「いのちが蘇る」2/3(金)
まことの保育というか、
真実に「いのち」と「いのち」が関わるということは、
つまり自他の「いのちを愛し、いのちを生かし育て、いのちを赦す」ということです。
だからこの愛の法則は難しいし、実に深い。
基本的に無我でないと、
なかなかこの「愛する、生かす、赦す」ということはできないからね。
「仏法は無我」ですから。
無我とはそこの心に「はからい」がないということです。
「はからいがない」とは、そこには自分の価値観を押し付けたり、
相手をコントロールしようとする自我がないということです。
つまり邪な想念がないのです。
常に相手のいのちが生きること、育まれることだけを考えて
行動しているということです。
マジということ。そこには妥協がないということ。
人間ってそのマジに、正気、本気に触れて
目覚め気づいていきます。
マジというと、とても肩に力が入って頑張ってる様子がうかがえたりしますが、
そうじゃない。常に真剣に、自他ともにいのちのことを考えて行動
しているということですね。言葉かけだってそう。
そう考えていくと、
そこにある深い思いとは「祈り」であることがわかります。
この「祈り」ということは相手のいのちに対して愛が目覚める、
愛に気づく、愛が息づくことを「祈る」ということです。
そこには「自分が」はないからね。
まことの保育とは・・、
今日の朝はそんなことを思っていました。
何度も何度もいろんな角度からこの「まことの保育」に宿る輝くいのち、
愛のエネルギーを伝え続けていくんでしょうね。
みんなにね。
生かして懐いて ありがとう御在位ます。

真実に「いのち」と「いのち」が関わるということは、
つまり自他の「いのちを愛し、いのちを生かし育て、いのちを赦す」ということです。
だからこの愛の法則は難しいし、実に深い。
基本的に無我でないと、
なかなかこの「愛する、生かす、赦す」ということはできないからね。
「仏法は無我」ですから。
無我とはそこの心に「はからい」がないということです。
「はからいがない」とは、そこには自分の価値観を押し付けたり、
相手をコントロールしようとする自我がないということです。
つまり邪な想念がないのです。
常に相手のいのちが生きること、育まれることだけを考えて
行動しているということです。
マジということ。そこには妥協がないということ。
人間ってそのマジに、正気、本気に触れて
目覚め気づいていきます。
マジというと、とても肩に力が入って頑張ってる様子がうかがえたりしますが、
そうじゃない。常に真剣に、自他ともにいのちのことを考えて行動
しているということですね。言葉かけだってそう。
そう考えていくと、
そこにある深い思いとは「祈り」であることがわかります。
この「祈り」ということは相手のいのちに対して愛が目覚める、
愛に気づく、愛が息づくことを「祈る」ということです。
そこには「自分が」はないからね。
まことの保育とは・・、
今日の朝はそんなことを思っていました。
何度も何度もいろんな角度からこの「まことの保育」に宿る輝くいのち、
愛のエネルギーを伝え続けていくんでしょうね。
みんなにね。
生かして懐いて ありがとう御在位ます。

■トラックバック
この記事へのトラックバックURL:/blog21/blog.cgi/20120203100356