「これでいいのか」
本当に愚かな人とは、
自分が悪い事をしておきながら、
それが悪い事だと思えない人のことです。
そして、愚かな人は自分自身がした悪事に
自分で気付け無いまま、
まるで衣服に火が付いていることに
気付け無いままのように、
自分の悩みに巻かれて行きます。
(原始仏典 ダンマパダ10章-136番)
問題点さえも「認識出来ない」限りは、
* 改善すべきだと思えない。
* 自分の非すら認めずそのままで良いと思っている。
つまりは、自分は正しいと思い込んでる人は自分の非を
認めません。逆に相手のミスは許さないので、相手の
非を攻撃することに何の躊躇もありません。従って、
人間の愚かさや攻撃性は、自分は間違っていないという
自己肯定感から出ています。こういう人は、変わることも、
意識的に成長することも出来ません。
逆に言いますと、
* 自分は自我が強く悪いと分かっている。
* 自分には直すべきことがあると分かっている。
このように自己が「傲慢」であると気づき、謙虚になって
不出来な自己を受け入れ改善して行こうとする。自らの愚かさを
潔く受け入れた者だけが他者と許し合い、協力し合う関係を構築し、
成長する可能性が有ると言えます。
早朝から日々業務上のミ―ティングを行います。
ここで必要なのは、失敗を許し合い、相互が援助しあおうとする、
利他的価値観と具体的に行動する能動的な姿勢です。
それが企業や、社会の基底になければ、そもそも失敗を常とし、
そこから学んで成長していくことを本来の性質としている人間が、
集団を形成することなど絶対に不可能なことだと思っています。
とはいえ、人のためと言いながら時とし「またかぁ・・・、
もういいかげんにしてくれよ」といった傲慢な自我を捨てきれ
ない愚かな自分も出てきます。逆に、そうであってはならないと
自制する良心的な懸命な自分もいます。この二つの自分を分け
たり、一つにすることはできません。
凡夫である私たちは、この二つの自分をありのままに、素直に受け
入れ、「これでいいのか?これでいいのか?」自己に対する問題意識
と、問題への改善努力を生涯継続します。
その経験が自分の人生ともいえます。
ただ、決して居直らない、それが仏さまへの流儀です。
今日もより良く生きる智慧を与えて頂いて有難うございます。
皆さんの仕合せを心より念じております。
【柔訳 釈尊の言葉第一巻】著:谷川太一より抜粋転載
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
日本人の道徳心
「墓参り」
一般的には、よく先祖の墓参りをする家の子供は、
だいたいよく育っている。
年に一度でも二度でも、
おじいさんやおばあさんの墓の前で手を合わせる。
そういう場に連れて行ってもらっている子供は、
そこに生命の流れを見るのだ。
親父は祖父に手を合わせた。
自分も親父が死んだら親父の墓に手を合わせるか、
というような流れがイメージとしてでき上がってくる。
そういうよいイメージをつくれるかどうかが大切なのである。
悪いイメージを持っていると、
悪いほうに人は行き、よいイメージを持っていると、
よいほうに人は動くということだ。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
今日の諺 「意気消沈(いきしょうちん)」
【意味】
元気がなくなって落ちこんでしまうこと。
がっかりしたとき。
「意気」は意気ごみ、「消沈」とは沈んでなくなること。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・