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2018年 8月2日

「原爆の日その1」8/2(木)
昨日の夕方の散歩中(朝夕、大道沢公園を30分歩いています)、
娘で保育士の輝香から私の携帯に電話がありました。


内容は、8月6日は広島の原爆記念日です。この原爆記念日
のことを保育園の子供たちにどう伝えていったらいいのか?


お父さんが5日の日曜日に「原爆忌・盂蘭盆会法要」で原爆
のお話をされるから、その話を合わせて聞いて自分なりに感じたこと
を子どもたちに伝えようと思っています。


ということでした。


そうかあ・・・責任あるじゃないか。


さっそく昨日、アマゾンで原爆関係の絵本を何冊か頼み
ました。そして今日のブログから土曜日のブログまでの
計3回、資料をもとにお父さん(私)なりに原爆や戦争のこと、
そしてお盆のことを子どもたちにもわかるようにお話しようと
思います。


さて、まず終戦記念日(8月15日)のことです。
8月15日を終戦記念日といい、みんなが生活している日本
という国がもう私たちは戦争をしないと約束した日です。


じゃあ、戦争ってなぁに?
みんな生まれるずっと前、1945年の8月15日に広島に原爆が
落される日まで、日本は他の国とけんかをして戦っていたこ
とがありました。 これを「戦争」と言います。


1945年8月6日には広島県という場所に原子爆弾という大き
な爆弾が落とされ、広島で14万人。8月9日には長崎という場所にも
同じ爆弾が落とされ7万人以上の人がなくなりました。この原子爆弾は
それまでに戦争で使われた爆弾より、はるかに強い力の爆弾でした。


日本はアメリカなんかとけんか(戦争)をしていました。アメリカは原爆
の力を見せつけ降伏させるために落としました。もし、日本が早く降伏
していけば、原爆は落とされなかったかもしれません。だって、すでに
日本のまわりはの海や空はアメリカが支配し、沖縄も占領されていた
から、日本が負けることは決定的でした。広島の原爆は「ウラン235」
、長崎の原爆は「プルトニウム239」という物質が使われました。
アメリカはこの2種類の原爆の威力を試したかったんだ。


原爆が落とされた広島や長崎ではたくさんの人が亡くなったり、けが
をしたり、家族や友だちと離れ離れになったり、家が焼けてなくなった
り、食べ物がなくなったりして、とても辛くて悲しい思いをしました。
じゃあ、なぜアメリカは広島と長崎に原爆を落としたんでしょうか?
それは東京や大阪と違って大きな空襲を受けてなかったから、新しい
原爆の威力を試す場所の候補になったのです。それに日本軍の拠点
や兵器を作る工場もあったからです。


この原爆の被害は、熱線、爆風、放射線の三つと言われています。
爆発で数十万〜数百万度の火の玉ができ、熱線で爆心地付近の温度は
3千〜4千度にもなりました。だから爆心地近くでは、熱線を浴びた人の
ほとんどがその瞬間か数日のうちに死亡し、爆風で建物が倒壊したり
吹き飛ばされたりしました。壊れた家が燃え、逃げ出せず焼き死んだ人
や、割れたガラスが体中に突き刺さって死んだ人もいっぱいでした。


私の母は当時、小学校の教員で小ノ池という山の中の大きなため池の
ある場所で、課外教室を行っていたそうです。そうしたら、ピカッと光ったと
思ったらド~~ンと天地が割れるような大きな音が響き渡ったそうです。
すると広島の方から大きなキノコ雲が上がり、やがて真っ黒い雨が
降ってきたそうです。


志和町にも広島市内から原爆にあった人たちが大勢逃れてきたそうですが、
その姿はまるで幽霊のように手を前に出し、その手の指には自分の焼け
ただれた皮膚が垂れ下がっていて、みんな一同に「水くれ~~水くれ~~」と水を
求めていました。ただ、その人たちに同情して水を飲ますと水を飲んだ人たち
はことごとく死んでいったそうです。、


