
息子にとって、
この経験は大きな衝撃でした。
面白半分にした盗みでしたが、
警察に捕まったことと、
それ以上に父親に殴られた痛みと、
そして好きな父親が警官の前で
背中を丸めて詫びる姿を見たのです。
彼の作った原因は、
父親を傷つけるという結果で終わりました。
傷ついた父親を見て、
さらに自分が傷つくという結果で終わったのです。
その父親の姿はある意味、
息子にとってはひとつの限界を設定しました。
二度と父親のこんな思いをさせてはいけない、
彼はそう思ったのでしょう。
息子は「二度としない」と誓ったそうです。
そして事実、その後は、親を心配させるような
行動はなかったと言います。
かつては、世の中にある「畏れ多きもの」たちが、
子どもたちの限界を設定してくれました。
幼いうちに、何か得体の知れない
「畏れ多きもの」の存在を感じ、
心の中で自分を律することを学んだのです。
ところが「畏れ多きもの」がない今、
私たち親は、子どものために、意識して
限界を設定してやらなくてはなりません。
「子どもの心のコーチング」より抜粋

息子のことを話してくれたことがあります。
Aさんと、当時中学生だった息子は、
比較的仲のいい親子だったそうです。
ある日警察から、息子を万引きの疑いで
預かっていると連絡がありました。
あわてて迎えに行くと、
何人もいる少年の中に息子はいたそうです。
あまりのショックに、彼は悔しくて泣きながら、
息子に飛びかかって殴りつけてしまいました。
息子を殴ったのは、それが初めてだったそうです。
あとから、自分の手があんなに痛かったのだから、
息子はもっと痛かっただろうと思ったほどでした。
息子は生まれてはじめて父親に殴られました。
あまりの勢いに、おまわりさんが
「まあまあ、お父さん落ち着いて」と
割って入ってくれたそうです。
でも彼は気がすみません。
次に彼は、警官のいるその場に土下座をして、
息子の不始末を詫びたそうです。
思わず泣けてきた、彼はそう言いました。
聞き取りの結果、彼の息子はいやとは言えずに、
グループについて行ったことがわかりました。
彼自身は盗みを働いてはいなかったのです。
でもAさんは言います。
そんな奴らに「やめよう」と
言わなかった息子が情けないと。
息子にとって、
この経験は大きな衝撃でした。
面白半分にした盗みでしたが、
警察に捕まったことと、
それ以上に父親に殴られた痛みと、
そして好きな父親が警官の前で
背中を丸めて詫びる姿を見たのです。
彼の作った原因は、
父親を傷つけるという結果で終わりました。
傷ついた父親を見て、
さらに自分が傷つくという結果で終わったのです。
その父親の姿はある意味、
息子にとってはひとつの限界を設定しました。
二度と父親のこんな思いをさせてはいけない、
彼はそう思ったのでしょう。
息子は「二度としない」と誓ったそうです。
そして事実、その後は、親を心配させるような
行動はなかったと言います。
かつては、世の中にある「畏れ多きもの」たちが、
子どもたちの限界を設定してくれました。
幼いうちに、何か得体の知れない
「畏れ多きもの」の存在を感じ、
心の中で自分を律することを学んだのです。
ところが「畏れ多きもの」がない今、
私たち親は、子どものために、意識して
限界を設定してやらなくてはなりません。
「子どもの心のコーチング」より抜粋

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