「人生は苦である」1/11(水)
お釈迦様は「人生は苦なり」とおっしゃられました。
苦とは、人生は自分の思ったとおりはいかないよ、ということです。
つまり、思いがけないところで山にぶつかり、
予想もしなかったところで谷に遭遇するのが人生であるということです。
ところが、人間は、人生は平穏無事にいくはずだし、
自分の思った通りになるものだと思い違いをしています。
だから「楽」とは、自分の思う通りにいくということです。
人生は思う通りにいくこともあれば、
思う通りにならないことも一杯あります。
でも人間の欲は、その思う通りにならないことを
思う通りにしてほしいと神仏に祈願したりお祈りしたりします。
このような思いを前提として、
宗教を考えるとき、
神仏は、平穏無事な人生を、自分の思いを叶えて下さる方ということになります。
また、神仏はも、人生の障害を取り除いて下さる方ということになります。
それで、平穏無事な人生を神仏に祈り、
平穏無事な人生や自分の思いを邪魔するものを、
祈祷やお祓いで取り除こうとします。
こういった自分の都合を満たすことを支援してくれる神仏がいるとすれば、
それは魔物て゜す。
本当の宗教とは、
人生の中でどんなに苦難や困難があっても、
その苦から逃げずに苦を越えさせてくれる力を与えて下さるものです。
苦を越えていくことによって、
いろんな「いのち」に生かされていたことに気づき目覚めて感謝が生まれてきます。
本当の神仏とはそのように大きなお心で見守りながら、
その人の成長を願っている存在なのであって、
あれこれと手だししてくる存在ではないのです。
これは親子の関係を見てもよく分かりますよね。
親という字は立木見ると書いて、
子どもの姿を高い木の上から見守っています。
すぐに手出しをして願いを叶えてくれような存在では、
その子がダメになってしまいます。
そうではなくて、手を出したくても、
じっと慈悲心でその人の気づきや目覚めが起こることを
見守ってくれている存在。
それが本当の神仏の尊い親としての姿なのです。
だから神仏に手を合わせるときは、
「生かしていただいて ありがとう御座位ます」だけでいいのです。
生かして頂いて ありがとう御座位ます。

苦とは、人生は自分の思ったとおりはいかないよ、ということです。
つまり、思いがけないところで山にぶつかり、
予想もしなかったところで谷に遭遇するのが人生であるということです。
ところが、人間は、人生は平穏無事にいくはずだし、
自分の思った通りになるものだと思い違いをしています。
だから「楽」とは、自分の思う通りにいくということです。
人生は思う通りにいくこともあれば、
思う通りにならないことも一杯あります。
でも人間の欲は、その思う通りにならないことを
思う通りにしてほしいと神仏に祈願したりお祈りしたりします。
このような思いを前提として、
宗教を考えるとき、
神仏は、平穏無事な人生を、自分の思いを叶えて下さる方ということになります。
また、神仏はも、人生の障害を取り除いて下さる方ということになります。
それで、平穏無事な人生を神仏に祈り、
平穏無事な人生や自分の思いを邪魔するものを、
祈祷やお祓いで取り除こうとします。
こういった自分の都合を満たすことを支援してくれる神仏がいるとすれば、
それは魔物て゜す。
本当の宗教とは、
人生の中でどんなに苦難や困難があっても、
その苦から逃げずに苦を越えさせてくれる力を与えて下さるものです。
苦を越えていくことによって、
いろんな「いのち」に生かされていたことに気づき目覚めて感謝が生まれてきます。
本当の神仏とはそのように大きなお心で見守りながら、
その人の成長を願っている存在なのであって、
あれこれと手だししてくる存在ではないのです。
これは親子の関係を見てもよく分かりますよね。
親という字は立木見ると書いて、
子どもの姿を高い木の上から見守っています。
すぐに手出しをして願いを叶えてくれような存在では、
その子がダメになってしまいます。
そうではなくて、手を出したくても、
じっと慈悲心でその人の気づきや目覚めが起こることを
見守ってくれている存在。
それが本当の神仏の尊い親としての姿なのです。
だから神仏に手を合わせるときは、
「生かしていただいて ありがとう御座位ます」だけでいいのです。
生かして頂いて ありがとう御座位ます。

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