「与えられた今を楽しみ喜ぶ」6/23(月)
薬が切れたので、今日は榎本整形外科に行ってきました。
先生が「まだ11日目ですかあ・・、まだまだ先が長いね」でした。
リハビリも含めて左足が治るのは3カ月以上かかるそうですから、
10月??そうならば、まだまだ先は長いです。
そういえば、この日曜日に親類の本家で祖父母の33回忌と50回忌
の法要が営まれます。僕は一様、従妹会の年長者として今回の法要
では責任ある立場にあったのですが、この状態では法要に出れること
もできないので、怪我をした次の日には本家の叔母に断りの連絡を
入れておきました。
その叔母も過去、僕と同じように左足首を骨折し手術で6本ボルトを
入れてリハビリを入れて治るまで6カ月間かかったそうです。それでも
ボルトは入っているので、一年後にはまた手術をしてボルトを取り出し、
再び入院してリハビリに専念したとのこと。
そういう体験があるので、僕には「もう、大変じゃったんよ。じやけえ、
輝道さんの様子が手に取るように分かるんよ。今、おとなしくしとらんと、
骨がまっすぐつかずに、後手術してボルトを入れるようになったりして、
ろくなことはないけん、無理しんさんなよ。」
その時は「まあ、なんとかなるのでは・・」と元気もよかったのですが、
日々、現実的に左足の使えない松葉杖の生活をしていると、無意識に
体をかばって緊張しているのか、夕方になると疲れてベットの上でパタン
キューです。心も体も感覚的には、入院患者のような状態です。
ですから、一人で飛行機に乗って広島へ帰るなんざあ、頭の片隅にも
まったく考えられなくなりました。
ただ、この間、大好きなお酒は一滴も飲みません、うん?飲んだらいけま
せん。だから血圧がとても安定しています。「なるほどねえ・・そういうことか」
実にわかりやすい。結果的に、左足首の怪我を除けば、体のバランスは
整いつつあります。今なら健康診断を受けても、随分いい数字が出てくる
のでは?
つまりこの怪我は、先祖からのプレゼント?かもしれません。
このぐらいのことをしないと、なかなかお酒をストップしないから。
また、ゆっくり全体的なことを考え整理して次に進化していくゆとりがないから。
人間は必ず死んでいかなければなりませんよね。
その死ぬ瞬間まで、どのようにしたら二度とない人生を有効で
有意義なものとして生きていくことができるのか。
まさしく、「そこのところなんだよ」と、先祖にバランスを取らされ
深い部分を教えてもらってるような気がしています。
つまり「人間は死ぬから進化する」 と、言うことです。
また、あらたに自分を見つめなおして、真剣に生きようとする
ということです。
もし、人間が絶対に死なない生き物だったら、ここまで精神や
知能、文化が高まったのか?この命に期限が有るからこそ努力し、
悩み、なんとか「自分成りの花を咲かそうとする本能」が生物として
命の奥底に宿ってるのでしょう。
だからこそ、ここで少しばかりストップさせて
自分を振り返らせ、より自分成りの花を咲かせるために
ベストの状態にもってこさそうとする働きが起こってくるわけです。
それが、病気であったり、怪我であったり、一見、不幸や災難と
呼ばれるものなんだけど、そのプレゼントの本質はそうじゃない。
そのことを通して、もっと大切なことに「気づけ」「目覚めよ」
というメッセージでもあるんです。
人間は生きていれば、病気になったり、怪我をしたり、
いろんなことで悩み苦しんだりするものです。
でも、この世は諸行無常ですから、どんな事さえも
必ず変化して終わる有限なことばかりなのです。
多分、終わって見ればすべては思い出の1つに成るのでしょう。
自分の心を成長させる娑婆という、この「現実世界界だけでの」
貴重な機会なのでしょう。そう考えると、やはりこの世は、
どの角度から見ても良いも悪いもない、様々な体験を味あうという
プレゼントしか存在しない世界なのだと思います。
そして、この肉体はリースですから、この現実世界を去るときは、
大地に帰さないといけませんが、この心は、たとえどのように変化
をしても絶対に無くならない。死にません。 心は絶対に無くならず、
死にませんから、心の深層部ではまったく変化も成長も無いのです。
いや、 成長する必要が、もともと無いのです。
心の覚醒とは、この命が大変身する事ではありません。
この現実世界で様々にプレゼントされた体験や経験の現状の全てに
心から感謝し、目の前に起こる気づきや目覚めのプレゼントを
素直に「ありがとう」と感謝できるようになることによって、
今を楽しむ心になれるのです。
そのようになると、
その結果として「自分なりの花を自動的に咲かせることができる」のです。
人間って、みんなそういう仕組みになっているんじゃにいかな。
心はただプレゼントされたいろんな体験を味わって、生かされて
いることへの感謝と共に、与えられた今を喜び楽む心を大きく大きく
太らさせて行けば良いのだと感じます。
そこに気づくためプレゼントが、実は「骨折」だったんだと思います。
痛くて、窮屈に変わりはありませんが、そういうことだと思います。
こうやって怪我でジタバタできなくなると、
力が抜けざるを得ないので、そんなことが自然と見えてくる、
分かってきます。だから・・・必要なんだよね、こういったことが。
体は疲れて結構しんどいてすが、
心はいたってすべてに対してポジティブです。
そうすると、とても平常心で広い視野で何事もとらえることができるので、
見えなかったものが見えてきます。
そのことで、新たな次のステージに向かえます。
生かしていただいて ありがとうございます。