原爆の一番の特徴は、目に見えないまま長い時間続く放射線の被害でした。
怪我がないように見えた人も、爆心地に知り合いを捜しに行った人も、怪我した
人を手当てした人も、みんな放射線の被害にあいました。また、歯ぐきから
血が出たり、髪の毛が抜ける「急性症状」も出ました。その後、ガンなどでなくなる
人が多くなりました。現在でも被爆した人は、被爆者健康手帳が交付され、医療費
の自己負担額が免除されています。現在20万人の人が
原爆手帳を交付されています。後遺症は心筋梗塞等、突然やっくるようです。


だから、8月15日に「もうこれから二度と戦争はしません」というお約束をし、
戦争を終わらせたのです。 とっても悲しいことだけれど、これからまた同
じように戦争を起こすことがないように、悲しかった出来事を忘れない
ようにしていかなくてはなりません。


ただ、人間も国も愛する家族や人たちを守るためには、チベットの人たち
のように虐殺されてしまうことではなく、勇気を出して尊いもののために戦
わなくてはならないこともあるかもしれません。あってはならないことですが。


合掌しよう。
戦争で亡くなった人たちが安心してもらうためにも「もう戦争はしません」と
いう思いを込めて合掌をしよう。 1963年からは毎年、みんなで黙祷する
平和記念式典が開かれています。


黙祷(もくとう)…声を立てずに、目をつぶったり手を合わせて軽く頭を下げ
たりして、皆さんのお陰で私たちは生かされて生きることができています。
ありがとうございます。と、感謝を捧げることを黙祷といいます。


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原爆ダイジェスト


【原爆投下】
1945年8月6日午前8時15分、広島市の中心部に位置するT字型の相生橋
をターゲットとし上空31,600フィート(約9,600メートル)で 世界で初めての
原子爆弾がB29エノラ・ゲイから投下された。


そして通常爆弾TNT15キロトンの破壊力を持つとされる一発の原爆は、
島外科の上空600メートルの地点で炸裂した。その時の強烈な閃光と爆
音から、その後多くの被爆者達は原爆を「ピカドン」と表現している。
炸裂と同時に空中に直径約100mの火球ができ、それは約10秒で消滅した。


【原爆の威力】
原爆のエネルギーは熱線35%、爆風50%、放射線15%と言われている。


【熱線】
投下直後、地上600mで炸裂した原爆は、火球となり瞬間的に摂氏100万度
に達し急速に膨張、10秒後に消滅した。爆心地付近の地上では約摂氏3000
〜4000度の照射があったと推定される。少し離れたところからこの火球を
目撃したある被爆者は、「太陽が広島に落ちたかと思った」と表現している。
この太陽の表面温度にも匹敵する高温の熱照射は、半径3キロ以内の地上
にいる生き物に多大な被害をもたらした。


爆心地より半径1キロ以内の屋外にいた人では、一週間以内に90〜100%
が亡くなっている。即死者数は把握されていない。 爆心地近くでは、影だ
け残して人体がすべて跡形もなく熔けてしまった例もある。瞬間的な照射
により、影以外の部分が焼け、あたかも影が道路などに転写されたように
見えるためである。また半径2キロ以内の遮蔽物のないところにいた人で
は一週間以内の死亡率は83%であった。


建物に関しては、半径3キロ以内にある木造建築物では、爆発による爆風
より以前に、熱線によって自然発火したと考えられている。 その火は「嵐」
のように吹き荒れ、夕方まで市内全域に猛烈に燃え広がり、その後3日間
は市内各地でくすぶり続けた。


【爆風】
原爆炸裂とともに発生した火球は、熱線と同時に数十万気圧という超高圧
状態を生み出した。その超高圧と大気圧との気圧の差が爆風となったので
ある。その爆風は半径800メートル以内の耐震構造を持たないコンクリート
の建物をも完全に崩壊させるものであった。当時の広島では家屋のほと
んどが木造だったが、半径2キロ以内ではすべての木造建築物は崩壊した。


爆風と熱線による被害は明確に区別することは不可能であるし、その二つ
とその後起こった火災が組み合わさり、複雑に関係しあって被害を増大さ
せたと考えられる。爆心地から半径2キロ以内では、耐震構造を持つコン
クリートの建物を除いて、すべてが崩壊し焼失した。また3キロ以内でも
90%以上の建造物が崩壊、焼失した。


