「男の子のモデルは父親」 1/16(木)
男の子のモデルは、同性と言う意味において父親です。
ところが、製剤の高度成長期以降における大きな問題のひとつは、
モデルとなる父親が、子どもの目にふれるところにいなかったことです。
朝、子どもが目を覚ますと、もう父親はいない。
寝る頃にはまだ帰っていない。
週末はと言えば、それでも働き続ける父と、弱々しく疲れ果てている父。
ただし、父親に象徴される父性は、実は目の前にいなくても
大きな問題にはならないと考えます。
母性は、その場にあって子どもを包み込むことが重要ですが、
父性に関してはその限りではありません。
では、父親が不在であることの問題は何でしょう。
それは、母親が、不在に父に代わってその存在感を
つくり得なかったときに起ります。
母親が妻として、夫の不在に、不満を抱いていたとしたらどうでしょう。
その思いをコントロールできない母親は、いつも一緒にいる子ども相手に、
いかに父親がいけない存在であるかを売り込みます。
「まったくお父さんは今日も遅いのよ」
「休みなのに、何もしないで寝ているのよね」
「どうしようもないんだから!」
この中で育った子どもは、母親と同一化し、
自分までが父親を批判する側に回ってしまいます。
母性に包まれ、愛されて育っても、
そこにはモデルとするべき父親の姿はありません。
ないどころか、モデルとするべきものが否定されているのです。
男の子はモデルを失います。
一方、不在である父親の存在を作る母親は、
父親の存在感を子どもに売り込みます。
「お父さんがお仕事してくれているおかげで」
「お父さんに聞いてからね」
「お父さんに相談してみましょう」
これらの母親の売り込みによって、
子どもたちは、目の前にいない父親の存在を感じ、
しかも、その存在はえらく、決定を下す力であると感じて育ちます。
つまり母親は、自分の作る「畏れ多き父親像」に助けられて、
男の子をコントロールし、正しく振る舞うことを教えるのです。
同時に男の子は、不在の父をモデルにして、
自分のあるべき姿を模索することができるのです。
子どももある年齢になると、母親が言ったほどには、
父親が立派な男ではないということに気づくときが来るかもしれません。
でも、そのときはもう心配いりません。
男の子は、「畏れ多きもの」の存在の必要がないほど成長しています。
その頃には、「畏れ多き父親像」の力を借りなくても、
自分をコントロールする術を身につけているのです。
夫として、自分の不在時においても子どもの中に自分の存在を作り、
幸せな子育てを実現しようと思えば、できることはひとつ。
妻を幸せにしておくことです。
不幸な妻は、子どものために、不在の夫にかわる
「畏れ多き父親像」を作ることができません。
不在に父のために、不幸せな母か、怒れる母しかできないのです。
「子どもの心のコーチング」より抜粋

ところが、製剤の高度成長期以降における大きな問題のひとつは、
モデルとなる父親が、子どもの目にふれるところにいなかったことです。
朝、子どもが目を覚ますと、もう父親はいない。
寝る頃にはまだ帰っていない。
週末はと言えば、それでも働き続ける父と、弱々しく疲れ果てている父。
ただし、父親に象徴される父性は、実は目の前にいなくても
大きな問題にはならないと考えます。
母性は、その場にあって子どもを包み込むことが重要ですが、
父性に関してはその限りではありません。
では、父親が不在であることの問題は何でしょう。
それは、母親が、不在に父に代わってその存在感を
つくり得なかったときに起ります。
母親が妻として、夫の不在に、不満を抱いていたとしたらどうでしょう。
その思いをコントロールできない母親は、いつも一緒にいる子ども相手に、
いかに父親がいけない存在であるかを売り込みます。
「まったくお父さんは今日も遅いのよ」
「休みなのに、何もしないで寝ているのよね」
「どうしようもないんだから!」
この中で育った子どもは、母親と同一化し、
自分までが父親を批判する側に回ってしまいます。
母性に包まれ、愛されて育っても、
そこにはモデルとするべき父親の姿はありません。
ないどころか、モデルとするべきものが否定されているのです。
男の子はモデルを失います。
一方、不在である父親の存在を作る母親は、
父親の存在感を子どもに売り込みます。
「お父さんがお仕事してくれているおかげで」
「お父さんに聞いてからね」
「お父さんに相談してみましょう」
これらの母親の売り込みによって、
子どもたちは、目の前にいない父親の存在を感じ、
しかも、その存在はえらく、決定を下す力であると感じて育ちます。
つまり母親は、自分の作る「畏れ多き父親像」に助けられて、
男の子をコントロールし、正しく振る舞うことを教えるのです。
同時に男の子は、不在の父をモデルにして、
自分のあるべき姿を模索することができるのです。
子どももある年齢になると、母親が言ったほどには、
父親が立派な男ではないということに気づくときが来るかもしれません。
でも、そのときはもう心配いりません。
男の子は、「畏れ多きもの」の存在の必要がないほど成長しています。
その頃には、「畏れ多き父親像」の力を借りなくても、
自分をコントロールする術を身につけているのです。
夫として、自分の不在時においても子どもの中に自分の存在を作り、
幸せな子育てを実現しようと思えば、できることはひとつ。
妻を幸せにしておくことです。
不幸な妻は、子どものために、不在の夫にかわる
「畏れ多き父親像」を作ることができません。
不在に父のために、不幸せな母か、怒れる母しかできないのです。
「子どもの心のコーチング」より抜粋

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