「どう生きたらいいのか」 12/11(水)
時代の変化は、子どもにだけ影響を与えるものではありません。
私たち大人も、同じくその変化に翻弄されています
かつて子育て力のあった社会には、
たくさんの「べき」や「べきではない」がありました。
子どもは親の後を継ぐべき。
子どもは親の言うことを聞くべき。
年寄りを大切にするべき。
目上の人には逆らうべきではない―――。
それは、ある伝統や習慣に根ざした生き方でした。
その一つが「家」でした。
家には「畏れ多きもの」が存在し、
その「畏れ多きもの」に見守られながら
(見張られながら?)私たちはいきました。
たくさんの「べき」は、私たちを窮屈にしました。
窮屈であるにもかかわらず、
私たちの人生は安全で安定していました。
「べき」にしたがっている限り、
向かうところははっきりしていて、
周囲に期待された人生を生きることで、
それなりの意味が見出せたからです。
伝統にそった生き方の中で、
重要なことは生きることであり、
日々の生活そのものでした。
伝統が私たちを支えている限り、
それ以上のことは考えずにすんだのです。
ところが今、私たちは自由な選択の中に投げ込まれています。
「家」という束縛から解き放たれ、人々は自由な人生を生き始めています。
生きることではなく、「どう生きるか」が重要になってきています。
つまり、誰でも生き方を自由に選べるようになってきたのです。
どう生きる「べき」ではなく、どう生きたいかという欲求にそって、
人は生きるようになってきているのです。
それは同時に、どう生きたいかはっきりしない限り、
自分はダメなのではないかというあせりに私たちを
駆り立てるものでもあります。
またもうひとつの問題は、その選択肢があまりにも多いことと、
そのすべての選択が私たち個人にゆだねられているということです。
「あなたのやりたいことは何?」そんなことを聞かれて、
すぐに答えられる人がいるでしょうか。
世の中は「やりたいこと探しに難民」であふれています。
あなたは、自分はいったい何がしたいのだろうと、
悩んだことはありませんか?今のままでいいのだろうかと、
焦りを感じたことはありませんか?
仕事を辞めたいという人に「やめて何をするの?」と聞くと、
「わからなけど、もっと自分に合った生き方が
あるんじゃないかと思って」と答えます。
まるで、買い物をしようと勇んで出かけたものの、
商品がありすぎて選びきれず、疲れ果てて、
何も買わずに帰ってくるときのような状態です。
講演会でよくされる質問のひとつに、
「中学生にもなるのに、はっきりとして方向性を持っていない。
どうしたいいいでしょう?」という類のものがあります。
私は言葉を失います。
もし中学生で何になりたいかがはっきりしていたら、
それは大変幸せなことです。でも、それがなかったからと言って、
不幸でも問題でもありません。
人生14年しか生きていない子供に、それを選べというほうが
ムリです。子育てにも関しても同じことが言えます。
世の中には子育て情報が溢れています。
何を信じて、どんなやり方をしようと自由です。
ところが、その自由が私たちを惑わせます。
近所のお母さんは、自信を持って早期幼児教室に
子供を通わせます。別のお母さんは、音楽にスポーツにと
打ち込んで(子供を打ち込ませて)います。
そんな姿を見て、自分は何をすべきだろうと迷います。
自分の子どもには何をさせたらいいのだろうと悩みます。
自分以外の人は何かを知っていて、
それに向かって子どもを育てているように思えて、
そうでない自分に焦りを感じます。
自分はダメな親ではないかと悩みます。
すると余計に、子どもには何か特技を身につけさせ、
確信を持って生きられるようになってほしいと、
子どもに期待がかかります。
「子どもの心のコーチング」より抜粋
私たち大人も、同じくその変化に翻弄されています
かつて子育て力のあった社会には、
たくさんの「べき」や「べきではない」がありました。
子どもは親の後を継ぐべき。
子どもは親の言うことを聞くべき。
年寄りを大切にするべき。
目上の人には逆らうべきではない―――。
それは、ある伝統や習慣に根ざした生き方でした。
その一つが「家」でした。
家には「畏れ多きもの」が存在し、
その「畏れ多きもの」に見守られながら
(見張られながら?)私たちはいきました。
たくさんの「べき」は、私たちを窮屈にしました。
窮屈であるにもかかわらず、
私たちの人生は安全で安定していました。
「べき」にしたがっている限り、
向かうところははっきりしていて、
周囲に期待された人生を生きることで、
それなりの意味が見出せたからです。
伝統にそった生き方の中で、
重要なことは生きることであり、
日々の生活そのものでした。
伝統が私たちを支えている限り、
それ以上のことは考えずにすんだのです。
ところが今、私たちは自由な選択の中に投げ込まれています。
「家」という束縛から解き放たれ、人々は自由な人生を生き始めています。
生きることではなく、「どう生きるか」が重要になってきています。
つまり、誰でも生き方を自由に選べるようになってきたのです。
どう生きる「べき」ではなく、どう生きたいかという欲求にそって、
人は生きるようになってきているのです。
それは同時に、どう生きたいかはっきりしない限り、
自分はダメなのではないかというあせりに私たちを
駆り立てるものでもあります。
またもうひとつの問題は、その選択肢があまりにも多いことと、
そのすべての選択が私たち個人にゆだねられているということです。
「あなたのやりたいことは何?」そんなことを聞かれて、
すぐに答えられる人がいるでしょうか。
世の中は「やりたいこと探しに難民」であふれています。
あなたは、自分はいったい何がしたいのだろうと、
悩んだことはありませんか?今のままでいいのだろうかと、
焦りを感じたことはありませんか?
仕事を辞めたいという人に「やめて何をするの?」と聞くと、
「わからなけど、もっと自分に合った生き方が
あるんじゃないかと思って」と答えます。
まるで、買い物をしようと勇んで出かけたものの、
商品がありすぎて選びきれず、疲れ果てて、
何も買わずに帰ってくるときのような状態です。
講演会でよくされる質問のひとつに、
「中学生にもなるのに、はっきりとして方向性を持っていない。
どうしたいいいでしょう?」という類のものがあります。
私は言葉を失います。
もし中学生で何になりたいかがはっきりしていたら、
それは大変幸せなことです。でも、それがなかったからと言って、
不幸でも問題でもありません。
人生14年しか生きていない子供に、それを選べというほうが
ムリです。子育てにも関しても同じことが言えます。
世の中には子育て情報が溢れています。
何を信じて、どんなやり方をしようと自由です。
ところが、その自由が私たちを惑わせます。
近所のお母さんは、自信を持って早期幼児教室に
子供を通わせます。別のお母さんは、音楽にスポーツにと
打ち込んで(子供を打ち込ませて)います。
そんな姿を見て、自分は何をすべきだろうと迷います。
自分の子どもには何をさせたらいいのだろうと悩みます。
自分以外の人は何かを知っていて、
それに向かって子どもを育てているように思えて、
そうでない自分に焦りを感じます。
自分はダメな親ではないかと悩みます。
すると余計に、子どもには何か特技を身につけさせ、
確信を持って生きられるようになってほしいと、
子どもに期待がかかります。
「子どもの心のコーチング」より抜粋
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