「富が心を弱くし、貧困が強くする」9/13(火)
昔、タイ、ネパール、インドに一か月間行ったことがありますが、
とにかく子供たちの目の輝きは素晴らしかった。
それはそれは日本の子供たちと比べることはできないぐらい美しかった。
だけど生活はとても貧しくハングリーで、
学校に行かなくても靴磨きをする子供たちが
ネパールのカトマンドウにはたくさんいました。
日本では、欲しいものはおよそのものが買える収入があっても、
対人関係で悩み、自殺する大人も子供も絶えません。
人間は生きるための基本が満たされ、
当たり前になるにしたがって心が弱くなるようです。
人間は物質面で満たされると、物や自分の立場を持つうえで守ろうとするための
いろんな煩悩が生じるみたいです。
お釈迦様は「煩悩(欲望や執着)を生み出すもののすべてを捨てなさい」と言い、
自ら家族も国の王位までも本当に捨ててしまいました。
まあ、今の時代ですから「そこまでは・・」とは思いますが、
捨てる代わりにそこに感謝の心があるということが、とても大切だと思います。
ただ本当に思うのは生活が豊かになっていくと精神のムダというか、
はっきり言って暇になるので逆にいらぬ煩悩がむくむく起きだして
エネルギーの漏電を呼んで、生命力を削りだします。
食べるものにも事欠く貧困では、日々生きるだけで精一杯です。
あの子供たちの目の輝き、逆に日本の子供たちの目の淀み。
生きるだけが精一杯の状態では、家族がお互いを思いやり、協力し合い、
このことが逆に精神の無駄な漏電を起こさせないためにも、心にたくましさ
が出てきます。皮肉なものですよね。
ただ、いろんな天変地異を通して日本人に求められているものは何か?
と考えたとき、それは感謝の心だと思います。
人というものは感謝の心がないと、どうしても外や人に幸福感を
求めだすし、自分のイメージする都合の愛や物や環境が
欲しい、欲しいと餓鬼の世界を生きていきます。
この餓鬼の世界を生き出すと我は強くなるけど心の芯が本当に弱くなる。
感謝の心を常に保つこと。それが仏の願いです。
その感謝の心を保持することができれば、心の富
を常に持つことができれば、
心の富とたくましさの両方を得ることができるよって、
お念仏を通して阿弥陀さんは教えてくれているんですけどね。
とにかくそれぞれが小宇宙の中での主人公です。
その小宇宙の中で、自分を癒し納得させなくてはなりません。
他人の評価は全く関係ありません。
心が弱くなると隣の小宇宙を見てうらやましがり、
自分の宇宙を卑下することは一番愚かなことです。
隣の小宇宙の主人公も、決して満たされた心境ではなく、
満足をしていないものなのです。その主人公にしか分からない
悩みや不安が必ずあります。それがこの世に存在する間の、
人間の定めです。
この世に生きている短い間は、このいのちを大きくさせるための
課題をもって誰もが生まれてきているのです。その課題から誰もが
逃げることはできません。
生きている最中の僕たちには嫌な事であっても、
本当の意味はプレゼントなのです。
亡くなった祖父が僕に夢の中で語ってくれることは、
人間は死んでから、自分のいのちの遍歴をすべて思い出す。
その時、誰もが心から後悔する、涙を流す、と。
「なんだ、そういうことだったのか。
すべては必要で意味があったことなんだ。
逃げずに、もっと受け切れてればよかった」と。
この、いのちを成長させるための宇宙法則から、
生きている最中に、解放される方法があります。
それは「物事に我良しの執着」を持たないこと。
今の環境や現状を受け入れて、生かされていることへの感謝の気持ちを持つこと。
とにかく生かされていることへの感謝がなくなると、人はおかしな方向に
進みだし、新たな悪因縁を生み出していきます。
話はちょっと深くなりますが、人間の因縁の浄化とは、
生きる他の人間が肩代わりできものでは絶対にありません。
お釈迦様はそのことを「独生独死独去独来」と言ってます。
その独りである自分が自立して自分の悪因縁を引き受け解消していかなければ
ならないということなんです。
