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2018年 5月28日

「昨日のお話で伝えたかったこと」5/28(月)
昨日はうちのお寺の法座で、
「仕合せ」についてお話しをしました。


実は『しあわせ』を漢字で書くと『幸せ』と『仕合わせ』の二通りあります。


『幸』は「ハッピー」ですね。
五感で感じる喜びや目に見えるもので満たされた気持ち。


それに比べて『仕合わせ』の語源は、元々『し合わす』からきています。
『し』は『する』という動詞の連用形であり、双方の動きが合うこと。


つまり、異なる二つが『重なる』ことを意味してる。
ちなみに辞書でひくと『めぐり合わせ』『運命』という言葉で説明されています。


実は「仕合せ」とは、
必ずしも良い出来事だけを指すわけではありません。
その出来事だけ(切り取られた点としての観測)=部分で見れば一見悪い結果に
思える事さえも『人間万事塞翁が馬』というコトワザがあるようにも
良いも悪いもすべてを含み、重なり続けることで形成されていく大きな流れに
この身を委ねるということです。


偶然巡り合った“この良縁”も、“あの悪縁”さえも
そのすべての「因→縁→果」が、自分が体験し続けているこの時空を形成している
ということに気付けていることが『しあわせ』です。


すべての出来事は連続的な重なりの中の一片に過ぎず。
一つの大きな流れの中の小波さざなみとして多角的に捉えることができれば
もう、目の前の小さな出来事だけを切り取って、一喜一憂することもないのです。


良きも悪しきもすべてを含めた『巡り会い』の中から
何と重なり、また遠のき、その循環していく回転情報の中で止めどなく人生も
歴史も流れ続けているということなのです。


それが分かるためには
《自分=五感の満足度》を主体とした点(静止)で捉えた幸せなどではなく
《他者との関係性という縁起》を主体とした円(回転)で捉えた仕合わせこそが
私たちが生まれてきた意味にも通じていくのかもしれません。


なのに、私たちは今日も《じぶん》という点(完全情報)で頭がいっぱいなのです。
そんな状況で、常に自分の都合が満たされることばかりを追い求めています。


大切な《袖振り合う他生の縁》に気付けるだろうか?


それは本当の意味で『しあわせ』に通じているのだろうか?


ほとんどの場合、自己中である私たちは、自分にとって何が大切なのか、
また、その出会いで何を学ぼうとしているのか、まったくわかっておらず、
お互いのすれ違いが当たり前のように起こってしまっているのです。


私たちは今、自分の人生の目の前に現れてくる
周囲との関係性にどれだけ気を配れているのでしょうか?


仏教でいう地獄の真意は『逢いたい人に逢えない時空』のことを言ってます。


仏教においては、八つの地獄の中で最も苦しいとされる『無間地獄』と呼ばれるものがあります。
読んで字のごとく『間が無い』=つまり関係性が重ならない=縁起が生じぬこと。
これを無縁地獄ともいわれています。


地獄とは、死後にどこか別世界に飛ばされるわけじゃなくて・・・
まさに今、生きているこの瞬間に
逢うべき人と出逢えないことこそが最大の地獄であり、苦しみだということを伝えているのです。


目の前に沢山の人との縁はあっても、
自身の「いのち」と相手の「いのち」が本当に出逢っている人は何人いるのでしょうか?


相手の「いのち」に出逢っているとは、
相手の良いも悪いもすべて受け入れた上で相手の「いのち」を素直に
受け入れ、お互いの「いのち」が育まれているということです。


だとするなら、私たちは物質的な満足度を満たすことよりも
逢いたい人に逢えることこそが最大の喜びであり
重なりを重視すべき生き方であると、
もっともっと腹に落とす必要があるのかもしれません。


そんな想いが、
中島みゆきさんの名曲『糸』にも込められていますね。


なぜ めぐり逢うのかを 私たちは なにも知らない

いつ めぐり逢うのかを 私たちは いつも知らない

どこにいたの? 生きてきたの?

遠い空の下 ふたつの物語

縦の糸はあなた

横の糸は私

織りなす布は いつか誰かを 暖めうるかもしれない

糸は重なることで布となり

また他の誰かにそのぬくもりの記憶を伝えてくれる。



たとえ、生きてる意味を見失いそうになっても

こんな事してても無意味ないんじゃないかと途方に暮れかけても



もう一度周りを見渡して

そこに浮かび上がる繋がり、その重なりにもっと意識を向けてみることで

自分の内側にもまた、はっきりと見えてくるものがある。



私たちが自己満的な幸福ばかりを願ってお参りしてる
その神社の境内には、なぜか鏡が置かれてある意味・・・
お寺の本堂には和顔愛語の仏さまが何故か静かに私を見守ってくれている


《自分》に思考の矢印を向けていては見えないものが
《他者》という鏡を通して見えてくることを知ってほしいということなのだろうか。


『かがみ』から『が(我)』を抜くと『かみ(神)』になる。
「ほとけ」とは自分の自我のしがらみから「ほとけ」ると仏になる。
だから、神頼みや仏頼みするのではなく、まず自我フレームの余計な囚われを
抜きさることから始めないと本当のことなんて何も見えてこない。


なぜ 生きてゆくのかを 迷った日の跡の ささくれ

夢追いかけ走って ころんだ日の跡の ささくれ

こんな糸が なんになるの?

心許(もと)なくて ふるえてた嵐の中

縦の糸はあなた

横の糸は私

織りなす布は いつか誰かの 傷をかばうかもしれない

縦の糸はあなた

横の糸は私

逢うべき糸に 出逢えることを

人は『仕合わせ』と呼びます

中島みゆき『糸』


この歌はよく結婚式の披露宴で歌われたりして男女の出逢い、不思議な縁の尊さ、
大切さを伝えたりしていますが、それは決して男女の関係だけではなくて、
まさしく『袖触れ合うも他生の縁」のことを言ってるわけです。


それは家族であり、職場の同僚であり、友人知人であり、順縁も逆縁も、
そのすべての縁の中で、いろんなことを学び、人を受け入れていけるように
なっているだろうか?


私は、本当に逢いたい人と出逢い、関係性を重ねられているだろうか?

自分のことばかり考えてイライラしてるうちに、すれ違っていたりしてる・・。


それって、お金や物質的な悩みなんか比にならないくらい、辛くて悲しいことじゃないの?


だから、
『幸せ』という幸福感ではなく、『仕合わせ』というご縁を大切にしていくということ。
人の手の右手と左手を合わせ、しわ(時空ライン)を重ねた
ぬくもり溢れる『しあわせ』に包まれてのことを喜ぶってことだよと、
まあ、やまっちの「おしり、ぷりぷり事件・・」の話をしながら、私はそう思うのですよって、
皆さんにお伝えしておりました。
                      
                   ≪「幸せ」と「仕合せ」の違いって何?りんたろう参考≫


15:48, Monday, May 28, 2018 ¦ ¦ コメント(0)