遠回りで曲がった人生だからこそ、
逆に成長して悟る(完〝全″になる)ことが可能になるのです。
人生の苦労には一切のムダがありません。
人生が曲がる体験をするからこそ、
逆に真っすぐに直す人生体験をすることが可能になるのです。
人生で落ち込めば、そのへコんだクボミが大きいほど、
逆に大切なモノ(愛情など)で満たすことが可能になります。
物事に破れれば、また新た挑戦をすることが可能になります。
もし破れなければ、その経験はできないのです。
財産や持ち物が少ない人は、
もっと大切な物事に気づけて成長が可能になります。
持つモノが多い人ほど、迷い悩むことも増えます。
多くを持つ人は、それに執着しないことが大切です。
だからこそ聖人は、その生き方(道)を人々に見せて、
世の中の模範となることが可能になります。
聖人は自分から説明や誇示をしないからこそ、
逆に自然と世の中に知れ渡ります。
聖人は自分のことをほめないからこそ、
逆に世間から認められます。
聖人は自分の功績を言いませんから、
逆に世間から功績を認められます。
聖人は自慢をしませんから、
世間から長く称賛されます。
聖人は誰とも争いませんから、
世間から叩かれることもありません。
他人からイジメらる人は、
自分の中に他人をイジメる気持ちがないかを見ましょう。
以上のことから、曲がりくねった木のような
苦労の多い人生を歩む者は、
その人生を完成させることができると
昔の人が言ったことは、ウソではなくて真実なのです。
その人から生まれた誠意が、そうさせるのです。
まさに老子の巨視、巨大な視線が炸裂しています。
会社が倒産したと泣いている元社長を老子が見れば、
「普通の平凡な会社員には体験できない
貴重な体験ではないか。
そのお蔭で、またゼロから立ち上がる
青春を味わおうではないか」
と言いそうなのが目に浮かびます。
以上の話には、納得できない心境のお方は多いでしょう。
しかし、その答えは「人生は有限」である
ということに尽きるのです。
何もせずに、眠ったままで人生を終えるのも人生です。
様々な苦労、失敗、離別⋯⋯、
ハラハラドキドキの経験をして
アノ世に帰るのも人生です。
どんな人生の物事も、それを不幸だと思わずに
「経験」だと自分が受け入れることができれば、
変な執着が脱落するのがわかります。
ただし、ただ何でも経験するのではなく、
そこには自分の「誠意」(良心)が存在することが大切なのです。
愚かな経験を、自分で肯定してはいけません。
自分の誠意をもって経験していけば、
どんな曲がりくねった人生でも、
それは盆栽の銘木のような輝きを放つと
老子は言っています。
過去に自分の誠意のない嫌な経験があったとしても、
今から誠意をもって歩いていけば大丈夫になります。
盆栽では、死んだ枯れた枝でも、
その全体が完成した時には
重要なチャームポイントに変わっています。
これは、人間の人生でも同じなのです。
過去の失敗も大切な意味を持つのです。
誠意をもって、頑張って
時間限定の今の人生を生きましょう。
「柔訳 老子の言葉」
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