「沢山のいのちに生かされてる」1/12(木)
お釈迦様は「名は、はたらきにつけるのですよ」
と教えて下さいました。
つまりですねえ、どのような役割を果たし、
どのような仕事をしているかによって名はつけられるべきだと
おっしゃったわけですよ。
ということは、いくら姿は人間であっても、
やっていることが謙虚で喜べることでないと、
人と名付けられないのです。
何か都合の悪いことがあると、
「あの人はつまらんからこうなった」
「この人がダメだからこうなったんだ」と、
他人を責めるばかりだったならば、
それは人と名づけるよりも、鬼と名付けた方がふさわしいですね。
また、常に責任を回避しながら、
他の人を悪者にして生きているのであれば、
そういう人は亡者と名付けた方がいいです。
この鬼と亡者の住むところは、テレビがあろうが、
ビデオがあろうが、家庭とは名づけられず、地獄と名づけられます。
貪りの中で、
不足だけを腹いっぱいためて、
「あれがない、これがない」と待っても待っても、
喜びもなければ感謝もない日暮らしをしているのを、餓鬼と名付けます。
欲求不満の下腹だけをふくらませて、
心貧しい骨と皮だけの姿がそれを表しています。
喜びも感謝もない「いのち」は、
やせ細った哀れな「いのち」の姿です。
また、沢山の「いのち」をいただき、
沢山の「いのち」に支えられて生きているわが身であることを忘れ、
自分の身を楽しませることだで明け暮れ、
他の人のお役に立つことを全く考えないならば、
人と名付けるより畜生と名付ける方が適格な名づけです。
このように見ていきますと、
僕たちは確かに人間の姿はしていますが、
胸を張って堂々と「私は人間です」とは言えないのではないでしょうか。
地獄・餓鬼・畜生の「三悪道を離れてやっと人間に生まれた」はずの僕たちが、
相変わらず三悪道を流転するあり方を続けているのです。
そして死後帰る世界はやはり三悪道なのです。
だからこそ「仏法を主として」生きないと
「たくさんのいのちに生かされて生きている」ことに気づけないし、
僕たちは三悪道からは絶対に解放されけない、救われないのです。
≪伊勢白山道≫ブログより転載
禅僧である良寛(りょうかん)さんの心中には、
禅宗の開祖・道元(どうげん)が示された
愛語(あいご)の精神が生きていました。
良寛さんは、まじめに、不器用に、
愛語の精神で生きることを生涯守り、実行されました。
愛語とは、要するに自分の生活の中で、
1.他人に対しては、「良い言葉」「愛情の在る言葉」しか発しないことを、
自分の修行の柱とするのです。
2.言葉にしない時は、黙って心中で他人へ「愛情のある言葉」を思うのです。
3.言葉に出来ない時は、黙って「愛情のある行動」を他人にします。
人間とは、生活の中でこれを実践するだけでも悟りが開けます。
≪転載修了≫
生かして頂いて ありがとう御座位ます。

と教えて下さいました。
つまりですねえ、どのような役割を果たし、
どのような仕事をしているかによって名はつけられるべきだと
おっしゃったわけですよ。
ということは、いくら姿は人間であっても、
やっていることが謙虚で喜べることでないと、
人と名付けられないのです。
何か都合の悪いことがあると、
「あの人はつまらんからこうなった」
「この人がダメだからこうなったんだ」と、
他人を責めるばかりだったならば、
それは人と名づけるよりも、鬼と名付けた方がふさわしいですね。
また、常に責任を回避しながら、
他の人を悪者にして生きているのであれば、
そういう人は亡者と名付けた方がいいです。
この鬼と亡者の住むところは、テレビがあろうが、
ビデオがあろうが、家庭とは名づけられず、地獄と名づけられます。
貪りの中で、
不足だけを腹いっぱいためて、
「あれがない、これがない」と待っても待っても、
喜びもなければ感謝もない日暮らしをしているのを、餓鬼と名付けます。
欲求不満の下腹だけをふくらませて、
心貧しい骨と皮だけの姿がそれを表しています。
喜びも感謝もない「いのち」は、
やせ細った哀れな「いのち」の姿です。
また、沢山の「いのち」をいただき、
沢山の「いのち」に支えられて生きているわが身であることを忘れ、
自分の身を楽しませることだで明け暮れ、
他の人のお役に立つことを全く考えないならば、
人と名付けるより畜生と名付ける方が適格な名づけです。
このように見ていきますと、
僕たちは確かに人間の姿はしていますが、
胸を張って堂々と「私は人間です」とは言えないのではないでしょうか。
地獄・餓鬼・畜生の「三悪道を離れてやっと人間に生まれた」はずの僕たちが、
相変わらず三悪道を流転するあり方を続けているのです。
そして死後帰る世界はやはり三悪道なのです。
だからこそ「仏法を主として」生きないと
「たくさんのいのちに生かされて生きている」ことに気づけないし、
僕たちは三悪道からは絶対に解放されけない、救われないのです。
≪伊勢白山道≫ブログより転載
禅僧である良寛(りょうかん)さんの心中には、
禅宗の開祖・道元(どうげん)が示された
愛語(あいご)の精神が生きていました。
良寛さんは、まじめに、不器用に、
愛語の精神で生きることを生涯守り、実行されました。
愛語とは、要するに自分の生活の中で、
1.他人に対しては、「良い言葉」「愛情の在る言葉」しか発しないことを、
自分の修行の柱とするのです。
2.言葉にしない時は、黙って心中で他人へ「愛情のある言葉」を思うのです。
3.言葉に出来ない時は、黙って「愛情のある行動」を他人にします。
人間とは、生活の中でこれを実践するだけでも悟りが開けます。
≪転載修了≫
生かして頂いて ありがとう御座位ます。

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