金銭を集めることに執着をせずに、
自分が食べる食物についてはよく調べて吟味をします。
そういう人々が悟り、無心に成れた場合は、
その人の運命は未知なものと成り、
その未来を知ることが出来ません。
それはまるで、大空を飛ぶ鳥の軌跡が見えないようにです。
(原始仏典 ダンマパダ7章-92番)
金銭というものは、欲しい時には集まらない「生き物」です。
釈尊は、財産を持つな、金を儲けるな、とは仰っていません。
これを誤解してはいけません。
集金団体が、「釈尊が財産を持つなと仰っている」という逆の
解説をして、一般人から金銭を集めることに執着をします。
これこそが大罪です。
釈尊の本意は、金が有ろうが無かろうが、そのことに「執着をするな」
と言うことです。
金の有無に左右されるなと言うことです。金持ちでも金銭に執着が無
ければ、それは素晴らしいことであり、財産を保持したままでも因果を
受けません。
お金が無くても、それで自分の心を傷めなければ、心が豊かな人物に
成ることが可能です。
自分を誤魔化さず人生を一生懸命努力と反省と改善を行い、自身や周
りのモノや人に感謝をしている人や経営者は、不思議なぐらいお金の方
から自然と集まって「来る」ことが起こっています。
上り調子の人や、商店、会社を視ますと、今までの陰徳、善行が爆発す
るように、金銭の方からその人に寄っている様を感じます。
その人が拒否しようが、どう転んでもお金が集まる事態に向くのです。
これも良い意味で、因果の法則が発動していると言えます。
そして珍しいことに、釈尊が自分の食事については良く調べて、自分なりの
最善を尽くしなさいと指摘しています。
考えて見ますと、禅宗などは食事を作ること、正しく物を食べることが、
重要な修行の要素に入っています。
禅宗では作務(さむ)という、農作業や清掃などの日常作業を修業として
行いますが、その中でも食事を作る事、また食事を頂くことが重要な「動の瞑想」
に成っています。
道元禅師も「典座教訓」(典座“てんぞ”とは禅寺において食を司る重要な役職)
という本を著して食というみのを重要視しておられます。
保育園や学校教育現場でも「食育」をとても大切にしています。
つまり、健全な状態で無心に成れるためには、
* 執着を持たないこと。
* 食事を大切にすること。
この2点の継続が重要なカギに成ることを覚えて置いてください。
次に釈尊が、
「無心に成れた人ほど、その人の未来は白紙になり読めません」と断言されて
います。
確かに無心になれた場合は、先入観もないですし、今までの習慣化された生活
パターンの癖から脱却して自由自在となり、運命はまったく未知となると感じます。
しかし、「何も考えないこと」「仏性と一体感に成ること」「あるがままになる
こと」、これが難しいわけです。
ここで逆の視点を持ちますと、「無心でない人の運命は読める」ということです。
その人の生活習慣のパターンや癖を冷静に見るだけでも、その「方向性・ベクトル」
が行き着く先のパターン(運命)は読めるわけです。
ここで大切なことは、今に行う「努力」こそが重要であり、絶えず「ただ今」の前向
きな努力が未来のパターンを変更しつつ創造している最中だということです。
つまり、無心になること=懸命に努力すること。
無心に成ることがよく分からない、と思えば、懸命に自分が出来る生活や仕事の努力を
いたしましょう。これをあきらめずに継続しますと、自分の明日は必ず
変わっていきます。
逆に、何の努力もせずに人間は、「落ちていくことも自由」である現実を
忘れないことか゛大切です。
今日もより良く生きる智慧を与えて頂いて有難うございます。
皆さんの仕合せを心より念じております。
【柔訳 釈尊の言葉第一巻】著:谷川太一より抜粋転載
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日本人の道徳心
「自然淘汰しない人間」
ウォレスは進化論を考えた挙げ句、
人間は自然淘汰をしていないことにも気づいた。
彼はブラジルの未開拓の地に四年間住んだことも、
いまから百五十年も前のインドネシアの
山奥に約八年間も住んだこともある。
そのときに、どこを見ても弱者をみんなで
助けるという姿を目の当たりにした。
自然淘汰とは、弱者は淘汰され強者が残る
というものだが、人間の場合は弱者を助ける。
従って自然淘汰しないという結論に達したわけだ。
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今日の諺 「深山幽谷(しんざんゆうこく)」
【意味】
人里から離れた、山奥などの静かな自然のこと。
「深山」は奥深い山、「幽谷」は山奥の谷を表わす。
「深山幽谷」には、仙人がすんでいるといわれている。
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