「●●さえあれば」1/19(木)
◯◯さえあれば。
私たちは日常の人生において、
「ああ、◯◯だけ手に入れば幸せになるのに」
ということがあります。
私は自営業のような小さな会社の経営をしていますから、
ああ、今月あの案件の発注さえあればなあ、
そうすれば来月の資金繰りはだいぶ助かるのに。
そう思うことはしょっちゅうです。
しかし「◯◯さえあれば」と思ったことで、
それが叶ったことは一度もありません。
発注がきまりそうになったとしても、
「◯◯さえあれば」という思いは、現実化を遠ざけるのです。
◯◯大学にさえ合格すれば、
◯◯会社に就職さえできれば、
あの人と結婚さえできれば、
この病気さえ治れば、
義母と同居さえしなくなれば、
などなどたくさんの「さえ」を抱えています。
しかしその「さえ」が現実化を遠ざけています。
得ることは同時に等価のものを「失う縁」を生成します。
奪うことは、強く得ることなので、「非常に強く失う縁」を生成します。
失いたくないという執着も同じです。
そして◯◯さえあれば、という執着も同じなのです。
現実にはまだ得ていないのに、得る執着だけ肥大化して、
失う縁だけがどんどん生成されている状態です。
現実化しなくなるわけです。
逆に執着を手放して感謝していると、「与えられる縁」が生成されますから、
現実には財産とか家庭とか健康を得ているのに失わないという人もいるわけです。
彼は心の中ででは、個人的な我欲を手放して生活しています。
しかし「◯◯さえあれば」の人は逆です。
心の中では、一切何も手放していないのです。
感謝どころか足りない現実の不平不満だらけです。
それらの不満が「◯◯さえ」という一点の執着に集中し、
どんどんその執着心を肥大化させ、
そして絶対に叶えられないような場を自分で創りあげています。
私が昨年の秋に経営を立て直した方針は「身軽さ」でした。
もう一切の「◯◯さえあれば」を排除することにしました。
ないことが前提です。
なくても会社が継続できるかです。
幸運なことに休職助成金の制度を教えて頂いたので応募しました。
転職先のある優秀な社員に辞めてもらいました。
不便で狭い事務所に移りました。
営業に関しては利益率の高いものに絞りました。
余計なサービスを一切行わないことで半額にしました。
新規の顧客開拓はやめて既存顧客を丁寧にまわることにしました。
家族には引っ越す可能性があることを告げました。
家族を二つに分けてそれぞれの実家に分けて居候させてもらうつもりでした。
人員も削るので、利益は大きく減りますが、既存顧客の固定収入だけで、
何とか会社を継続させる目処が立ちました。
その瞬間から、実は潮目が変わったのです。
もう人から「与えてもらう」営業をしなくてよいのです。
まるぞう会社を気に入ってくれた少数のお客さんだけに、
私ができる最高の誠意だけを、お得意さまに提供することにしました。
実はその中で、自分が見落としていたものが随分見えてきたのですが。
潮目が変わると不思議と案件の数が増えていきました。
結局、休職助成金も一度も申請せずにすみそうです。
もう「◯◯さえあれば」という願望は私にはありません。
会社の苦難もいろいろ経験させてもらいましたが、
得難い貴重な体験です。
最後に話は飛びますが、
日本の国土がかかえる大地震の可能性もそうです。
私たちが、「大地震さえ起こらなければ」と願う限りは引き寄せます。
もともと私たちは裸一貫で生まれて来ました。
身に纏う一枚の衣以上の持ち物は全て借り物です。
その視点で見れば、
この世は与えられるものばかりです。
失うものなど、一つもないのです。
大地震が来ても。
国土と育んでくれる自然への感謝が、
溜め込んだ「失う縁」を相殺します。
今日も気づかせて頂いてありがとうございます。
生かして頂いてありがとう御座位ます
≪転載修了≫
お釈迦策はすべての苦の原因は執着によるものである、
とおっしゃられています。
もともと何もなかったのに、
いろんなものを身につけて執着してしまった結果苦が生まれているって
ナンセンスな話です。
身軽に、身軽に、一つずつ執着を捨てていく、我執を手放していく。
生かして頂いて ありがとう御座位ます。

私たちは日常の人生において、