それはお釈迦様の時代、殺人鬼アングりマーラの逸話で「信解脱」のことが
語られているのですが、神仏などのエネルギーが関与して消化されるものでは
ないのです。
ましてや僕がいくら向かうべき方向を指し示しても、そうじゃない場合は
そりゃあ転悪成善、悪を転じて善をなして悪業悪因を解消するなんてムリな話なのです。
自分の悪いクセや執着心、観念や因縁を消化させるのは、
この世において、自分自身の自助努力で行う動機が喜びの善行だけです。
悪因縁を減少させ打ち消すことができるのは、
自分自身で善因縁を作り続けるだけなのです。
この場に集まった人たちのいのちは無意識にそのことを知っています。
これは宇宙の法則の作用・反作用の法則です。
悪因を善因で消すことができる法則が存在するのは、この世だけなのです。
あの世というのは同じ波長のいのちたちが集まる世界であって、
後は変化のない世界が継続します。
つまり、僕たちがこの世に生まれてくる目的は、
悪因縁を消化して自身のいのちを向上させたいためだからです。
逆に悪因縁を身の世で増やすというリスクを背負いながら、
わざわざこの世に生まれてくるわけです。
そして最高の善因は仏法真理を伝えるという法施です。
僕たちは仏法を味わい無我になって、愛のパイプになってそれを生きるとき、
最高の布施を行い悪因が善因へと転換されていっているのです。
このことを本気でわかる時期が今だし、あんまり時間ないよねえ・・・。
短い人生の中で、今与えられている環境や職場で
自分ができる範囲で他人に喜ばれることを精一杯なし、
先祖や阿弥陀さんへの感謝を継続していくことが、
本物の善因となっていきます。
そこのところを忘れると、
逆に拭い去れないぐらいの悪因縁をつくって
とんでもなくおかしなことになっていきます。
だからこの要の部分だけは絶対に忘れてはいけませんよ。
うちの祖母がよく言っていた「ありがたい」「もったいない」「おはずかしい」
法則を知れば知るほど、この言葉の深い意味と、
「油断大敵」というメッセージが伝わってくるよねぇ〜。
この世は厳しい世界です。
物事に執着したり、現状への感謝を忘れてしまうと、
たちどころに自分に苦しみが生じるようにできています。
阿弥陀さんや先祖を敬い、正しい先祖供養を自らが行いながら、
感謝を忘れない視点で生きていけば、この世を楽しんで正しく進むことができます。
そのためには自分をささえてくれる仲間のエネルギーは絶対に必要ですけと゜ね。
生かして頂いて ありがとう御在位ます。
とにかく子供たちの目の輝きは素晴らしかった。
それはそれは日本の子供たちと比べることはできないぐらい美しかった。
だけど生活はとても貧しくハングリーで、
学校に行かなくても靴磨きをする子供たちが
ネパールのカトマンドウにはたくさんいました。
日本では、欲しいものはおよそのものが買える収入があっても、
対人関係で悩み、自殺する大人も子供も絶えません。
人間は生きるための基本が満たされ、
当たり前になるにしたがって心が弱くなるようです。
人間は物質面で満たされると、物や自分の立場を持つうえで守ろうとするための
いろんな煩悩が生じるみたいです。
お釈迦様は「煩悩(欲望や執着)を生み出すもののすべてを捨てなさい」と言い、
自ら家族も国の王位までも本当に捨ててしまいました。
まあ、今の時代ですから「そこまでは・・」とは思いますが、
捨てる代わりにそこに感謝の心があるということが、とても大切だと思います。
ただ本当に思うのは生活が豊かになっていくと精神のムダというか、
はっきり言って暇になるので逆にいらぬ煩悩がむくむく起きだして
エネルギーの漏電を呼んで、生命力を削りだします。
食べるものにも事欠く貧困では、日々生きるだけで精一杯です。
あの子供たちの目の輝き、逆に日本の子供たちの目の淀み。
生きるだけが精一杯の状態では、家族がお互いを思いやり、協力し合い、
このことが逆に精神の無駄な漏電を起こさせないためにも、心にたくましさ
が出てきます。皮肉なものですよね。
ただ、いろんな天変地異を通して日本人に求められているものは何か?