【きのこ雲】
爆弾投下5分後には直径約3マイル(約5キロ)にわたって巨大な雲が広
島市を覆った。ほとんどの被爆者が証言の中で「目の前が真っ暗になって
何も見えなくなった。」と述べているのはこの雲のためである。


その中心部から白い煙の柱が立ちあがり、それは上空55,000フィート
(約17,000メートル)に達し、頂上は大きく広がっていった。それが「きの
こ雲」と呼ばれる所以である。


【放射能】
原爆の被害について語るとき、放射能というこれまでに人類史上使わ
れたことのない、また決して使われるべきではなかった物質を取り上
げないわけにはいかない。広島型原爆の破壊力の点では15%にすぎな
いが、その恐怖は原爆投下直後から始まり、子々孫々の代に至るまで
消えることはない。それは放射能という物質の中には半減期ですら数
万年のものもあり、またそれを浴びた者の染色体までをも変形させて
しまうからである。


【黒い雨】
原爆投下の20〜30分後から黒い雲が湧き上がり、広島市の中心部より
北北西の方角に移動していき、午前9時ごろから午後4時ごろにわたっ
て、北部や西部で驟雨(しゅうう)現象を起こした。雨は当初1〜2時間は
泥分の多いねばねばした黒いものであった。


それは原爆炸裂時に地上から巻き上げた泥塵や、その後発生した火災
による煤塵であったが、原爆から放出された放射性物質を含んでいたた
め、この「黒い雨」に直接うたれた人々は、その後直接被爆した人と同じ
症状に苦しむことになった。


【救援活動】
原爆投下直後の広島市内では、爆心地近くで即死した者に加え、また
たく間にひろがった火の海の中で、爆風によって倒壊した家屋の下敷
きになり、逃げ出すこともできず、生きながらにして焼かれてしまった者
も多くいた。


かろうじて市内中心部から大火傷を負いながらも、生き残った人々は
東へ西へ南へ北へと、とにかく安全なところに身を置くために逃げ惑
った。着ていた服もボロボロになり、ほとんど何も身にまとわず、皮膚
はやけただれ、だらりと垂れ下がり、言葉を口に出す力さえなく、ただ
一歩一歩足を前に出すだけで精一杯の人々の長い列は、多くの証言
者が「まるで幽霊の行列」のようだったと述べている。


この人々と逆に、燃え盛る市内に入って行こうとしたのは、我が子、
兄弟、親を探そうとした人々であった。その多くは行く手を火の海にさ
えぎられ、幾日も幾日も歩き回った。また爆心地から4キロのところに
あった陸軍船舶司令部(通称:暁部隊)は、比較的に被害も少なく、た
だちに船とトラックを使って被災者の救援のために、市内中心部に向
かって活動を開始した。


広島でたいへんなことが起こっていると聞いた近隣の町村からも、多
くの人々が救援のために市内に入って来た。これらの人々もまた残留
放射能によって被爆し、その後原爆症に苦しむことになる(入市被爆)。
当時広島に投下された爆弾が原子爆弾であったことは、人々には知ら
されなかった。


市内から運び出された重傷を負った被爆者達は、陸軍検疫所のあ
る似ノ島をはじめ、50数カ所に設けられた救護所に連れて行かれた。
しかし広島は壊滅的な破壊を受けており、市内にはほとんど医師も
看護婦もいなかった。


また薬もすぐに底をつき、治療といっても包帯を替えたり、油や赤チ
ンを塗ったりといったことしかできなかった。真夏の一番暑い時期で
あったために、傷を負ったところは膿を持ち、そこに何十、何百という
ウジがわき、それがまた被爆者を苦しめた。
市内では黒焦げになった遺体をあちこちに集め、荼毘に付す作業
が何日も続けられた。


こんな恐ろしいことが二度と起こってはいけません。
輝香、これが原爆の実態です。写真集もいっぱい出てるから見たら
その凄まじさ、残酷さがよく分かるはずです。
人間は仏にもなれるけど、残虐で恐ろしい悪魔にもなってしまう。
だからこそ、念仏が必要なんよ。自分の我の声を聞くのではなく、
仏の願いを聞いていく。そういう謙虚さが。

06:57, Thursday, Aug 02, 2018 ¦ ¦ コメント(0)