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2018年 8月3日

「お盆のお話」8/3(金)
今日はお盆の話です。


昔、昔、お釈迦様の弟子に目連という人がいました。
その目連の母は、生きている間、人を思いやることもなく、
とにかく人の子どもより自分の子どもの目連のことばっかり。


自分の子どものことが可愛いのはわかるけど、愛するというより、
執着する子どものためにと、いつも足ることの知らない、
ケチで欲の強い世界を生きていました。


現代で言う、モンスターペアレンツだったわけです。


死んだら生きてた世界へスライドしていくだけですから、
どの世界へ還るか分りそうなものですが、目連は自分の
お母さんはあれだけ自分を愛してくれたので浄土の世界へ
還ったに違いないと信じていました。


目連はお釈迦様の許可を得て、神通力を使って浄土の
世界を見てみました。ところが浄土の世界にはお母さんは
いません。どこを探してもです。


焦った目連は、六道と言われる間違った「いのち」の世界を
見て回りました。


六道の一番下が「地獄」です。地獄とは亡者と鬼がいる世界です。
亡者とは、地に足がついてない人です。こういう人は、何があっても、
こうなったのはあいつのせいだとか、悪いことを全部他や人の
せいにして、まったく責任を取ろうとしない人のことです。
こういう人を亡者と言います。


鬼とは、自分のことはたなに上げて、他の人の欠点、他の人の
失敗を少しも許さず、攻め続けるのが鬼です。あばきたてる欠点
の人が住む世界が地獄です。


次に、餓鬼の世界。自分の欲望に負けて、欲望に引きずり
回されている欲の強い人の世界です。ただ何を手に入れても少しも
心が満たされることがなく、もっともっと次の欲を埋めるものを
探し続けます。物は手に入れても精神はいつも飢餓状態、
これが餓鬼の世界です。


次は、畜生の世界。この世界の人は多くの「いのち」にささえられ、
生かされているにもかかほらず、そのことを忘れ、いい加減に、また、
不満をもって一日一日を過ごしている人です。


親鸞聖人は「無慚愧は名づけて人とせず、名づけて畜生とす」と、
言われてます。恥ずべきことがわからない、心ない人の住む世界です。
本当に恥ずかしさをしらない人には、父・母・兄・弟・姉・妹さえも
自分の都合で利用する対象にしかなっていません。尊いいのちの出会いがない。
結局、畜生とは、本当の「いのち」の出会いを知らない人たちの世界なのです。



そして次は、修羅です。自分の思いが通らないと怒り、自分をもっと大切
にしろと怒り、他の人が信用できず、自惚れが強く、疑い深い人、テレビで
問題になっている権力という魔物に憑りつかれた人の世界です。



次に、人間の世界。この世界もお釈迦さまは迷いの世界だと言われます。
一つは、すべては移り変わるということを忘れている世界です。常に移り
変わっている現実を忘れ、現状がいつまでも続くという思い違いをしている
のが人間なんです。戦争にしても、天変地異にしても、すべては人ごとです。


また、自分の思いが通って当たり前。お釈迦さまは自分の都合、思いが
なかなか通らないことを「人生は苦である」と言われました。それは、あんた
の人生は思い通りにはいかんよと、教えてくださったわけです。が、
思い通りにしようとして、ジタバタしてます。


次に、天人の世界です。天人とは、天にも昇ってる気持ちになって、
あまりにも恵まれた生活の中で、他の人や、他の「いのち」を思いやること
もなく、ウカウカと毎日を過ごし、年を取って、身体の衰えが目立ち始めて
やっと、「しまった」と気づく世界です。天から下に堕ちていく時の気持ちは
まさしく恐怖です。


人間は死んだらお浄土へ還るのか?
それともまたこの六道の迷いの世界のどこかへ引き寄せられるようにいくのか?
人は誰でも生前自分が生きていた世界へ自然と引き寄せられていくのです。
本当は、他の「いのち」へどれだけ愛情を与えられたのか?
「優しさ」「親切」「思いやり」「感謝」「素直」「正直」「謙虚」「勇気」「情熱」
そして「誠実」に生きることができたのか?
どこまで頑張るれのかを試しに人間として今の環境に生まれてきました。


ところが、目連のお母さんはこの六道の迷いの世界の中の「餓鬼の世界」に
堕ちていました。目連は醜い餓鬼の姿になったお母さんを憐れみ、
「腹が減った、腹が減った」と泣き叫んでいるお母さんに、人通力を使って
食べ物を与えようとしますが、食べ物は口の中で燃えてしまいます。
何度も何度もそういうことを繰り返し、どうやったらお母さんを救うことが
出来るのかとお釈迦様にたずねましたら、


雨季の頃、90日の間修行を終えた僧たちが、集まって反省会を行います、
その僧たちにごちそうして、心から供養しなさい。このように目連に言われ
ました。


そしてこの教え通りにすると、目連のお母さんは、餓鬼の世界から救われ
お浄土の世界へと還っていきました。その姿を見届けた目連は、あまりの
嬉しさにお堂の外に出て踊りました。それが盆踊りのはじまりであるという
説もあります。、この行事を盂蘭盆会と言い、この略がお盆です。


まず、このことを書かれた「盂蘭盆経」は目連の親孝行物語です。
ここには「父母に供養を尽くすには、7月25日に盂蘭盆会を営み、供養する
ことが大切である」と説かれています。


「盂蘭盆」とはサンスクリット語の「ウランバナ」という言葉を、音で漢字に
訳したものです。「ウランバナ」とは、「逆さ吊りにされた状態」という意味で、
非常にこ苦痛な「餓鬼道」の苦しみを表しています。


目連の母は「むさぼり」の報いとしてこのような苦しみにあっていたのです。
それは当然息子に対する愛着もありますが、「自分のため」というよりも、
「わが子のため」という、わが子を愛し、わが子に執着する心が、
「むさぼりの罪」を重ねていたのです。


子育ての苦労。母性が間違ってしまうと、「むさぼり」となってしまうこと
が目連の母を通してよく分かります。


このようにして育てていただいた親や先祖に対し、そのご恩をしのび、
感謝するのが、お盆のこころでしょう。
人間として、私を生み育ててくださった父母に感謝し、その慈恩に報いる
ことが、いかに大切であるかを教えているのです。


だから、お盆には、まず両親への感謝、おじいちゃんおばあちゃんへの感謝、
先祖への感謝、そして何よりも仏様への感謝を大切にして、故郷に帰り、
お墓参りや、仏様のお話を聴いたり、日頃会えない家族と会って、
コミ二ュケーションを取ったらいいね。


私のお寺では8月の14日はお寺の駐車場からお寺の境内を通って盆踊り会場
の中学校の運動場まで「ありがとうロード」という先祖への感謝の灯篭の道が
設けられます。そして午後六時から鐘を打って本堂では「盂蘭盆会」のお経である
「仏説阿弥陀経(和讃入り)」を役員さんや門信徒の皆さんと一緒に読経します。

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本堂前の焼香台で焼香された人には、仏教婦人会がカルビーの積み合わせ
お菓子をプレゼントします(カルビーの役員さんからの寄付によって)。
そして亡前住職がいつもリーダーで踊っていました志和西盆踊り大会が
午後7時よりスタートします。

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いいお盆を迎えられそうです。

15:26, Friday, Aug 03, 2018 ¦ ¦ コメント(0)