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「三つ子の魂百まで」9/19(月)
「三つ子の魂百まで」と
昔からよく言います。


今日は敬老の日ですが、
もう亡くなった母が「三つ子の魂百までは本当。
この歳(八十)になっても私の性格はなんも変わってない。
子どもの時そののまんま」と、
笑いながらよく言ってました。


そして私も五十九歳、
来年は六十という還暦を迎えるわけですが、
幼い時の性格はまったく何ら
変わってないと言い切れます。


ということは、
人の心とは永遠(たぶん、生まれる前も、
死んでからも)であって、赤ちゃんの時の心も、
老人になった時の心も、その心の本性、
サガは変わらないのだと思います。


ただ、
自分の心の中での目覚めや気づき段階は
あきらかに深く進化してきています。
そして、気づきの深さによって自分の心が
目覚めていけばいくほど、心の奥底にある仏性(仏さま、
の心の種)を思い出すというか、感じるというか
その仏性の心地よい感覚が自分の
選択や方向性の基準になって
動かされていきます。


この時に、
人の心は初めて「変わった」
「あの人変わったよねえ」
ということになるのだと思います。


真宗ではこれを「信心を得る」と言い、
禅宗等では「悟る」と言ったりしますが、
実際は同じです。


今までの自我を立脚点とした自分から、
仏性・良心を立脚点とした自分の立ち位置、
選択基準がゴロッと変わります。


そして
「誠意があり、思いやりがあり、親切であり、
道徳観があり、誠実さがあり、他人を傷つけようとせず、
他人に譲る心を持ち、節約した生活を良しとし、清潔感
があり、人が喜んでくれることをよしとする」
そういうことが気持ちよく感じて
自主的に行動するように
なっていきます。


つまり
自分の心を観ることによって
「ああ、またやってるわ」と
自分の悪い癖を見抜きます。
そうすると悪い性格がひっこんで
良い性格の部分が前にしっかり
出て来る感じです。
根気は必要です。


自らの無明に気づき(自我が立脚点であった)、
自分の生き方の立脚点を仏性、良心に置いたとき、
誠意・愛情・慈悲・思いやり力・強さ・けじめ・潔さ
が出てきます。

≪まるぞう備忘録≫より抜粋転載

私は自分の自我のこだわりに縛られると、
それから解かれて自由になるのは至難のわざです。
そしてそれを解く(ほどく)のは、自分自身の良心の
声であります。「水に流す」と。
 

人によっては、それは私のように、
亡き「親」の声であるかもしれません。
だれでも心のざわつきを鎮めると良心の声が聴こえ
てくるように思います。
そう。私は亡き父がどのように考えているのか、
手に取るようにわかります。
それは私の良心がどのように考えているのか、
手に取るようにわかるのと同じであります。


自我のこだわりを捨てるのは
私のプライドが許せないことでありますが、
亡き父(私の良心)がそのように言うのであれば、
それは捨てた方が良いこだわり(重たい意思=毒)で
あったのであろうということです。
心の栄養になる良き想いは
「軽やかな柔らかい想い」であるということでありました。

                        転載終了

自分の良心が「そうじゃない」と感じたら、
心地よいそっちの方向に即転換し行動すること。
プライドへの執着から離れて
もっと軽く生きようとすること。
そして自分の性格の素直さと謙虚さを取り戻して
いきましょう。感謝によって
自然と短所は修正されていきます。


そして「団結互助の精神を涵養」
するために常に相手に一生懸命向き合って
いくことを心がけていきましょう。

08:05, Monday, Sep 19, 2016 ¦ 固定リンク ¦ トラックバック(0) ¦ 携帯

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