と考えたとき、それは感謝の心だと思います。
人というものは感謝の心がないと、どうしても外や人に幸福感を
求めだすし、自分のイメージする都合の愛や物や環境が
欲しい、欲しいと餓鬼の世界を生きていきます。
この餓鬼の世界を生き出すと我は強くなるけど心の芯が本当に弱くなる。
感謝の心を常に保つこと。それが仏の願いです。
その感謝の心を保持することができれば、心の富
を常に持つことができれば、
心の富とたくましさの両方を得ることができるよって、
お念仏を通して阿弥陀さんは教えてくれているんですけどね。
とにかくそれぞれが小宇宙の中での主人公です。
その小宇宙の中で、自分を癒し納得させなくてはなりません。
他人の評価は全く関係ありません。
心が弱くなると隣の小宇宙を見てうらやましがり、
自分の宇宙を卑下することは一番愚かなことです。
隣の小宇宙の主人公も、決して満たされた心境ではなく、
満足をしていないものなのです。その主人公にしか分からない
悩みや不安が必ずあります。それがこの世に存在する間の、
人間の定めです。
この世に生きている短い間は、このいのちを大きくさせるための
課題をもって誰もが生まれてきているのです。その課題から誰もが
逃げることはできません。
生きている最中の僕たちには嫌な事であっても、
本当の意味はプレゼントなのです。
亡くなった祖父が僕に夢の中で語ってくれることは、
人間は死んでから、自分のいのちの遍歴をすべて思い出す。
その時、誰もが心から後悔する、涙を流す、と。
「なんだ、そういうことだったのか。
すべては必要で意味があったことなんだ。
逃げずに、もっと受け切れてればよかった」と。
この、いのちを成長させるための宇宙法則から、
生きている最中に、解放される方法があります。
それは「物事に我良しの執着」を持たないこと。
今の環境や現状を受け入れて、生かされていることへの感謝の気持ちを持つこと。
とにかく生かされていることへの感謝がなくなると、人はおかしな方向に
進みだし、新たな悪因縁を生み出していきます。
話はちょっと深くなりますが、人間の因縁の浄化とは、
生きる他の人間が肩代わりできものでは絶対にありません。
お釈迦様はそのことを「独生独死独去独来」と言ってます。
その独りである自分が自立して自分の悪因縁を引き受け解消していかなければ
ならないということなんです。
それはお釈迦様の時代、殺人鬼アングりマーラの逸話で「信解脱」のことが
語られているのですが、神仏などのエネルギーが関与して消化されるものでは
ないのです。
ましてや僕がいくら向かうべき方向を指し示しても、そうじゃない場合は
そりゃあ転悪成善、悪を転じて善をなして悪業悪因を解消するなんてムリな話なのです。
自分の悪いクセや執着心、観念や因縁を消化させるのは、
この世において、自分自身の自助努力で行う動機が喜びの善行だけです。
悪因縁を減少させ打ち消すことができるのは、
自分自身で善因縁を作り続けるだけなのです。
この場に集まった人たちのいのちは無意識にそのことを知っています。
これは宇宙の法則の作用・反作用の法則です。
悪因を善因で消すことができる法則が存在するのは、この世だけなのです。
あの世というのは同じ波長のいのちたちが集まる世界であって、
後は変化のない世界が継続します。
つまり、僕たちがこの世に生まれてくる目的は、
悪因縁を消化して自身のいのちを向上させたいためだからです。
逆に悪因縁を身の世で増やすというリスクを背負いながら、
わざわざこの世に生まれてくるわけです。
そして最高の善因は仏法真理を伝えるという法施です。
僕たちは仏法を味わい無我になって、愛のパイプになってそれを生きるとき、
最高の布施を行い悪因が善因へと転換されていっているのです。
このことを本気でわかる時期が今だし、あんまり時間ないよねえ・・・。
短い人生の中で、今与えられている環境や職場で
自分ができる範囲で他人に喜ばれることを精一杯なし、
先祖や阿弥陀さんへの感謝を継続していくことが、
本物の善因となっていきます。
そこのところを忘れると、
逆に拭い去れないぐらいの悪因縁をつくって
とんでもなくおかしなことになっていきます。
だからこの要の部分だけは絶対に忘れてはいけませんよ。
うちの祖母がよく言っていた「ありがたい」「もったいない」「おはずかしい」
法則を知れば知るほど、この言葉の深い意味と、
「油断大敵」というメッセージが伝わってくるよねぇ〜。
この世は厳しい世界です。
物事に執着したり、現状への感謝を忘れてしまうと、
たちどころに自分に苦しみが生じるようにできています。
阿弥陀さんや先祖を敬い、正しい先祖供養を自らが行いながら、
感謝を忘れない視点で生きていけば、この世を楽しんで正しく進むことができます。
そのためには自分をささえてくれる仲間のエネルギーは絶対に必要ですけと゜ね。
生かして頂いて ありがとう御在位ます。
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