「ああ、◯◯だけ手に入れば幸せになるのに」
ということがあります。
私は自営業のような小さな会社の経営をしていますから、
ああ、今月あの案件の発注さえあればなあ、
そうすれば来月の資金繰りはだいぶ助かるのに。
そう思うことはしょっちゅうです。
しかし「◯◯さえあれば」と思ったことで、
それが叶ったことは一度もありません。
発注がきまりそうになったとしても、
「◯◯さえあれば」という思いは、現実化を遠ざけるのです。
◯◯大学にさえ合格すれば、
◯◯会社に就職さえできれば、
あの人と結婚さえできれば、
この病気さえ治れば、
義母と同居さえしなくなれば、
などなどたくさんの「さえ」を抱えています。
しかしその「さえ」が現実化を遠ざけています。
得ることは同時に等価のものを「失う縁」を生成します。
奪うことは、強く得ることなので、「非常に強く失う縁」を生成します。
失いたくないという執着も同じです。
そして◯◯さえあれば、という執着も同じなのです。
現実にはまだ得ていないのに、得る執着だけ肥大化して、
失う縁だけがどんどん生成されている状態です。
現実化しなくなるわけです。
逆に執着を手放して感謝していると、「与えられる縁」が生成されますから、
現実には財産とか家庭とか健康を得ているのに失わないという人もいるわけです。
彼は心の中ででは、個人的な我欲を手放して生活しています。
しかし「◯◯さえあれば」の人は逆です。
心の中では、一切何も手放していないのです。
感謝どころか足りない現実の不平不満だらけです。
それらの不満が「◯◯さえ」という一点の執着に集中し、
どんどんその執着心を肥大化させ、
そして絶対に叶えられないような場を自分で創りあげています。
私が昨年の秋に経営を立て直した方針は「身軽さ」でした。
もう一切の「◯◯さえあれば」を排除することにしました。
ないことが前提です。
なくても会社が継続できるかです。
幸運なことに休職助成金の制度を教えて頂いたので応募しました。
転職先のある優秀な社員に辞めてもらいました。
不便で狭い事務所に移りました。
営業に関しては利益率の高いものに絞りました。
余計なサービスを一切行わないことで半額にしました。
新規の顧客開拓はやめて既存顧客を丁寧にまわることにしました。
家族には引っ越す可能性があることを告げました。
家族を二つに分けてそれぞれの実家に分けて居候させてもらうつもりでした。
人員も削るので、利益は大きく減りますが、既存顧客の固定収入だけで、
何とか会社を継続させる目処が立ちました。
その瞬間から、実は潮目が変わったのです。
もう人から「与えてもらう」営業をしなくてよいのです。
まるぞう会社を気に入ってくれた少数のお客さんだけに、
私ができる最高の誠意だけを、お得意さまに提供することにしました。
実はその中で、自分が見落としていたものが随分見えてきたのですが。
潮目が変わると不思議と案件の数が増えていきました。
結局、休職助成金も一度も申請せずにすみそうです。
もう「◯◯さえあれば」という願望は私にはありません。
会社の苦難もいろいろ経験させてもらいましたが、
得難い貴重な体験です。
最後に話は飛びますが、
日本の国土がかかえる大地震の可能性もそうです。
私たちが、「大地震さえ起こらなければ」と願う限りは引き寄せます。
もともと私たちは裸一貫で生まれて来ました。
身に纏う一枚の衣以上の持ち物は全て借り物です。
その視点で見れば、
この世は与えられるものばかりです。
失うものなど、一つもないのです。
大地震が来ても。
国土と育んでくれる自然への感謝が、
溜め込んだ「失う縁」を相殺します。
今日も気づかせて頂いてありがとうございます。
生かして頂いてありがとう御座位ます
≪転載修了≫
お釈迦策はすべての苦の原因は執着によるものである、
とおっしゃられています。
もともと何もなかったのに、
いろんなものを身につけて執着してしまった結果苦が生まれているって
ナンセンスな話です。
身軽に、身軽に、一つずつ執着を捨てていく、我執を手放していく。
生かして頂いて ありがとう御座位ます。

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