先生が「まだ11日目ですかあ・・、まだまだ先が長いね」でした。
リハビリも含めて左足が治るのは3カ月以上かかるそうですから、
10月??そうならば、まだまだ先は長いです。
そういえば、この日曜日に親類の本家で祖父母の33回忌と50回忌
の法要が営まれます。僕は一様、従妹会の年長者として今回の法要
では責任ある立場にあったのですが、この状態では法要に出れること
もできないので、怪我をした次の日には本家の叔母に断りの連絡を
入れておきました。
その叔母も過去、僕と同じように左足首を骨折し手術で6本ボルトを
入れてリハビリを入れて治るまで6カ月間かかったそうです。それでも
ボルトは入っているので、一年後にはまた手術をしてボルトを取り出し、
再び入院してリハビリに専念したとのこと。
そういう体験があるので、僕には「もう、大変じゃったんよ。じやけえ、
輝道さんの様子が手に取るように分かるんよ。今、おとなしくしとらんと、
骨がまっすぐつかずに、後手術してボルトを入れるようになったりして、
ろくなことはないけん、無理しんさんなよ。」
その時は「まあ、なんとかなるのでは・・」と元気もよかったのですが、
日々、現実的に左足の使えない松葉杖の生活をしていると、無意識に
体をかばって緊張しているのか、夕方になると疲れてベットの上でパタン
キューです。心も体も感覚的には、入院患者のような状態です。
ですから、一人で飛行機に乗って広島へ帰るなんざあ、頭の片隅にも
まったく考えられなくなりました。
ただ、この間、大好きなお酒は一滴も飲みません、うん?飲んだらいけま
せん。だから血圧がとても安定しています。「なるほどねえ・・そういうことか」
実にわかりやすい。結果的に、左足首の怪我を除けば、体のバランスは
整いつつあります。今なら健康診断を受けても、随分いい数字が出てくる
のでは?
つまりこの怪我は、先祖からのプレゼント?かもしれません。
このぐらいのことをしないと、なかなかお酒をストップしないから。
また、ゆっくり全体的なことを考え整理して次に進化していくゆとりがないから。
人間は必ず死んでいかなければなりませんよね。
その死ぬ瞬間まで、どのようにしたら二度とない人生を有効で
有意義なものとして生きていくことができるのか。
まさしく、「そこのところなんだよ」と、先祖にバランスを取らされ
深い部分を教えてもらってるような気がしています。
つまり「人間は死ぬから進化する」 と、言うことです。
また、あらたに自分を見つめなおして、真剣に生きようとする
ということです。
もし、人間が絶対に死なない生き物だったら、ここまで精神や
知能、文化が高まったのか?この命に期限が有るからこそ努力し、
悩み、なんとか「自分成りの花を咲かそうとする本能」が生物として
命の奥底に宿ってるのでしょう。
だからこそ、ここで少しばかりストップさせて
自分を振り返らせ、より自分成りの花を咲かせるために
ベストの状態にもってこさそうとする働きが起こってくるわけです。
それが、病気であったり、怪我であったり、一見、不幸や災難と
呼ばれるものなんだけど、そのプレゼントの本質はそうじゃない。
そのことを通して、もっと大切なことに「気づけ」「目覚めよ」
というメッセージでもあるんです。
人間は生きていれば、病気になったり、怪我をしたり、
いろんなことで悩み苦しんだりするものです。
でも、この世は諸行無常ですから、どんな事さえも
必ず変化して終わる有限なことばかりなのです。
多分、終わって見ればすべては思い出の1つに成るのでしょう。
自分の心を成長させる娑婆という、この「現実世界界だけでの」
貴重な機会なのでしょう。そう考えると、やはりこの世は、
どの角度から見ても良いも悪いもない、様々な体験を味あうという
プレゼントしか存在しない世界なのだと思います。
そして、この肉体はリースですから、この現実世界を去るときは、
大地に帰さないといけませんが、この心は、たとえどのように変化
をしても絶対に無くならない。死にません。 心は絶対に無くならず、
死にませんから、心の深層部ではまったく変化も成長も無いのです。
いや、 成長する必要が、もともと無いのです。
心の覚醒とは、この命が大変身する事ではありません。
この現実世界で様々にプレゼントされた体験や経験の現状の全てに
心から感謝し、目の前に起こる気づきや目覚めのプレゼントを
素直に「ありがとう」と感謝できるようになることによって、
今を楽しむ心になれるのです。
そのようになると、
その結果として「自分なりの花を自動的に咲かせることができる」のです。
人間って、みんなそういう仕組みになっているんじゃにいかな。
心はただプレゼントされたいろんな体験を味わって、生かされて
いることへの感謝と共に、与えられた今を喜び楽む心を大きく大きく
太らさせて行けば良いのだと感じます。
そこに気づくためプレゼントが、実は「骨折」だったんだと思います。
痛くて、窮屈に変わりはありませんが、そういうことだと思います。
こうやって怪我でジタバタできなくなると、
力が抜けざるを得ないので、そんなことが自然と見えてくる、
分かってきます。だから・・・必要なんだよね、こういったことが。
体は疲れて結構しんどいてすが、
心はいたってすべてに対してポジティブです。
そうすると、とても平常心で広い視野で何事もとらえることができるので、
見えなかったものが見えてきます。
そのことで、新たな次のステージに向かえます。
生かしていただいて ありがとうございます。
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