「自分をコントロールする」 12月18日(水)
ある方が、思春期の子ども、特に男の子の思春期を
うまく通過させる方法として、スポーツがいいと語られました。
思春期は、肉体的にも精神的にもコントロールの難しい時期です。
大人になった今、その頃のことをよく覚えていないという人は
たくさんいます。
人に言えない行いのひとつや二つは誰にでもあるのですが、
それらの出来事は忘れてしまったほうがいいと、
多くの場合、都合よく忘れるのでしょう。
その時期の行いを忘れられるレベルのものにとどめておくためにも
スポーツで、悪さができないくらいクタクタになるほどしごかれた方が
いいというのが、スポーツを提案する方の考えです。
実際、その方のお子さんは、高校・大学とラグビー部に所属し、
勉強とラグビー以外、何もする余裕のない日々だったといいます。
かつて、伝統や習慣にしばられ、「畏れ多きもの」に
囲まれた暮らしにおいては、それらのものが私たちをコントロールし、
思春期の若者もそれほど激しく羽目を外すこともできませんでした。
それが私たちのシールドになっていたのです。
「畏れ多きもの」のない今、私たちは、若者に何らかの方法で
自分をコントロール方法を教えなければなりません。
スポーツやクラブ活動など、やりがいを感じるもので自分の時間を
埋めるというのもひとつの方法です。
また、親が子どもにとってのシールドとなり、
子どもが自分をコントロールするのを手伝うこともできます。
友人が、男の子の思春期はやはり大変だったと、
彼女の子育てを振り返って語ってくれたことがあります。
これは、父親が息子のシールドになった例です。
あるとき、彼女は息子とちょっとした口論になったそうです。
そのとき息子の払った手がたまたま彼女に当り、結果として
彼女を叩くことになってしまいます。
ところが、そばにいた彼女の夫、息子の父親は
「お母さんを殴るとは何事か!」と息子に殴り掛かりました。
彼にとってあまり経験のない、父親の鉄拳でした。
それからしばらくした頃、息子と仲のいい友人たちが、
そろって家出しました。ところが、彼女の息子は
一緒に行きませんでした。
友人いわく、息子は、その友人たちの間において中心的存在なので、
そんな計画があったら絶対一緒に行ったはずだと。
事が明らかになり、子どもたちが連れ戻された頃、
友人は息子に聞いたそうです。なぜみんなと一緒に
家出しなかったのかと。そのとき息子の答えに彼女は笑い、
息子をコントロールする力の大きさに感心しました。
息子によると、家出しなかった理由は二つ。
ひとつは「家出に必要な会費が払えなかった」こと、
もうひとつが「お父さんに殴られる痛さを考えたら、
とても家出などできなかった」ということでした。
一回の拳固が、いえ、一回だったから、その痛みと恐怖は
彼をコントロールする力となったのです。お父さんの拳固は、
それからも多くの場面で彼をコントロールし、彼を守ったでしょう。
お父さんの拳固は彼にとって越えられないものであったのです。
たまたまこのときは拳固という暴力でしたが、暴力が
答えになるというわけではありません。
しかも彼が、継続的によく殴られていたとしたら、
その拳固は彼にとってのシールドにはなりえなかったでしょう。
継続的な暴力は、痛みと憎しみしか与えません。
拳固に象徴されるのは、子どもが超えることのできない力であり、
「畏れ多きもの」と同じく、それがあるがゆえに
自分の身を律していないといけないものといえるでしょう。
「子どもの心のコーチング」より抜粋

うまく通過させる方法として、スポーツがいいと語られました。
思春期は、肉体的にも精神的にもコントロールの難しい時期です。
大人になった今、その頃のことをよく覚えていないという人は
たくさんいます。
人に言えない行いのひとつや二つは誰にでもあるのですが、
それらの出来事は忘れてしまったほうがいいと、
多くの場合、都合よく忘れるのでしょう。
その時期の行いを忘れられるレベルのものにとどめておくためにも
スポーツで、悪さができないくらいクタクタになるほどしごかれた方が
いいというのが、スポーツを提案する方の考えです。
実際、その方のお子さんは、高校・大学とラグビー部に所属し、
勉強とラグビー以外、何もする余裕のない日々だったといいます。
かつて、伝統や習慣にしばられ、「畏れ多きもの」に
囲まれた暮らしにおいては、それらのものが私たちをコントロールし、
思春期の若者もそれほど激しく羽目を外すこともできませんでした。
それが私たちのシールドになっていたのです。
「畏れ多きもの」のない今、私たちは、若者に何らかの方法で
自分をコントロール方法を教えなければなりません。
スポーツやクラブ活動など、やりがいを感じるもので自分の時間を
埋めるというのもひとつの方法です。
また、親が子どもにとってのシールドとなり、
子どもが自分をコントロールするのを手伝うこともできます。
友人が、男の子の思春期はやはり大変だったと、
彼女の子育てを振り返って語ってくれたことがあります。
これは、父親が息子のシールドになった例です。
あるとき、彼女は息子とちょっとした口論になったそうです。
そのとき息子の払った手がたまたま彼女に当り、結果として
彼女を叩くことになってしまいます。
ところが、そばにいた彼女の夫、息子の父親は
「お母さんを殴るとは何事か!」と息子に殴り掛かりました。
彼にとってあまり経験のない、父親の鉄拳でした。
それからしばらくした頃、息子と仲のいい友人たちが、
そろって家出しました。ところが、彼女の息子は
一緒に行きませんでした。
友人いわく、息子は、その友人たちの間において中心的存在なので、
そんな計画があったら絶対一緒に行ったはずだと。
事が明らかになり、子どもたちが連れ戻された頃、
友人は息子に聞いたそうです。なぜみんなと一緒に
家出しなかったのかと。そのとき息子の答えに彼女は笑い、
息子をコントロールする力の大きさに感心しました。
息子によると、家出しなかった理由は二つ。
ひとつは「家出に必要な会費が払えなかった」こと、
もうひとつが「お父さんに殴られる痛さを考えたら、
とても家出などできなかった」ということでした。
一回の拳固が、いえ、一回だったから、その痛みと恐怖は
彼をコントロールする力となったのです。お父さんの拳固は、
それからも多くの場面で彼をコントロールし、彼を守ったでしょう。
お父さんの拳固は彼にとって越えられないものであったのです。
たまたまこのときは拳固という暴力でしたが、暴力が
答えになるというわけではありません。
しかも彼が、継続的によく殴られていたとしたら、
その拳固は彼にとってのシールドにはなりえなかったでしょう。
継続的な暴力は、痛みと憎しみしか与えません。
拳固に象徴されるのは、子どもが超えることのできない力であり、
「畏れ多きもの」と同じく、それがあるがゆえに
自分の身を律していないといけないものといえるでしょう。
「子どもの心のコーチング」より抜粋

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